朝になると、すっかり雨はやんでいた。
まだ濡れている草木は太陽の下でその鮮やかさを増し、まるでこのつややかな緑の美しさをわたしに見せ付けるために、昨夜あれほどひどい雨が降ったのではないかとよぎるほど。
深く息を吸い込めば肺の奥深くまで新鮮な空気が満ち満ちて、初めて呼吸をしたばかりの赤ん坊のように大きく胸を膨らませた。
十一月の冷たい空気は、ロンドン・シーズンの社交界で疲れた人間にとって、さっぱりとして心地良いもののように感じられた。
もしかしたら、もうすぐ雨ではなく雪が降りはじめるかもしれない。

わたしのおろしたての靴が汚れないよう、馬車の降り口に御者が布を敷いてくれていた。
彼は気のいい小男で、夜通し馬を操って疲れていたのだろう、深いしわの刻まれた肌は薄汚れ、目は真っ赤になっていた。
御者がわたしを馬車から下ろしてくれたあと、わたしは既にお金を払っていたものの(正しくはわたしの世話係のために同行させているメイドのアンヌが、だけれど)、それとは別に、彼とその家族が少なくとも三か月はゆうに生活していけるだろう金貨を手渡した。
彼が困惑して、そんな、お嬢さん、と、馬鹿みたいに口ごもっているのを気持ち良く無視して、わたしは「ありがとう」ときっぱり言った。
言外に、それ以上なにか言うのは不要だと含ませて。

彼が何度も何度もお辞儀をしていると、丁度マナー・ハウスからジョースター卿と執事が連れ立って現れた。
まるで馬車が近付いてくるのをずっと待ち構えていたかのような速さだった。
もしかしたら本当にそうだったのかもしれない、わたしの知っている「ジョージおじさま」は超然とした威厳のある立派な男性だけれど、そういう、貴族や大金持ちらしからぬ行動でもって誰かを驚かせたり喜ばせたりすることのできるひとだった。

「お久しぶりです、おじさま! お会いできてとても嬉しいです」

叱られるかもしれないと思いつつ年甲斐もなくはしゃいで駆け寄ると、それでもジョージおじさまはしっかりとわたしを抱き留め、「よく来てくれたね」と顔をほころばせた。
数年ぶりにお会いしたおじさまは、記憶より幾分か老け込み、そしてずっとやつれたように見えた。
記憶のなかの彼はいまよりずっと頑強で、病なんて無縁のもののような方だったのに。
もしかしたら、先日、彼が突然「数年来行き来もないが、久しぶりに大切な姪の顔を見せにおいで」とわたしへ手紙を送ってきたのは、これほど面変わりしてしまったご自分について深く考えてのことかもしれなかった。
つまり、おじさまご自身の先々について。
あるいは、もしおじさまになにかあった場合、残されるだろうご子息や使用人たちの処遇について。

年を取ると、幼い子供のときには知らなかった、見えていなかった、そういった難しい、もしくは考えたくもない問題や現実といったものに立ち向かわなくてはならなくなる。
ただずっと草木の生い茂る奥まった小さな花園で、ちっぽけな秘密をひとつふたつ共有して微笑みあっていた牧歌的な幸せのなかにいたいだけだというのに。

そんなことを考えているなんて全く顔に出さないように注意しつつ、わたしは彼の手をしっかりと握りしめた。
ああ、あの「ジョージおじさま」の手は、これほどまでに痩せていただろうか。

「おじさま、これから少しの間、お世話になります」
「少しといわず、もっとここにいてくれて構わんよ。わたしたちは手紙をもらってからずっと君が来るのを心待ちにしていたし、息子たちもきっと喜ぶだろう」

後ろに控えていたひとのよさそうな執事が、その通りだと言わんばかりににこやかに頷いた。

「息子といいますと、ジョナサンと、確か養子をひとりお迎えしたんですよね」
「ああ、ジョナサンを見たら、きっと驚くだろう。随分と大きく成長したよ。養子というのはディオといってね、勉学にもスポーツにも秀でているわたしの自慢の息子のひとりだ」

彼らは来週、学校から帰省するという。
このところ時折ひどく咳き込むというジョージおじさまを心配して、続きは屋内のパーラーへ移動してのお茶会になった。

光を最大限取り込むためフランス窓を広く取ったパーラーは、斜めに差し込む太陽のおかげで気持ち良くあたたかかい。
ここまでは冷たい十一月の空気もやってこれないだろう。
おじさまは静かな目でわたしを見た。

「――なまえ、君ももう良い年齢になった。姉が……君のお母さんが生きていたら、きっと誇らしく思うだろう立派な女性になった」

ゆったりと大きな一人掛けのソファに腰を下ろしたジョージおじさまは、一息つくと重々しく呟いた。
わたしは虚を突かれ、あやうく手にしていた白地に青い模様の入った美しいティーカップを、床に落として粉々にするところだった。
そんな恐ろしい失態を披露せずに済んだのは、彼の尊厳に満ちた瞳が、暗く沈んだようにある一点を見つめていたからだ。
特定のなにかを見ている訳ではなく、曖昧に、ぼんやりと、物憂げに視線を投げているだけのようだった。
わたしの記憶のどこを探しても、そんな彼の様子を見たのはそれが初めてのことだった。
それにしても、「良い年齢」、――良い年齢って!

「突然なにをおっしゃるんです、驚いてしまいました」
「いやいや、ずっと考えていたことだったよ。姉が生きていたら、こういうことはきちんと采配してくれただろう……。わたしに残された時間は、もしかしたらもう少ないのかもしれない。それまでに君をしかるべきところへ嫁がせ、金銭や使用人の管理と手配をしておかなければならない責任がわたしにはある。それが姉の遺してくれた君への、そして姉に対するわたしの役目だ。今年のロンドン・シーズンでの社交界はどうだったかね? 君にはもう心に決めた相手がいるだろうか。勿論、君の意見や考えは最大限に考慮するよ」
「……そんな、そんなことおっしゃらないでください。まるで、おじさまになにかあるような、そんな……恐ろしいこと。それにわたしにはまだ早すぎます」

悲しかった。
なによりも、威信や尊厳に溢れ、それでいてどこまでも寛容で心優しい彼に、そんなことを言わせてしまう年月というものに対して。

ああ、いつまでも小さな花園で微笑むだけの、刹那的な喜びと共にはしゃぐ、愚かな子供のままでいたい。
年月や時間というものは、勝手に、わたしやわたしの周囲たちを変えてしまう。


(2016.06.23)
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