「逃げたい」
「応援してるぜ。いやマジで。ウチでの鉄板ネタになってんだよ。あの超高性能プラスチック様から逃げおおせたのは、いまのところ迷子の猫一匹だけってな。あんときはまー対人用の予測演算が通用する相手ではありませんとかなんとかゴチャゴチャ抜かしてやがったが、俺としちゃ自惚れ屋スマートアスのヘマ記録が伸びるのは大歓迎。なまえがどこまでやれんのか是非とも拝ませてもらいたいね」

俗っぽく連発される「literally」の語に、眉根が寄るのも致し方なかった。
雑音を排除して通信音声をクリアにする機能をオフにしているらしく、リード刑事の声の背後では、電子音やアナウンス、複数のひとのざわめきが大きくなったりちいさくなったり、しかし途切れることなく打ち寄せていた。
こちらはのどかな休日だというのに、カレンダーに関係なくお忙しい市警のみなさんには頭が下がるばかりだ。
これっぽっちも業務と関係ないコールを寄越し、よもやま話に興じている不良刑事を除いてだけれど。

ひとの不幸がよっぽどお気に召したようで、リード刑事は「今日はさっさと退勤できるよう、あいつにも指示しといてやる」とさも同僚のプライベートを尊重する親切な勤め人みたいなセリフを吐いた――噛み殺す気もない笑いと共に。

「せいぜい“素敵な恋人”とやらと刺激的な夜を過ごしな」
「……どうもありがとう。ねえ、リード刑事は、」
「ギャビン」
「……ギャビンは、バディを組んでいるアンドロイドが、人間と付き合うのが気に食わない?」
「は、勘弁してくれよ。ガキがお人形ドール遊びに熱中しようが、電子基板が人間様の猿真似を演じようが、俺に関係あると思うか? これっぽっちも興味ないね。あんただって週に何回すんのか、どんな体位が好みだとか、サイバネティックス機械歩兵みてえな野郎に、上司権限で命令してゲロっちまうかどうか試されたくもないだろ?」

横柄かつ下品な言い草は、そこらの飲んだくれのゴロツキ共にそっくりだということに、つくづく感心した。
言語やジェスチャーが他者との意思疎通、思考の共有を目的として生み出されたツールとするなら、鼻で笑ったギャビン・リード刑事ほど非言語コミュニケーションの真髄をとらえて使いこなした表意はなかったし、更にいうなら、彼ほど相手の神経を逆撫でするのに長けた男をわたしは他に知らなかった。

「……よくクズ野郎って言われない?」
「ホットでクールって文句なら聞き飽きたけどな。ま、プラスチック野郎はともかく――俺に“恋人がいる”つって笑ったときのあんたは、掛け値なしにいい女だったぜ?」
「ありがとう。やっぱり口説いている?」
「オーケー、考えてみろよ。すくなくともなまえとのラブコールがバレたら、あいつからフード抜きのRNCコースをキメられるのは決まってんだ。どんだけ危ない橋を渡ってんのかわかってくれてもいいだろ、ダーリン?」
「ハニー、アンドロイドにはロボット三原則って関係ないのかな……」
「よく知ってんな」

舌先三寸で叩きあう軽口は、まさか今日はじめましてをしたばかりとは思えないほど気安い。
いくら彼が正義の味方か、それにご厄介になる側か、お世辞にもぱっと判別しかねる風体といったって、昼間、お言葉に甘えて自宅まで送ってもらっていたかもしれないという他愛ない考えを否定する気にはならなかった。

「ま、なんにせよ上手くやれよ。お前らがどうなろうが知ったこっちゃねえが、あのストーカー野郎、隙あらばガン垂れやがって。いまも呼び出しくらってる署長室から圧がやべーんだよ」
「ギャビンがどこで電話をかけているか知らないけど、ナインには読唇技術もあるからあんまり顔を向けない方がいいよ」
「はあ? クッソ、マジかよ。そういうのは早く言えって」
「むしろどうしていままで知らなかったの、パートナーさん」
「うるせ」

