1
「奴のシュミにどうこう言うつもりは更々ないけど。なまえ、あなたの淹れた紅茶は最高よ」
「お褒めに与り光栄です、ミス・バラライカ」
なまえは嬉しそうに「本場の方にそうおっしゃっていただけるなんて」と微笑んだ。
ホテル・モスクワ頭目の執務室兼応接室を馥郁たる芳香が満たしていた。
暗い飴色の調度品の数々は主人の厳格さを誇示せんとばかりに重厚であり、「Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.」――招来された者の居住まいを正させるには十二分というにも足るまい。
しかしながらいまこの場にいるふたりといえば、温雅な下午、和やかにロシアンティーを楽しむ真っ最中だった。
殊更にロシアンティーと呼称するとここの主人のご機嫌を損ねかねないとあってか、なまえがその名称を口にすることはなかったが。
「リップオフのシスター・ヨランダにお願いして、良いニルギリを注文しましたの。お気に召して良かったです」
「はッ、あの教会に人殺しの道具以外を注文する人間がいたとはね。驚きだわ」
「ふふ、シスターとはお茶をいただく仲なんですよ」
「あら、こんな風に? 妬けるわね」
濃く煮出した紅茶を薄めるための茶器、サモワールから離れてなまえはやわらかな笑みを浮かべた。
この街の、果たしてどれだけの者が信じるだろうか――あの火傷顔が、たかだか紅茶を淹れるくらいしか役に立たない女のために時間を割いて長閑なティータイムとは。
三合会の手の者とはいえ、内応どころか、有益な情報ひとつ齎しはしない女に大層な厚遇である。
なまえも品の良い所作で淹れたばかりの紅茶に口を付けた。
少量のウォッカでのばしたジャムは非常に香り高く、温かい紅茶を口に含めば更に芳香は深まった。
「ごめんなさいね、なまえ。本当は客人に茶を淹れさせる真似なんてしたくないんだけど。一度あなたのものを飲むと駄目ねえ……。舌が肥えるわ」
美貌が愁眉を形づくるさまを見上げながら、なまえもミルクピッチャーのような小瓶に入った色とりどりのジャムを掬ってまた一口咀嚼した。
甘酸っぱいジャムと濃いめに淹れた紅茶のマリアージュにおのずから頬がゆるんだ。
「いいえ、バラライカさんのように喜んでくださる方に召し上がっていただけて、わたしも嬉しいです」
「おや、ミスター・張は? 喜んでくださらないのかね?」
面白いことを聞いたとばかりに、バラライカの薄い唇が吊り上がった。
見る者に緊張を生じさせるいささか不祥な弧に、遅ればせながらなまえは失言だったと肩をすくめた。
他組織の人間との応酬において、飼い主についてあれこれ不用意に口にのぼすのは、小鳥としては避けたいところだった。
なにしろ後々なまえが不在の折、たとえば「連絡会」やらなにがしの会合やらで、バラライカが彼を揶揄するネタに利用しようものなら如何せん、いくら巧言令色と対極に位置しよう大尉殿といえど、どのように円卓へ供されるか、論われるか、想像するだに恐ろしい。
回り回って主の矛先が小鳥へ向かないとも限らないのだから。
「……Без комментариев.」
それで過去にこっぴどく「仕置き」を施された覚えのあるなまえはむっと殊更に嘴をとがらせてみせた。
媚態は、我知らず破顔してしまうほどあどけない。
そこらの俗輩ならばつい目が眩み、与し易い好い鳥に成り下がっていたに違いなかった。
無論、相対するのは畏敬措くあたわざる大尉殿であり、鳴鳥の囀りに右顧左眄するべくもなかった。
実際、バラライカは嬌態を鷹揚に笑って流してやって「そうそう、」と続けた。
「飼い主といえば……よく許したわねえ、今日のこと。もしかしてまた出奔でもしてきたの?」
「もう、ミス・バラライカったら。そう度々家出なんてできませんよ。今日こちらへ伺う許可はきちんと得ています。ご心配には及びません」
桃色の唇が奥床しげな弧を抱き、その笑みを真正面から拝んだバラライカは頬杖をつきながら、げえっと顔をしかめた。
外出する「許可」とは、これまたなんとも。
さすが悪名高き籠の鳥だと嘆息し、また一口紅茶を啜った。
