「ふああ……気持ちいい……」

お風呂で乳白色のお湯に浸かりながら、閉じていた目を開けた。
右腕の横で、カーズさんから一つだけもらったラッコのおもちゃがぷかぷか揺れている。

この荒木荘のお風呂はそんなに広いって訳じゃないしぶっちゃけ狭いものだけれど、他の住人はともかく、平均的身長のわたしにとっては別に不自由なく入れる。
硬い結び目がゆんわりとほどけていくような気持ち良さに、ふう、と幸せな溜め息をついた。
もしかしたら一日で一番好きかもしれない癒しのバスタイムを満喫しつつ、日課になっている脚のマッサージをする。
吉良さんのおかげで手はきれいにしてもらえるけれど、手ばかり目立ってきれいじゃ勿体ないと思って、最近は脚や他の部位もお手入れもしているのだ。
おかげで少しは前に比べて、脚もきれいになりつつあると思う。
自分の目では、はっきりとは変化を感じることは難しいけれど。
元が良くないんだから、せめて丁寧に手入れだけはしなくちゃと、お湯を弾く肌に指をすべらせた。

ただ残念ながらやっぱり人数がいるものだから、あんまり長い時間は入っていられない。
次に誰が入るって言っていたかなあ、わたしが最後だったっけと湯船から出てタオルを取ろうとした、ら、

「ディ、ディアボロさん……!」

なんと洗面台兼脱衣所に、上半身裸の元ギャングのボスがいた。
びっくりして声が間抜けな調子でひっくり返った。
恥ずかしい。

いやいま重要なのはそこじゃない、なんでこのひとここにいるんだと思ったら、彼の斑に色を変えるブーゲンビリア色の髪には血が付着し、洗面台には水と一緒に真っ赤な渦が流れていた。
血だらけのディアボロさんを見て、だいたい何があったかは把握できた。
だからといって、理解するのと、この状況を受け入れるのは別の話だ。

「ひぃぃぃ、ディアボロさん、わたしお風呂から上がりたいんでちょっと出てってください! いま! すぐ! わたしちゃっちゃと出ていくので!」

こっちは全裸、しかもここは電気のおかげで明るい。
あわあわとドアを閉めようとしたところで、ディアボロさんが勢いよくガッと扉を掴んだせいで、わたしの行動は簡単に阻まれた。
えええ、ちょっと待ってこの手はなんなのボス。

「風呂上がりか?」
「そうですよ、そう言ってるじゃないですか! この手は! なに!」
「気にするな」
「いや無理です。なに言ってるんですか」

両手で扉を押さえるけれど、悲しいかな、男性の腕力に貧弱なわたしが敵うはずもなく、無情にもバーンと開けられてしまった。

「なまえ」
「なんですか。今すぐ出てかないと、隣三軒まで響き渡るレベルで絶叫しますからね」

しゃがみこんで体を抱き込むようにしながら睨みつける。
そんなことをしたら怒られるのはわたしだけれど、間違いなく被害が大きいのはディアボロさんの方だ。
主に生命的な意味で。

ディアボロさんはその言葉に一瞬ひるんだものの、そのまま浴室に入ってきた。
え、何があなたをそうさせるんですか、本当に叫んでやろうかと身構えていると、バサッと上からタオルが降ってきた。

うん、えっと……?
言いたいことはたくさんあるけれど、とりあえずバスタオルを体にまく。
あ、目に水滴が入った。
地味に痛い。

何がしたいのか意味の分からない目の前のディアボロさんはといえば、自分が濡れるのもお構いなしに抱き着いてきた。
ええと、本当にどうしたんだろう。
わたしの首元に顔をうずめるディアボロさんに、恐る恐る声をかけた。

「あ、あの、ディアボロさん……?」
「どうした」

いや、それはわたしの言葉ですけどね。
体勢のせいで表情は分からないけれど、なにかあったんだろうなあと、大人しく抱き締められたまま仕方なく背中をぽんぽんとたたく。

子持ちの30代のくせに、このひとはたまに弱々しく見えることがある。
まあ、20そこらの小娘に言われたくはないだろうけれど。

「なまえ」
「はいはい、どうかしましたか、ディアボロさん」

初めはわたしの体温の方が温かかったけれど、今や触れているところを中心に温かさが混じりあって、じわじわと同一になりつつあった。
まるでわたしとディアボロさんの境目がなくなっていくみたい。
普段と様子の違うこのひとも同じことを思っていたようで、ぽつりと「あたたかいな」と呟いた。

「……生きてるな」
「そうですねえ、生きていますよ、わたし。ディアボロさんも生きていますね。あったかい」

すり、と肩の上にある頭に頬を寄せる。
わたしの体を拘束する腕の力が強くなった。
少し苦しい。
でもそれをいま指摘するほどわたしも野暮ではなかったので、縋りついてくる大きな背に手をまわして強く抱き締め返した。

