〈ある日の夕方〉

「わ、美味しそう! 吉良さん、これどうしたんですか?」

なまえが目を輝かせて私を見上げた。
土産だと渡した菓子箱の包装をとき終え、いつものように差し出されたなまえの手に頬擦りしながら「ああそれね、」とおざなりに返す。
彼女の手に触れているときは、どうも思考が鈍って仕方がない。
なまえは私に左手を預けたまま、自由な右手で過剰包装されていた小さな化粧箱をためつすがめつしている。
菓子の整然と並んだ箱を放ってその右手も取り、彼女の両手を私の両頬にぴったりと添わせる。
ああ、幸せだ……。

「……もう、ちゃんと聞いてますか、吉良さん」

頬を膨らませたなまえが咎めるように言う。
弱い力で頬に爪を立てられ、その小さな痛みに、は、と熱い息を吐いた。
現実に戻すためには、その行為は正直なところ逆効果だと言わざるをえないが、なまえが続きを話せと上目に見てくるため会社での出来事を口にする。

「……同じ課の女性社員に貰ったんだ。この休みに、地方の実家に帰省したらしくてね。その土産に」
「え、ひとりひとりにですか? 大変ですね」
「いや、オフィスごとに、個別包装されたものをばらまいて配っていたんだが……私には後で別にこれをくれてね」

そうなんですかと、なまえが小さく呟く。
私はといえば、あの社員もどうせなら(キリが悪いとはいえ)9個入りのもの選んでくれれば良かったのにと浅く歎息していた。
うちにいる住人は9人。
それの対してこの菓子は10個入り。
残りのひとつを巡って、馬鹿らしいいさかいが起こることは想像に難くない。
平和的解決について考え込んでいると、いつの間にかなまえが表情を曇らせていた。
どうかしたのかと問おうとしたところで、何事もなかったかのように、なまえはぱっと笑顔を浮かべて私を見上げた。

「ね、吉良さん、これをくれたのってどんな方ですか?」
「どんなって言ってもね……。そうだな……関節の形が気に入らないし、指と爪の色が合っていないのもマイナスだ。それに手肌の荒れが気になる。乾燥してくすんでいたのは本当にいただけないね。君の手の方が、比べものにならないほど美しいよ」
「……いや……そういうこと聞きたかった訳じゃないんですけどね……」

なまえは苦笑しながら、労わるように私の頬を優しく撫でる。
会社でのどうでも良い出来事を回想したり、この先起こるだろう住人共の喧騒について頭を悩ませたりする暇があれば、彼女の手に頬擦りしている時間を少しでも堪能したい。
あたたかな掌に口付け、その感触にうっとりしていると、なまえは「明日、その方にありがとうございましたって伝えてくださいね」と愛らしく微笑んだ。




〈その日の深夜〉

「――ん? 何してるんだなまえ」
「あれ、ディアボロさん、起きてたんですね」

夜も更けた頃、深く寝入っているらしい吉良の布団の横になまえがいた。
それもなぜか妙に上機嫌で。
やわらかく口の端は緩み、丸い頬は昂揚のせいかうっすらと赤みが灯っていた
腰を引き寄せ、正面から抱き締めてこめかみに唇を落とす。
くすぐったそうに小さく身を捩ったなまえは満足そうに、ふふ、と笑った。

「……随分とご機嫌だな。何かあったのか?」
「んー……んふふ、内緒です」

無垢な笑顔はまるで悪戯が成功した子供のようだった。
オレの鎖骨に額を擦りつけるようにしながら笑い、なまえはいつものように、おやすみなさいとキスをねだった。




〈そして次の日の朝〉

「吉良さん、行ってらっしゃい!」

目が眩んでしまいそうな程の晴天。
それに負けないくらいに晴れ晴れとなまえが笑う。
普段から彼女は私を明るく見送ってくれているが、今日はいつにも増して元気が良いというかなんというか。

「……今日は何か楽しみな予定でもあるのかい」
「え? 今日? 何かありましたっけ?」

どうしてですかと、なまえはきょとんと目をしばたかせた。
明るい朝の光を浴びて、溌剌とした夜色の虹彩がきらきらと輝く。
無邪気に小首を傾げ、一心に私を見上げるなまえに、いや、と肩をすくめた。

「……ただ聞いてみただけさ。それじゃあ行ってくる」
「はい、お気を付けて。あ、昨日お菓子を下さった方に、ちゃんとお礼を言うの忘れないでくださいね」
「君も律儀だな……」

名残惜しく思いながら、なまえの細い指先に口付ける。
やわらかな手を握り締めたまま、くすぐったそうに微笑んだ彼女の目元にも唇を落とし、うんざりしてしまうような炎天の下、会社へと向かった。




