胸の奥深くで静かに埋没するその感情を、普段は忘れている。
しかし時折、ふと思い出したように、ぎりぎりと爪を立てられるような不快感と焦燥感、そして物憂い重たさでゆっくりと首を絞められるようなどうしようもない停滞、息をするのすら億劫な気分は、優しく頭上からかぶせられたベールのようにわたしを覆い、いつも纏わりついていた。
わたしは躊躇していた。
それは間違いなくためらいで、先の破滅を予期しての先走った後悔も同時に感じていた。
うら若い者たちが皆あるとき必ず襲われる、処女ったらしいセンチメンタルな衝動と鬱屈した精神は、いつだってわたしを苦しめた。

遠くで雷が鳴った。
この日記を書いている手が、ふと止まった。
まるでわたしの未来を暗示するように、荒れた天候は屋敷を出てからというもの一向に治まる気配を見せない。

お継母さまが亡くなったのは八年前、一八八〇年九月十七日から十八日にかけての夜――土曜日だった。
十八日の日曜日の朝、いつものようにわたしを起こしに来たメイドのアンヌは真っ青な顔をして、ただじっとわたしを見下ろしていた。
お継母さまは、慎み深く理性的なひとだったと記憶している。
――その言葉以上に彼女を形容するのに相応しいものはなかった。
つまり、同じ階級において、吐き捨てるほど大勢いるつまらない典型的な爵位持ちの老婦人そのものという女性でしかなかったということだ。

母と娘というより祖母と孫娘といった方が正しい年齢差だったわたしとお継母さまは、時折衝突することもあった。
その年代の女性たちが皆そうであるように、彼女もまたわたしという人間のことを、少々頭の足りない、配慮に欠けた、慎みのない若い少女だとはなから思い込んでいた。
わたしだけではないだろうけれど、逆らうことのできない年配の庇護者に、そう頭ごなしに分類され、常日頃から些細なことで小言をひとつふたつぶつけられるのは、耐えがたいほどに屈辱的で不愉快極まりないものだった。
お継母さまと一緒に生活していたのはたった三年ばかりのことだったけれど、支配されたり抑圧されたりという息苦しさを年若い女が嫌って、なにが悪いというのだろうか?

それでも身寄りのないわたしをここまで育ててくださったのは、まぎれもなく、厳しくも誇り高いお継母さまで、親族へのアピールや同情を引くためのデモンストレーションでもなく、お葬式のときには涙が流れた。
参列した遠い親族のなかには、わたしのことを口さがなく言うひとたちもいたものの、お継母さまと、そのとき既に亡くなって数年経っていたお継父さまの莫大な遺産をわたしが相続したために、大抵はご機嫌取りに終始するばかりだった。

馬車がぬかるんだ泥道に車輪をとられ、たびたびガタンと大きく揺れる。
気を抜くと、舌を噛んでしまいそうだ。
雷が未だ遠くでひっきりなしに鳴っている。
わたしはギリシャ神話のカッサンドラのように暗い面持ちで、じっとりと霧雨の降る夕闇を睨みつけた。

いつもの習慣で日記を書いていたが、ああ、このままだと具合が悪くなってしまいそうだ。
今日はこのあたりにしておく。
少し眠って、次に目が覚めたときには、きっと目的地のジョースター邸に到着している頃だろう。
わたしは馬車のなか、剥げかけた木製のドアの木目を、まるで、まだ習っていないため理解できない長ったらしい数式を眼前に突き付けられたときのように、ぼんやりと眺めた。

お継母さまの弟、つまりわたしの継叔父に当たるジョースター卿のお屋敷まで、あとどのくらいだろうか。
数年ぶりに会うジョースター卿やそのご子息のジョナサンのことを考えると、自然と笑みが浮かんだ。
ああ、彼らとの思い出はわたしにとって、遠い幼少の頃の、数少ない純真で清白なきらめきのようなものだった。
そういえば数年前に養子をひとり迎えたとお手紙で聞いたけれど、どんな人物なのだろう。
お手紙によれば、わたしと同じくらいの年齢のはずだけれど、仲良くできるだろうか。

ガタンと大きく馬車が揺れ、思わず文字が醜く歪んでしまった。
もうここで書くのはやめておこう。

あの頃のようになにも知らない無垢な人間のままでずっといることなどできやしないというのに、まるで思い出の尊さのあまり、その続きにわたしも彼らも存在しているような気がしていた。


(2016.06.18)
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