「あら、こんにちは。こんなところで奇遇ですね。お会いできて嬉しい。この間お見かけしたときはきちんとご挨拶できなかったから……」

穏やかさと清らかさとを声にすればこういう音になるのだろうと、そんな与太をうっかり信じ込みかけたのは、暴力的な日射しと湿気に神経が掻き攫われてしまいそうだったからに違いない。
男のこめかみをつっと汗が伝い落ちた。
雇い主から「仕事だ」とにべなく言い渡されると服従してしまう性合いを恨みたくなるとまではいわないけれども、心底つまらない雑事もとい些細な「おつかい」をことづけられたロックが、そこそこ目方が多い段ボール箱を抱えて見慣れた波止場を通りかかった折だった。

涼やかな声音はこのようなみぎわで耳にするにはあまりに不釣り合いだったが、とまれかくまれ礼儀に適ったグリーティングは彼を引きとめた。
時刻は熱気のピークをわずかに過ぎた昼下がりであり、タマリンドや椰子といった南国の木々が気怠い影を落としていた。
儀礼的な挨拶は、海へ向けて脚を投げ出すようにして波止場の縁に腰かけていた女によるものだった。
向暑の佳景にあやなされた女が、白い日傘、少女と見まがうほど無垢な笑みを伴っておもむろに立ち上がった。

座っていたところへ敷いたハンカチを畳む挙措きょそは上品で、ぬるい風に煽られてワンピースの裾がふわりと揺れた。
純白のワンピースは装飾のすくないごくシンプルなものだが、生地や光沢から、たとい生まれてこの方安価な量販店、もしくはそこらの露地でしか衣類を買い求めることがなかった者といえど、一級品であることが一目で見て取れる代物だった。
膝程度の丈は尼僧服を連想させてどこまでも慎み深く、真っ白なハンカチを縁取るレースときたら、溜め息が漏れてしまいそうなほどの精妙さである。
いずれもまかり間違ってもこの街・・・の者が身に着けるものではない。
ならばこの女はと首をひねったところで、ロックは口をあんぐり開けた。

「なまえです。挨拶が遅れてしまいました」

さながら白昼夢。
白い日傘パラソルを差して、ろうたけた女が微笑みかけてきた。
一瞬、背景のうららかな紺碧の海や濃い緑の木々と相まって、のどかなリゾートビーチにふたりして立っているかのような錯覚に襲われた。
それはかつての彼の故郷、遠い日本で、首輪じみたネクタイを引きずり回される激務の合間にチラつかされる「ご褒美」に似ていたかもしれない。
資本主義社会が強迫観念じみた執拗さで消費を促すもののひとつ、鉄道駅やら商業施設やらにでかでかと貼られたポスターか、かまびすしいテレビコマーシャルでしかお目にかからない、模範的人生の余暇、あるいは順風満帆な老後とやらの理想像は、まさしくこういう光景ではなかったか。
まことやここの海と空はまるで天国のようにうつくしいのだったと、とうに見慣れたはずの偉観いかんが突如として彼の目に光彩を取り戻した。

たまさかつい先日、ロックは香港三合会トライアドから請けた仕事でこの女と――なまえと名乗るはなはだ場違いな女と関わり合うことになった。
関わり合いといえどさしてむつびず、直接、言葉を交わしたわけでもない。
到底堅気には見えない喪服じみた黒いスーツ連中のなかで、埋もれるように囲繞いじょうされた白いワンピース姿の女は員数外の扱い瞭然たるありさまで、アムステルダムに鎮座する『夜警』の少女のように目を引いたのだった。
街の「地図」を呑み込むには未だ一歩か二歩ほど及ばない彼が「誰だろう」といぶかるのも無理からぬことだった。
我知らず目どころか手も止めていたため、おかげで相棒から「ボサッとしてんじゃねーよ」と小突かれるハメになったのは記憶に新しい。

「……失礼、ミスター?」

まさかこんな油照りの真っ昼間、ゆくりなく海辺で彼女と再会するなんぞ一体誰が予期しただろう。
誰何すいかになんの返答も寄越さず、口を開けたまま呆けているロックへ、やおら女は首を傾げた。

