一九××年八月二十日。

わたしは今日、人生で最も不可解な一日を過ごしたと思う。
記憶が薄れないうちに、できるだけ明確な形で書き記しておきたい。

まず、わたしの名前はなまえ。
一九××年一月十六日生まれ。
健康そのもの。病気とはさらさら縁がない。
この地に住むようになって十年と少し。

職業は画家、といいたいところだが、残念ながらそれだけで生計を立てることは難しく、夜になると顔見知りの独身女が切り盛りする酒場で、たまに適当に酒をつくったり客と当たり障りのない会話をして収入の足しにしていた。
唯一の近親である母が五年前に亡くなったので、いまは寄る辺のない身の上である。

今朝は九時に朝食を摂り、朝刊をざっと眺めた。
そして窓辺の観葉植物に水をやり、絵の題材でもないものかとぼんやり物思いにふけった。

扉と窓が開いているのに、部屋はむっとするほどの暑さだった。
この辺りで一番涼しくてしのぎやすい場所といえば、ナイル川の水底だろうな――そう考えた拍子に、ふとアイデアが浮かんだ。

そこで絵に取りかかった。
熱中のあまり昼食には手をつけずじまいで、近所のモスクから礼拝を呼びかけるアザーンが聞こえ、そこで四時過ぎだと気付くまで止めなかった。

ざっと描いたスケッチにしては、これまでで一番の出来だと自信が持てた。

砂漠に散らばる装飾品や仰々しい衣服、それと、死んだ男を描いたものだ。
男は美しい容姿をしていた――それも、桁外れの美貌だ。
しなやかな筋肉、均整のとれた四肢、鼻梁は品良く高く通っており、眉は太く濃い。
鉛筆で描いたスケッチとはいえ、太陽の光を集めたかのような輝く金の髪と、意志の強い射抜くような赤の虹彩(既に死人らしく濁り澱んでいたが)が印象的だ。
どうやって死んだのか、肉体はぼろぼろに朽ちかけている。
かろうじて残った顔から読み取れる表情は、絶望というよりも驚愕の極みという感じだ。

威圧感のある巨体を支える力は、どこにも存在しないかのようだった。
男の死体は吹く風に運ばれた砂によって埋もれて、そのうちどこへ捨てられたかさえ分からなくなるだろう。

わたしはそのスケッチ画をくるくる巻くと、なんとなくポケットに入れた。
そして、本当にいい仕事ができたという確信ゆえの、めったにない喜びを感じながら家を出た。

出かける際は、いつも利用している市場に向かおうとしていたと思う。
家に常備している炭酸水がもう少なっていた。
その市場は夕方に開くおかげで、わたしのように早起きができず、朝市で買い物が不可能な人間にとってありがたいところだった。

そこから先どこに行ったのか、ひどくあいまいな記憶しかない。
ひとつだけはっきり覚えているのは、砂埃の舞うアスファルトの歩道から立ち上る物凄い熱気の波が、ほとんど手で掴めそうだったことだ。
青空を見渡しても、刺すような太陽が意識をぐらぐらと煮立たせるばかりで、雨を降らせるような雲はどこにも見当たらなかった。

ぼんやりと歩いた時分、小さな男の子に時間を尋ねられて、わたしははっと我に返った。
午後六時四十分だ。

男の子がいなくなると次第に周りが見えてきた。
乾き切った土に縁取られた庭があって、赤いコーラルツリーや、黄金色のイエローオレアンダーといった花が見える。
門の上に打ち付けられた看板は剥げかかっていて、なんと書いてあるか判然としなかった。

庭は死んだように静かだったが、古びた館を見ると厳めしい扉は僅かに開いていて、かすかに女のすすり泣くような音が響いていた。
ふと気を引かれて、わたしは入っていった。
中は驚くほど暗く、別の世界に迷い込みでもしたのかと思うほど、外との落差が著しかった。

ひんやりとした冷気すら覚え、風の吹き込んできた階段を見上げた。
階段の中ほどに、ひとりの男が立っていた。
足音を聞いてこちらに振り返った男を見て、わたしはぎくりと立ち止まった。

