日曜日のお昼下がり。
洗濯物は気持ち良く風になびき、「うららか」という言葉がぴったりな午後。
わたしはうつらうつらしながら、もはや習慣となっている吉良さんにネイルチェックしてもらうのをぼんやりと見ていた。
週に一度、甘皮の処理やマニキュアの塗り直しをしてもらうのが習慣だなんて贅沢だなあと思うのだけれど、やっている吉良さんは週で一番楽しそうなのでそのままお付き合いさせていただいている。
吉良さんはわたしの手に、まるで容易く粉々に割れてしまう華奢なワイングラスか何かを扱うみたいに恭しく、丁寧に触れる。
整った容貌をした年上の男のひとにそうして触れられるのは、なぜだか妙に胸がどきどきしてしまう。
わたしはそれを気取られないように、なんでもない顔をして、少しだけ笑みを浮かべて手を差し出す。

それにしても、普段の基礎のケアをしてもらっているときもそうだけど、自分の手がきれいになっていくのを見るのはなかなか気持ち良いものだ。幸せ。

「今度はどの色にするかい?」
「んん……先週は濃い紺色でしたし、全然違う色も良いかなって思うんですけど……。ピンクとか黄色とか」
「そうだね、君の指には淡い色がよく似合う」

プロのスタイリストさん顔負けのネイルボックスから出てくる可愛らしい色の瓶を見ながら、しみじみと自分の手を眺める。
よくもまあこれだけキレイになったものだ。

一人暮らしをしていた頃はもちろん家事は自分でしていて、ケアもろくにしていなかったからぼろぼろに手荒れしていたし、マニキュアすら塗っていないわ爪はガタガタだったわで、お世辞にもきれいとは言い難かった。
それが今やこれだけきれいになったのだから、吉良さんには頭が上がらない。
わたしのこの手は、ひとえに吉良さんの努力の賜物である。

開け放した窓から、ふわりと爽やかな風が吹き込んでくる。
ふあ、とあくびをひとつ。
こんなに気持ちの良いお天気なんだ、眠たくなっても仕方ないよね。
わたしの手を握り楽しそうな様子の、傍目には至って善良そうに見える怖ろしい殺人鬼に手を預けたまま、わたしはちょっとだけお昼寝することにした。




「……なまえ?」

どの色にしようかとマニキュアの瓶を並べているところで、目の前に座るなまえがテーブルに伏せて眠っていることに気付いた。
すうすうと安らかな寝息が聞こえ、その健やかさ、無垢さに人知れず笑みがこぼれた。
確かにこの陽気なら、眠たくなるのも頷けるというものだ。
昨夜もここの同居人共に付き合わされていたようだし。

マニキュアを並べていた手を止め、眠りの淵に沈み、力の抜けた少女の手を優しく撫でる。
きめこまやかな肌、細く白い手首と指、小さく揃った愛らしい爪。
昔より見違えるほど美しくなったなまえの手に、充足感というのだろうか、達成感のようなものを覚えて、感嘆の溜め息をゆっくりと吐いた。

以前は美しい手を「彼女」にしてやっていたが、今はこうして「育てる」喜びというヤツに目覚めてしまってからというもの、この手は私が作ったものだという支配欲と達成感をくすぐられてしまって仕方がなかった。
腐敗することもなく、手をかければかけるだけ応えてくれるというのもなかなか良いものだ。
私によって思うがままにされる手指に、思わず笑みが深まった。

そうして触れ撫でながら、それにしても、と首を傾げた。
私がどういう性質と性癖を持った人間かよく知っているというのに、よくもまあこうして寝ていられるものだと呆れかえる。
私に殺されるかもしれないとは考えないのだろうか。
無防備に晒された手首にぐるりと指をまわす。
なまえの細い手首は、簡単に片手に収まった。
意識するより前に、キラークイーンが音もなく傍らに現出する。
薄く笑んでやわらかな指先に口付けた。

「……んん、」

ふいに小さく声を漏らして身動ぎしたなまえの顔に、さらりと髪が流れかかる。
指先から唇を離し、夜色の髪を指先で除けて耳にかけてやる。
そのまま触り心地の良い髪を毛先まで梳くと、彼女は眠ったままゆんわりと微笑んだ。
邪気のない安心しきったその寝顔を見ていると、ふと、そういえば以前「吉良さんはお母さんみたいですね」と言われたことを唐突に思い出した。
どうして今思い出してしまったのか理解できなかったが、もしかしたら、その無垢さが血に汚れた私の手のなかにあるということが、ささくれを引っ掻かれるような不快感を生み出していたのかもしれなかった。
にわかに苦虫を噛んだように顔が歪むのを感じる。

「――なあ、君は知っているかい?」

胴体という付属品から切り離された「彼女」のように、無言の手をもてあそびながら、再び爪先へ唇を寄せて尋ねる。
あれはいつだったか、ある晩ふと目を覚ますと、なまえがディエゴに組み敷かれ、その口にはディアボロのモノを咥え込んでいるという光景を目撃したことがある。
別にそのような現場を目にするのは初めてではなかったし、彼女が本気で嫌がっていない限りは止めもしていなかったが、そこで私が目を見張ったのは、真っ最中である彼らではなく、自分自身に対してだった。

このほどの衝撃を覚えるのは、生涯であれが最初で最後だろうと私は本気で考えている。
なまえの手は隠れて見えなかったが、ちらりと見えた表情に、私は身体が瞬間的に熱くなったのを感じたのだ。
手は見えていない。
一回りも年の離れた少女の、快楽にとろけきったいかがわしい「顔」を見ただけ。
これは私にとって、他人には到底理解されないだろう驚きに他ならなかった。
私の心を動かす対象は、生まれてこの方「手」のみだったというのに、後から関係のない他の女でも試してみたのだが、そう、私は手ではなく、この「なまえ」という人間に欲情しているらしかった。
これを驚きと言わず、なんと言おうか。
そのときの衝動を思い出し、無意識にごくりと喉が鳴った。
――私は、君の母親なんかにはならないよ。
そんな存在だったら、こんな欲望を抱きはしないだろうから。
なまえ、なまえ、ああ、君は私に様々なことを教え、齎してくれる。

「なまえ、」

目の前にある無防備に捧げられた手を引き、私は衝動のままにその手首にがぶりと噛み付いた。

「――いっ、たぁぁぁ! 痛い! えっ、あ、吉良さん!? な、なにして、」

鋭い痛みで起きたなまえが目を白黒させ問うてくるのを、何も言わずに肩をすくめて無視をした。
口を閉じたまま、私が選んだなまえの手によく似合うだろうシュガーピンクのマニキュアを彼女の爪に乗せていく。

「うう……なにも噛み付くことないじゃないですかぁ……」

涙目でぼそぼそと文句を言いながら、それでもなまえは従順に、私が塗りやすいように指を伸ばした。
夜色の髪を宥めるように、あやすように撫でた。
私は至極真っ当そうな顔で、「眠っていたら、ふとした時に動いてズレてしまうかもしれないだろう」とうそぶいた。
そんな詭弁になまえは「それはそうかもしれませんけど、」と幾分か納得しかねるといった表情をしながら、されるがまま口をつぐんだ。
痛みで瞳を潤ませたまま。

――君の顔を見て、会話をしながらこうしていたかったと言っても、信じてもらえるか危ういな。
なあ、なまえ。

手首に付いた自分の歯型に、どうしようもなく興奮した。

砂糖の花

手首へのキスは欲望。(キスじゃないけど!)
(2014.06.20)
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