洗濯物を干し終え時計を見ると、約束の時間が近付いていた。
慌てて着替えて荷物の用意をする。
「どこか出掛けるのか?」
テーブルに愛用のパソコンを置いて、いつものようにネトゲをしていたディアボロさんが尋ねる。
姿勢が悪く丸まった背に苦笑した。
最近肩や首が痛いって言っていたけれど、どう見てもその猫背が原因だと思いますよ……ディスプレイを見ている時間も長いし、と、ストールを巻きながら注意する。
ディアボロさんはおざなりに生返事をするだけで、改善する気はないらしい。
もう、と溜め息をついた。
「ちょっと図書館に行ってきます。借りた本を返しに」
「ああ、じゃあいつもの買い物にドッピオは要らんな?」
「はい、ドッピオくんに伝えておいてもらえますか?」
「分かった。行ってこい」
画面から目を離して、わたしへと手を伸ばすディアボロさんに、行ってらっしゃいのキスを頬にもらう。
優しく抱き締められ、ふわりとディアボロさんの香りに包まれて、無意識に口の端がゆるんでしまう。
この行為に初めは慣れなくて照れていたけれど、今や挨拶として定着してしまった。
主にこのイタリア人とかアメリカ人とかのせいだ。
わたしも同じようにちゅっと頬にキスを返す。
ついでに寄ってきたカーズさんにもキスをおひとつ。
どれだけ懸命に背伸びをしてもとても届かない高さのため、カーズさんはわたしに合わせて屈んでくれる。
首筋に深紫色の長い髪が触れ、くすぐったさに小さく笑いながら、頬を寄せた。
がしっと頭と腰を掴まれそうになったのをなんとか避けて(この攻防戦もいつものことなので妙に上手くなってしまった)、玄関へ向かう。
「気を付けて行ってくるのだぞ、なまえ」
「はーい、行ってきます!」
重たい本の入ったバッグを持って外に出た。
途端に容赦なく真っ直ぐ降り注いできた陽光に、目を細めた。
小さなレースに縁取られた白い日傘の向こうに、真っ青な空が広がっている。
週に一度か二度、プッチさんの都合に合わせて、二人で図書館に行くのがわたしは楽しみだった。
ついでに帰りは荷物持ちとしてお買いものに付き合ってもらうのも、その習慣のおまけ。
わたしは元々本を読むのが好きだし、それに輪をかけて読書家なDIOさんもいる。
DIOさんは図書館の開館時間に行くことが出来ないため、わたしがここに来る以前からプッチさんが代わりに借りに行っていたらしい。
夜中にバレずに図書館に入るなんて、簡単に出来そうだけどなあとは思うけれど。
とはいえこうして、図書館に行くのにご一緒させてもらうのは、普段あまり外出の機会のないわたしにとって大きな楽しみの一つだ。
次はこれを借りてこいと、わたしには到底理解できそうにもない難しそうな本をリクエストするDIOさんも上機嫌だから、お役に立ててわたしも嬉しい。
「プッチさーん! お待たせしました!」
「構わないさ。本は持ってきたかい?」
「もちろん! ちゃんとDIOさんのも持ってきましたよ」
自分とDIOさんの借りた本の入ったバッグを見る。
わたしの借りたものは文庫の小説一冊だけれど、DIOさんの本は毎回大きいわ分厚いわで正直重たい。
よくこの分量の本をすぐに読み終えるなあと、肩をすくめる。
すると、重たいだろうとプッチさんにバッグを自然な動作で奪われた。
これでわたしが手にするのは、日傘のみになってしまった。
申し訳ないと思うものの、ニッコリと晴れやかな笑顔を向けられれば、大人しく感謝を述べるしかない。
わたしも図書館のカードが作れたら、プッチさんに都合を合わせてもらわなくても済むのだけれど。
この世界にやってきたとき、わたしの持ち物は身に着けていた服ぐらいで、車の免許証や大学の学生証といった身分証明になるようなものは、どういうわけか全く持っていなかった。
