杪夏びょうかのまばゆい下午かご、ギヤマン細工のように晴れ渡った空には太陽がくるめき、無遠慮に人間の眼球を突き刺した。
ミシガン南東の夏の日照率は真冬の倍、七割に迫る。
冬の深雪が嘘のように乾いた空気は肺腑を洗うだろう澄明さであり、ひょっとするとガラスのように光り輝くのではないかと思われた。

「はい、ナイン。お土産もらってくれる?」

RK900がなまえに対してノーと答えたことは一度たりともない。
にもかかわらず行楽のたび「お土産」を欠かさないなまえの義理堅さを、そして贈りものの折々に受け取りの諾否を問う律儀さを好ましく思っているのは、彼のだけの内証事だった。

建物がくっきりと影を刻んだ木暗こぐれこそ、風が吹くと肌寒いほどだったが、往来は、主に水分やタンパク質で構成された人体にとって苛辣だろう日光にあぶられていた。
それは精密機械たるRK900にとってもそっくりそのまま当てはまった。
乾いて砕けた赤煉瓦による微細な粒子が視野角の端をかすめるのを認めた。

RK900がなまえと出くわしたのは、真実まったく偶然の出来事だった。
それも揃って通常の行動範囲の外であるはずのディアボーンの路傍でだ。
聞けば業務中であり、関係企業へ顔を出した帰りだという。
どれだけ電信、電話、ビデオチャット、ヘッドアップディスプレイと伝達の手法や媒体が発達しようとも、運送や荷役専門モデルのアンドロイドが普及しようとも、人類が準拠集団を営む限り、顔と顔を突き合わせるコミュニケーションは完全には排せないものだ。

自動タクシーを手配するまでもない程度の距離とはいえ、こう日差しが強いとね、と、夏の間ミシガンの至るところで交わされる応酬を挨拶代わりに囀る彼女へ、RK900は自分も似たようなものだと答えた。
実際、彼も周辺エリアでの聞き込みを終えて分署へ戻る途上だった。

単独だったのは幸運といわざるをえない。
補助として就役した試作機800も、プロダクト型番を等しくする後継機900も、いまや捜査活動においてある程度の裁量が認められ、必ずしも人間の捜査官の同行を須要しゅようとしなくなった。
とはいえ――パートナーの刑事はアンドロイドの立ち話を歓迎するか?
たとえば部下や気に食わない同僚を、死後一週間以上は経過しているらしい腐乱死体が発見された陰惨な現場だの、下手人どころか口径もメーカーもてんでばらばらな拳銃による乱射現場だの――事件捜査に良いも悪いもありはしないが、とにかく精神、及び肉体に甚大なストレスを蓄積するだろうたぐいの任務へ送り込むとき、下品な喜色を隠そうともしないポンティウス・ピラト。
RK900のパートナーもといギャビン・リード刑事はそういう人間だった。
ヒューマンフォーム・ロボットとして世界最高峰の演算能力を誇る最新鋭ナインでなくとも、の刑事のひととなりをすこしでも知っている人物なら、誰しもが先の問いに同じ答えを弾き出すに違いなかった。

なまえとふたりきりであることをRK900が密かに幸運だと考えているなんぞ知る由もなく、当のなまえは無垢に頬を上気させていた。
「すごい偶然。ちょうどナインに渡したいものがあったの」と、肩にかけた大ぶりの鞄からいそいそと一枚の紙片を取り出した。
もとより突き返す選択肢が浮かぶべくもない。
RK900はカードを丁寧に受け取った。

「真正双子葉類、キク科ヒマワリ属――ヒマワリの写真ですね」

なまえが差し出したのはなんの変哲もないポストカードだった。
材質は光沢と厚みのあるアートポスト紙、郵便公社USPSの規格に則ったサイズであり、裏面には宛先とメッセージ、料額印の位置を示す素っ気ない灰色の枠が記されていた。
ごくありふれた印刷物からそれ以上の情報を引き出すのは容易からぬことだったが、幸いにして、裏面下部にはデトロイト植物園のロゴタイプが鎮座しており、同所で彼女が買い求めたものと断定した。

