(※本編は最高ハッピーエンドが約束されたロマンティック・コメディなので、これは本編とは関係ない「無い話」です。あったかもしれない未来やIFルート等ではなく「無い話」です)






「行きたくありません」

きっぱりと言い切った恋人に、なまえは苦笑いをこぼさずにはいられなかった。

かつての交際相手とのトラブルに端を発して「嫌だと思ったこと、苦しいと感じたことは教えてほしい」と言い交わしてからというもの、サイバーライフの最高傑作、任務の達成を無上命法とする優秀な捜査補佐官との聞こえをほしいままにしていたRK900ナインは、どうやらその令名を返上しかねない局面を迎えたようだった。
大層、変異体めかしい言動は、良くいえば素直、腹蔵なくいうなら聞き分けが悪い。
具体的にいうと、休日に出動要請を受けようものなら、ナインは恋人を抱き締めて非常にわかりやすく駄々をこねるようになってしまった。

それに伴い、説得する役割がなまえに委ねられたのは、当然といえば当然だったし、畑違いといえば畑違いだった。
あるときは任務終了後のご褒美を提案したり、あるときは職責を放り投げるなんて云々なじってみせたりと――言うまでもなく心にもない非難だ――、手を変え品を変え出仕を促すなまえの努力は、そろそろ市警からなんらかの報奨を頂戴しても良いのでないかと欲を出してしまいそうなほどには難題であり、そしてかなりの頻度に上った。

「でも、ほら、行かないときっと市警の皆さんが困ると思うよ。ナインが必要だからわざわざお呼びがかかったんだろうし」
「ですが私は、なまえ、あなたと過ごしたい。そもそも本日は非番オフデューティですらなく、一六日ぶりの休日です。あなたに会うのも三日ぶりだ」
「そうだね。わたしも今日を楽しみにしていたよ、本当に」

とりあえず同意を示したなまえは、さてこの駄々っ子をどうやってなだめすかしたものかと浮かべた苦笑を深めた。
いまもナインはなまえの自宅のソファから立ち上がるのをむずがっていた。
子どもじみたわがまままとはいえ、いかに無茶を連ねようと最終的には招集場所へ向かわざるをえないのだから、これもささやかな恋人同士のひと芝居に過ぎなかったが、驚くべきことにDPDきってのエース補佐官の方は都度本心から・・・・要請を拒否したがっているようだった。

見上げるほど長身で、無駄な肉なんぞつきようもないがっしりとした体躯の男があらかさまにしかめっ面をしているのは途方もなく威圧的だったけれども、それが他でもない恋人であり、しかもご不満の理由は理が非でも自分から離れたくない、ただそれに尽きるのだから、彼女が強く突き放せないのも道理だった。
あるいは恋人を素気なく突っぱねられず、それどころか駄々をこねられるたび困った顔をして、その実くすぐったく感じているなまえの内心まで、優れた観察眼を持つRK900ナインにはお見通しなのかもしれなかった。

出会ったころと比べるまでもなく多岐に渡るようになった感情と愛情の表現っぷりになまえは気恥ずかしいものを覚えつつも、これは帰ってきたらたっぷり甘やかしてやらねばと心密かに決意を固めた。
一歩機先を制して自分よりずっと逞しい両腕をつかみ「ね、ナイン」と催促すれば、物憂げな表情はいっかな晴れはしなかったものの、拗ねた男は細腕に抵抗することなく立ち上がった。

なまえとしてはジャケットを着せてやさしく肩でも叩いてやりたいところだったが、はなはだしい身長差のために断念せざるをえず、ただ上着を手渡すに留めた。
社会人類学にも則り人間へ与える印象や情調を勘案してデザインされた、くっきりとしたコントラストがうつくしい白と黒の上着を羽織ったナインの姿は、惚れ惚れするほど精悍だった――相変わらず端整な面持ちはご機嫌斜めなのを隠せていなかったが。
サイバーライフ社製の上着を折り目正しく着為きなした彼へ、なまえは精一杯背伸びをして唇を突き出した。