「よくやるわねえ、あなたも。……ねえ、これは単なる疑問なんだけど、なまえ。あなた、息苦しくなることってないのかしら。同情せざるをえないわ、逍遥ひとつ自由にならないなんて。小鳥がいくら不満を囀ったところで、誰の口からも非難なんて出やしないと思うんだけど、どう? ――そう、誰もね。なまえ、もしそうなら、――私が手を差し伸べてあげても良くってよ」
獰猛な笑みまじりに女傑が嘯いた――「そうね、報酬はこのお茶で構わないわ」。
あに図らんや、なにがトリガーだったのか掻暮判然としないが、いつの間にか彼女の笑みは、見る者すべてを怯懦せしめんばかりの酷薄な哄笑に成り果てていた。
やおらなまえはカップをソーサーへ戻すと「魅力的なお誘いですが」と恭謙な微笑を差し出した。
豪奢なブロンドの巻き毛に縁取られた、元は大層うつくしい顔貌をひたと見つめた。
肌を焼かれた後遺症によるものか、あるいは生来のものなのか、「火傷顔」の左右の虹彩は、光の当たる加減によってわずかに色を異にすることをなまえは知っていた。
「ああ、どうか、小鳥はご不興を買いたいわけではないと信じてくださいますように。無礼な質問をお許しくださるでしょうか……。ミス・バラライカ、あなたはこのロアナプラで……ホテル・モスクワの頭目としていらっしゃって、息苦しいとお思いになることはありますか? いまのお立場は――望んで得られたものだったのでしょうか?」
疑問に疑問を返され、バラライカは黙したまま女へ一瞥をくれた。
ブルーグレイの瞳が一瞬にして剣呑に光った。
眼光は容易に氷河を連想させるほど冷徹であり、じかに相見る一切衆生を「蛇の前のカエル」にさせた。
苛辣なるロシアンマフィア、そのホテル・モスクワきっての武闘派と恐れられる女の凄絶な氷の炯眼、なかんずく非力な小鳥には手にあまる双眸をなまえは見つめ返した。
「それと同じことです。……もしもわたしが、仮に“あのひと”の元を離れることができたとして、もし仮にこの街を出られたとして、もし仮にこの国を出られたとして、もし仮に世界の果てでひっそりと生きることができたとして、」
粛々と続く口舌の最中、ブルーグレイとかち合う黒い瞳がやわらかく細められた。
あたかも未来永劫、喜怒哀楽、あらゆる情動を示すことのない引き攣れた右の顔をいとおしむかのようだった。
「どこへ辿り着こうとも……そこで生きなければならないんです。生きている限り。生きていたら、いつか死にます。死ぬまでは、生きています。……ミス・バラライカ、わたしがいま生きているところが――生きているところです」
「……正しいわ、なまえ。このドブ泥の底で生きるにはあまりにも正しい。……そんな顔をして、
そんな手で噛み分けるなんて、ね。――フフ、上出来よ」
手放しの賛辞と共に、さながら見る者すべてを焼くかの氷の炯眼は鳴りを潜め、やおらバラライカは愛用のシガーカッターへ手を伸ばした。
バチンと音を立てて葉巻の吸い口が切り落とされた。
葉巻のフラットカットは儀式に似ている。
そうのたまったのは誰だったか。
「……ありがとうございます、ミス・バラライカ」
立ち上り始めた紫煙を眺めつつ、なまえは再度、唇へ笑みを強いた。
おもむろにカップを持ち上げて上等なニルギリを嚥下した。
乾いた口腔に程良く冷えた紅茶は、まるで干天の慈雨だ。
喉が渇くのは、振るわざるをえなかった長口上のせいばかりではない。
内心、ああ、怖かった、と息をついていたのは、なまえだけの秘密だった。
尋問、恫喝、あるいはお気に召さない芝居に付き合ってやる折節、ホテル・モスクワの女大幹部の眼光は、ただそれだけで濁世の凡夫をふるえ上がらせる威力を十二分に具えている。
血で重く湿った砂塵とナパームに燻された黒煙の幻影が、目の当たりにした凡俗の背筋をことごとく凍らせ、有象無象、七重の膝を八重に折らせるだろう。
かすかにカップに付着したルージュをそっと指先で拭いながら、なまえは心密かに「銃把を握るどころか、ふれたことすらないただの女に向ける目ではないでしょうに」とぼやいた。
2
「――大尉、失礼します。目を通していただきたいものが」
「入れ、軍曹」
先程までの、不調法に与太を吐こうものなら破裂せんばかり、さながら薄氷じみた緊張感はどこへやら。
ふたりが和やかにお茶会としゃれこんでいると、ノックの音が執務室に響いた。