消息や物品をやり取りする郵便物にあって、本来「表」とは宛名やメッセージといった主たる情報を記した白い面のはずだ。
しかしこの写真絵はがきに限っては、なまえが渡したかったもの、つまりRK900と共有したかった情報は、なんの変哲もないアートポスト紙でなく、写真、厳密にはヒマワリ畑の風景こそだと彼も理解するところだった。

堅物そのものといった面差しでごく普通のポストカードをためつすがめつするRK900の姿になにを思ったか、なまえは嬉しそうに頬をゆるめた。

「そう。植物園に行ってね。特にヒマワリがきれいでナインにも見せたくてつい買っちゃった」

紙媒体のグリーティングカードは、印刷された書籍と同じくデッドメディアとしての地位を不動のものにしつつあるけれども、どれだけエネルギーコストを抑えた液晶ディスプレイが開発されようと、高性能のカメラモジュールを備えたモバイル端末が普及しようと、街路をパノラマ写真で提供するインターネットサービスが身近になろうと、なかなかどうしてしぶとく生き残り、サイバーライフ社のお膝元、天下のデトロイトにあっても、観光地の土産屋の片隅にお馴染みのスチール製の回転ラックは健在だった。
このたぐいのポストカードは手紙としてのエフェメラでなく、硬貨やら古切手やら、その道の愛好家めかしく収集するための面も大いにある。

RK900がなまえからポストカードをもらうのは初めてではなかった。
今回のような余暇での気まぐれから仕事の出張に至るまで、なにがしかの景勝地へ赴く都度、なまえはナインへの土産として安価なポストカードを差し立ててくるものだった。
あるときは、五大湖のうちふたつに囲まれたロウアー半島、スリーピングベアー国立湖浜公園の砂丘だったり、あるときはミシガン湖から臨むシカゴの摩天楼だったりした。
図柄は主に風景の写真だったが、まれに美術館で展示されていた作品の複製画なこともあった。
頂戴するカードを数えるのに折る指が足りなくなるころには、RK900はいっぱしのフィラテリストかなにかのようになっていた。

簡明直截に、負担ではないかと尋ねたことがある。
RK900には理解しかねたためだった。
オンラインで検索するや、位置情報やフォトグラファーの来歴といった詳細な情報を伴ったハイディフィニションの画像をたちまち入手、表示できる彼にデッドメディアを寄越す意義、あまつさえ人間に奉仕するため生み出されたアンドロイドに物品を施す目論見――そういったものが。

唐突な質問になまえははじめこそ面食らったようだったが、慎重に「これはわたしの考えなんだけれど」と前置き、使う機会がなく貯まりがちな現金、それもほんの数枚のコインの行き着く末を土産と銘打って渡すのはおこがましい行為なのだと申し訳なさそうに打ち明けた。
なんと伝えたものかと、やわらかい両の手指をとつおいつもてあそびながら「いいと思ったもの、素晴らしいと考えたことを大切なひとと分かち合いたがるのは、人間のごく自然な感情だと思うの。……もちろん、相手が迷惑だと感じたらそれはただの押しつけなんだけれど」と。
発表する手法や媒体が変わろうと、他人の体験や思想をまとめた随筆エッセイや写真を投稿するソーシャル・ネットワーキング・サービスがいつまでも廃れないのは、程度の差こそあれ、ヒトがみな持ちうる情動なのだとなまえは説いた。

しかしながらそのときRK900の最大の関心事は別のところにあった。
生理的、本能的な短期的欲求に留まらない、群居性の動物であるヒトが持つ共有、親和、承認といった心理、社会的な後天的欲求についてではない。
なまえが口にした語の連なりが彼の論理回路を支配していた。

