溜め息をつきたくなるのをなんとか堪えながら、なまえは目の前の美しい女性をおずおずと見上げた。
きっちりと整えられた服装、ファッションモデルのような長身に、均整の取れた長い手足。
明るい栗色の髪を背に流し、ぱりっとしたスーツを着用して、金がかかっているのを露呈するような、そしてそれを誇示する意志の強さを持った女性が、高圧的な微笑みを浮かべて立っていた。
一分の隙もない容姿や纏う雰囲気、表情から、容易にプライドの高さが窺える。

どうやらDIOが戯れに手を出した女性のひとりが、方法や手段は不明だがここを探し出して訪ねてきたらしい。
彼女の口上からそれを理解したなまえは、眼前の女性に気付かれないよう小さく肩を落とした。
ひとり帰宅したなまえが長身の美女から呼び止められたのは、住んでいる小さく古ぼけたアパートのすぐ下。
あとほんの30秒でも猶予があれば、ドアを開けて狭苦しいいつもの部屋に駆け込めたというのに。
なまえは、もう、DIOさんのせいで、と僅かに唇を尖らせた。

女性をつまみ食いしていたこと自体はともかく、面倒を嫌う吉良が、この住居が一般人などにバレてはならないと強く言っていたのを忘れていたのだろうか。
なまえは心の中で、DIOさんってたまにそういう詰めの甘いところがあるよね、とこっそり呟いた。
……吉良さんが帰ってくるまでにけりを付けられたら良いんだけど。

「……ちょっと、ちゃんと聞いてるの?」

女の尖ったヒールが、かつかつと神経質な音を立てた。

「まさか、あなた程度のつまらない女が、あの方に相応しいと本気で思ってる訳じゃあないわよね?」

聞き分けの悪い子供に言い諭すように丁寧な口調。
しかしその対極にあるような刺々しさで、なまえに言葉は向けられる。

明るい栗色の髪をかき上げてフンと鼻で笑う女の顔をぼんやり見ながら、なまえは確かにこの人の言う通りだろうなと思った。
それは存外すとんと胸のなかに落ちてくる。
凡庸な自分と、際立って見目良い彼女ならば、彼の隣に立って相応しいのは後者だと、十人に問えば十人がそう答えるだろう。
とはいえ心の奥底、やわらかな部分に僅かな引っかかりを覚えはしたものの、だからといってなまえが悲観したり、無力感の淵に沈み込んでしまったりということはなかった。
なぜなら、気に病んで涙でも流す暇があるのならば、相応に近くなるよう努めた方が余程無駄がなく合理的だろうと以前笑っていたのは、この現状をつくりだした当のDIOだったからだ。
なまえはその言葉を強く覚えていた。

「……あの、」
「なあに、何か反論でもあるの? まさかねえ、身の程知らずすぎるもの」
「……いえ、反論って訳じゃないですけど……」

……いま思い返しても、自分と釣り合うよう努力しろだなんて、傲慢すぎるよなあ。
そうは思うものの、口にしたのがあの吸血鬼ならば、なんとなく納得してしまうような気がしてしまうのがまた実に腹立たしい。
嘲りの面差しで自分を見ている女性を前に、またなまえは薄く吐息を漏らした。

「――相応しくないって、悩んでる暇があったら……少しでも、釣り合えるように努力した方が、良いと思いませんか」

出来るだけ不快感を与えないよう、そろりそろりとゆっくり呟けば、その言葉を聞いた途端、女が顔色をさっと変えた。
意志の強そうな眉が不快げに跳ね上がり、余裕たっぷりだった顔が憤然と怒りに染まる。
どうやら、お前は努力不足だと言ったと受け取られてしまったらしい。
色が変わるほど握り締められた手は白くなり、小刻みに震えていた。
そんなつもりじゃなかったんだけどな、と、いっそ泣き出してしまいたくなるのを堪えつつ、なまえはちらりとアパートの部屋を見上げる。
この喧騒を聞いて誰か助けてくれたって良いんじゃないのか。
そもそもわたしは関係ないんだし、と。

しかし、他のことを考えている、そんななまえの心ここにあらずな態度が余程腹に据えかねたのか。
大きく舌打ちしたかと思えば、唐突に女が一歩踏み出した。
腕をバッと大きく振り上げる。
向けられる、はっきりとした敵意と悪意。
不快感と恐怖で、なまえの肌がざわりと粟立った。
反射的に二、三歩後ずさる。
次の瞬間、なまえめがけて勢いよく振り下ろされた腕は、空を切った。
特段、反射神経や動体視力が優れているという訳ではないものの、それほど分かりやすく大仰な仕草だと避けることはなまえにも容易だった。

