月が明るく輝き、星のきらめきすら霞むような夜だった。
空は切り裂くような月の光が支配し、そのコントラストによっていつもより夜空の濃さを深めているような、暗く、明るい、夜。

百年の時を経た吸血鬼はその身を窓辺に据え、四角く区切られたそこからその月を眺めていた。
まるでそれは完成された神聖な宗教画のようでもあったし、同時に、いかがわしい魔道書に載せられた人々を堕落させる悪魔の図のようでもあった。

DIOは明るく輝く月から目を離し、手元の分厚い本に視線を戻した。
折角の珍しい静かな夜だ、有効に使わねばと文字を追う。
いつもならば本を読むどころではないここも、今は微かに寝息が聞こえるのみだ。
文字の羅列を追うだけのこの行為は果ても知らぬ世界を見せ、誘い、自己の深層を更に浮き彫りにして研鑽を促す。
吸血鬼はまるで伴侶の肌を愛でるように、薄く微笑を浮かべて白いページの縁を撫でた。
そうしてその行為に耽溺していると。

「っ、う……うう、」

小さな夜の静寂を破る、細い声。
呻くような苦しげなそれを耳にした瞬間、DIOは先程まで愛でていた本を閉じ、音の発信源を腕の中に収めた。
彼女は特段華奢で線が細いという訳ではなかったが、それでも、容易に壊してしまいそうなほどなまえは彼に比べてひどく小さく、軽く、脆く、儚かった。

少女を簡単に抱き上げて、座っていた自らの上に横抱きにするとその白い頬を指先でゆっくりと撫ぜる。

「んん……ぁ、でぃお、さん……?」

ゆるやかに目を開き、なまえが小さく唇をわななかせる。
白い目蓋の下に隠されていた夜色の瞳が、月の光を受けて濡れたように清らかに輝いた。
その淡く赤らんだ目尻に小さく己の唇を落とすと、少女は安心したように顔をほころばせた。
向けられる打算のない爛漫な笑みは、胸奥の深いところをまろやかに擽るようにやわらかなもので、吸血鬼は衝動のままになまえの丸い頬をゆるく撫でる。
彼女は幸せそうにその行為を甘受して、微睡むようにゆんわりと微笑んだ。

幼子の浮かべる純真そのものといった表情を見て、らしくもなくホッとした自分にひっそりとDIOは自嘲めいた笑みを浮かべた。
このDIOがたかが女の一人に心を砕き、あまつさえ慰める真似をするとは、と。

なまえはこうして稀に夜にうなされる。
以前には、父と母を呼びながら泣いてさえいた。
今宵のような小さな夜、小さな唇がぽつりぽつりと紡ぐ過去の話。
両親を亡くしたこと、ここに来るまで独りで暮らしていたこと、たまにこうして恐ろしい夢を見ることなどを聞いた。
その時は親が死んだ程度で貧弱貧弱と嘲笑ったものだったが、それ以来うなされているなまえを起こすことは彼の役割になった。

それにしても世界中でどれだけ探したとしても、己れを搾取する吸血鬼の腕の中でこれほど安心しきった顔をする人間はいないだろう。
心の底から全幅の信頼を寄せ、何があっても自分を庇護してくれることを疑わない瞳だ。
深い夜色の虹彩に彼女がそのような色を浮かべるということを、一体どれだけの者が知っているだろうか。

彼がその甘やかな瞳に耽溺し、なめらかな頬を撫で続けていると、それを享受しながらなまえが月を見上げてぽつりと呟いた。

「……まるでDIOさんは、月のようですね」
「どうした、随分と叙情的なことを言うじゃあないか」
「ふふ、思ったことを言っただけですよ」

月の光に照らされたなまえはいつもの彼女とは別人のように儚げだった。
まるで穢れを知らない清らかな聖女のようにも見えるが、しかしその首筋や胸元には、己れが残した淫らな吸い痕や鬱血痕がいくつも覗いている。
その酷い落差に、ぐらりと腹奥でのたうつような背徳感と征服欲を覚えた。

自らの噛み痕をくっきりと残す細い首筋に、軽く口付けた。
くすぐったそうに小さく笑ったなまえの熱は、溺れてしまうのではと危惧するほどに甘やかで。
地に落としてしまわないよう、この夜空に浮かべるように、そっと呟いた。

「このDIOがあの月のようだというならば、お前は夜のようだ」
「夜?」
「ああ、あの深い紺の夜空だ」

絹のようにたおやかな夜色の髪に指を通す。
なまえの身体はひどく彼に馴染んだ。
目も、唇も、肌も、髪も、匂いも、声も、体温でさえも、この女を愛しいと思わせた。
DIOは薄く微笑しながら胸中で問いかける。

――こんな感情を抱かせる女にも、そしてそう感じることが出来る自分自身に対してすらも、私が戸惑っていることにお前は気付いているか。

うずめていた白い首筋から顔を上げ、額と額を重ねて至近距離で夜のようにやわらかく囁く。

「光栄に思うが良い、なまえ」
「なにをですか?」

淡い桃色の唇に口付けを落とす。
それを甘受し、胸に頭を摺り寄せ安心しきって力を抜くなまえの髪をまた梳いた。

「このおれに愛しいという感情を教えたのだ、光栄に他ならんだろう?」

愉悦を含んで告げられた言葉に、なまえは弾かれたように顔を上げた。
驚きながらも光が灯ったように赤く染まる表情の女に、気分を良くした男は低く笑う。
まるで世界を手に入れたかのような征服感と昂揚。
やわらかな夜を満たすように、吸血鬼は低い笑い声をこぼし、その腕の拘束を一層強めた。
まるで、月が、自らを存在させる夜を、決して逃がさぬように、きつく。

優しい夜を統べる

首筋のキスは執着、唇へのキスは愛情。
(2014.06.14)
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