「はあ、しあわせ……」

だらしなくゆるゆると頬がゆるんでしまうのを自覚しつつ、はあ、と幸せな溜め息をついた。
普段あまりしない贅沢に(主にいつだって切迫している家計のせいで)、たまにはこういうのもいいなあと顔同様ゆるんだ頭で考える。

目の前の愛らしいお皿に鎮座しているのは、季節限定のモンブランのケーキ。
抑えられた甘さとやわらかな口当たりは、思わずうっとりしてしまうほど絶妙なバランスで。
テレビで話題になっていたそれがどうしても食べたくて、部屋の外に出たがらないディアボロさんを宥めすかし、このスイーツ店まで引っ張ってきたかいがあるというものだ。

引っ張り出してきた最終手段、トドメの一言、そりゃあもう重い彼の腰を上げさせた「……ディアボロさんは、わたしとデート、したくないですか……?」というセリフは(悲しげな表情を浮かべつつってところがポイント)、正直また使えるなと思った。
躊躇いを見せたものの数瞬の後、胸奥のものを吐き出すかのような深い深い溜め息をついたディアボロさんに対し、わたしが内心ガッツポーズをしていたのは内緒である。

当のディアボロさんはといえば、なみなみ紅茶の注がれたカップへたっぷりの砂糖を投入するところで。
……見るからに甘そうなんですけど。
お茶の色合いも楽しむことの出来るガラスのティーポットから自分のカップへ、澄んだオレンジ色の液体を注ぎ足しつつ呟く。

「……甘すぎじゃないですか、それ」
「そうか?」

スプーン2杯目の砂糖を突っ込みながら、ディアボロさんが首を傾げる。
色や香りを楽しむため、ティーカップは口が大きく底が浅い。
小さなティースプーンとはいえ、2杯も入れればもう充分甘いんじゃないだろうか。

……わたしだったら、甘いケーキを食べているときは、苦めのコーヒーを合わせたいけどなあ……。
砂糖もミルクも足していないストレートの紅茶を飲みながら、立ち上る湯気のようにゆらゆらした思考でそんなことを思う。
まあ、ひとの嗜好はひとそれぞれだけど。

大きめのポットでサーブされるということで、ふたりで選んだものはオーソドックスにダージリン。
わたしはコーヒーでも良かったのだけれど、ディアボロさんが紅茶を推すものだから。
あたたかなそれをまたひとくち啜り、そういえば、と首を傾げた。

「イタリアってエスプレッソとかカプチーノのイメージがありますけど、ディアボロさんってあんまりコーヒー飲まないですよね。そういえば見たことない気がします」

ディアボロさんは手にしていたカップをソーサーに戻し、思案顔で頬杖をついた。
伏せた睫毛が頬に影を落とす。

「まあな、確かに紅茶をよく飲んでるが、日本で飲むなら紅茶だな。あっちで飲むより美味い。カフェやコーヒーは飲めたもんじゃあないが」
「……ああ、なるほど」

確かに本場の味を熟知しているなら、日本人の舌に合うよう多少手を加えられたものはお気に召さないだろう。
彼の明るいブーゲンビリア色の髪がさらりと肩から流れた。
ディアボロさんが着ている真っ黒なチェスターコートはドッピオくんが選んだもので、さすがよく分かっていらっしゃるというかなんというか。
……うっかり胸がときめいてしまう程度にはよく似合っている。
思案している表情を崩さないまま、ゆるやかに流し目をひとつくれた顔は、ああ、そういえばこのひと格好良いんだったと再認識させるには威力が大きすぎて。

……もしかしたらいつもと違ってまともな服装をしているっていう点が、最たる要因かもしれないけれど。
家計が苦しいっていうのに、衣類に限らず、みんなが選ぶものはどれも質の良いものばかりなんだから本当に腹立たしい。
ぽっと頬を染めて横を通り過ぎるウェイトレスのお姉さんに、あなたが見惚れているこのひと、家では夏は半裸だし冬は変なシャツしか着ていませんよ、なんて教えたくなってくる。

品良く紅茶を飲んでいるディアボロさんを前に、このひといつもこうだったら格好良いのになあとうろんに考えつつ、最後に食べるつもりで除けていたマロングラッセをフォークの先でつっついた。
やっぱりモンブランのてっぺんには、マロングラッセか甘露煮の栗がなきゃいけないよね。

「なまえ、食わないならその栗くれ」

……やっぱりいつもとあんまり変わらなかった。
黙ってたら良いのになあ……。
いや、いつも家でやるみたいに、なにも言わずわたしが食べているものを横からかっ攫っていくよりはマシだけど。
ん、と当たり前のような顔をしてこちらを見やるディアボロさんに、肩をすくめた。