〈その日の昼〉

「――ああ君、ちょっと良いかい」

昼休みが始まってすぐ。
廊下を歩いていると、例の社員を見かけ、今朝のなまえの言葉を思い出して呼び止めた。
声をかけられ分かりやすく舞い上がった様子の女へ、「昨日はありがとう」と続ける。

「美味しかったよ」
「吉良さんのお口に合ったなら、良かったです」

僅かに間延びした喋り方に、漠然と不快感を覚える。
次いで長い髪を耳にかけた女の手を見て、溜め息を吐きたくなるのをぐっと堪えた。
右手の人差し指と中指の先、爪のマニキュアがほんの少し剥げている。
色は薄く淡いピンク。
愛らしい色だが、(仕事上派手なネイルは難しいとはいえ)彼女の手ならもっと暗めの色、例えばピンク系ならクラレットやワインレッドなどの色が似合うだろうに。
そして昨日なまえにも言ったが、どうにも関節の形が気に入らない。
女を顔で選ぶ男にも好みのプロポーションというものがあるだろう、それと同じで私の求める容姿ではなかったというだけだ。
マニキュアの剥げ方から推察するに右利きか。
帰省したと言っていたし一人暮らしで自炊しているのだろう、手荒れしている。
とはいえ住人の多いあの家で家事全般をこなしているなまえの手は美しいのだから、これは目の前の女の努力不足と言わざるをえない。

これ以上この女に時間を割くのも勿体ない。
なまえの言う通りちゃんと謝辞は伝えたのだから、面倒だしさっさと切り上げようと「それじゃ、」と踵を返す。

「あっ、吉良さん、もし良ければ一緒に昼食でも、――っ!」

それまで無意味にぺちゃくちゃとやかましかった女の声が、ふいに途切れた。
突然下りた静寂に、肩越しに振り向いて目を眇めれば、化粧の濃い顔がさっと顔色を変えた。

「……なにか?」

苦虫を噛み潰したような女の表情に疑問を抱きつつも、さっさと解放してくれないかとイライラしながら言葉少なに促す。
すると憤然と顔を歪めていた女は、

「――いえ、別に」

失礼します、と言い捨てて足早に去っていった。
歩きづらそうな先端の尖ったヒールの音が、苛立ったようにカツカツと廊下に響く。
妙に耳につく神経質な音のせいで、自然と眉をひそめた。
残ったのは、食欲の失せるような濃く甘ったるい香水のにおいだけ。

早く解放されたいと願ってはいたが、予想外の反応と挙動のせいでしばらく呆然としていた。
溜め息をついてひとり呟く。

「……一体なんだったんだ」


〈そしてそしてその日の夕方〉

帰宅して玄関で靴を脱いでいると、酷い顔をしたディアボロが部屋から出てきた。
様子を見るにどうやらまた死んだらしい。
よくもまあ飽きないなと本人が聞いたら激昂するに違いないことを考えつつ、「なまえは?」と尋ねる。
帰宅するといつもならなまえがお帰りなさいと微笑んですぐに手を差し出してくれるというのに、どうして死にかけのような、いや、死んだばかりの不景気な顔をした男を見なければならないんだ。

「あー……確かジョースターの所へ行くと言ってたな。もう帰ってくる頃だと思うが」

ああそう、と、ネクタイを緩めながら適当に呟く。
……そういえばこのところネクタイをほどくのをなまえに任せっきりにしていたから、こうして自分で扱うのは久しぶりだ。
ここに来た当初はネクタイを結ぶのもほどくのも拙かった彼女だが、毎日繰り返してきた成果か、今ではどちらとも驚くほど上手くなった。

シャツのボタンを1つ、いつもならそこで手を止めるが、少し考えてあまりの暑さにもう1つ外す。
このところ本当に暑い。
もしかしたら目の前のこの男は熱中症で死んだのかもしれなかった。
そんなことを考えていると、水を飲み終えたらしいディアボロが顔を上げた。
知り合いでなければ出来るだけ近寄りたくはないほど派手な色の髪が一筋、頬に張り付いている。
こちらを見たかと思えば、呆気にとられたように目をしばたかせた。
……なんだその顔は。

「……吉良、お前もしかしてソレ、気が付いていないのか」
「はあ?」

突然何を言い出すんだ。
そう言外に顔を顰めれば、ディアボロは「昨日のなまえの様子はこれが原因か」とひとり呟いていた。
おい、ひとりで納得しているんじゃあない。
自分に関しているらしい事柄で、相手が理解していてこちらが把握できていないことほど、不愉快なものはない。
一思いに爆破してやろうか。
気が長い方ではないと自覚している私が舌打ちしながらキラークイーンを出せば、すぐにディアボロは降参と言わんばかりに片手をひらりと振った。