ドアから覗いたのは顔面を横断する仰々しい傷痕だった。
物騒な向こう傷に相反する朴訥な面様を認めて、なまえは浮き立ったように顔をほころばせた。
「こんにちは、ボリスさん。お元気そうですね」
「お久しぶりです。ご歓談中、申し訳ない。またこうして、大尉と茶話会やロシア語の勉強会ができるようでなによりです」
「ふふ、ありがとうございます。わたしも羽を伸ばすことができて、浮き立っているんです。……ミス・バラライカ」
「なあに、なまえ」
穏やかな笑みを伴ってなまえが立ち上がった。
白いワンピースの裾がさらりと揺れた。
カップは薄く色付いた底を見せていた。
「わたし、長居してしまったかもしれません。これでお暇しようと思います。楽しい時間をありがとうございました。またお茶をご一緒させてくださいますか?」
辞去の挨拶は非の打ちどころがなく、おもねるように小首を傾げてみせた小鳥に、バラライカも安穏に笑みを返した。
「勿論。そのときはまた紅茶を淹れて頂戴」
「С удовольствием.」
愛らしく頬を染めてなまえが頷いた。
失礼いたします、とちいさな背が執務室を退去すると、後には白百合の芳香だけがかすかに残った。
「……ほんと、よく気のきく小鳥ね」
「は、まったくで」
優秀な副官が手にしている書類が、ホテル・モスクワ外に漏れるのはいささか不都合なものとは、小鳥は与り知らないはずだが。
不穏当――無論、暴力が齎す畏怖の代名詞、名高き大尉殿へ差配を求めるもので不穏当ではなかったものなど指折り数えるだけ無駄ではある――、加えて喫緊の案件ともなれば、局外の客人をさっさと放逐したいところだった。
とはいえ「忙しいのでお帰りください」と、馬鹿丁寧に明言できようか。
礼節だの嗜みだのの話ではない。
魔都の覇を争う、潜在的に相克する商売敵へ軽々に教えてやるほど愚昧な真似を犯すべくもないだけの話だ。
当人が自ら辞去を申し出るに越したことはなく、それを踏まえての賛辞だった。
あるいは金糸雀の嗅覚がキナ臭いものを感じたか、否か。
バラライカは肺の底からすべて吐き出すように「ふー……」と深く息をついた。
部下から受け取った書類に目をはしらせた。
「こちらは片付けさせますか」
「ん? ああ、頼む。私のはそのままで良い」
ローテーブルにはティーセットが残されていた。
ティーカップと茶請けを指し、生真面目な口調で副官が問うた。
「良い香りだ、いつかご相伴に与りたいものです」
「ハ、小鳥に言えばいつでも喜んで給仕するだろうよ」
飼い主の許可さえ出ればな、と鷹揚に葉巻を燻らしバラライカは低く笑った。
なまえ――銃を撃ったこともなく、ちゃちなナイフひとつ突きつけたことも、他人を殴りつけたことすらない女。
金糸雀の白い手は今日も依然白い。
だからこそ血と硝煙に塗れた彼らは、ある種の安堵を伴って彼女と接しうると自覚していた。
なんとなれば、なまえならば決して
自分たちを殺すことができないからだった。
こんな済度しがたい濁世において「安心」、あるいは「信頼」はなににも勝る。
金、背信、保身、怨嗟、矜持、娯楽、気まぐれ、憂さ晴らし、そのほか様々なくだらない乱痴気理由でまばたきの間に生者が死人に成る街だ。
ただ純然たる事実としてなまえは殺すという行為を犯したことがない。
そんな脆弱の極致たる女が、深い血の河を泳ぎ、肉の塊の泥濘を踏み分けてきた自分たちに、かすり傷ひとつ負わす心胆も才幹もあらばこそ、慢心でも油断でも軽視でもなく、それはただの明白な事実だった。
小鳥は自分たちを殺せない。
翻って、こちらもなまえには手を出せなかった。
角逐する黒社会――香港三合会の手の者、それもタイ支部ボスの女を損ねようものなら蓋し軋轢は避けられなかった。
必定そのときは訪れる。
しかしそれはいまではない。
スラップスティックの幕開けをたかが女ひとり、小鳥一羽如きに任せるのはなにより面白みに欠けた。
「あの男がどんな顔をするのかいささか興味はあるがね」と胸中だけで呟き、バラライカは書類をまとめた。
純真、従順な「三合会の金糸雀」が手を汚したことがないのは、諸国の犯罪組織が竜蟠虎踞するこのロアナプラにおいて周知の事実だった。
