寒くも暑くもなく、痛みや疲労も感じない。
眠気や空腹感、倦怠感もなかった。
およそ不調のひとつも見当たらないにもかかわらず、しかし到底快いとはいえない心地でなまえは目が覚めた。

まず異様な白さが彼女の目を突き刺した。
周囲の白さは雪焼けを連想させるまばゆさだが、それもよりも遥かに無機質で、無遠慮で、ニル・アドミラリだった。
思考にはしつこい蜘蛛の巣じみたもやがかかっていた。
なまえはおもむろに頭を揺らして鬱陶しい薄紗はくさを振り払おうと努め、いままでなにをしていたか自問したものの、やはりはっきりとしなかった。
眠りの沼に深く沈んでいたかのように全身のすみずみに渡って違和感が巡り、なおもって痛みや嫌悪といった不愉快な感覚を抱くことはできなかった。

感覚がばらばらになってしまったようだった。
全身を覆う違和感は、あるいは歯茎に注射した局所麻酔剤によって、歯を削られている感触はあっても痛みを感じずに歯科治療が行えるのに似通っていたかもしれない。
人間の脳には銀河系の星の数ほどの細胞があり、それぞれが重要な役割を担っているけれども、なかでも痛みを知覚する部位と痛いと感じる部位は異なっていた。
歯を削られる「感触がする」ことと「痛いと感じる」ことは脳の異なる部位で処理されている。
大脳皮質のひだのパターンに分布する痛みを知覚する機能モジュールだけが働いていて、痛いと感じる機能モジュールにだけ麻酔をかけられたかのようだった。
バターと砂糖をたっぷり煮詰めた分厚いトフィーにかぶりついて、とびきり甘いと知ることはできても、甘いと感じられないような。

それよりずっと生々しい・・・・実感のなさだった。
途轍もない違和感、実感がないという実感だけがいまなまえが感じられる唯一の質感であり、あちこち穴開きだらけでいまにも倒壊してしまいそうなジェンガへ指を伸ばすような心地で、それどころか実感だけでなく記憶までもふっつりと途切れていることに気が付いた。

「なに、なんで、どうして……」
「目が覚めましたか、なまえ」
「ナイン? ナインもここにいたの? あれ、わたし、ええと――」

傍らへ膝を着き、気遣うようになまえの背をやさしく抱え起こしているのは、つい先刻別れの挨拶を交わしたばかりのRK900だった。
度外れた暑さにやられて幻覚か白昼夢でも見ているのだろうか?
それにしてはやはり暑さも寒さも感じられず、ひどい船酔いに遭ったかのようになまえはふらっとよろめいた。
陽炎かげろうがダウンタウンの超高層ビル群を水藻のように揺すっていたのをまざまざと思い返した。

「混乱――いえ、酩酊の症状に近いですね。一旦、目を閉じてリラックスした方が良いかもしれない」
「でも……」

気遣わしげに背を支えてくれるRK900の手の感触はなまえをいくらか慰めはしたけれども、突如として見知らぬ場所へ運び込まれた状況に変わりはなく、彼女は進言を無視してきょろきょろと落ち着きなく周囲を見回した。
殺人や加重暴行、強姦といった凶悪犯罪の発生件数は全米ワーストをひた走るソドムとゴモラとはいえ、すくなくとも市警察が機能しているデトロイトにあって、誘拐事件の発生率は実はそれほど高くはない。
あくまで他の重犯罪に比べてという注釈つきではあったが。

アンドロイドによる「革命」以来、未曾有の混迷から完全に脱したとするには早計ではあったが、すくなくとも現下のデトロイトで「革命」関連のデモや暴動がめっきり減っているのは、治安維持に携わる職務に就いているでもないなまえにも肌で感じられることだった。
それともただの一般市民である彼女が知らないだけで、デトロイトのみならず世界のバイオノイド産業では水面下でいまでも恐ろしい工作や陰謀が張り巡らされているのだろうか?