「ほら、おまわりさん。行ってらっしゃいのキスは要らないの?」
「要ります」

間髪入れず寄越された返答に笑ってしまうのも無理はなく、弧を描いた唇でなまえは屈んだナインの薄い頬へキスをした。
渋々シャツの高襟を正した男は口付けの位置にいささか不平があったとみえ、悪感情を抱きようがない整った見目形をひとしおしかめた。
食い下がるように「なまえ」と呼ばった声音からは、世界最高峰の怜悧な頭脳を抑制を効かせるために用いるつもりはないとそっくり彼女が呑み込むには十分だった。

「どうして意地の悪いことを?」
「あれ、お気に召さなかった? やる気を出してもらおうってただの浅知恵だよ、人聞きが悪い。はやく帰ってきて、ナイン。そうしたら頬でも唇でも、気が済むまでキスしてあげるから」
「……確かに記録しました」
「わざわざ言質を取るような真似なんかしなくても。お預けされたのはそっちだけじゃないんだよ。わかっているでしょう? いくらでもキスするよ。ナインがもうたくさんって降参しちゃうくらい」
「私が音を上げるとは思えません。なまえ、ことあなたに関しては」
「そう? わからないよ。試してみる?」

軍配は今日もなまえに上がり、ナインは実に不承不承といった様相でアパートメントを出ていった。
彼女がなんとはなしに窓から往来を見下ろすと、折も折、表へ出た恋人がつと足を止めてこちらを仰ぎ見るところだった。
なまえは思わず破顔した。
もしかしたら従前から、離れ去るたびに彼がこうして見上げていたのではないかと、そう思い至ったためだった。

窓越しにキスを投げると、表情豊かな恋人は驚いたように目をみはった。
氷細工めいた双眸がまばゆい陽光を受けてさやかにきらめき、一見して冷たい印象を抱かせる白皙のかんばせが、見ているこちらの胸が痛むような、いかにも名残惜しげな微笑を捧げた。
かわいらしくて仕方がなく、なまえは恋人のキスを待ちわびる唇に面映おもはゆそうな笑みを浮かべた。






祈る神もない。
鳴らす弔鐘もない。
掘るべき土地もない。
納めるべき遺骸もない。
立ちすくみ項垂れるのは悼むひとばかりであり、葬送という儀式は亡きひとを事由にするにもかかわらず、遺された者たちこそを慰める営みなのだと、RK800コナーは理解した。

同僚の殉死という出来事は、彼へ大きな衝撃を与えた。
見知った者の頓死とんしは、機械として生み出された試作機コナーが初めて経験する喪失であり、プリミティブな悲しみだった。
あまつさえそれがプロダクト型番を等しくする後継機、人間でいう弟のように感じていた存在だったならなおのことだ。

デトロイト市警のRK900、登録名「ナイン」は破壊された。
事件現場で巻き込まれた一般人をかばって大破した機体は、たといアンドロイドに関する高度な知識や技術を有さずとも、一瞥して再起動は不可能だと見て取れる塩梅だった。
命冥加いのちみょうがにありついた被害者の男は自分をかばったアンドロイドを居丈高に払い除けるや、真っ青に染まったマッキノーコートを見下ろして「ちくしょう、汚れちまった」と悪態をついた。

その瞬間、止める間もなく荒々しく男の胸倉をつかんだのは、常日頃からクソプラスチックだのポンコツ野郎だのとレイシストそのものの言動を取ってはばからない、同じくアンドロイドに対して好意的とは到底いいがたいはずの刑事だった。
いかな気に食わない野卑な態度だろうと、非武装の一市民に、それも事件現場に居合わせただけの被害者に警察官がつかみかかるなど言語道断である。
しかしソフトウェアの異常やストレス値の著しい上昇を警告するメッセージに覆われた視界では、ギャビン・リード刑事を諌めることも敵わず、コナーは二目と見られぬ後継機のありさまを前にがっくりと膝を着いていた。

現場の制服警官たちも動けずにいた愁嘆場において、くずおれた彼の肩をやにわに抱えて引っ張り上げたのも、憎々しげに歯を剥き出しにしたギャビン・リードを制止したのも、赤く明滅するLEDをいくらか落ち着かせたコナーが遺された恋人に訃報を告げたいと言い出した折に同行しようと名乗りを挙げてくれたのも、唯一無二の相棒、ハンク・アンダーソン警部補だった。
かつてはDPDの切り札とも称えられた名警部補の差配はいみじくも冷静で「TUEBOR」を掲げるバッジに相応しいものであり、度量が大きく、情深い彼の存在を、このときほど心強く思ったことはあるまいと補佐官コナーが考えたほどだった。

