――これほど救いようのないクソ野郎だっただろうか。
汚らしく唾液を飛ばして喚いている男を眺め、思わず首をひねってしまった。
親しい同僚女性いわく「男運が悪すぎる」との不名誉な評価は、折にふれて否定してきたものだったけれど、意固地なわたしもさすがにかんばしくない星回りを認めるべき頃合いらしかった。

土曜日のイースタン・マーケットは、家族連れを筆頭に多くのひとで賑わっていた。
まとめ買いに重点を置いた巨大なファーマーズマーケットでは、折りたたみのコンテナボックスを抱えた老若男女、子どもを乗せたショッピングカートを引っぱる親たちが行き交い、デトロイトでもとりわけ治安がよろしいとはいいがたい北東エリアにあっても牧歌的な光景が広がっていた。

しかしファーマーズマーケットを後にし、歴史ある倉庫街や古めかしい煉瓦の建物が途切れた矢先のことだった。
活気あふれる市民たちの営みにそぐわない陰気な人影が、わたしの目に飛び込んできたのは。
それはかつて交際していた男だった。
休日に元恋人と偶然出くわすほど居心地が悪いものもなかったけれど、彼がどこのマーケットに足を運ぼうとこちらが注文を付けるべくもないことくらい、わたしも弁えていた。

素知らぬ顔でやにわに方向転換するには近付きすぎていたし、正面から歩いてくる彼と既にしっかりと視線までかち合っていたこともあり、当たり障りなく「久しぶり」と片手を挙げた。
順当にいけば「最近はどうしているの?」云々、破局してから数年ぶりに再会した元交際相手として相応のコミュニケーションを図っていたはずだ。
しかし誰が予想できただろう――まさか挨拶のために挙げた左腕を突如ひねり上げられ、あまつさえそのまま路地裏へ引きずり込まれることになるなんて?

力任せにつかまれた腕はぎりぎりと鈍い悲鳴をあげていた。
さすがに折られはしないだろうと信じたかったけれど、指先はとうに痺れ冷えていた。
ねじ曲げられた左肩は、激昂した男がでたらめに振り回すたび、関節が外れやしないかと危ぶむほどがくがくと不穏当な揺れ方をした。

「……いい加減、離してくれる。痛い」
「お前が! 俺を捨ててから! 俺がどんな思いでいたと思ってるんだ!」
「知るわけないでしょ」

不分明な怒号が耳を突き刺した。
失言だったと打つよりも、出し抜けに浴びせられた怒鳴り声による戸惑いとおびえが先んじて舌を凍らせた。
男の落ちくぼんだ目元やむさ苦しい無精ひげに覆われた顔ばせに、交際していたころの面影は微塵もない。
すれ違うほど接近するまで気付けなかったのもさもありなんといった具合だった。

充血した白目や乾いた唇、なにかに追い立てられているかのように忙しなく体を揺する挙動は、素人目から見ても明らかに典型的な薬物中毒者のそれで、縁が切れてからの数年の間に随分と落ちぶれたものと窺えた。
どうやら時間の経過や順序、記憶も混濁しているらしい。
というのも、先程から繰り返している「捨てられた」という主張や被害妄想は、まるきり事実と異なるからだ。
こちらの記憶が正しければ、別れを切り出したのは怪しい呂律で未だ喚いている男の方で、加えて至って円満にお別れしたはずだった。

もしかしたらわたしをわたしと認識すらしていないのかもしれない。
耐えがたいほど臭い呼気も、お門違いの罵詈雑言も、一片たりともまともに取り合いたくなかったとはいえ、これっぽっちも身に覚えがない懐古談まで槍玉に挙げているありさまから、わたし個人に対する恨み言というより、彼から去った女性たちすべてへの憎悪をまき散らしているらしかった。

わたしはあんたのママじゃないと真っ当に諭してやる道理も、要領を得ない不幸自慢に付き合ってやる義理もなかった。
かといって腕力で劣る以上、無理にふりほどくことも敵わない。
ほんの数ヤード先の表通りに広がっているはずの牧歌的な光景を遥か遠く感じながら、わたしは溜め息をついた。