「……あ、あなたッ……!」

しかし避けられた方の女は、先端の尖った華奢なスティレットヒールのせいかバランスを崩してよろけてしまい、なまえに対してますます憎悪を募らせたようだった。
激情に駆られた甲高い声が鋭く響く。
ぎり、と噛み締めた歯の音も聞こえてきそうなほど。
元が整った容貌なだけに、崩れた形相はぞっとするほど恐ろしい。

肩で大きく息をする女性を前に、なまえは平手打ちから避けることが出来て胸を撫で下ろしていた。
なまえを傷付けるためだけに投げ出された手。
もし避けきれず、殴打されていたらと思うと恐ろしい。
彼女の爪にデコレーションされた派手なネイルチップが肌に当たりでもすれば、流血を伴うレベルでの怪我をするのは免れなかっただろう。

なまえは間合いを計るようにじりじりと後退しながら、真っ直ぐに女性の瞳を見据えて呟いた。
口元には、ごく微かに滲んだ笑み。

「……困ります。わたしのこの体が、誰のものだと思っているんですか」

さらりと、まるで日が沈むのは西の方角だと答えるように、平然とした顔をして。
当たり前のことを伝えるように事もなげに言い切ったなまえの言葉や表情に、女の顔色は怒りのあまり、真っ赤を通り越して蒼白にすらなっていた。

言ってしまった、と、なまえはほんの少しだけ後悔する。
火に油を注ぐ結果になると分かってはいたが、それでも。
なまえは言わずにいられなかった。
大切なひとの大切なものを大切にしようという感覚は、程度の差こそあれ誰しも持ちえる情動のひとつだが、しかし彼女にとってそれは、この世界に来て以来、住人たちによって殊更強く根付いた価値観へとなっていた。
つまりは自分を大切にするということ。
それは彼女自身のためでもあり、彼らのためでもあった。
躾けられた愛玩動物が主人の言うことを守るように、なまえは自分の生殺与奪の権は彼らのものだときちんと理解していた。

何より、そのときなまえが強く言葉を発することが出来たのは、

「――遅すぎ」
「仕方ないだろう。まったく、この時期は日が長すぎるな」

いさかいの原因であるDIOがやっと姿を見せたからだった。
ようやく日が没し夜がはじまり、まるで太陽の代わりに光を集めたような金の髪を揺らして吸血鬼がにやにやと笑っている。
む、と口を尖らせているなまえの腰を、DIOは当然のように抱き寄せた。
宥めるように彼女の頭に優しく口付けを落とす。
なまえはといえば、うだるように暑いなか彼の低い体温が心地よく、不機嫌そうな表情を崩さないものの大人しくそこに収まった。
否、体温が心地よいからというのは嘘ではないものの、それは最たる要因ではなく。

「ッ……!」

屈辱のあまり声を発することも出来ず、憤怒によりわなわなと震えている女を、ぼんやりと眺める。
整った顔は許容量を超えた怒りのあまり色をなくし、紙のように白く染まっていた。
それを見て、なまえは溜め息を吐く。
見るからにプライドの高そうな彼女が、男を捜し求めわざわざ脚を運んで会いに来たというのに、当の人物は眼中にないと言わんばかりに他の女を抱いているとくれば怒るのも無理はない。

それでもその逞しい腕の中から逃げ出さなかったのは、やはり。

「……ゆうえつかん、かなあ……」

ぽつりと吐息混じりに吐いた言葉は、ぼんやり夜に滲んで消えた。
存外、自分は性格の悪い人間だったらしい。
それとも彼らと過ごしていて、知らず知らずのうちに感化されてしまったのか。
憂えた相好のなまえに、DIOが小首を傾げる。

「どうした、なまえ」
「いーえ、なんでもないです。……それじゃ、わたしお先に失礼するんで後はお二人でどうぞ」
「随分とつれないことを言うんだな、愛しい者をこの場に残していくと?」
「DIOさんとそのひととの話じゃないですか、わたしは関係ないんで巻き込まないでください」

我が物顔で腰を抱いていた彼の腕から、するりと逃げ出す。
ごゆっくりーと声をかけ、部屋に戻ろうとしたなまえの背に、笑っているのを隠そうともしない揶揄を含んだDIOの声が投げかけられた。