あの男だ。
わたしが描いて、ポケットに入れた肖像の男。

男らしくがっしりとした巨体で優雅に佇んでいる男は、愉快そうに形の良い唇を歪めた。
顔立ちはあの絵に瓜二つだが、表情は全く違う。
スケッチ画に色の付いた男はやはり大層美しく、薄暗い館のなかでも透けるように白い肌は、首元をぐるりと囲む古傷以外、白磁のようになめらかだった。

男は旧知のように微笑みながら挨拶し、わたしの手を取って握り締めた。
冷気すら感じられる館にずっといたためだろうか、男の手は驚くほど冷ややかだった。

わたしは勝手に屋敷に入り込んだのを詫びた。

「あんまりぎらぎら暑くってやりきれなかったものですから。荒野のオアシスのようですね、ここは」
「オアシスに行ったことはないが、たしかに暑いようだね。それも、地獄のような暑さだ。まあ、どうぞここでゆっくりしてくれて構わないよ」

そう言って、男がたったいままで上っていた階段の先、図書室のような部屋へ通された。

壁をぐるりと覆う巨大な書棚を見回しながら、「これはまた、大きな屋敷ですね」とわたしは話しかけた。
男は古傷の目立つ首を振り、「ああ、まあね」と答えた。

「館は随分と古いものだが、なかなか気密性が高くてね。太陽や外気をよく防いでいてくれる。しかしそれにしても、まったく、この国は本当に日が長い」
「じゃあ、どうしてこの地へ?」

男は急にくすくすと笑い出した。

「信じてもらえないかもしれんが、はじめ私の意思でここへ来たわけではなかったのだよ……強いて言えば、運命のようなものじゃあないかね。君がこの館へやって来たのと同じように」

男は雲を描くように茫洋と抽象的な話を続けた――太陽が照る時間が長いとどれだけ不便なことが多いのか、しかし夜になると、この地はひどく静かで薄ら寒いものになること。
その静けさは、まるで海の水底のようだと。
それから、外の空気はからからに乾燥しているが、この館の中はしっとりと湿気を孕んでいる話。
その間も、血のように赤い瞳は愉快げににんまりと弧を描き、じっとわたしを見つめ続けていた。

わたしはどうにも居心地が悪く、ほとんど喋らなかった。
この男に出くわしたことが、何やら不自然で不気味に思えたからだ。

最初のうちは、自分にこう言い聞かせた――この男は、前にどこかでちらっと見かけたんだろう。
酒場で働いているときに、客の一人として店を訪れたに違いない。
知り合いでもない男の顔が心の片隅に残っていただけだ、と。

だが、わたしには分かっていた。
そんなのは、気休めのごまかしに過ぎないのだ。
仮に遠目からちらっと見かけただけだとしても、これほどの美貌の男を忘れるなど、決してありえないと分かり切っていた。

ひとしきり話していた男は薄く微笑して、手にしていた薄い冊子を指差した。
悪趣味極まりないことに、どうやら男が読んでいたのは、死んだ人間の名前、生年月日と死亡月日を列記した”死亡録”のようだった。

「まだ今日という日は終わっていないが……。いまのところ、今日はこの人物一人らしい」

指差されたところへ初めて目をやると、そこにはこうあった。

なまえ、
一八××年一月十六日に生まれ
一九××年八月二十日に急逝
「生のさなかにも死はつねにあり」

しばらくの間、わたしは無言で座っていた。
それから、悪寒が背筋を駆けぬけた。
この死亡録をどこで手に入れたのか、とわたしは尋ねた。

「なに、どこで手に入れたというわけじゃあない、……これがどうかしたかね?」
「奇妙な偶然だけど、わたしの名前と同じなんです」

男は驚いたように僅かに目を見開くと、厚くなまめかしい唇に浮かんだ笑みをますます暗く深くした。

「日付けは?」
「二つのうちひとつしか分からないけど、それも当たっています」
「ほう、気味の悪い話じゃあないか!」

だが、男はわたしほど多くを知らない。
わたしは今朝描いた絵の話をした。
ポケットからスケッチを取り出して見せてやった。
それを眺めるうちに、男の顔は、ますますわたしの描いた絵とそっくりになっていった。