地元住民だけでなく観光客も闊歩するイースタン・マーケットといえど、ほそい路地を一本二本も入れば途端に廃屋が立ち並び、うらぶれた雰囲気が滞留する霧みたいに押し寄せていた。
ここも周囲の汚れや雑草の生え具合などから、かれこれ数年来、わたしたち以外に踏み入った者はいないようだった。
実際、薬物中毒者がこれだけ埒が明かない呪詛を唱え続けているというのに、往来から助けの手が差し伸べられるきざしは一向にない。
ひとり芝居の怒鳴り声が仮に届いていたとしても、厄介事に巻き込まれたくない善良な市民の判断を、懸命だと拍手しこそすれ、非難する筋合いはなかった。

相手の様子から、場を穏当に収められる時期はとうに過ぎているのは明らかだった。
降り注ぐ怒声にひるまなかったとはとてもいえないけれど、しかし状況や打開策について冷静に考えられたのは、ここがデトロイトの北東とはいえ、そのなかでもまずまず治安が保たれているイースタン・マーケット地区だったからだ。
隙がない人間なんていないし、わずかでも力がゆるめば、突き飛ばして逃げ出すつもりだった。
表通りに駆け込んで群衆にまぎれさえすれば、お薬に溺れ切ったぼんくらをまくことはさして難しくないはずだった。

しかしそうしてどうにか内々つけていた算段を、そっくりそのまま打ちやらざるをえなくなったのは、男の左腕がなんの予備動作もなく、突如として振り上げられたためだった。
慎重に隙を窺うのではなく、しゃにむに暴れてでも拘束から逃げ出すべきだった。
わたしの腕をひねり上げたのと反対側、それまでぶらぶらと不随意に揺れていた男の左手が、にわかに振りかざされるのを目で追ったときには、既にそれが遅きに失したことを悟った。
見るからに硬そうなこぶしには鬱憤と暴力の衝動が込められており、いい思い出ばかりだったとはいえないけれど、確かに残っていたはずのあらゆる情や記憶をぶち壊すのに、躊躇どころか理性すらも持ち合わせていないようだった。

「そこら辺にしとこうや、な?」

男のこぶしがわたしの顔面めがけて振り下ろされる折も折、割って入ったのはいかにも億劫そうな呼びかけだった。
第三者の声は、心の底から面倒臭そうな気色を隠すどころか、慎み深く胸のうちに抑え込んでおく気もないらしかった。

背後から現れたのは、声の印象からまったくたがわない辟易した面持ちの男で、暴力野郎の腕を捕らえて、煉瓦の壁へ押さえ付けていた。

「仮にそこの姉ちゃんをぶん殴った場合だ、傷害は免れねえだろ? つまんねえ痴話喧嘩でこっちの仕事増やすんじゃねーよ。見たとこ、叩くまでもなく出てこなくていいもんまでぼろぼろ出てきやがりそうだし。ちんけなDV男ひとりお連れしたところで、留置場はシェルターじゃねえし、俺が稼げる点数もたかが知れてんだわ」

到底、暴漢から救い出してくれたヒーローとは思えないセリフをのたまった男は、上着からちらっと徽章きしょうを覗かせた。
そこにベルトにはさみ留めしたバッジがなかったなら、助けていただいた当事者にもかかわらず、およそ正義の味方と信じるのが難しいアウトローっぷりだった。

「大人しく尻尾巻いて逃げてくれりゃあ、いまならこっちも見なかったフリしてやっからさ。回れ右して帰れよ」

駄目押しみたいにそう言い募った警官は、決心が付きかねるようにうろうろと視線をさまよわせている男の背を、大げさなジェスチャーと共に押してやった。
取り押さえられて気勢をそいだのか、はたまた提示されたバッジがよっぽど都合が悪かったのか、もはや元恋人ともいいたくないろくでなしは、自称おまわりさんに促されるままに、ふらふらと表の雑踏へ呑まれていった。