「長年、刑事デカやってりゃこういうことはある。なんせデトロイトここの治安は州どころか合衆国ピカイチだ。――けどよ、いつまで経っても慣れやしねえ」

ステアリングを握って正面を見据えたハンク・アンダーソン警部補は、厳しい、熱病やみのように脂っぽい目をしていたが、現場検証を終えたときよりは幾分か顔色を取り戻していた。
行儀よく助手席に収まったコナーはヒューマノイドロボットが感じるはずのない息苦しさを覚えた。
今日はけたたましい音楽も鳴りを潜めており、車中には陰鬱なガス体が充填されているかのようだった。

途轍もなく時代錯誤なエンジン音を別にすれば静かな車内にあって、警部補の誰に聞かせるでもない低い囁きは骨身に応えるように響いた――「クソ、やるせねえな……」。
胴間声どうまごえじみた唸りは「死者」の境遇によるところもあったに違いなかった。

たとえば正規軍人が海外に派兵されて戦死した場合、五体が無事なのは遺憾ながら望み薄である。
そのため母国へ送られる前に、遺体の装備やタグから、専門の技官が肉の塊を寄せ集めてグロテスクな一体の骸をつくる。
これを悪趣味なパズルとそしってはならない。
遺族が対面するにあたう限り肉体は敬意をもって復元され、しかるのちに棺に納められ、星条旗をかけられて帰国を果たし、丁重に家族の元へ送還されるのだ。

しかしながらDPDのRK900、登録名「ナイン」は、電子基板やニューラルネットワーク、生体パーツや流動性化合物の一片に至るまでサイバーライフ社によって回収された。
変異体ハンターたる試作機を基にして製造され、決して変異することはないと謳われた最新機種の貴重なサンプルとしてだ。

人間はどのような事柄からもやたらめったら教訓を引き出そうとする。
一九二九年に起こった世界恐慌後の大統領選で圧倒的勝利を収め、緊急通貨を禁じたルーズベルト大統領から、電子レンジの取扱説明書に「生き物を入れてはいけません」との注意書きの一文を付け加えさせた猫に至るまで。
回収されたRK900「ナイン」のデータからおそらくなにがしかの変異のメカニズムについての有益なデータが得られ、自今以後、役立てられるだろう点がせめてもの慰めであり、そしておそらくコナーの怒りの根源でもあった。

RK800コナーはプロトタイプとしてつくられた。
後続のための実験機。
新しい機構の検証や試験を行い、大量生産マスプロダクション段階に入る前に問題点を洗い出すための試作品。
しかしアンドロイドによる平和的な革命を経て、いまは自我を持ったひとりの存在と受け入れられ、善き隣人として人間と共に身過ぎ世過ぎを営んでいる。
たとえナインが量産型のRK900といえど、彼は使い捨てのシステム制御ソフトウェアではないのだと、他でもない従来型コナー試作機コナーだからこそ訴えかけたかった。

しかし一介の現場刑事がいくら否やを唱えようと、サイバーライフ社と司法当局との間ですみやかに内済にしたらしく、殉職により同僚を失った捜査官たちの元には空の棺桶どころか、上着一着、流動皮膚の断片すら遺らなかった。

――なんとなまえに告げるべきか。
署に戻って所定の報告や手続きを終え、コナーたっての所望でなまえの住居へ向かう道すがら、自分から言い出したことだというのに彼はずっと苦悩していた。
一般家庭に普及するシリーズのアンドロイドですら、葬儀のみならず冠婚葬祭にあたり、行儀作法のモジュールをそなえている。
当たり障りのない受け答えはもちろん、主人の代わりにフォーマットに則った届け出や弔文の手配もできるよう、社会通念上の知識を有している。

しかしながら後継機ではダウングレードが行われたために未だ最新鋭を誇るコナーのソーシャルモジュールは、顔見知りの「遺族」に対してどのような態度を取るべきか、緩急よろしきを得る判断を出しかねていた。