――あ、今更すぎるけれど、わたしまだ濡れているのに。
見れば、ディアボロさんのそこそこ長い髪も、しっとりと濡れてしまっている。
……ああもう、仕方ないなあ。

「ディアボロさん、一緒にお風呂入りましょう」
「ハァ?」
「いや、わたしはもうちょっと温まりたいし、ディアボロさんそのままだと風邪引いちゃいますよ。わたしはすぐ上がりますから、このまま入っちゃいましょう」

なにを考えているんだか(いや何も考えていないのだろう)、ね? と首を傾げるなまえに、ディアボロははあと溜め息をつく。
なんで溜め息つくんですかと膨れた頬に軽くキスをして、大人しく言われた通りにした。


・・・



「……ありがとう、なまえ」
「いいえ、しおらしいディアボロさんなんて正直気味が悪いので、早く元気になってくださいね」
「お前……」

二人で風呂に入り、なまえを後ろからゆるく抱き締めてそんな軽口を叩き合う。
ひとつふたつ言葉遊びのように意味のない、ただ会話という行為をやめること出来ずに交わし続けるやり取りの合間合間、無防備にどうぞと言わんばかりに晒された背中、水を弾く瑞々しい肌に小さく口付けを落としていく。

……何も聞かず、文句も言わず、ただされるがままのなまえは、なんだかんだ言ってオレに甘い。

肌を唇の先でなぞり、耳の後ろにも口付けながら、視界の端にちらちらと映るぼんやりと濁った湯を見つめた。

――先程また死んだオレは、恐ろしいことに「死」に慣れつつあったことを知った。
命が失われそうになる、自我と意識が失われる境の瞬間、あの「感覚」は余りにもおぞましいが、その時「ああまたか」と考えるだけの余裕があった。

ただ、今日、いつもと違ったのは、戻ってくるときに普段は生きている時にすら見もしない夢を見たことだった。
死という事象から戻る、やり直させられる時に夢を見るなんて、我ながら慣れ過ぎだろうと失笑しそうになったが、その夢がまたバカらしく最低なモノだった。
胸糞悪いと名高い数多の映画や書籍、その他創作されたコンテンツたちを無理やり鑑賞させられたとしても、これほど不快にはならないだろうと心底思うような。
今思い返してもヘドが出る。

――目の前のなまえが死ぬ幻だなんて、オレは本当にどうかしている。
身をもって慣れていたはずの「死」が眼前に差し出されて、あれほど動揺し酷い気分で目が覚めたのは初めてのことだった。

今まで奪いも奪われもしてきた命という薄っぺらなものが、なまえのものだというだけで、なんら他とは変わらないはずなのに。
頭がグチャグチャになるほど混乱した。
目の前に絶望だけが転がっていた。
それは文字通り「死ぬほど」恐ろしいことで。

そこでオレは初めて、ああ死とは怖ろしいものだなと認識し直した。
オレは「死」に慣れていたらしい。
おかしなことだが、自分のではなくこの目の前の少女のそれで気付いて、恐れた。

――自分が実際に死ぬ現実より、夢のなかのなまえが死ぬ幻の方を恐怖するとは。
胸奥から澱んだものを全て吐き出すように深々と溜め息をつきながら、随分と丸くなったものだと目の端を歪めた。

目の前でのんきに鼻歌を歌いながら玩具で遊ぶなまえは、肌をやわらかく赤く染め、生きているだとか死ぬだとかそんなことを考えるのもバカらしくなるほど楽しげだ。
ごちゃごちゃ考えているのも疲れた。
思いっきり脱力し、細い肩に額を乗せ、ただぐったりとなまえの匂いで肺を満たす。

「……ディアボロさん、あんまり死なないでくださいね」
「死のうと思って自主的に死んだことはないんだがな……」

何も聞かないが、だいたいのことは察したらしいなまえが小さく呟いた。
自嘲の色を滲ませながらそう返すと、肩越しに振りむいたなまえは眉を下げて悲しげに笑う。
その白い首筋を流れた水滴が、ひどく煽情的に見えた。

「生き返るって言われても、怖いし、さみしいし、もし戻ってくれなかったらって思うと、毎日毎日苦しいんです。
……わたしにそんな思いを、させないで」

そう囁いたなまえははっとするほど美しく、オレはまた何も言えなくなり、ただ強く強く抱き締めた。

「なまえ」
「はい」
「……なまえ、」
「はい」

出来ない約束はしない主義だ。
オレは祈るような気持ちで、その背に口付けた。
少し歯を立てれば、目の覚めるようなその白い肌に、オレの痕がよく映えた。

「……善処する」
「はい。わたしもわがまま言って、ごめんなさい」

狭い湯船のなかでくるりと反転してこちらを向いたなまえは、子供が泣くのを懸命に耐えるような情けない顔をしていた。
正面から抱き締め、その細い腰を支えながら、小さくありがとうと呟く。
ゼロ距離のそれは容易く耳に届いたようで、なまえはまた淡く微笑むと、唇を重ね合わせた。

火傷するほど熱い口内とオレ好みに動いて絡む舌にどうしようもなく煽られ、生きているということを確認しながらその滑らかな背を撫で上げた。

ロマンツェ・アダージョ

背中へのキスは確認、唇へのキスは愛情。
(2014.06.28)
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