組織の内外に情報を運んだり、カウンターインテリジェンスに勤しんだりといった工作活動に無縁なのは不文律――否、そんな間諜まがいのことを飼い主が許すはずがない。
純粋培養、雪を欺くか弱い女ひとりを手にかけたとあっては、特にメンツだの、沽券、仁義だのに介意する人種には、臆病、卑劣、恥ずべき行為と貶められるのは免れない。
そしてそんな形而上の条理をクソの役にも立たぬと鼻で笑い飛ばすオツムの足りない俗輩には、香港三合会の名が恐怖と畏敬を齎す。
――なんとも粗漏のないことだ。
バラライカは嘆息した。
「軍曹、すこし出る。車を回せ」
「は、大尉殿」
立ち上がり、バラライカは愛用のコートを身に纏った。
軍用外套に染みついた葉巻と硝煙、血潮のにおいは、いま漂う紅茶の薫香と比べるまでもなく身に馴染んだ。
白百合の香りの女、それは芥場を徘徊する群盲にとって、驚くほど稀有な存在に相違なかった。
なまえという女を思い浮かべ真っ先に出てくるのは、清純なやわらかい笑みだった。
この死人蠢くゴミ溜めにおいて、決して手に入れられないものだ。
所詮、人間はあまねくないものねだりだ。
掌中のものは充足を与え、愚か者は手に入れた瞬間からその価値を半減させてしまう。
平和な世において武器商人が食いっぱぐれないのは、取りも直さず争いが起こることを誰もかれも知悉しているからに他ならず、名高い9ミリの濫觴たる「平和のためには戦争に備えよ」との至言は、確か古代ローマの警句だったか。
唯物史観 、何事も稀有なものをありがたがるのは世の常、人の業である。
然もあらばあれ、方今魔都において白腕の女はさぞや抱き心地が良いに違いない。
然許りなんとも趣味の良すぎる飼い主の顔が脳裏をかすめて、バラライカは胡乱に顔をしかめた。
3
「お待たせしちゃったかしら。さあ、帰りましょう」
「はい」
ホーチミンやハノイ辺りが観光地として代表的ではあるものの、ここロアナプラにも旧フランス租界時代の建造物がすくなからず現存していた。
サータナム・ストリートの片隅にある、古雅な佇まいの擬洋風建築をなまえが後にすると、ホテル・モスクワの事務所近くに待機させていたとあってか、部下たちの表情はいささか強張っていた。
待たせて悪かったかなと首を傾げつつも、とまれ自分ひとりで出歩くことは許されていないのだから致し方ない。
車に乗り込んだなまえは憂容で、ふうっと溜め息をついた。
「我が儘に付き合わせてごめんなさい。外に出られるのが嬉しくって……つい、のんびりおしゃべりしてしまったの」
肩を落として謝罪すれば、部下は慌てて「滅相もない」と頭を振った。
ボスの女から恭順な謝罪を受けたことに、恐縮しているらしい。
そのさまを見やりながら、なまえは刷いた微笑をかすかに深くした。
彼の様子を見るに、またいつか――当面、予定はないが――「家出」する際、手を貸してくれるかもしれない。
なにしろ長らく主のそばにいる四九仔(※組織の下部構成員のこと)たちは、このところ、小鳥一羽の甘い囀り、籠絡などにはそうそう容易に惑ってくれないもので。
縦し彼らが知り及ぼうなら額ずいて制止されそうな奸計などおくびにも出さぬまま、なまえはのんびり「それにしても、」と頬へてのひらを添えた。
「そんなに長く出歩いていなかった? ボリスさんにまで久しぶりって言われたの」
「張大哥に監禁されてんじゃねえかッて噂まで流れてましたからね、一時期」
「まあ、素敵」
くすくす清らかに笑い、女はスモークガラスの窓越しに、ここロアナプラでも一等目を引く大廈高楼を見上げた。
「それじゃあ塔のてっぺん、鳥籠へ戻ろうかな。大人しく」
「そうしてください。大姐になにかしらあろうもんなら、俺らが愉快な海水浴ってことになりかねない」
「ふふ……あのひとは、優秀な部下にそんなことなさらなくてよ。きっと、紫荊花の下に、熨斗を付けて返される程度だわ。龍の頭がどんなご裁断をお下しになるのか、畏れ多くてわたしにはとても想像できないけれど」
「違いねェ!」
なまえの芝居がかった大仰な言い回しに、彼らの笑い声が車内に満ちた。
誉れ高き小鳥を乗せた黒い車は、ゆっくりと熱河電影公司ビルへと向かった。
(2019.03.17)
(2021.12.18 改題)