わずかに強張った頬の原因は緊張によるものだったと、後々おのずから認知した。
取りも直さずソフトウェアの異常に他ならない挙動を、幸か不幸か誰ひとりとして察知する者はなかった。
どうしたものか、音声プロセッサの調整に殊更にシステムリソースを割きながらRK900は囁いた――「なまえにとって、私は“大切なひと”ですか」。
千々に乱れるプログラムなんぞ露知らず、なまえは「もちろん!」と屈託なく頷いて笑顔で言った。
――「なによりナインはコナーの弟みたいなひとだし」。

「コナーからもう聞いた? この間、休日を合わせてふたりで行ってきたんだ。植物園でデートなんて、ティーンの頃だってしたことなかったけれど……思ったより楽しいものだね。むしろ知らないことを楽しめる年齢になってからの方が、熱心に鑑賞できるというか」
「――そういうものなんですね」

逡巡は二秒にも満たなかった。
予期しないフラッシュバック、あるいはプログラムの埓外らちがいでオートランする記録アーカイブを停止させ、サイバーライフ社最高傑作たるアンドロイドは如才なく相槌を打った。
そもそもなまえと顔見知りになったのも、親しく会話を交わすようになったのも、おのれの試作機が、まったく同一の面貌にもかかわらずRK900では到底かたちづくれない晴れやかな笑顔で「僕の恋人だよ」と引き合わせたのがきっかけだった。
灰色の雲が分厚く垂れ込めた厳冬、コナーは「ナイン、後継機の君は僕の弟のようなものだから。ちゃんと紹介したかったんだ」とどこか照れくさそうに笑っていた。

そうだ、なまえはRK800の交際相手だ。
わざわざ確認、照会するまでもなく自明のことを、なんと優秀な電子回路はいまのいままで失念していたようだった。
RK900は完璧に整った無表情の下で一方ならぬ動揺に襲われていた。

なまえの指紋や視認できないほどごくわずかに付着した皮膚片を携えたポストカードを、RK900は押し頂くようにして掲げた。

「ありがとうございます、なまえ。これもオフィスのデスクに飾ります」

そう言うと、なまえはにっこりと頷いた。
分署のデスクは良識的な範囲で自由裁量に任せられており――かつて優秀な刑事と称えられた警部補による上限、あるいは下限があるためにその「良識的な範囲」とやらははなはだ広義に解釈できたが――RK900に割りふられたデスクは、長らく清潔というより寒々しい雰囲気を放ってはばからなかった。
しかし机上のネームプレートさえなければ、新人がひょいとデスクチェアを掻っ攫おうと文句のひとつも付けられまい殺風景な佇まいとは打って変わって、RK900のデスクはいまや色とりどりのポストカードに彩られていた。
寸分たがわず均等な間隔で並んだデッドメディアを、同僚たちはいみじくも「捜査資料の写真群、もしくは収集標本」と評したが、大なり小なり懐古主義のきらいがある中高年層にはおおむね好評のようだった。

最低限の礼儀として、贈り物を無下にしていない旨を伝えるため、自身のデスク周りの状況を表示したとき、几帳面というより神経質ニューロティックな塩梅で配置された掲示物にさすがのなまえも圧倒されたようだった。
しかし伊達におのが試作機と順調に交際を続けていないというべきか、なまえはぱちくりとまじろいだかと思えば「こんなにきちんと飾ってくれているなんて思わなかった。ナインだけのアルバムね」と朗らかに微笑んだ。
RK900はその笑顔こそを飾りたいと思ったものだった。