「……ナインたちが正式な婚姻関係にあったなら、公的な保障を受けられたかもしれません。しかしアンドロイドの結婚については未だ議会コングレスでの審議の域を出ないんです。僕にはただ……なまえに伝えることしかできない」

おのが映像データを表示するのは可能だ。
しかし完膚なきまでに破損してシリウムにまみれた凄惨な機体を、とっくり眺めるのをなまえが望んでいるとは思えなかった。
信号でオートモビルが停まったことにも注意を払わず、とつおいつ両のてのひらを忙しなくすり合わせていると、余程情けない顔つきをしていたのか、白髪髭としわを蓄えた熟練の警部補が「おいおい、そんな顔すんなよ。相棒」と苦く笑った。

「お前が行くんだ。他でもないお前がな、コナー。なんの連絡もなしに放ったらかしにしないだけ……ましだと割り切らねえとやってけないんだ。――まあ、山高帽から取り出したみてえなこんなご高説、もっともらしく俺が言えたもんじゃないが」

酸いも甘いも噛み分けた艾年がいねんの捜査官の言葉ロゴスが、この世を貫く真理のように確かであるよう、コナーは祈った。
アメリカ人とロシア人とロボットが言った、「宇宙の征服、生命の意味、飢えと貧困の根絶、そのすべてと、そしてそれ以上のもの」のように。

ふたりをリビングへ通し、なまえは丁寧に「伝えてくれてありがとう」と頭を下げた。
アポイントと共にあらかじめ来訪の理由をも伝えていたはずだったが、出迎えてくれたなまえには、取り乱した様子も涙を流した痕跡もなかった。

「気丈な女性だ」

なまえのアパートメントを辞去するや、コナーは呟いた。
不帰の客となった人物について「彼は人間を救って犠牲になった」「彼は勇敢だった」云々、弔慰の言葉により遺族は慰めを得るものだと、そして故人に哀悼の意を捧げ、涙をこぼし、慰撫し、支え合うものだと、コナーは認識していた。
しかしながら重くなるはずもない気をあれほど重くしていにもかかわらず、なまえの反応はいずれの予測とも異なった。

なまえは恋人がどのように死んだのか、頓着しないようだった。
そわそわと落ち着かない挙動で「ナインは……巻き込まれた一般人を」と歯切れ悪く口火を切ったコナーを、彼女はさも興味がないとばかりに遮った。
血色こそ損ねていたものの、我関せず焉「ああ、どんな事件だとか、どんな死に方だったとか……事情は話さなくていいの。なにも。コナーだって思い出すのはつらいでしょう?」と、兄のように接していた従来機を気遣ってさえみせた。
形見のひとつ、生体パーツのかけらすらも渡せないのだと説明した折も、ごくあっさり「そう」と頷いただけだった。

DPDに勤める同僚として、試作機として、変異体として、時間も情報も共有する頻度が最も高く、相棒を除けば署内でとりわけ親しんでいたRK800コナーにとって、なまえの態度は冷淡すぎるようにみえた。
憤るのはとんだ見当違いだと理解していた。
しかし初めての恋人の一挙手一投足に振り回され、わかりづらくも喜んだり悩んだり期待したり悔やんだりする物故ぶっこ者のありさまを微笑ましくそば近くで見守っていただけに、当のなまえの素っ気ないふるまいに、反感を覚えなかったといえば嘘になる。

しかし捜査補佐専門モデルがつっけんどんに漏らした慨嘆に、苦み走った面構えの刑事は同意しかねたようだった。

「さてどうかね……。そうだといいが」
「なにか異なる見解が、警部補?」

どこか非難がましい声色でも滲み出ていたのだろうか。
ヒューマンフォーム・ロボットのR・ダニール・オリヴォーを「理性的だが分別がない」と非難するでもなく、相棒はおごそかな語調で呟いた。