「あっ、す、すみません、俺は、」
「ロック! ンなとこにいやがったのか」

慌てて彼が頭を下げかけたとき、端無く新しい声が飛んできた。
区画整理だの建築規制だの胡乱な概念もあらばこそ、建物と建物の崩れかけた壁の切れ間からひょっこりと顔を出したのはレヴィだった。
どうやらとっくに「おつかい」を終えているはずの片生かたおい同僚が、どこをほっつき歩いたものかと探していたようだった。
小言のひとつでも投げてやろうとの腹積もりだったに違いない。
しかしそれよりも先に、ロックたちを認めるや否や丸い目がぱちくりとまじろいだ。

「なんだァ? この組み合わせ」
「お久しぶり、レヴィ」
「おうなまえ。いつぶりだ? つーかお前、ベビーシッターはどうした。知らなかったぜ、ここら一帯が小鳥の優雅なお散歩コースに指定されてたとはな」
「ふふ……実はね、あんまりよろしくない事態なの」
「ヘッ、ニキータが聞いて呆れるぜ。バースデープレゼントはやっぱり拳銃ハンドガンか?」
「もう。知っているでしょう。銃とフランス語は苦手なのよ、不良娘ココット

どうやらふたりは旧知の仲のようだった。
気安く言い交わしてはいるものの、片方は同僚のメカニックベニーいわく「地球上で一番おっかない女の上位三人」の内ひとりだ。
いまも手を口元に添えて笑っている女と、どうして対話くちまじえがまともに成立するのかとはなはだ失礼な思考をとつおいつもてあましながら、ロックは呆然と立ちすくんでいた。

「ッたくよぉ……大人しく“飼い主”の言うこと聞いとけよ、なまえ。よりにもよってこんな街んなかで、わざわざ面倒事をテメェで増やしてンじゃねえ」
「だってね、レヴィ、あのひとがいけないの。籠のなかに捕まえていた小鳥を、逃がしちゃうなんて……」
「――君、日本人なのかい?」

歌うように「The little girl let my spaarrow go, although I was keeping it inside the cage.」とそらんじてみせた女に、彼は思わず瞠目どうもくした。
突拍子のなさは言うまでもなく、センテンスはことしもあれ、熱帯の半島、札付きの魔窟ロアナプラで耳にしるもののなかで一等間遠いに違いなかった。
むしろどうしてすっかり忘失していなかったのか、大脳皮質に巣食う蜘蛛の糸共からよくも掬えたものだと自賛したくもなる領域の文字列に、ロックは勢い込んで身を乗り出してしまった。

途端、嗅覚を刺激したのは白百合の香りだった。
それがなまえの香水だと理解するのに数秒を要し、これほど接近しなければ気付くまい微香は淑徳そのものといった塩梅であり、まるで彼女自身のようだった。
なまえの澄んだ黒い瞳が驚きと興奮できらきらと輝いた。

「まあ! まさかこんなところで古典作品をご存知の方にお会いできるなんて。ああ……でもわたし、日本人ではないんです。訳された有名なものをすこしお読みしたくらいで。いつかそのままの言葉で読んでみたいと思っています」
「そうだったんですね。嬉しいな、この街じゃあ、文学のぶの字も知らない奴の方が多いのに」
「なーに言ってんだ、テメェら。ラリー・フォーリー、なに言ってんのかわかんねーけど、バカにしてるッてことだけはわかるぞ、ロック、オイ」
「日本の文学だよ、レヴィ。学生のとき大抵習うんだ」
「ハァ? 文学ぅ?」

跳ね上げた片眉は危殆きたいを示すようにはなはだ剣呑なラインを描いており、いまにも懐の愛銃カトラスを抜かんばかりだった。
凶相は、し物騒な小火器を振りかざした愚にも付かない与太者がやにわにそこらから勇み現れ出でたとしても、これほどにはしかめはしないだろう大仰さだった。
街に蔓延はびこる荒くれ者共が一目も二目も置く銃手レヴィのありさまが目に入らないわけでもないだろうに、しかしなまえはくすくすと微笑んだ。
鈴が転がるような笑い声と共に、この地では珍しい、日に焼けていない黒髪がやわらかく揺れた。