「……そんなこと言ってると、このフォークが今日の死因になりますよ」

行儀が悪いけれど、小さなフォークを差し向けて脅すように揺らす。
食い意地が張っていると思われても構わない。
だってそんなこと今更気にする間柄でもないし。
牽制するよう上目で睨めば、ディアボロさんは小さく笑いながら降参と言わんばかりに手を挙げた。


・・・



帰り道、濃紺がその比重を増した空を見上げる。
暗い色合いのせいではやく帰らなきゃと心は急くものの、時計を見ればまだそう焦るほどの時刻でもなく。

日が沈むの、はやくなったなあ。
ついでに、吹き抜ける風はとても冷たい。
いつもより紅潮した指先を、きゅ、と握り込めば、感じるてのひらとの温度差に、随分と冷えていることに今更ながらに驚く。

はあ、と息を吐いた。
いまのところまだその息は色を帯びてはいないけれど、そのうち白い吐息が口からこぼれるようになるんだろう。
少し前を歩いていたディアボロさんのコートの袖をゆるく掴んだ。
この季節、風の冷たさは無意識にぎゅっと首を縮こめたくなるほどだから、この程度のわがままは許されると思いたい。

「ね、ディアボロさん」

どうせ頬を撫でられるのなら、冷たい風じゃなくて暖かなてのひらがいいなあ、なんて。
そんなことを考えながら、振り向いたディアボロさんへにこにこ笑って両手を伸ばす。
わたしがなにを求めているかすぐに察してくれたらしいディアボロさんは、しょうがないなと言わんばかりに肩をすくめて(でも唇の端がゆるんでいるのをわたしは見逃さなかった)、すぐに正面から抱き締めてくれた。

「はあ……ディアボロさんあったかい……」
「そんなことよりオレは死ぬ前にさっさと帰りたいんだが」

薄い溜め息と一緒に吐き出された言葉は恐ろしく物騒なもので、あくまでも軽い口調だったけれど、紛れもなくディアボロさんの本心なんだろう。
確かにいつどうやって死んでしまうか分からないなか、こうして付き合ってくれただけでどれだけ優しいか。
ゆるむ口を隠すように、背に回した腕の力を強める。
本当にこのひとはわたしに甘い。

ディアボロさんの言うとおり、はやく帰った方が良いとは思うものの。
わたしより低めではあるけれど、抱き締めてくれるぬくもりはちょっとだけ駄々をこねてしまいたくなるほどに離れがたくて。
コートをつかむ手の力をほんの僅かに強める。

「んー……じゃあ、キスしてくれたら離れてあげます」

胸板へと額を擦り付けながら呟けば、頭上から小さな溜め息がひとつ落ちてきた。
……なんだ。ご不満でもあるのか。そんなに面倒なことを言ったつもりはないんですけど。
胸元に顔をうずめたまま、む、と口をへの字に曲げる。
文句のひとつでも向けようかと口を開きかけたところで、まるで見計らったようにディアボロさんの低い笑い声が降ってきた。

「それじゃあいつまでも経ってもキス出来ないだろう、なまえ?」

つまり、それは。
思わず顔を上げれば、にやりと効果音が聞こえてきそうなほど愉快そうに笑うディアボロさんのお顔が、わたしを真っ直ぐに見下ろしていた。

……あれ、このひとこんなに格好良かったっけ……いや、ちゃんと見目がとても整っていることはとっくに知っているつもりだけれども。
本日何度目かの戸惑いと、心音が一拍跳ねるかのような胸の高鳴りに、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。

「っは、なまえ、顔が赤いぞ」
「……寒いからじゃ、ないですかね……」

このイタリア人め……という恨み言は、開きかけた唇の端を噛むだけに留め、大人しく飲み込んだ。
じわじわと頬に熱が集まっていく。
羞恥をごまかすように吐いた息は、さっきよりも格段に熱を帯びていることに気付いた。
いい加減わたしもこういう不意討ちに慣れたいんだけど、残念ながらいまのところ上手く勝てた試しがない。
みんなみんな、わたしを翻弄して心臓でも止めるつもりなんだろうか。

やられっぱなしなのが悔しくて、長いブーゲンビリア色の髪へ指をからませ顔を引き寄せる。
しかしながらわたしの意図なんてとっくにお見通しだったんだろう、わたしの赤い顔を見て上機嫌に弧を描くディアボロさんの唇は依然崩れることはなく、寧ろますます笑みは深まるばかりだった。

彼の予測に沿った行動を取るのは悔しいけれど。
お望み通り、引き寄せた唇へ口付ける。
せめて少しでも、わたしのこの熱が移ってしまいますようにと祈りながら。

あまやかなる午睡
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