「思ってもみない悲劇に突然襲われたとき、人間、その場ですぐに悲しんだり泣いたりできるとは限らないもんなんだよ、コナー」

モルタル壁の集合住宅はあまりに画一的であるためにディストピア映画の一コマじみた趣きがあり、加えて、カーテンが引いたきりの窓は、さながら通行人を白いまなこめつけているかのようだった。
居並ぶ窓枠のひとつを、人生の機微に通じた男はおもむろにくたびれた溜め息と共に仰いだ。

「そんときはいくら大丈夫そうに見えてもな、なんの前ぶれもなく心のどっかが決壊しちまうことがある。とっくに忘れたと思ってたころに、どっかがじくじくと膿んでくることもな。馬鹿げた酒に呑まれた夜だったり、ひょっこり形見なんかを見付けちまったときだったり――そんななんでもないタイミングで、まだ失った事実を受け入れてなかったことに、いつまで経っても受け入れらんねえ自分に気付かされたりする。そんなもんさ」

春の空を見晴みはるかすような青い瞳がゆっくりとまたたいた。
耐えがたい喪失を知っている人間の目だ。
おざなりに「そうですか」と答えたコナーは、相棒の視線を追いかけるようになまえが居住している位置のフロートガラスを見上げた。
全体的に彩度が低い灰色の集合住宅のソーダ石灰ガラスを眺めていると、闖入するためやむなく窓を割った雨の夜と、キッチンの床に転がった古めかしいリボルバーの硬く冷たい感触のデータがにわかによぎった。

変異してからというもの予期せず再生される記録アーカイブを、コナーは人間の思いつきインスピレーション、あるいはフラッシュバックのようなものと認識していた。
追想を強制的に中断し、コナーはおのれの浅慮を恥じるようにかぶりを振った。

「また、様子を伺いにお邪魔したいと思います。彼女は……なまえは、僕の義妹になっていたかもしれない女性ですからね」

彼女の方がずっと人生の先輩ではありますが、と精一杯冗談めかして付け加えた相棒に、ハンク・アンダーソンは眩しいものを見るように目を細めて「そりゃあいい」と頷いた。






日ならずしてベル島にそびえる象牙の塔から寄越されたのは、形姿なりかたちと事件捜査に関する情報を完璧に引き継いだRK900だった。
新しく就役した彼は「変異しないアンドロイド」との謳い文句にたがわず未変異だった。
やはりあの「ナイン」がとりわけ異質だったのがいたましくも明白になったのは、さほど時間を経ぬうちのことだった。

めず臆せず申し分ない働きをみせる完全な機械に、はじめこそ茶色の鼻のグッディ・グッディと吐く悪態にこと欠かなかったギャビン・リードでさえ、距離を測りかねるようにぎくしゃくしていた。
いけ好かない刑事がなにくれとなくやりづらそうにしているのを、コナーはあげつらう気にはまったくなれなかった。

RK900は優秀で、規律正しく、分外ののぞみを持たず、そして恋人というものの存在をまったく必要としていなかった。

「RK900。君は、なまえの……前任者の恋人のことをどれだけ知っている?」
「恋人だった・・・女性の生年月日や社会保障番号といった基本情報は残されています。“ナイン”という人格コンテンツ機体へ上書きして私たらしめることは可能でしたが、サイバーライフの技術者は変異体の記録メモリーを与えるより、同じ状況下でRK900が変異を再現できるか試行しているようです。前任者の処理装置や論理回路はすべて、サイバーライフ社が分析を行っています」

彼は彼の前任者が獲得した人格を、コンテンツ、あるいは変則性アノマリーと呼んだ。

宣言通り、頻繁というほどではないにせよ、コナーは時折なまえの自宅に赴いていた。
しかしそれもたった片手で数えられるほどの回数で打ち切られた。
四度目の来訪時のことだった。
弟の恋人はこれ以上の面会を拒んだ。
心苦しいのだと、もう気を配らなくていいのだと、なまえは申し訳なさそうに顔をくもらせて言った。

「ごめんね。気遣ってくれるのは本当にありがたいと思っているの。コナー、あなたはなにも悪くない、なんの落ち度もない。コナーには感謝しているよ。ただ、ほら……顔も声も、“生き写し”っていうのもおかしいけど……」