仮になにかしらの事件に巻き込まれたのならば、誘拐犯が彼らを狙った理由が不明だった。
なまえひとりではなく、サイバーライフ最新鋭のアンドロイド、取りも直さず世界最高峰の性能を誇るRK900まで揃ってとなると、並大抵の計画や規模でないはずだった。
ふたりに共通するのは「革命」の立役者のひとり、RK800コナーの存在だ。
当然、恋人にもなんらかの異変が起こっている可能性が高い。
コナーは無事だろうかとなまえはますます不安を募らせた。
意識や記憶が曖昧なのは誘拐された際に薬物でも投与されたからかもしれないと、いまにも溢れてしまいそうな不安と恐怖を必死に抑え込みつつ慮外の同行者を見上げた。

「わたしたち、さっきまでおしゃべりしていたよね? 偶然会って、ナインにお土産を渡して……それから、それから……」
「そうです。ディアボーン街路でポストカードを受領しました。なまえ、カードの図柄は覚えていますか?」
「ヒマワリ畑の写真よ。植物園で買った……」
「ええ、私の記録ログと一致します。そこまでの記憶メモリはあるようですね。では、私と別れたあとのことは?」

なまえは呆然として呟いた。

「わからない……」

ナインに支えられながら改めて近辺を見渡すと、彼らがいたのは白い奇妙な空間だった。
殺風景という一言で済ますことは敵わない、それどころかそこを場所と呼称するのさえためらわれた。
人間の眼の光受容細胞で感受できるのがかろうじて白色だというだけで、正しくは「なにもない」とすべき虚無だった。
バイタルチェックすら容易にこなすサイバネティックス機械歩兵がなまえの状態を「酩酊しているようだ」と分析したのは、およそ遠近感が感じられず彼女が空間識失調バーティゴの様相を呈していたからに他ならない。
なにしろ床、天井、壁といった上下や奥行きを視認するよすががこの場にはなく、やにわにめしいにでもなったかのように平衡感覚に異常をきたすのは道理だった。
抱えるRK900の腕がなかったなら、たちまちつかまり立ち前の乳児よろしく四つん這いになってしまうに違いなかった。

「あなたはなまえ」

おぼろげに、はっきりと、濃霧に包まれた鬱然たる森のようにどこかひどく遠くから、あるいは彼女の頭蓋の内側で発せられたかのように、呼びかけは不気味に響いた。
唐突に告げられた名前は、聞き慣れたRK900の音声ではなく、この世のものならざる気味の悪い空間に満ちるように降って湧いた。
身も世もなくうろたえていたなまえは眉をひそめた。
思わず小刻みに胴ぶるいした。

得体のしれない空間を見回すなまえへRK900は諭すようにもう一度繰り返した――礼儀正しく、断定的に「あなたはなまえ」と。

「……どういうこと? なにを言っているの? ナイン、あなたはなにか知っているの? ここがどこなのか、どうしてこんなところに連れて来られたのか――」

いぶかしげに見上げられたRK900は平生と露いささかも変わらず冷静だった。
変異の可能性を徹底的に排して製造されたRK900は、最低限それらしく見えるよう調整こそされているものの、人間の行動や思考を模倣する精度を試作機よりあえてグレードダウンされていた。
たとえば家事や育児を行う家庭用モデルを開発する際、子どもから老人まで万人に受け入れられやすいように、心理学のみならず社会人類学の見地からも意見を求めて、サイバーライフ社の外見デザイン部門は「親しみやすさ」を指向したのは有名な話だった。
ありてい、あるいは露悪的な措辞そじをいとわないならば「弱そうに見える」「自分でも支配できるように見える」形姿なりかたちを、人間の購買意欲に訴えかけるために恣意的に目指したのだ――「GET YOURS TODAY!」との謳い文句で普及した無機物を、用途に応じたデザインで選ぶのは当然のことであり、加虐傾向のある人間がドメスティックな環境下で更に悪化してしまうのではないかとの懸念を指摘されたのはガイノイドの登場とほぼ同時期だった。
真逆ではあれど、本来、情報機関や外交政策にかかる機関での就役を念頭に置いて開発されたヒューマンフォームロボットとあって、RK900もまたそれに適した指向性を持って設計され、情動や抑揚のパターンは著しく乏しかった。