ナインとわたしの悶着は酒場でやる与太話に毛の生えたようなもので、他の誰かに不平をぶつけるなんて、それこそ酔っ払いのたわ言と大差ない。
とはいえこうまで高圧的に「アレどうにかしろよ」と丸投げされると、なんとなく反感らしきものを覚えてしまうのは、自称ホットでクールなおまわりさんの人徳のなせるわざに違いなかった。
局所的とはいえ原因の一端を担っているご自覚がまるっきりないらしい彼に「応援ありがとう」と気乗りしない返事をして、わたしは通話を切った。




「リード刑事のセルフォンに、なまえ、あなたのデータが追加されていました。また、私がファウラー警部に呼ばれて席を外している間、あなた方が行った通話のログについても話をお聞きしたい」
「ちょっとわたしも感覚がおかしくなっている自覚はあるけど、デバイスのハッキングって違法だよね? ギャビンには許可を取ったの?」
「“ギャビン”?」

――ああ、墓穴だこれ。
掘った穴の愚かさ具合に気付いたときには、四〇インチ程度はあったはずのナインとの距離が詰められていた。
間近に迫るブルーグレイにうっかり見惚れそうになるものの、「バッカじゃねーの」と文字通り馬鹿にするように反り身になったギャビンの姿が脳裏に浮かんだため、わたしは頭のなかでいかにも不健康そうな顔面にビンタの一発でもくれてやる妄想を優先した。

「六時間四五分前にイースタン・マーケットで会話した際、あなたは彼を“リード刑事”と呼んでいましたね」
「そうだね……」
「以前から面識があったのですか?」
「あれが初対面だよ」

大人しく降参を示すように両手を挙げて、詰問口調のおまわりさんに身の潔白をアピールする。
ここには弁護人を要求する権利どころか、ストレートに「尋問か」と突っ込んでくれる刑事さんもいない。
ハンズアップの際、左肩にわずかに痛みがはしったものの、明日には違和感もなくなっているだろう程度には治まっていた。

宣言通り、恋人は夜にわたしの自宅を訪れた。
ご尊顔からは、いわく六時間四五分に及ぶ冷却期間がちっとも功を奏していないことが明白だった。
ご機嫌斜め具合が氷解してくれないかとはかない期待を抱いていたけれど、さすが超高性能アンドロイドさま、いざこざの顛末をひとかけらたりとも損なわないどころか、くだんのメモリーを反芻するのに午後の業務を費やしていたらしいと無言で呑み込まされた。

リビングの定位置であるカウチにきちんと腰掛けているのはナインだけた。
わたしは彼の両足をまたいで乗っかっていた。
すっかりお馴染みになってしまったシチュエーションは、甘ったるい恋人たちのふれ合いというより、被疑者を逃さないための尋問スタイルといった方がぴったりだ。
がっちりと腰をつかむ手付きは昼間の拘束じみたハグを彷彿とさせ、更に過去の恋人からもらったものを指して、まだプレゼントや贈り主に愛着を持っているのかと問われた、いつぞやの夜をも思い出させた。
彼の顔つきはあのときとそっくり、至って深刻そうなものだった。

「……なまえは、私と初めて出会ったときのことを覚えていますか」
「ナインほど鮮明ではないだろうけど」

まばたきの代わりみたいにナインはこめかみのLEDリングを点滅させた。

彼にはみっともないところばかり披露している。
主に異性関係でだ。
今日のことだけじゃない。
そう・・なるよう率先して働きかけたことは一度たりともないとはいえ、過去の対人関係から端を発したごたごたに見舞われるのは一度や二度のことではなかった。
ナインが持ち出したように、初めて彼と出会ったコークタウン路上での揉めごとといい、片付けを怠っていたせいで正面切って言い出されるまで、後生大事に過去の恋人からのプレゼントを飾り付けていた一件といい、よりにもよって誰よりも好ましく思ってほしいたったひとりに、つまらない醜態ばかりさらしてしまうのは、さすがのわたしだって居た堪れない心地がした。
いま、部屋の窓辺には、繊細なガラスの花瓶と色とりどりの花が飾られていた。
いずれも彼が贈ってくれたものだ。

特段、度重なるトラブルの原因がすべて自分にあるとは思わない。
だからといってわたしには責任も手落ちもまったくないと、胸を張って言い切れるほど厚顔無恥でもなかった。
あのときこうしていたら、ああしていたらなんて、過去をうじうじと引きずることほど無駄なものはない。
しかし、たとえば昼間の暴力男だって、もしも関係を断つことなく献身的に支えて続けていたら?
もしかしたら薬物に手を出すことも、往来でくだらない騒ぎを起こすこともなかったかもしれない、なにかが違ったかもしれない――なんぞ、いかにも悲劇のヒロインぶったセンチメンタルな妄想だ。