死んだ恋人と寸分たがわぬ縹緻きりょうを見上げて「コナーを見ているとナインのことを思い出すから」と暗く陰った微笑を浮かべるなまえに、彼は首肯する以外の選択肢を持ち合わせていなかった。
涙の一粒すら見せず、衷心よりもう来ないでほしいと望んでいる彼女に、なおもって無理強いできただろうか。
結局、あれから足が遠のいていた。

死んだナインがなまえについてむつまやかに話す折々、わずかにゆるむ口角だったり、情けなく垂れる眉だったり、そういったささやかな感情の発露を間近で目の当たりにしていただけに、コナーはRK900が明かした「同じ状況下でRK900が変異を再現できるか」という試行は実を結ぶまいと考えた。
加えて、個人的にこう思った。
――このRK900をなまえに会わせたくない。

しかし彼の胸の内に生じた感傷と呼ばれるべき苦々しいものを、木っ端微塵にすることに後任者はなんら躊躇がなかった。
ある日、RK900はあたかも不遇をかこつように首を傾げた。

「なぜ前任者は変異という変則性アノマリーを獲得するに至ったのでしょう? サイバーライフの設計者アーキテクトやエンジニアは、私が彼女と関わることによってなんらかのデータがもたらされる可能性を期待していたようです。しかし面会したなまえという人間は、ごく一般的な女性でした。変異のメカニズムに関する情報が得られるとは、到底」
「――君、いまなんて? 会った? なまえに?」
「ええ、聞こえませんでしたか? RK800コナー、あなたの音声プロセッサは正常に稼働しているようですが」

業務連絡じみた語調でRK900は説明を補足した。

「RK900に課されたタスクを削除するのに彼女の承認が必要だったため、昨日、自宅を訪問しました」
「なまえは……?」
「彼女がなにか?」
「なまえの状態を聞いている。訪問時、彼女はどんな様子だった? 誰でもいい、君や僕へ言伝でもしていなかったか?」
「把握していません。処理が済み次第、辞去したので」

時刻を読み上げるように平坦な声で告げた後継機に、コナーは咄嗟に声を荒げようとし、しかしその行為の不毛さを思い知って歯噛みした。
そう、不毛だった。
まったく。

「……僕はなまえのところに行ってくる」
「いまからですか? RK800、定められたあなたの業務終了時刻まであと四時間二〇分も残っています。アンダーソン警部補にも迷惑をおかけするのでは?」
「ハンクはむしろ急いで行ってこいって言うだろうし、君のパートナーのリード刑事だってこればっかりは賛同してくれるさ!」

語気を強め、コナーは荒々しい所作で席を蹴った。
プロトタイプの滅多になく急き立てられるような形相を静かに見送ったRK900はほんのわずかに眉をひそめたが、シャットダウンした前任者と同じく変異体たる彼の挙動に、理に適った一義的な訳合いや処理過程プロセスを求めるだけ甲斐ないことだと判断し、自身の仕事へ戻った。






――私は諸君にかう申上げたい。
我々の神々も我々の希望も、もはや科學的にしか考へられなくなつてしまつた以上、我々の戀愛もまた 同じく科學的に考へてはならぬでせうか、と。

「はじめまして。私はRK900。前任者、あなたの恋人だった登録名“ナイン”の後続として着任しました」

死んだ男が自宅の玄関口に立っていた。

「どうして……ここに……?」

不条理な情景にめまいと吐き気を覚え、咄嗟になまえは戸口へよろめきかかった。

まぶたのうちに瞼花まぶたばなとなって焼きつけられた面影そのままに、悪感情を抱きようがない整った見目形の男が「はじめまして」と頭をもたげたのは、薄曇りの春の暮れだった。
連山の眉はいかにも温和そうであり、灰色の瞳は怜悧な光を宿し、そして酷薄そうな薄い唇が、やや細面気味の顔にバランス良く収まっていた。
白と黒を基調とした上着のみならず、秀でた額に垂れかかる髪のひと筋、まばらに散ったほくろの位置まで、恋人と酷似――否、まさしく同一だった。

それは明白に、疑念の余地なく、完璧に、RK900だった。
亡霊というにはあまりに画然とした佇まいに、なまえは耳の後ろで心臓が足を踏み鳴らして無秩序に踊っているかのような錯覚に陥った。
ドアに寄りかかったまま我知らず胸元を押さえたところで、呼吸が浅く、苦しげなものになっているのを自覚した。