おかげでアルバイトすら出来ないときた。
バイトくらいなら出来るかなと思ったけれど、身分証というものは思っていた以上に力をもっていたらしく、お断わりを受けてしまった。
そもそも同居人たちに、ものすごく反対された。
わたしは子供じゃないし、置いてもらっている身としては、家計の足しになればと思ったんだけどなあ。
そう言ったら吉良さんは俯いて無言で目頭を押さえ、搾取され放題だったらしいディエゴくんは震えながら「聖女……」と呟いていた。
そんな大げさな。
まあそんなことがあってわたしは図書館のカードすら作れず、本を借りるのにもプッチさんといつも一緒だ。
そういえば保険証すらないんだけど、わたし、病気になったらどうするんだろうか……。
ケガはよくDIOさんが治してくれるのだけど、病気はどうなんだろう。
その時はファニーさんに頼んだら助けてもらえるかなあ。
いや、国のトップにそんなこと軽々しくお願い出来る訳がない。
うーん、困った。
道すがら、普段は一緒におしゃべりをしながら歩くのに、今日は黙り込んでもくもくと歩を進めるわたしが不審だったらしい。
プッチさんがどうかしたかい、と、不思議そうに覗き込んできた。
いけないいけない、ぼんやりしていたみたいだ。
「どうかしたのかい? どこか具合が悪いとか……」
「い、いえ、そんなことないです! ええと、次はなにを借りようかなって思って……」
わたわたと胸の前で手をぱたぱた振ると、プッチさんは一応納得してくれたみたいだ。
ニコリと笑って、「そういえば、前に好きだと言っていた作家の新作が出たみたいだよ」と教えてくれた。
「えっ、本当ですか! まだ借りられていないと良いなあ、読みたいな」
「君は日頃の行いが良いからね、置いてあるかもしれないよ。私もそう祈っておこう」
「ふふ、ありがとうございます」
いたずらっぽく言うプッチさんと笑いあう。
プッチさんがそう言うなら、きっと大丈夫なような気がする。
そして神父さまのおかげか否か、新刊コーナーに一冊だけ残っていたお目当ての本を無事ゲット出来たのだった。
・・・
お買い物も済んで、帰路に就く。
重たいものは案の定奪われて、わたしは大人しく卵とアイスの入ったレジ袋をぶらぶら揺らす。
はやく借りた本を読みたいなあ、なんて思いながら、ニコニコしてプッチさんと今日の夜ご飯はなににするかお話していたら、――突然、グラッと視界が揺れた。
気持ちの悪い浮遊感。
意図していない突発的なそれに、ぞわりと鳥肌が立った。
瞬間的に目を見開く。
「う、わっ!」
「なまえ!」
一拍置いて、状況が呑み込めた。
道の段差で間抜けなことにつまずいてしまったらしいわたしを、間に合わないと判断したんだろう、プッチさんがホワイトスネイクを発動して助けてくれたようだった。
……か、完璧に気を抜いていたから、ものすごくびっくりした……。
チラ、と上を見れば、わたしを抱き留める、冷たい目をしたホワイトスネイク。
心なしかいつもより呆れているように見えるのは……気のせいだと思いたい。
「あ、ありがとう、ホワイトスネイク」
「気を付けろ、そそっかしい」
「う、返す言葉もありません……あっ、プッチさんも、ありがとうございました」
スタンドを発動させてまで助けてくれたプッチさんにお礼を言うと、「ああ」と曖昧に返事しながら、変な顔をしていた。
うん? どうしたんだろう。
「それより、怪我はないかい」
「あ、大丈夫です……って、いたっ、」
体重全てを預けていたホワイトスネイクの腕から離れて、ちゃんと自分で立つと、左の足首に違和感が、というか、痛い、うわ、もしかして捻っちゃったかな。