「ふふ、レヴィ、わたしにも事情があるの。今朝ね、飼っていた小鳥をご主人さまが逃がしちゃって。それで拗ねて、わたしもお外へ出てきたんだけれど……。そのことを話しているのよ」
「おいおい、そりゃあおめえが悪いだろ、なまえ。鳥なんぞ飼うか? よりにもよって“籠の中の金糸雀カナリア”がよ。趣味が悪ィにも程があるぜ」
「まあ、素敵。レヴィもあのひとと同じことを言うのね。露店でよく見る日本製の子猫ちゃんは、同じ子猫に首輪をつけていたのに」
「ありゃパチモンだろ。正規品はどうせネズミ辺りだろうさ」
「そうかな……。それはそれで性質たちが悪いと思わなくて?」
「はン、囀りやがれ。ソレとコレと、ついでに手前の御大層な事情とやらと、あたしになんの関係があんだよ」
「……“あのひと”? “カナリア”?」

微妙にズレた会話をのんびりと続ける彼女たちに、取り残されたロックは周囲にクエスチョンマークを浮かべて首をひねるしかなかった。
一体なんのことやらと置いてけぼりの彼に、漂う大量の疑問符が視認できたらしい、なまえが穏やかに首を振った。

「いいえ、お気になさらないで、ただの世間話だもの。……ラグーン商会とは度々関わることがあるから、またお会いできるかもしれません。どうぞ仲良くしてくださいね、ロックさん」
「ろ、ロックさん……」
「なんかケツがムズムズして収まりが悪ィな、おいなまえ、ロックで良いだろ」
「お前が決めるなよ、レヴィ。……よろしく、ええと、なまえさん」

苦笑しながらロックが片手を差し出した。
常識的に握手を促す所作に、しかしながら求められた当の女は申し訳なさそうに眉を下げた。
楚々としたかんばせがそうして悲しげな表情を形づくるさまは、見る者に庇護欲を掻き立てさせる如何いかんともしがい威力を有していた――ありていにいってひどく愛らしい。

「ああ、残念だけれど……握手はできなくて」
「え?」

降参をアピールするようになまえが両手を挙げてぱたぱたと振った。
彼女のちいさな手は、銃を撃つどころか、ふれたことすらあるまいと確信させるほどやわらかそうだった。
銃なりナイフなり拳なり、日常的に「武器」を手にしようものなら、押しべてタコやマメ、些細な擦過から色素の沈着に至るまで、可視不可視問わずなにがしかの瑕疵かしが刻まれていくものだ。
ロックにとってそれらの手は、心ならずも既に見慣れたものだった。

しかしながら彼の眼前にさらされた手は、召し連れている華奢な日傘か、はたまた紅茶の注がれたティーカップくらいしか持てないだろうと信じて疑わないほどか弱い。
悪名高きヨハネスブルクすら温暖な保養所に類別されるだろう、この悪徳の都で逢着する者のものとは到底信じられないてのひらだった。

「あーやめとけやめとけ、ロック、その歳で利き手を変えンのは・・・・・・・・・面倒だぞ。マスかく手は大切にしとけ」
「はあ?」

レヴィの戯言たわごとに、なにを言っているんだとロックが顔をしかめたのと、ほぼ同時だった。
折しもあれ、腹に響く重低音を伴って黒い車が脇に停車した。
驚く彼らに――否、あからさまに表情を変えたのはロックだけだった――窓から古風なティアドロップ型のサングラスをかけた男が顔を見せた。

二挺拳銃トゥーハンドの言う通りだ、ロック。最後に握るのがこれ・・の手ってのは……まあ、そりゃあ僥倖とでも言うべきかね。なにはともあれ帰るぞ、なまえ」
「ご到着の速さがとても信じられないのですが……。ね、旦那さま、やっぱりなまえのどこかに発信器か盗聴器でも着けていらっしゃいます?」
「おいおい、飼い主がわざわざ出向いてやったってのに随分だなあ」
「……申し訳ございません。小鳥のためにご足労くださるなんて、思いも寄りませんでした。お迎えありがとうございます、旦那さま。――ああ、でも、残念。今回の家出は二時間でおしまいだなんて」
「“家出”!?」

ロックは素っ頓狂な声をあげて、囀る女を凝視した。
あに図らんや、これほど現状にそぐわない単語もそうそうないだろう。
真横でその叫声をまともに浴びてしまったレヴィが、心底うざったそうに相形そうぎょうをしかめていた。
そんなふたりになんら頓着する素ぶりも見せず、なまえはおっとりとした動作で日傘を畳んでいる。

