私は諸君にかう申上げたい。
我々の神々も我々の希望も、もはや科學的にしか考へられなくなつてしまつた以上、我々の戀愛もまた 同じく科學的に考へてはならぬでせうか、と。
――リラダン『未來のイヴ』
「900、なにか気になる点でも?」
「いえ、コナー。問題ありません」
「ならいいけどさ。興味深いと思ったんだ。君ほどのアンドロイドが手間取るなんて、どんな難件を抱えているのだろうって」
いたずらっぽく笑ったRK800コナーが自らのこめかみを指先で軽くつついてみせた。
どうやら最前より、RK900のLEDリングは常とは異なる色を示していたようだった。
ヒトの耳目を集めない通信でのやりとりとはいえ、事件現場において彼らが世間話の範疇から逸脱しない会話に興じていたのは、既にその場で犯人を捕縛し、複雑なトリックやらバックグラウンドやらもなく、加うるにその尾籠な足を証言台に立たせるには十分すぎるほどの証拠が出揃っていたからだ。
つまり残るは署への出頭協力を求めるまでもない、居合わせた第三者たちから事情を聞くばかり、人間の警察官から指示を言いつけられるのを待つばかりの、言ってみれば手持ち無沙汰な段だったからに他ならない。
アンドロイドがらみの傷害事件、大捕物の掉尾はとっくに過ぎ去り、立ち入りを禁止するイエローテープも解かれ、ガヤガヤとした擾音、自殺志願者と大差ない見物客も散り散りになって、オーク・パークの路上に残っているのは数人の下手物趣味のやからばかりだった。
後ろ手を組んだ直立不動で、いかにも機械然とした待機姿勢を取っていたが、市警に配備された試作機と後継機がこっそりと雑談を交わすのは、実に変異体めかしいコミュニケーションといえた。
コナーの隣で周囲へ警戒、監視の目線をはしらせながら、RK900は如才なく「本日の業務終了後、デフラグメンテーションを行います」と答えた。
慇懃な物言いとは裏腹に、さすが己のいしずえたる試作機の目ざとさだと、内心舌を巻く思いだった。
ヒトをひとり構築するには、いくら世界最高峰の演算機能を誇るRK900といえど尋常一様でない負荷が生じるものであり、彼は世俗を瞞着する必要があることも理解した。
いずれにせよそこらのアンドロイドはいうまでもなく、平素のメンテナンスを担当するサイバーライフの技術者でさえ、いやしくもRK900がつくりあげた空間に侵入するおそれは現実的でなかった。
RK800コナーならば、あるいは日々着実に彩りを増している「楽園」へのアクセスが可能ではあったかもしれないけれども、RK900の強固なセキュリティはそう易々と破られるものではなかったし、ましてや現実の精巧なコピーをサイバネティックスな空間に構築している真っ最中だなどと一体誰が予想しようか。
事件現場における証拠品だったり、膨大なプロファイリングから該当の犯人像を絞り込んだりと、優秀な猟犬よろしく目当てのものを探り当てる能力は「コナー」シリーズが随一であり、その分野でRK900に並び立てるのはRK800コナーくらいのものだった。
しかし元来、蓄積された浩瀚なデータを瞬時に検索、検出、そしてそこから可能性や予測を導き出すのに長けてはいても、そもそも知りもしないものを探り出そうとは然しものプロトタイプといえど着想さえすまい。
「ああ、ほら。なまえだ」
促されると、丁度なまえがこちらに気付いて手を控えめに振っているところだった。
アンドロイドがらみの傷害事件は、観光客、それもファミリー向けのホテルやロッジングが多いオーク・パークの街路で起こった。
治安も悪くないにもかかわらず、なによりRK800とRK900にとってイレギュラーだったのは、前者の恋人、なまえが偶然その場に居合わせたことだ。
とまれ彼女は道を挟んで遭遇してしまっただけの局外者であり、事情を聞いてすぐに解放される手筈だった。
恋人とその兄弟機を見付けるやいなや、なまえはほっとしたらしく、緊張で強張っていた頬がゆるんだ。
思わずといった具合でこぼれた笑顔は、事件現場の物憂い、味気ない跡地にあって、一服の清涼剤のように彼らのストレス値を著しく減ずる効果をもたらした。
「コナー、ナイン! お疲れさま。あなたたちがいてくれて助かったよ」
「なまえもお疲れさま。不運だったね。まさかアンドロイドがらみの傷害事件に君が巻き込まれるなんて……怪我がなくて本当に良かった。現場になまえがいたと聞いて僕がどれほど驚いたか! 本当に、血の気が引く心地がしたよ――実際はシリウムの循環に影響が出るくらい、制御システムに衝撃がはしったってことなんだけれど」
親しげに言葉を交わすコナーと、折り目正しく沈黙を守っているナイン、頭上にある揃いの顔を見上げて、後者には相応の厚意を、そして恋人には隠しきれない親愛の情をそれぞれ注いで穏やかに発話する彼女に、事件のショックや精神的な後遺症の前ぶれになるような気色はなく、RK900は安堵した。
おそらくコナーも似たような心境だっただろう。
「ふふ、心配してくれてありがとう、コナー。規制線が引かれるような事件に巻き込まれるなんて初めてだったし、すごく怖かったけれど……あなたたちがいたおかげで刑事さんともちゃんと受け答えできたよ。それに巻き込まれたっていっても、わたしは数フィートは離れていたもの。あんまりお役には立てなかったみたい」
いままで聴取を行っていたハンク・アンダーソン警部補の方を振り返り、なまえは肩をすくめて苦笑した。