「……助けてくれてありがとうございましたって言うべき?」

私服姿の警官をにらむ。
助けてもらった手前、真っ向からののしりはしなかったけれど、手放しで感謝するのはなんとなく癪だったからだ。
往年の名作映画みたいに「Dead or alive, you're coming with me.」なんてヒロイックな逮捕劇を期待していたわけではないけれど、場を収めるための交渉ややむをえない方便ではなく、彼の「仕事を増やすな」という文句が本心からのものだとありありとわかってしまう口調といい、態度といい、反発を感じるのも仕方のない話だった。
一時的に危険は去ったとはいえ、あの様子では薬物中毒男が遅かれ早かれなんらかのトラブルを起こすのは目に見えていた。
ああやって放逐するのは、ただ問題を先送りしたのとどう違うのか。

ハグとキスで称賛されない原因に思い当たる節があるのか、彼は「悪かったよ」と肩をすくめた。

「でも俺いま単独だしよ。下手に銃ちらつかせて、教科書通り滑稽な“フリーズ!”なんぞ披露しようもんなら、その瞬間に暴発すんだよ、ああいう手合いは。まともにおつむが回ってるとも思えねえヤク中にイースタン・マーケットのど真ん中で暴れられてみろよ、始末書どころの話じゃねえ。だろ?」

センセーショナルな連続殺人ならばいざ知らず、ちんけな傷害事件程度かかずらっていられないとばかりの言い草は、やはり正義の味方らしくない。
短髪の下の顔立ちは整ってはいたけれど、鼻梁にこしらえた物騒な向こう傷や、目の下の不健康そうなくまのせいで、そこらのチンピラと大差ない風体だった。
同業であるはずの、優秀な捜査補佐官さまの立派な姿をよく知っている身としては、あまりの落差に呆れてしまうのももっともだ。

裏路地からやっと脱出し、ずきずきと痛む左肩をかばうように押さえつつ、大きく息をついた。
幸い脱臼も骨折も免れたものの、左腕はまだ痺れている。

「次に会ったときにわたしが怪我でもしていたら、良心の呵責とか感じてくれる?」
「そんときはスピード逮捕してやるから、あいつの連絡先だけでも聞いとくか。ついでにあんたのも。あんなんよりマシなお付き合いは約束するぜ」
「刑事さん、恋人いないでしょ」

口説き文句としては最低ラインに位置するお誘いを一蹴して、セルフォンを取り出した。
タクシーを手配するためアプリケーションを開こうとした矢先に、しかし端末をひょいと取り上げられた。
犯人はひとりしかいない。
恋人ほどではないにせよ十分長身の部類に入る彼を軽蔑しきった目でにらむも、窃盗犯は意に介した様子もなくひとの電子機器を操作した。
すぐに返却されたセルフォンにはデータがひとつ増えていた――ギャビン・リード刑事の連絡先が。
この場で消去してやろうかと考えあぐねていると、ちっとも正義の味方らしくない不良刑事が下手くそなウインクを寄越してきた。

「ま、あいつが戻ってこないとも限らねえからな。おまわりさんが家まで送ってってやるよ」
「送ってくれるのは助かるけど、お生憎さま、恋人がいるから家にはあげないからね」
「あ? なんのプラスにもなんねーのに、頭のネジが吹っ飛んだヤク中を追っ払ってやったんだぜ。すこしくらいいい目見たっていいだろ」
「仕事をサボる口実にしか聞こえない」
「ンなことねえって。俺を信じろよ、ダーリン」
「かっこよくDV男を逮捕して豚箱にぶち込んでくれていたら考えたかもね、ハニー」

ぽんぽんと交わす気安い応酬は、正直なところわたしの慰めになっていた。
腕の痛みは未だ癒えないものの、すくなくとも襲われていた緊張やおびえはずっと和らいでいた。
万が一あたたかい毛布やだの善意による労りの言葉だのに包まれて、可哀想な被害者扱いされていたなら、期待にお応えしていまごろみっともなく泣き崩れていたかもしれなかった。
もちろん、リード刑事がそれを見越して殊更に不真面目にふるまっているわけではないのは、初対面であるわたしにもとっくに呑み込めていたが。
下品なワードセンスや嫌味ったらしいジェスチャーの数々は、一朝一夕に身に付くものではない。
普段からこんな感じで傍若無人な素行のひとなんだろう。
とはいえもしもいまフリーの身の上だったら、彼の言う「いい目」とやらを見せてあげるのもやぶさかではないくらい、救われていたのも事実だった。