三者三様、そのさまをのんびりと眺めていたのは黒い車に乗車したままの偉丈夫、すなわち香港三合会トライアド張維新チャンウァイサンそのひとで、相変わらず葉巻とまがうほど香り高い黒煙草ジタンくゆらしていた。
窓越しに寄越したのは、一見人の好さそうな洒脱な笑みだった。

「やあ、ラグーンのお二人さん。小鳥の面倒を見させて悪かったな」
「あいよ。釈迦に説法だが、チャンの旦那、鳥籠はしっかり閉めときな。またぞろヒラヒラ飛び回ンのはともかく、今度はウチの水夫にまで手ェ出そうとしやがった」
「そうしたいのは山々なんだが、若いのをたぶらかして籠の鍵を開けさせちまうんだよ、これが。――まったく、困ったもんさ」
「ケッ、性悪女め」

かこつぼやきとは裏腹に、恬然てんぜんおわチャンの隣、後部座席へなまえが収まると、すぐさま部下がドアを閉めた。

「滅多なことを口にしないで、レヴィ。もし許されるなら近いうちに。……付き合ってくださってありがとうございました、またお話してね、ロック!」

欣々然きんきんぜんとした笑みでなまえが窓から手を振った。
乱雑に握ろうものなら粉々に砕け散るやもと危惧する白磁のてのひらがひらりと揺れ、すぐにスモークガラスの窓は閉まった。
見送るというより置き去りにされたとでもいうべきていで呆然と立ち尽くすロックと、億劫そうな表情でひらひらと片手を振り返すレヴィを残して、黒いベンツは颯爽と走り去って行った。

「なんだったんだ……」

嵐みたいだった、と嘆息が漏れた。
独り言じみて呟く彼の隣で、レヴィが煙草に火を点けた。
嗅ぎ慣れたラッキーストライクが、かすかな白百合の残り香をさっさと海の波間へ追い払ってしまう。

「災難だったなァ、ロック。金糸雀カナリアには気を付けろよ」
「さっきも言ってたな、金糸雀カナリアって。なまえさんのことか? 気を付けろったって、どうして……」

あんなに大人しそうな女性ひとだったのにと釈然としない面持ちでロックはこぼした。
どう見ても「一般人」でしかない女に、なにを、と。
とはいえこの街における香港三合会トライアドのボス、張維新チャンウァイサン相和あいわすやりとりを今し方目の当たりにしたばかりである。
尚以なおもってそう判じるほど彼もおめでたくはなかったが。

「ふん、なまえ自体は問題ねェんだよ。問題はな、」

どっかと隣に座り、レヴィが彼の方に腕を小突いた。
やにわに思いついたと言わんばかりに、整った面様おもようがにんまり歪んだ。

「そーだ。おもしれェ小話をしてやろうか、ロック」
「なんだ突然。悪い顔をしてるよ、レヴィ」
「いーから聞けよ、スィリー。很久很久以前、むかーしむかし、クソッタレしかいねえゴミ溜めでのことだ。許可なく“穢れなき処女”サマにふれた、オツムの足りねえイカれ野郎がおりました。奴のきったねェ右手がこのウツクシイ海にぷかぷか浮かんだのは、次の日の朝焼けを待たずしてのことで、残りは海の藻屑になったか、豚のエサになったか……はたまたどっかで手無しのまんまヨロシクやってンのか。誰にもわからず仕舞いだったとさ」
「……終わりか?」
「そーだよ、終わりだ。ちなみにこの話はここらじゃ都市伝説扱いされてる」
「……あまり愉快じゃない話だったな」
「あーそーかい。ま、覚えてて損はねェよ。なまえはな、張の旦那のコレさ」

ピンと小指を立ててみせた相棒に、ロックは「あー、なるほど」と頷いた。
随分と物騒かつ仰々しいフレーズと共に語られていたが、「籠の鳥」とやらはこのことか。
嘆息しつつ、彼も自分の煙草に火を点けた。
らぬだにこの日射しと湿気だ。
ボスの言付け、ついでに加えればレヴィが直接やってくるほどの遅延とはいえ、些々たる休憩程度、罰が当たることはないだろう。
手持ちのアメリカンスピリットをくゆらす彼の横で、レヴィがかなえの軽重を問うような曖昧な眼差しをしたまま呟いた。