意識するとますますじりじりとした鈍い痛みが増したような気がした。
目にじわりと薄い涙の膜が張る。
その様子に察したらしいプッチさんに、ぐいっと抱き上げられた。
「わっ、プ、プッチさん!」
「私は怪我をした女性を無理して歩かせるほど酷い人間ではないよ」
「でででででも、その、」
俗に言うお姫様だっこというやつに、動揺を隠すことが出来ない。
家がもう近いとはいえ、往来で抱き上げられて冷静でいられる方がおかしいと思うんですけど。
この体勢……ああ、もう、恥ずかしい。
「そっ、それに本とか買ったものとかもあるしっ、重いですから!」
「荷物はオレが持ってる」
「うう……重ね重ねごめん、ホワイトスネイク……」
プッチは、己れのスタンドを見た。
申し訳なさそうな表情のなまえの額をつついてちょっかいを出している、まるで人間のように饒舌に話すスタンド。
先程なまえがつまずいた時、彼女は私がスタンドを出して助けたと思っているようだが、実際はホワイトスネイクが勝手に出てきたのだ。
――他のスタンドに比べてよく喋るなと思ってはいたが、勝手に発現するとは。
そのガラス玉のような無機質な目からは、何を考えているのか読み取ることは出来なかったが、彼女を構う姿はなかなか楽しそうだった。
溜め息を一つ吐いて、「早く帰るよ」と声を掛ける。
諦めたらしく大人しく抱きかかえられるなまえに目を落とすと、恐る恐ると行った様子で重くないですかと問われた。
「まさか。それとも私はそんなに貧弱に見えるか?」
「いっ、いえ、そんな! ただ、ご迷惑をおかけしちゃうなって……」
「そんなこと気にしなくて良いさ、それより、帰ったらきちんと手当てするんだよ」
熱を持つ足首を、労わるようにするりと撫でる。
ぴく、と揺れた脚に苦笑して、むき出しの細い脚、脛に唇を落とす。
その途端、先程よりも大きくふるえた脚がひどく愛しい。
言葉もなく真っ赤な顔をして、口を開いたり閉じたりするなまえに、自分が柄にもなく心が高ぶっているらしいことに気付き、また笑って抱え直した。
彼女を抱きかかえて歩を進めながら、僕は神を愛すように君を愛すと、唯一無二と崇める男に遠い過去に言ったものだが、この少女に抱く感情は人間に向けてのものなのだろうなと、取り留めもなく思考した。
人間を人間として愛するという感情を持っていたようだ、私も存外単純な男らしい、と薄く笑う。
なまえは紅潮した頬を押さえて、大人しく顔を俯かせていた。
その様子にまた笑みをこぼしていると、横でじっとこちらを見つめる自分のスタンドに気付いた。
自分の精神エネルギーが現れたものだというのに、何をするのか予測できないそれがどうするのかと注視していると、彼は私の首に回していたなまえの腕を奪った。
「ホワイトスネイク……?」
躊躇いがちに囁いたなまえに有無を言わさず、ホワイトスネイクはまるで私に当てつけるように、少女の剥き出しの腕にキスをした。
これにはなまえだけではなく、私まで驚いてしまった。
「……プッチさん」
「私の意思ではない」
「オレがしたいからした」
これは驚いた。
なまえは赤らんだやわらかそうな頬に、戸惑いと昂揚を浮かべている。
その表情はひどく愛らしく、恋を知ったばかりの少女のように無垢に紅潮していた。
無機質な瞳に、どこか自慢げなものを滲ませた自分のスタンドを睥睨する。
無理やり消してやろうかとも思ったが、彼が手にしているスーパーのレジ袋が地に落ちて無残なことになってしまうのは避けたいので、私は無言でそのまま脚を運んだ。
意外なところに伏兵がいたものだなあと苦く思いながら。
雫の栞
脛へのキスは服従、腕へのキスは恋慕。
(2014.07.06)