馬鹿げた感傷にひたる女と違って、DPDの優秀な捜査補佐官さまときたら、生後二年にも満たない清らか・・・な身の上である。
それでなくとも常に折り目正しく、一本気な性質に恵まれた彼が、過去の人間関係によって面倒や迷惑を引き起こすはずもなかった。
そろそろ軽蔑しきった眼差しを向けられてもおかしくない。
本格的に愛想を尽かされやしないかとわたしがおびえるのは当然の帰結だった。

黄色く明滅するLEDは、氷を連想させる冷淡な容貌よりずっと雄弁だ。
ナインは息苦しいほど慎重に言葉を探しているようだった。
上背も体の厚みも飛び抜けて大きな彼が、唇を引き結んでなにかに耐えるようにそうしてじっとしていると、いくら大切な恋人といったって、身じろぎひとつすらおっかなびっくりといったていになってしまう。
背に回った腕がなければ、威圧感や続く言葉に耐えかねて、あれこれ言い訳を連ねて逃げ出していただろう。
抱擁より拘束というべき、逃亡を阻止する尋問スタイルが「お話し合い」の場において有効だと最新鋭ヒューマノイドが学習してしまったのは、他でもないわたしのだらしなさが原因なのは疑いようもなかった。

置き場に迷ってたくましい腕へ軽く乗せていた手が、寒さのせいでぶるぶるふるえるのを堪えるように固く強張った。
形良い薄い唇から次に出てくる言葉がちっとも予想できず、おのずから思考は悪い方向へばかり傾いていった。

「なまえが元交際相手によって暴行の被害に遭いかけたのを、リード刑事が未然に防いだ。恋人として、私は彼に感謝すべきなのでしょう。ええ、リード刑事本人が言っていたように。しかし、当該のケースは……私と初見した際の状況と酷似しています」

底光りする目をナインがわずかに伏せると、高い頬骨に睫毛が影を落とした。
きれいだった。
睫毛どころか、その影さえも。
顔立ちは相も変わらず氷塊でつくった彫像めいて静かだったものの、青みがかった灰色の瞳に、かすかに不安げな光が滲んでいるように見えたのは、自宅の安っぽい室内照明がもたらした錯覚だったのだろうか。

ナインは、子どもがテキストブックを暗誦するみたいに一語ずつ区切って呟いた。
――「ですから、恋に発展しないとも限りません――私のように」。

嘘でしょ、と、わたしはまるで信じられないもののように自分に向かって言った。
嘘でしょ、そんなことを真面目な顔をして考えていたの? ずっと?
愛想を尽かされてしまったらどうしようとびくびくしていたのも忘れ、わたしはナインの端整な顔面をまじまじと見つめた。
平素といささかも変わらない真面目くさった表情と口調は、彼が冗談やおべっかのたぐいを吐いているのではないとはっきりと示していて、それが更に混乱に拍車をかけた。

「……“恋に発展しないとも限らない”? ギャビンと? ギャビンに助けてもらったから、お互いに好意を持つかもって?」

平生、問いに対して打てば響くように明瞭な回答を返す、捜査補佐モデルの後継機にしては極めて珍しいことに、彼はやや時間をおいてこくりと頷いた。
迷子さながらの邪気のない仕草は、白昼、イースタン・マーケット地区の路上で「逃げるな」とおどろどろしい圧をかけていた男とは同一人物とは思えないほどあどけなかった。

「……ナインは馬鹿だね」

黄色くまたたいていたLEDリングが、息を呑んだみたいに一瞬だけ赤く光った。
最新技術の粋を集めたサイバーライフ最高傑作のアンドロイドさまは、この手のストレートな罵倒にはおよそ不慣れのようだった。