「……ふふ、なまえ、妬いたか?」

男の声は憎たらしいほど愉快げに、それでいて恐ろしく甘ったるく。
ぞわぞわと背筋を撫でるような、蠱惑的な低い声が鼓膜を震わせる。
どんな女でも魅了されるに違いない声と笑み。
しかしなまえはそれに動じることなく、憮然とした面差しを崩さないまま振り返って僅かに首を傾げた。
小さく口を開く。
ただの人間に比べ、非常に耳聡い彼にだけ聞こえるように。
そっと。

「わたしと、そちらのお姉さん。――どちらが……よかった、ですか」

眼差しは静かに、凪いだ夜を連想させるように清純に。
口元には微かに、やわらかな微笑が浮かんでいる。
DIOは、なまえと目の前の女の、血の味、香り、口触り、温度、そして抱き心地や、与え、与えられた快楽の陶酔を思い返し比べて――否、わざわざ比較するまでもなく純然たる事実として、考えるまでもなく即答した。

「――無論、お前の足元にも……いや、影にも及ばんな」

それを聞いて、少女は笑みを深めた。
無垢な桃色の唇が、やわらかくほころぶ。
純真な夜色の瞳は、光を湛えて愛おしげに細められた。
その笑みは否応がなしに目を奪われるほどどこまでも愛らしく、それでいて見る者の背筋を凍らせるほど途方もなく傲慢で。

「……じゃあ、妬いてなんか、あげません」

涼やかな声が空気を震わす。
一言一言区切るようにゆっくり囁かれた言葉は、ゆんわりと夜に浮かぶように溶けた。
夜ご飯までには戻ってくださいねと続け、背を向けて今度こそ彼女は部屋へと入っていった。

なまえの言葉を聞き、DIOは一瞬見開いていた目を夜空に浮かぶ三日月のようににんまりと細める。

「――ふふ、良い女だろう?」

歓喜に近い愉悦を含んだ声で、男がひとり呟く。
感に堪えないとでも言いたげに爛れた息を細く吐き出した。
呆然と立ち尽くしている、名前も覚えていない女へ眼差しをひとつ送ると、DIOは笑みを深めた。

「さて、そろそろ私も戻ろう。はやくなまえの機嫌を取りに行かねば。そうは見えないが、あの様子では随分とむくれているのでね」

愛らしいだろう? と、くつくつと低く笑いながら、吸血鬼のルビーのような虹彩が強く光る。
にたりと笑んだ瞳は、強制的にぬめる鮮血を連想させた。
強く本能に訴えかける、動物の根源的な恐ろしさ。
女は魅入られてしまったかのように目を逸らすことが出来ず、しかし同時に、今まで経験したことのないおぞましい恐怖に戦慄していた。
つい、と、彼から手を伸ばされ、何かを考える余裕も思考の隙間もなく、反射的にその手へ触れようと同じように手を伸ばした、瞬間。

「っ、な、――っ」

動揺と緊張で無様に上ずった女の声が、呼吸音ごとふいに消える。
後に残ったのは痛いほどの寂静ばかり。
夜はどこまでも静かに広がっている。
そしてぐったりと昏倒した女の体を手に、DIOはひとり、困ったとでも言わんばかりに呟いた。

「――ふむ、死体をどうするかは考えていなかったな……」

秘めやかに、わたしはあなたのもの




(※NGパターン)

「……それじゃ、わたしお先に失礼するんで後はお二人でどうぞ」
「随分とつれないことを言うんだな、愛しい者をこの場に残していくと?」
「DIOさんとその方との話じゃないですか、わたしは関係ないんで巻き込まないでください」
「そう拗ねるんじゃあない。どうすれば機嫌を直してもらえるのか、この私に教えてくれないか?」
「……キス、してくれたら。……許してあげます」
「……ふふ、可愛らしいことを言う」

「なに当たり前の顔して抱き寄せてくるんですか。キスしてください。もちろん地面にですよ、分かります? じーめーん」
「……おいちょっと待て」

「あ、お姉さん、このままだと面倒ごとにお姉さんが巻き込まれて大変なことになると思うので、今すぐお帰りになった方が良いと思います」
「は……?」
「すみません、わたしの言うことなんか聞きたくないとは思うんですけど……その方があなたのためなんです」
「え、」
「もう暗いですし、お姉さんとてもきれいなのでお気を付けて」
「……わ、分かったわ……」

「はあ、分かってもらえて良かった……。DIOさん、つまみ食いはもうちょっと上手くやってくださいよ。前に吉良さんも家バレはだめって言ってたじゃないですか」
「なまえ、」
「何してるんですかDIOさん、暑いしはやく部屋に戻りたいんでさっさとしてください、ハイ土下座ーはーやーくー」
「W、WRYYYY……」



(2015.08.08)
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