「鏡を見てこい、その方が早い」

自分の首をとんとんと指で指し示しながら愉快げに笑っている男の顔が、なんとなく癪に障る。
やはり爆破しようかとも思ったが、ただでさえ暑いのに無駄な労力を費やすのが面倒でやめた。




〈その直後〉

洗面台で手を洗うついでに、鏡に映った自分の首元を見る。
ディアボロが指さしていたのは、確かシャツの襟の上辺りだっただろうか。
今朝も同じ鏡で見た、何の変哲もない自分のパーツ。
特にいつもと変わりないように思うがなんのことだろうかと首を捻った際、ようやく気付いた。

「……これか……」

耳の後ろ、少し下辺り。
くっきりと赤く色付いた、痣のようなキスマーク。
虫に刺されたとは言い訳しにくい場所と色濃さ、横にうっすら残った小さな歯の痕。
全く身に覚えがないそれは、大方寝ている間にでもつけられたのだろう。
なんのためにと考えたものの、すぐに思い至る。
昨日の女性社員の件だろう。
今朝、出社する私を見送る際のなまえがすこぶる上機嫌だったのはこれのせいか。

はああ、と深々と溜め息を吐く。
位置的に自分では意識しないと発見しづらい、しかし他人からは見付けやすいだろうそれ。
会社でそれなりに女性人気があると認識しているが、これは明日から、相手は誰かと口さがない同僚に質問責めに遭うのを覚悟しなければならないようだ。
しかし女性社員からの面倒なアプローチが減ることを鑑みれば、なまえに感謝をした方が良いかもしれない。

なまえが帰宅したら、さあ、どうしようか。
勝手なことをしてと叱るか、周囲の女を遠ざける役割を果たしたことを褒めるか、それともあるいは、嫉妬なんてしなくても初めから君しか見ていないよと甘い言葉でも吐いてみるか。

随分と可愛らしいことをするじゃあないか。
鏡に映る男は、自分の首を見て薄く笑っていた。

「……なまえ、早く帰っておいで」




〈ちなみに同時刻〉

思ったより遅くなっちゃった。
腕時計に目を落とせば、いつもならもう夜ご飯をつくりはじめている時間で。
帰ったら急いで支度をしなきゃ。
今日は何をつくろうかなあ。
まさかジョースター家からの帰り道の途中で、仗助や億泰くんたちに会えるとは思っていなかった。
彼らと一緒に居た、康一くんや由花子ちゃんとは初対面だったものだから、嬉しさのあまりついうっかり長々と話し込んでしまった。
思わず口元がゆるんでしまう。
また会えるのが楽しみだ。

……あ、楽しみといえば。
吉良さんにお土産を渡したという同僚の女性は、ちゃんと見てくれただろうか。
自分でも惚れ惚れするほど、くっきりはっきり上手に首筋へ残すことの出来た、鬱血の赤い痕。
あなたの付け入る隙なんて無いんですよ、という牽制。
薄く歯を立てたあれは、少なく見積もっても4、5日は絶対に消えないと思う。
吉良さんが気付いてないならそれはそれで良いし、もし知ったとしたら絆創膏とかで隠すだろうし。
それもまた他人の目には意味深に映るに違いない。

……あーあ、我ながらなんだか打算的なことをしちゃったなあ。
小さく溜め息が出てきた。
自分よりずっと年上の男性の所有をこれみよがしに主張したい欲求だなんて、そんなの、みんなに出会うまでは自分がそんな気持ちを持てることすら知りもしなかったっていうのに。
……うーん、わたし、こんなに性格が悪かったかな……。

……だって、なんとなく、気に食わなかったんだもん。
このくらいの些細な反撃は許してほしい。
とはいえ、本人の同意なく勝手なことをしちゃったのは紛れもない事実だし、今日の夜ご飯は吉良さんの好きなものにしようかな。
……それでごまかされてくれるようなひとじゃないけど。
吉良さん、怒ってないといいなあ。

日の沈みかけた夏の夕方を見上げれば、燃えてやんわりと輪郭をなくしていきそうなほど、空や雲が暑さに溶けそうな色をしていた。
汗の滲む肌は火照って、はやく冷たいものでも飲みたい。
このところ本当に暑い。
出来るだけ日陰を選んで歩いて、日傘もさしてはいるけど。
それでも燻るような熱は体のなかを燃やすように、じんわりと温度を上げていく。

「……はやく帰らなきゃ」

露わに、あなたはわたしのもの
(2015.08.03)
- ナノ -