「ふふ、私はずっと思っていたんだが。……この世に幽霊なんていやしないと」

二人とも幽霊を見たことはなかったが、向こうの言わんとすることは理解できた。

日本人であるわたしの名前は、この地では発音も文字表記も珍しいだろうに、かすれたインクはやはり奇妙な一致を静かに示していた。

「この死亡録をつくった方は、以前、どこかでわたしの名前を耳にしたんじゃありませんかね」
「君の方では私の顔を見かけておいて、それを忘れていたわけだ! 君、七月に北イングランドへいなかったかね?」

わたしは、生まれてこのかたイングランドに行ったことはない。
しばらくの間、我々は口をつぐんだままだった。
二人とも、同じものをじっと見つめていた――死亡録に記載された二つの日付。
そのうちひとつは正確なのだ。

ふと、「君、今夜、ここで夕食を一緒にどうだい」と男が言った。
食事を供してくれた館の執事は、主と同じく奇抜な風采をしていたが、話しぶりや身のこなしを見るに、大層有能なのだろうと思わせるには十分な働きをした。
男はわたしのことを知り合いの絵描きだと紹介した。
ひとりで摂るよりにぎやかな――あくまでも"ひとりで"よりは、僅かに他人の気配がする程度には――食事をいただき、そのあと、男に連れられ、館の脇につくられた植物園で二人向かい合った。

我々は、さっき中断していたところから話を続けた。
わたしと男の間には、例の死亡録と、わたしが描いた絵を並べていた。

「失礼なことをうかがいますが、いままで砂漠で死にかけた、なんてことはありませんでしたか」

相手は頭を振った。

「全く心当たりはない。それに、君に話して理解してもらえるか分からないが――太陽が照る時間に、私がこうして外に出ることはないのだよ。それこそこの絵のように死にかけ、あるいは死んでしまった後ならば話は別だが」

彼は立ち上がり、輪郭をくっきりとする月が、ゆっくりと姿を現しはじめているのを見上げた。

「日中は滅入るような暑さでも、夜は空気が乾燥して心地良いのを気に入っていたんだが……今晩の鬱陶しい暑さはどうしたことだろうか、君、ところで、どこに住んでいるか尋ねても?」

わたしは住所を教えた。
急ぎ足で帰ったとしても、数十分はかかる。
それに土地柄、女が独りで出歩くのは、どうにも憚られた。

「ふむ」と男は首をかしげた。

「ここはひとつ、真面目に考えようか。今から家に帰るというのは、事故に遭いに行くようなものじゃあないかね。荷馬車に轢かれるとか、バナナやオレンジの皮に滑るなんて馬鹿げたこともある。はしごが倒れてくるなぞ、もっとありふれているだろう?」

ありそうもないことを口にする美貌の男に、六時間前ならわたしは笑い出したかもしれない。
だが、今のわたしは笑わなかった。

「こうしよう」と彼は続けた。

「今夜十二時までここにいたまえ。この植物園にいるのも良いだろう。館も、鍵がかかっていない部屋ならば、自由にしてくれて構わない」

驚いたことに、わたしはその話に乗ったのだ。




極めて異常なことに、今日は夜になっても暑さが和らぐことはちっともなかった。

いま我々がいるのは、天井の高い、ガラスで覆われた植物園だ。
男――彼はDIOと名乗った――は夜闇の中、様々に咲き乱れる花たちを愛でているようだった。

外では絶え間なく風の音がしている。
わたしはこの手記を、開いた窓の前に置かれた細身のティーテーブルで書いている。

そういえば、男は、DIOは、あの死亡録をどこで手に入れたのだろうか。
先程ははぐらかされが、彼がこちらへ戻ってきたとき、今度こそ問いただしてみよう。

十一時を回った。
これで、一時間の内にさようならだ。
それにしても、息が詰まりそうな暑さじゃないか。
気が狂ってしまうほどの。


- ナノ -