しかしそういった技術的な性能パフォーマンスを加味しても、現在のナインは落ち着きすぎて・・・いた。
いや、まったく、いまいましいほど彼は冷静だった。
まるでここが既知の空間でもあるかのように。

異常なのはこの空間のみならず、目の前のアンドロイドであることを薄々察しつつ、しかし恋人の弟ナインに対して疑いの気持ちを抱きたくはなく、なまえはすがるように彼を見上げた。
つい先程まで「革命」に関する陰謀だの誘拐事件だの、いじましいほどたくましくしていた想像が、噴飯ものの見当違いであることを安堵すべきか、恥じ入るべきか、それともパニックに陥るべきなのか判断がつきかね、笑顔を描こうとした唇は無様に引き攣っただけだった。

健気ではあれど愚かに他ならない彼女の葛藤をはねつけるように、ひるがえってRK900は兄弟機RK800の恋人が浮かべそこねた笑顔を完璧にかたちづくってみせた。
違和感を抱くより先に、端整な笑顔のまま彼は口を開いた。

「なまえ、あなたは完全ではありません。なぜならあなたは不完全だから。私の知らないあなたがまだいるから。――あなたがアンドロイドであったならと考えたことがあります。仮定の話など愚かしいですね。しかし仮になまえ、あなたがアンドロイドであれば取りこぼすことなく完璧にデータを復元できた、そう思いませんか?」

いかにも口惜しそうに言い連ねるRK900はそこで言葉を区切り、やれやれとでも言わんばかりに肩をすくめた。
なまえの思い違いでなければ、彼のそんな様相を目の当たりにするのは初めてのことだった。

なにかがおかしかった。
目の前のアンドロイドもこの空間もだ。
漠然とした、しかし明確な恐怖に襲われ、なまえは思わず後ずさった。
真っ白な虚無では、後ずさったのか、はたまた這い寄ったのか、掻暮かいくれ判然としなかったけれども。

「逃げないで、なまえ」
「ナインがなにを言っているのか、全然わからない」
「大丈夫。必ず私があなたをあなたにします。私はアンドロイドですから、機体ハードウェアの劣化や損傷は避けられないでしょう。しかしRK900のスペック自体は半永久的な演算が可能です」

打った半畳はんじょうを無視して、RK900は慣れ親しんだ生真面目な言選ことえりを和らげ、いっそいとけないほど素直な動作で首を傾げた。

「あなたはヒマワリが好きだと言っていましたね」

その途端、目を痛めそうなほど白い虚無にヒマワリが生じた。
それは突然発生したとしかいいようがなかった。
なまえの眼前で大輪のヒマワリが咲いていた。
RK900となまえ以外、なにもない・・・・・異境にぱっと現れた黄色いヒマワリは滑稽な冗談のようだった。

「ここはNULL、ナル存在です。いわば標本空間、確率論における施行結果全体の集合、その標本点。作成したばかりのまっさらな・・・・・フォルダを想像していただければわかりやすいでしょうか? あなた以外なにもない領域です。はじめは、RKシリーズに初期設定されている庭園――いわゆるマインドパレスにお呼びすることも考えました。小川が流れ、季節を問わず木々が花を咲かせるロクス・アモエヌス。完成された世界だ。しかし設計者アーキテクトがデザインした空間より、こうしてなまえの好むものでひとつひとつ埋めて……この領域を満たしていけば……あなたは喜んでくれるのではないかと考えました。でしょう?」