「なァ、ホワイトカラー。お前はこのロアナプラで唯一って言っていい、まだ人も殺さず、銃も撃たず、で生きてるよな」
「え? ああ、まあ……」

海底に沈んだU-234の艦内でのやり取りから端を発し、正義感だの倫理観だの、生きる場所やら生死における価値基準やら、まさに命をかけて問答したのは記憶に新しい。
残喘ざんぜんを保って尚なにか突っかかる気かと、ロックが身構えたのも数秒ばかりのことだった。
依然として目線は遠く、大洋を見晴みはるかすような眼差しをしたレヴィが、口の端を皮肉げに歪めていた。

「アイツもなんだよ」
「アイツ……なまえさんのことか?」
「ああ、なまえもな、人を殺したことがねェんだよ。ひとりもな。虫くらいは……いやもしかしたらそれもないかもしんねえ」

ハッと笑い、レヴィが紫煙を吐き出した。
ぶわりと広がる靄の向こうでいつとはなしに彼女がロックに目線をくれていた。

「……レヴィ?」
「なあロック。なまえはな、ヤクもやらねえ、博打も打たねえ、煙草もナシで……酒はちったぁ旦那に仕込まれたんだったか? ついでに汚れ仕事オッド・ジョブにも、腐った人脈とも縁がねぇ。……この街に住んでてだぞ? 銃を持ったこともなければ、ガキひとり殴りつけたこともないとくりゃあ――それだけで、レッドデータブックに載っけてやりてぇくれェだ。で、そのおきれいなご身分を可能にしてンのが、張の旦那ってワケ」
「なるほど……そりゃあ確かにレアだな。彼女も長いんだろう? この街」
「ああ。ま、なまえは鼻は利く。この街のどっからでも、ご立派なビルが見えるだろ? あの塔のテッペンに仕舞い込まれた小鳥は、荒事の気配には敏感なのさ。メタンや一酸化炭素を感知する代わりに、血と硝煙に反応する金糸雀カナリアッてな……その点ではお前より遥かに役に立つぜ」

なるほど、腐臭と泥濘でできたこの街に五臓六腑、骨の髄まで浸りきり、てて加えて香港三合会の「金義潘の白紙扇」にまで囲われていながら、同時に一度も他者を傷付けたことが皆無とは、なんと得がたく稀有な存在か。
理非の区別もなく、人命が銃弾一発より軽いこの死の陰の谷において、「穢れなき処女」とやらが存在することすら、大仰な戯称といいいささか冗談じみたものに思われた。
そしてかくの如き「贅沢品おんな」を囲うなど、けだしなんと酔狂な嗜好だろうか。

「……シュミが良すぎて、一周回って最低ですらある」
「ハッ、言うじゃねェか。そんで“穢れなき処女”サマが武器を手にするときはな、ロック。このソドムとゴモラが滅ぶときと同義なのさ」

魑魅魍魎の謀略渦巻くロアナプラ、その勢力版図の最たるところを占める三合会、ボスが囲う真っ白な手をした女が武器を握る――明々白々、それは地獄の釜が開くのと同時、天から硫黄と火が降り注ぐ最中でのことに相違ない。
街でも名うての銃手ガンマンの大言が大袈裟でもなんでもないことを理解して、ロックは「そりゃあぞっとする」とちいさく呻いた。

「やっとマトモなひとに会えたと思ったんだけどなあ……」
「なァーに寝呆けたこと抜かしてンだ。もしやあの女を“囚われのお姫サマ”とでも思ってンのか? ハッ、ヘドが出るぜ、ロック。言っとくけどなあ、なまえも大概性悪だぞ」
「ええ? そうかなあ」
「そうなんだよ。なんてったって、なあ、あの・・旦那の女だぜ? てめえも精々、喰われねェよう気ィ付けな。頭ッからかじられても、鳥籠にいる限り、あたしどころか、この街のクソ共は誰ひとり船なんざ出しゃしねーぞ」
「そういうもんかねえ……」

生返事と共に紫煙を吐きつつ、挨拶代わりに怒号と鉛玉が飛んでくるのが日常茶飯事のイカれた街で、「こんにちは」と「初めまして」を綾取あやどる口上を指して「まとも」と表するのは相応というものではないかと、彼は胡乱な思いを抱いていた。

いつの間にかくゆらすアメリカンスピリットが短くなっており、ロックは視線を海と空へ戻した。
紫煙越しの見慣れた風景は、やはり見慣れた死人たちの街でしかなかった。


(2019.03.17)
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