「その理屈でいくと、暴漢から助けてもらった被害者はみんな警察官に、病気を治してもらった患者はみんな医者に恋しなきゃいけなくなるよ、生真面目スクウェアさん」

愛想を尽かされたのではと内心おびえていただけに、力が抜けてつい笑ってしまった。
馬鹿はわたしだった。
助けてくれた不良おまわりさんの言う「いい目」とやらが具体的になにを指すのか知ったことではないけれど、内容によっては付き合ってもいいかもしれないなんて、益体もない空想を描いていたのは事実だ。
もちろん、ナインと交際していなければという大前提つきでだけれど。

手を伸ばして、ちかちかと主張の激しいこめかみをゆっくりと撫でた。
なだめるような、教え諭すような口前が、恋人が抱いていた随分とラディカルな懸念を、無垢なほど澄んだ瞳くらいに晴らしてくれないだろうか。

「わたしの恋人はナインだよ。愛しているのはナインだけ。知っているでしょう? わたしは付き合っている相手がいるのに、別のやつによそ見するようなタイプじゃない。過去が過去だから仕方ないけど、恋人以外の男に色目を使うようなビッチ扱いされるのは……いい気分じゃないな。それともそんなにわたしは信頼がない?」
「そんなことは、」
「どうしたらナインは信じてくれる? わたしがナインしか見ていないって」

そこへ漕ぎ着けるまでに、わたしは長い回り道をしてきたのだった。
無遠慮なてのひらと言葉を大人しく受け入れているナインは、数時間前、ギャビンにストーカー野郎云々とあげつらわれたのがよっぽど堪えているらしい。
無言のまま、ぐっと眉根を寄せた。

DPDきってのエース捜査官はいつだって落ち着き払った顔色と態度を崩さない。
感情を露わにするのは滅多にないことで、冷静さを欠いた面差しは、性行為のときくらいしかお目にかかれないものだった。
だからといって、こんな、ひどい痛みに耐えるような形相をさせたいわけじゃない。
見惚れるほど精悍な顔が歪むさまは、一瞥したところ近寄りがたい雰囲気はなはだしい凶相だった。
端的にいって威圧感がとんでもない。
そんじょそこらの悪党がうっかり相対しようものなら、あることないことべらべら謳って、調書のページを際限なく増やしていたに違いない。

しかしながら既にいろんな面を見知っていると自負する恋人わたしの欲目には、慣れない葛藤にさいなまれているありさまは――こういっては本人は不服かもしれないけれど――、まるで転んで泣くのを堪えている我慢強い子どもみたいに映った。
つまり、思わず抱き締めて頬ずりしたくなってしまうほどいとおしかった。
深い影を刻んだ眉根も、緊張に固く引き結ばれた口元も、固唾を呑むように引き攣る喉も。

「聖なる唯一の魂」とやらを熱心に信奉し、アンドロイドには魂も心もないと主張するすべてのひとに、いまのナインの表情を突きつけてやりたかった。
懊悩する顔ばせは、見ているこちらの胸が痛むようだった。
けれど同時に、この世の誰にも――人間にも、アンドロイドにも、見せてやるものか、教えてやるものかという矛盾する感情が渦巻いた。
相反する情動はやがてうやむやにほどけて、どちらかを選ぶかより、目の前の形姿なりかたちは比類なく立派な、その実、初恋という、ただでさえ正しい答えというものがない厄介な問題に直面して苦悩している恋人の大きな体躯を抱き締めることを優先した。

いとおしい、かわいいと思ってしまった時点で、こちらの負けが決定したようなものだ。
人間関係は勝ち負けではないと、今更しかつめらしく能書きを垂れるまでもない。
とはいえナインには悲しそうな顔をしてほしくないし、わたしにできることならすべて叶えてあげたいと思う。
そう思ってしまうのは、わたしが彼を愛しているからだった。
それもとびきり熱烈にだ。

同意を求めるように、わたしは「前に言っていたよね」と微笑んだ。

「確か、“私の機体がなければ生きていけないようにしたくなる”……だったかな。ナインが本当にそうしたいなら、受け入れてもいいかなって思うようになってきたんだ。最近はね。ただ、そうする前に……ほら、ナインは海を見たことがないって言っていたでしょう? 一緒に海に旅行したいし、そういえば結局ホリデーはフランケンマスにも行きそびれたし……ナインとしたいことがたくさんあるの。だから、それがぜんぶ済んだら――そうしてもいいよ」