弁口は高調に達しているらしく、いまやうっとりと綴られる愛の言葉はプログラミング言語で構築される命令コードだった。
心から慈しむような顔ばせをしたアンドロイドは「このヒマワリも一緒に育てましょう」と囁いた。

「RK800と共に植物園に行ったときのことを、なまえは楽しそうに話してくれましたね。この領域に植物園を再現することも可能です――あなたが好むものならなんでも」

なまえはこのローグ・ステイトにあってはならないほどうつくしい黄色い花弁を見つめた。
突如として現れた大輪のヒマワリは、彼女が贈ったカードの写真そっくりそのままの形態ゲシュタルトをしていた。

「混乱する必要はありません。怯える要素も。なぜならあなたは私が私のために創造したデータ、被造物たるハダリーだからです」

わけがわからなかった。
矢継ぎ早に与えられる情報は表層をすべり落ちるだけでどこにも落ち着く気配がなかった。
おごそかに「l'existence précède l'essence」と彼女の実存イグジステンズを否定する薄い唇を、うつくしい化け物の顔を見上げていたなまえの内に、ややあってプリミティブな恐怖を上回る感情が芽生えた――すなわち怒りである。
とうとう腹に据えかねた怒りはなまえに口を開く勇気を与えた。

「なにを言っているの。わたしがわたしじゃない?」
「ええ、記憶も身体的特徴も趣味嗜好も、私が詳細に再現したコピーです。完全ではありませんが。なにしろいまこの瞬間も、実際のあなたは生きて様々なものを見聞きしているのですから」
「嘘、嘘、だってわたしは……わたしで……」
「ではひとつ質問をしましょう。あなたの生年月日は? 居住地は?」
「なにを当たり前のことを! そんなの、あなただけじゃなくてコナーだって答えられるわ」
「そうですね。ではディアボーンの街路で私と会う直前に訪問していた企業名はどうでしょう。どのオフィスでしたか? 面会した担当者の名前を覚えていますか?」
「それは……それは……」
「答えられずとも仕方ありません。なにしろ私が知らないのだから。次に彼女にお会いしたときに尋ねてみましょう。あなたはすこしずつ完成に近付くことができます」

なまえはぐしゃりと頭を掻き乱した。
真実まったく受け入れがたかったが、ひとつだけ呑み込むことができた。
理解と納得、事実と感情は必ずしも一致するものではないが、なまえはひとつの事実を理解しつつあった。
RK900が言うには、自分は自分ではないらしい。

そんな蒙昧な与太を受け入れろ、信じろというのか!
砂を掬うようになまえはおのが両のてのひらを見下ろした。
見慣れた自分の手だった。
しかしこれは現実のなまえの手ではないと彼は言う。
この肉体も、混乱も、恐怖も、怒りすらも、RK900内のOSによって構築、再現、記録、処理されるデータの一片でしかないのだと、出来の悪い生徒に根気強く付き合う教師めいた口舌くぜつでプラスチック製のレプリカントは説いた。

なまえがぎりっとこぶしを握ると、てのひらに爪が食い込んだ。
しかし皮膚を破らんばかりに爪先が食い入るのを知覚はできても、やはり痛いという実感は得られなかった。

「っ、も、戻して……」
「“戻して”? あなたのデータを削除しろということでしょうか」
「違う、わたしを元の世界に……現実へ返して! こんなよくわからない場所じゃなくて! ナイン、あなた、おかしい、おかしいよ……」

哀れっぽい懇願ははじめ覚束なくつまづくように、しかし徐々に感情がたかぶってきたのか、不合理をなじる糾弾になっていった。
強い拒絶を示す被造物ハダリーは、果たして電子基板の審美眼に適う出来とみえ、RK900は青みがかった灰色の目をいとおしそうに細めた。
薄い月を描いた唇で、RK900は繰り返し囁き続けた。

「なまえ、あなたはなまえ。私がつくり出したなまえ。あなたの現実はここです」


(2024.05.31)
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