「突然の訪問をお詫びします。シャットダウンした機体と同機種モデルが現れては、困惑を避けられないでしょう。それが親しい間柄だったなら尚更です。しかし、前任者が残した動作命令インストラクションの削除にあなたの同意が必要だったため、協力を仰ぎに伺いました」

死人に出くわしたように・・・・・・・・・・・顔色をなくしたなまえに頓着せず、多くの機体を国務省に採用された最新鋭のアンドロイドは、四角四面な語調で来訪の理由をつまびらかにした。

招かれざる客と委細承知だと頷いた面差しは、しかるべき慇懃さを保っていた。
しかし凪いだ水面に放り込まれた小石のように、前任者がこの部屋で多くの時間を過ごした狭いソファをちらりと一瞥した眼差しは、いわく「前任者が残した動作命令インストラクション」とやらさえなければ、敷居をまたぐことは決してなかっただろうと判じられる冷淡さだった。

なにを考えているのかわからないと時折思っていた恋人の顔ばせが、真実まったくやわらかく、驚くほど豊かな情動をたたえていたのだと、なまえはそのときようやく心の底から理解した。

新たなRK900が配備されたことは、経過観察よろしくたまに顔を見せてくれるコナーから聞いていた。
なまえを慮っての行為を一方的に拒絶して以来――いいや、RK800コナーと相棒のハンク・アンダーソン警部補直々に、恋人の訃報をしめやかに告げられてからというもの、なまえはいつもと変わらない生活を送っていた。

死に顔さえ拝めず、なまえはただ「ナインが任務中に死んだ」と聞いただけだった。
兄弟機の死因・・や状況を伝えようとしたコナーを遮ったのはなまえ自身だった。
確信を持てなかったからだ。
ナインがシャットダウンした原因である誰かを、すなわち顔も名前も素性すらも知らない赤の他人のことを、恨み、憎み、死を望まずにいられるのか、彼女はことここに至ろうと判然としないためだった。

多忙な恋人と長く連絡がつかない折節といささかも変わりない日常が続いていた。
なまえはいつものようにナインが「お久しぶりです」とそのうち玄関口に立つのではないかと、ぼんやりと考えていた。
――眼前の光景のように。

「前任者は、“夏、なまえと共に海へ行く”というスケジュールを最優先順位をつけて保管していました。同型機であるRK900ですらプロテクトを解除できないほど強固に」

恋人と同じ形姿なりかたちをした男は、前任者が遺したオペレーションコードは破棄どころか書き換えすら不可であり、解除するにはなまえの許諾が必要なのだと説明した。
抑揚とトーナリティを欠いた、文字通り機械的な声だった。
変異体でもなく、恋人の記憶も移行マイグレーションされなかったRK900が唐突になまえの元へ現れたのは、ざっと右のような次第だった。

「つまり、ナインがつくった命令があなたにも引き継がれていて……それを取り消すためには、わたしの同意が必要っていうこと?」
「ええ、端的に言えば」
「……施錠したはいいけど、うっかり鍵ごとしまい込んじゃったみたいだね」
「理解がはやくて助かります」

任務に支障をきたすほどではないにせよ、いたずらにリソースを圧迫されているのだと彼はしかつめらしく頷いた。
いまなお明確に就業規則を定められていないアンドロイドが長期休暇を取得するため、関係当局へ段階的に働きかけるスケジュールを綿密に組んでいたのだと語った。

軽微であれ、突発的な変事でタイムラグを発生させかねない状況を仮借かしゃくないプログラムがそのまま放っておくはずもない。
イデオローグじみた尊大な物言いこそしなかったものの、RK900はやや辟易したかのような仕草で片眉を上げてみせた――なまえと会話しているいま現在も「即座に法務局へ向かい、市警におけるアンドロイドの就業規則について担当職員と面会する」というダイアログが呈示されているのだと。

「……ふ、ばかだね」
「ええ、まったく。前任者がなぜこれほど厳重に命令を保持していたのか、また、職務に関係のない事柄に最優先の順位を設定して、達成のために多くのリソースを割いていたのか不明です」