「ミシガンにも以前はヒマワリ畑があったんだって。いろんな理由があっていまでは見られないけれど……環境汚染とか気候変動とか? そういう問題で」

食糧危機が喫緊の問題として注目されるようになってから果たして何十年が過ぎたのか、超高性能のアンドロイドが詳説することはなかった。
気候変動やそれに耐える食用種子について口を酸っぱくして喧伝されてきたにもかかわらず、人類滅亡のアウトラインがはっきりするようになって――つまるところ米国における食糧問題がのっぴきならないところまで差し迫っていると顕在化してからようやく、政府も企業も目の前の重大事として本腰を入れるようになったようだった。
学術組織やシンクタンクに莫大な資金を投じ、遺伝子だの品種だのの改良、イメージ改善に勤しみ、そしてどんなコンサルティングやロビー団体がくちばしをれたのやら、大衆の「関心の高まり」により、長らく象牙の塔らしい箱物だった植物学庭園は副次的に往年の物古りたイメージを払拭することに成功した。
温度や湿度を完璧にコントロールした観光客向けの展示を拡張充実することにより、ゾーンごとに幅広い気候帯の植物を鑑賞できるとあって、ここ数年、植物園はモータウン歴史博物館やコメリカ・パークといった人気観光スポットに並ぶ存在感を放っていた。

「説明パネルをもっときちんと読み込んでおけば良かった」といささか恥じ入るように付け加えながらなまえはポストカードの写真を指さした。
RK900が検索すると、おそらく彼女が思い浮かべているのと類似するだろう大量の画像がリクエストに応えた。
かつてはスペインやフランスといった南欧を筆頭に、ユーラシアのみならず北米にも広がっていたという一面のヒマワリ畑を、彼女はRK900と共有したかったのだ。

「なまえはヒマワリが好きですか」
「好きよ。ヒマワリだけじゃなくて、花はだいたい好きだけれど。そもそも嫌いなひとはあんまりいないんじゃないかな。いつの時代もプレゼントの定番だし」

RK900の掌中に収まったヒマワリ畑を覗き込みながら、なまえがやわらかくまなじりをゆるめた。

「ヒマワリって見ているとなんとなく元気が出そうじゃない? サンフラワーっていうくらいだから太陽を連想させるもの。眩しい夏の太陽。実際はこんなに暑いと気が滅入っちゃうけれど……太陽と違ってヒマワリは目にやさしいしね」
「なまえ、あなたの笑顔は眩しい。ヒマワリのようだと私は思います」

口ぶりは真摯であり、あたかも熱烈な晩夏の空へすっと蒸発するかのようだった。
試作機よりあえてダウングレードされたソーシャルモジュールらしからぬ詩的かつロマンチックな物言いは、語勢や抑揚こそ平生といささかも変わらなかったが、さながら恋人に囁く片生かたおい青年然とした切実な具合がまるきりなかったとは言い切れない。
なまえの頬にいかにも面映おもはゆそうな紅味あかみがぽっとさした。
赤らんだ頬の色合い、画素密度をRK900がつい分析していると、彼女はくすぐったいといわんばかりに破顔した。

「ふふ、やっぱり兄弟だね。コナーにもそう言われたの」

なにがそうさせたのだろうか?
RK900のプラスチックの機体に脈動する心臓があったなら、喉頸のどくびまでびょんと飛び上がり、その勢いのまま吐き捨てていたに違いなかった。

「それじゃあお土産も渡したし、そろそろオフィスに戻らなきゃな……。ナインも仕事なんだよね? コナーにもよろしくね」

恋人コナーの呼称を口にする折節、なまえの頬がわずかにやわらかさを増す理由を、抜きん出た好意によるものとRK900は理解していた。
高揚を感ずると――愛するものへ思いを馳せると、概してヒトは内分泌の増進により脈拍の増大、体温の上昇といった身体的な変化を引き起こす。
なまえの反応はそのすべてに符合していた。

「ええ、お気を付けて。お土産もありがとうございます」

日はいよいよ明るく、天をするビル群が蜃気楼のように逶迤いいとして揺らめいていた。
RK900はポストカードをそっと胸に押し当て、立ち去るなまえの薄い背を見送った。


(2024.04.30)
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