折も折、視線を集めていたかの御仁が、手元のタブレット端末から頤を上げて「コナー!」と相棒を呼び寄せた。
敬慕せずには措かないバディの召集をおざなりにするわけにもいかず、RK800コナーはやや退嬰的な目つきで「失礼」と言い置いて、なまえと入れ替わりのような形で駆けていった。
「ナインもお疲れさま。市警の皆さんには本当に頭が下がるよ」
「任務を遂行しているだけです。労われることではありません」
「そんなことを言わないで。いつも感謝しているんだから。……急な呼び出しでデートが現地解散になっちゃうこともあって、たまに不満に思うこともあったんだけれど、いまつくづく反省しているの。これでもね」
RK900は謹直そのものの姿勢を崩すことなく、なまえの笑みを見下ろした。
恋人という名目もない後継機が彼女と対面するのは、ディアボーンの往来でポストカードを受け取って以来、ひと月ぶりのことだった。
あれからなまえの髪は〇.四インチ伸び、手の爪は〇.一インチほど短く整えられていた。
その違いを自らがつくりあげた「なまえ」へ反映しながら、RK900はわずかに唇がほころぶのを禁じえなかった。
ひと月前のなまえと今日のなまえは――極論すれば、一秒前のなまえといまこの瞬間のなまえは異なる。
血中の酸素濃度、内分泌器官が分泌するホルモン、再生、機能、死を繰り返す体細胞のひとつひとつが入れ替わっている。
たとえば血液の単球は数日から、比較的長い赤血球でも一二〇日程度で死を迎え、骨髄の幹細胞から常に再生供給される。
その入れ替わりは一分間に数億個に相当し、こうして会話をしている間にも粛々と行われている。
不可逆な差異を彼はなまえという人間が生きているためであり、この上なく尊いものだと認識していた。
一日一日、一秒一秒の積み重ねが彼女だ。なまえだ。
なまえは定位反射に従って、もしくは滅多に拝めない仕事中の恋人の姿を好ましそうな目で追っていた。
しかし超高性能の電子基板、あるいは心とやらで密かに打ちふるえるRK900の歓喜は、折からコナーの背を眺めていた彼女の目を引きつけたようだった。
なまえはふとなにかに気が付いたように、恋人とまったく同じ容貌をおもねるように覗き込んだ。
「どうかしましたか、なまえ?」
「ううん、なんだろう……やわらかいって言えばいいのかな。ナイン、なんだか嬉しそうな顔をしていたよ」
「そうでしょうか。自覚していませんでした」
「なにか良いことでもあったの?」
「ええ、なまえ」
「教えてくれないんだ?」
「いまはまだ秘密です」
問われれば即座に完璧な答えを呈すRK900が直截に回答を拒むのは、変事といっても過言でなかった。
かてて加えて、仰々しく銘打たれた「秘密」とやらのせいで、彼女が興味を持つのも無理からぬことであり、仰ぐ瞳が丸々と開いた。
やたらにつづまったスラングだの非俗なジャーゴンだのから縁遠い四角四面なアンドロイドが、律儀に人差し指をぴんと立てて口元に寄せる仕草は、端整な顔立ちと相まってか、はたまた普段は児戯めいたジェスチャーを披露しそうにない人柄によるものか、実以て絶妙な愛嬌と色香を含んでいた。
子どものちょっとしたいたずらめかしてうそぶくRK900に、なまえは好奇心を抑えられないといった眼差しで身を乗り出した。
「いまはまだってことは、いつか教えてくれる?」
「はい、いずれ。私の“秘密”をあなたにも明かしましょう」
「約束よ」
「約束ですね、なまえ」
楽しみだと明るい三日月を描いた口角のうつくしさに彼が見惚れていることなど、なまえは知る由もない。
そのときRK800コナーが「ナイン、すまない。こっちへ」と、ナインとなまえへそれぞれ申し訳なさそうに目交ぜしつつ片手を挙げたため、彼は指示に従った。
短い会話を名残惜しい心地で切り上げ、つと振り返った。
「なまえ、もし急を要するのでなければここでお待ちになることを推奨します。コナーがあなたをお送りするかもしれないので。彼は本当にあなたのことを心配していた。先程アンダーソン警部補に呼ばれたのも、そのこと――私用による離席、中抜けに関する話かもしれません」
「ありがとう、ナイン。そうだと嬉しいけれど……みんな忙しそうだし、期待はせずに待っているね」
なまえの笑顔を楽園の「なまえ」に投影する。
RK900はやおら満足げに頷いてきびすを返した。
いまや彼の牧歌的な庭園はあらゆるうつくしいもので満たされていた。
ヒマワリをはじめとした多種多様な花が各々盛りを迎え、まばゆい陽光が湖面を黄金色に染め抜き、細波がさらう白真砂はあたかもそれそのものが的礫と光り輝いていた。
波間の向こうでは、重畳たる大廈高楼が侵しがたい正確さでそびえ立つ。
鮮やかな花弁ひと片、徒波のひと飛沫に至るまで、すべての要素がチェーホフの銃じみた蓋然性を完全に有していた。
そしてサイバネティックスな眺望を見つめるのはRK900ひとりではなかった。
いずれ「私が欲しかったのはポストカードや写真ではなくなまえ、あなた自身です」と明かしたとき、なまえはどのような反応を示すだろうか。
そう考えると、RK900は胸が弾むとしか言い表しようがない幸福と昂揚感に包まれた。
これがヒトや変異体たちが気随気儘に口にしてはばからない恋だの愛だのでないのなら、永劫、感情というものを彼が理解する日は来べくもないに相違ない。
なまえは微笑んでいる。――
(2024.06.17)