灰色の目が見開かれ、揺らいだ。
理知的という語をそっくりそのまま体現したかのような恋人が、一方ひとかたならぬ動揺に襲われているのは明らかだった。
たくましい腕が痙攣するみたいにゆるんだのを感じて、わたしの腕をナインの首へ回した。
彼がわたしを落っことすとは万が一にも考えられなかったけれど、一方的に抱き締められているだけでは不満だった。
その優秀な論理回路に教えてやりたかったのだ――捕まえているのは、捕まっているのは自分だけではないと。

「でも、やりたいことリストをぜんぶ叶えたとき、したいこととか、行きたいところとか、また増えているかもしれないね。――ナインはどうしたい?」

それはいつか交わした問答だった。
あのとき気圧されたように口をつぐみ、相手の言葉に身構えていたのは、わたしの方だった。
「先のことはわかりませんが、約束をしたいです」とナインは言った。
夏にふたりで海へ行く約束を果たすまでは、彼の望みは叶いそうになかった。

ナインはがっくりと項垂れ、わたしの肩へ額を寄せた。
ようやく口を開いたかと思えば、ひどく口惜しそうに「私の機序に不具合が発生しているなら、なんらかの修復措置を取れたのに」と独り言じみた声を漏らした。

「なまえ。一点、報告があります。先日、事件現場に踏み込む際、生体パーツを破損したため脚部を交換しました。いまあなたを乗せている左足です。その時点で最適な行動だったと確信します。おそらく他のいかなる予測プログラムでも、私と同じ判断を下したでしょう」

いかにも公的機関に属する機械然とした口調でナインは言った。
そして、なけなしの勇気を絞り出すみたいに必要のないひと息をついた。
二酸化炭素を伴わない溜め息は、直前の、業務報告書を読み上げるような物言いとのギャップもあいまって、すこぶる人間くさく映った。

「いままで伝えずにいたのは、破損と交換した事実をあなたに明かすべきかどうか、結論を出すことができなかったためです。しかし今日、私の目の届けないところで、もしあなたが怪我をしていたらと思うと――苦しくなりました。あるいは胸を痛めると形容するのはこういった心地なのかもしれない」

彼は殊更に低く抑えた声で続けた。

「昼間の一件、なまえが隠匿を図ったことについても同様の痛みを感じました。リード刑事が口外しなければ、あなたはなにもなかったことにしたでしょう。無論、交際しているからといって、互いに細大漏らさず報告する義務はないと理解しています。苦しいと、私がそう感じただけだ。あなたに強要することはない。ですが、」

ナインはたっぷりの沈黙をおいたあと、おそるおそる囁いた――「私の知らないところで傷付かないでください」。
あたかもその要請によって、張り詰めた風船を針で突くみたいに、わたしの我慢の限界を超えるのではないかと心の底から恐れているかのようだった。

しかし、まさか「傷付かないでください」なんて!
どうして恋人の身をあんじての懇願を素気なく突っぱねることができるだろう。

こうべを垂れる巨躯を抱き留めたまま、わたしはくだんの左足をちらりと見下ろした。
服越しとはいえ、文字通り新品の足は、幾度となくふれただろう以前のものとまったく見分けがつかなかった。
言われないと気付かなかった。
気付けなかった。
それが悲しい。
苦しい。
ナインが言っているのはこういう気持ちなのだと、自分の実感として汲み取り、呑み込むことができた。

わたしたちは言葉を交わしてしか、お互いのことを知ることができない。
でもそれは、彼がシリウムと合成樹脂でできているからじゃない。
仮に等しく血液やタンパク質で構成されていたとしても同じことだ。

「わたしもごめんね。昼間のこと、隠そうとして。ナインにはみっともないところばかり見せているでしょう? 出会い方もロマンチックどころか、ろくでもなかったし……いい加減、呆れられてもおかしくないって不安だったの。でも……わたしも、わたしの知らないところでナインが怪我をしたらって思ったら苦しい。……もちろん、目の前でだって嫌だけど。ナインに教えてもらわなきゃ、気付けない自分にも腹が立つ」

ひとが真実まったく他人を理解することはない。
自分と他人を適切に区別する意識と同時に生まれる隔たりは、いまわしい永久不変の溝みたいに、わたしたちの間に大きな顔をして横たわっている。
しかしそれでも、相手を理解したいと努めることも、思いやることもわたしたちにはできる。