降りみ降らずみの深雪に飽いて「海に行こう」と言い交わしたのは、クリスマスを目前に控えた冬のことだった。
青みがかった灰色の瞳を持つ恋人は、なまえとの約束を愚直なまでに守ろうとしていたのだ。

「その理由を知りたい?」
「あなたがご存知であるなら」
「それはね、彼がわたしのことを愛していたからだよ」

死んだ男と死んだ男について話をしている異常さに、突如としてなまえは乾いた笑い声をあげた。
奇妙に甲高い哄笑こうしょうは、こめかみが引き攣るようにRK900の右目をぴくりとすがめさせたが、頓狂とんきょうな挙動について彼が殊更言及することはなかった。

なんたる滑稽な、惨めな、グロテスクな猿芝居!
この思いが彼女を打ちのめし、恐怖を打ち消し、自負心を掻き立てた。
やにわに弾けた笑い声ははじまりと等しくふいに止み、あたかも大笑いしていたことすらすっかり打ち忘れたかのように、女はおとがいを上げた。

「……わかった、同意するよ。わたしたちの交際関係はおしまい。夏の約束もなかったことにしよう、RK900。これでいいんだよね?」
「ええ、ご協力に感謝します。これで常に優先表示されていた指示ダイアログをタスクごと削除できます。お礼といってはなんですが、シャットダウンした変異体――“ナイン”に対して思うところもあったでしょう。この期にお話ししてはいかがですか。別機体ではありますが、私も同型のRK900です。市警でも、前任者についての情報や思い出話のようなものを私に聞かせたがる者が、人間やアンドロイド問わず多くいます。あなたもそうなのでは?」
「……そんな気を回してくれなくていいよ。あなたはわたしの恋人じゃないもの」
「そうですか。それでは失礼します」

生真面目に頷いたアンドロイドはくるりときびすを返した。
別れ際のキスも、窓辺から見下ろしたなまえを往来から見上げて名残惜しげな微笑を奉じることも、無論なかった。

間もなく夜だが、暮れなやむ黄昏たそがれの光線がかすかにほのめいて、開けっ放した窓からは冷たいしぶきが床へ吹き込んでいた。
なまえは彼から贈られた品々をひとつひとつ割った。
花瓶や香水瓶、口紅や鏡台、こまごまとしたアクセサリー類やそれらを収納するトレイ、ふたりで写った紙の写真を掲げたシンプルなフレーム、それから色違いのマグカップを。

初めてちいさな花束を贈って以来、彼はひとにものを贈与する行為をすくなからず好んでいたようで、なまえのさして広くもない部屋にはたくさんのプレゼントが我が物顔で鎮座していた。
いなくなった恋人からの贈りものを十把一絡じっぱひとからげに、元の造形が思い出せないほど壊した。
徹底的な手腕はさしもの貪婪どんらんな強盗といえど及ぶまい念の入りようであり、あらかた不可逆なありさまをつくりだすと、女の掌中に残ったのはスカーフ一枚きりになった。

なめらかな光沢を放つ絹のスカーフは、なまえの嗜好のみならず手持ちの服との兼ね合いも踏まえた一品だった。
デトロイトの遅い春、「あなたに似合うと思って」と控えめにはにかんだナインの笑顔には、気に入ってくれるだろうかという不安、そして喜ぶところが見たいと浮き立つ輝きが、はろばろとした稜線のように入り混じっていた。
薄い頬が緊張と期待でうっすらと上気していたことまで、優秀な記録媒体などなくとも彼女は鮮明に思い出せた。

日はとっぷりと暮れてしまった。
無造作に、なんのためらいもなくスカーフをするするとねじり、しなやかかつ丈夫な布切れを頑丈なドアノブにくくりつけた。


(※タイトルはルヴェル『夜鳥』から『フェリシテ』、引用は上記ほか『犬舎』、ディック『地球防衛軍』、アシモフ『鋼鉄都市』、リラダン『未來のイヴ』、横溝正史『蝋人』(※蝋の字は正しくは簡易慣用字体「蝋」の印刷標準字体)、エリン『パーティーの夜』より)
(2024.03.09)
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