「ナインが嫌だと思ったこと、苦しいと感じたことは教えてほしい。ぜんぶを言う通りにできるかは約束できないけど、できるだけナインの要望を叶えてあげたいって思っているよ」

ナインを愛しているから、と告げると、ナインは弾かれたように顔を上げ、大きな図体をして子どもみたいにぎゅうぎゅうと抱き着いてきた。

「なまえ、なまえ……」
「うん」

すこし苦しいくらいの力加減が心地いい。
ふれ心地に難があるサイバーライフ社製の上着を脱いだ彼の背を、わたしは繰り返しやさしく叩いた。
その動作が効果を発揮する相手は、どうやら幼い子どもに限ったことではないらしかった。

ひとしきり背中を撫で叩いたあと、標的をそこからほど近い襟首へと転じた。
普段はシャツの高襟できっちりと隠されている、彼の襟足のざりざりとした感触をわたしは密かに気に入っていた。
このままぴったりくっついて、混ざり合って、考えていることも、悩んでいることもひとつ残らず共有できたらいいのにと、短い髪の感触を楽しみながらとりとめもない空想にふけった。

ナインは気付いているだろうか。
項垂れて、自分よりもずっとちいさく弱く、愚かなものへすがりつく姿は、あたかも罪を告白する教徒のように、救いを求める受難者のようにも見えた。
アンドロイドはなにに祈るのだろう。

「――恋とはこんなに苦しいものなのですか」

ふいにナインが呟いた。
灰がさらさらと落ちるような、ほそく頼りない問いかけだった。

にわかに胸のうちに生まれた感情に驚き、わたしはほんのすこしだけ自分のことが嫌いになった。
そのとき唐突に理解したからだ。
返答によっては、繊細なガラス細工を砕くよりも容易く、芽生えて間もないやわらかく、もろい彼の心を粉々にすることがわたしには可能だとわかったのだ。
それだけでなく、致命的な甘ったるい破壊の力にわたしは喜びを感じていた。
それはまぎれもなく喜びだった。
明敏な頭脳と強靭な身体を持ち、どれだけ危険な事件現場だろうと凛々しく立ち向かう、たぐいないひと。
そんなナインが恐れるものは、いまこの世界にきっとわたしだけだった。

「……そうだね。苦しいね」
「なまえも私との交際において苦しむことが?」
「なくはないかな。でも、それより嬉しかったり幸せだなあって感じることの方がずっと多い。それにどんなに苦しくてもナインのそばにいたいよ」
「私もあなたと離れたくない」
「じゃあ一緒に苦しんでくれる? その代わり、嬉しいのも幸せなのも一緒に感じようね」
「……はい」

聞き分けの良い子を褒めるように、薄い頬を両のてのひらで包んだ。
ひととは異なる感触の頬をやさしく撫でながら、どうかわたしのせいでいつまでも苦しんでいてほしいと、そしてそれがかすむほどの圧倒的な喜びや幸福を、他の誰でもない、わたしが一等与えられるようにと願った。
途方もなく利己的で、傲慢な願いだった。

しかし芽生えたばかりの感情に苦しめられ、厄介な女とかかずらううち日毎夜毎に欲深くなったと恋人が悩んでいたように、なんたってこちとら倍どころではない稼働年数を誇るのだから、業も欲もいやましに深くなってしまうのは道理だった。
「女の愛を恐れよ。かのさちを、かの毒を恐れよ」とかいうやつだ。
もちろん、ナインはわたしに手を上げることはないし、わたしは大人しく愛するひとを離す真似なんかしないけれど。

水気を帯び、潤んで見えるブルーグレイに苦笑し、目尻に、額に、頬に、そして鼻の上にキスをした。
唇を離してゆっくりと視線を合わせた。

「なまえ、」

焦れたように、端整な顔ばせが熱っぽくしかめられた。
わたしが欲しくて堪らないと必死に訴えかけてくるみたいだった。
氷をたたえた灰色の瞳を見つめながら、お望み通り唇を重ねる。
そっと伏せられた睫毛のうつくしさに飽きもせず見惚れた。
一部始終を、ガラスの花瓶と活けられた花たちが静かに見ていた。


(※引用はツルゲーネフ『はつ恋』より)
(2024.01.23)
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