「ところでその恋人とやらも、アレみたいなクソ野郎か?」
「ご心配ありがとう。比べるのすら申し訳ないほど、素敵なひとです」

なんといったってDPDきってのエース補佐官であるところの恋人は、生真面目すぎるきらいはあるものの、そこらの有象無象と比較することすらおこがましいほど素晴らしいひとだ。
悪感情を抱きようもない整った見目形だけでなく、ナインはその人格までとびきり優れているのだから、どうしてわたしなんかと交際しているのか不思議なくらいだった。

恋人に思いを馳せるだけでだらしなく頬がゆるんでしまうのを、古往今来とがめられるいわれはないだろう。
気楽な受け答えのおかげで薄れていた不安や恐怖心が、思い浮かべたナインの姿によってついにすっかり消え去った。
見るに耐えない、よっぽど締まりのない顔をしていたのか、リード刑事は面白くなさそうに「どうだか」と鼻で笑った。

「――なまえっ」

今日は心臓に悪い一日だ。
なんの前ぶれもなく突然、背後から引っ張られたかと思えば、わたしの後頭部は、人間でいうところの胸――彼らの心臓部というべきポンプ調整器が収まっている、取りも直さず急所のひとつである胸部にぶつかった。
いきなり人体を引き寄せる荒っぽさとは裏腹に、ぶつかる瞬間、運動エネルギーを完璧にコントロールした動作によって勢いを殺され、わたしの頭にも背にも衝撃はほとんどなかった。

名前を呼び、絶妙な力加減でわたしを抱き寄せた犯人は、拘束としさして変わらない体勢のまま落ち着いてしまった――右手でわたしの右腕を、左手でわたしの腹を押さえるようにして抱きすくめるというポーズでだ。

わたしを引き寄せたのは温度のないてのひらだった。
こんな状況なのに、場違いにもそのときわたしが安堵していたと露呈したなら、危機感がないと叱られてしまうだろうか。
――ああ、ナインの手だ。

彼の乾いたてのひらは、暴力男の粘ついた手指の感触を払拭してくれる効果までそなえているらしい。
背後の人物の胸へ後頭部を預けたままぐいっと顎を上げる。
果たしてわたしを抱き寄せたのは、ちょうど思い描いていた恋人だった。

「RK900、なにか発見したのか? 突然走り出すから驚いたよ――ゲッ」
「おいクソプラスチック、いま人間様のツラ拝んだ瞬間にゲッつったろ」
「おや、人間様の健康診断では聴力検査も行うはずですが、リード刑事?」

息も乱さずナインの後を追いかけてきたのは、同じ顔をしたRK800コナーだった。
ただしこちらは表情のレパートリーがずっと豊富だったが。

どうやらリード刑事とも既知らしく、コナーは良くいえばざっくばらん、率直にいうならすこぶる偉そうに反り返った。
居丈高に顎を突き出した所作に、以前ナインに紹介されたときの、いかにも好青年然とした物腰は見当たらない。
しかし弟もとい後継機が捕獲しているのがわたしだと気付くや、ぱちぱちと目をしばたかせた。

「なまえ、お久しぶりですね。会えて嬉しいです」

非の打ちどころがない朗らかな笑みと共に軽く会釈される。
デトロイト市警とひと口にいっても数ある分署のなかで、まさか彼らが顔見知りだとは思わなかった。
本当に同一人物のものなのかいぶかしんでしまうほど落ち着きすましたコナーの笑顔に、わたしは「ええ、はい……」と曖昧な返答を差し出すしかなかった。

なにしろ依然としてナインはわたしを抱え込んでいたし、正面ではリード刑事が車のヘッドライトに照射された鹿のような面持ちで立ち尽くしていた。
四分の二がアンドロイド、四分の三がデトロイト市警の署員という、生まれてこの方さっぱり馴染みのないシチュエーションに目を白黒させていると、正面に突っ立っていたリード刑事が心情を代弁してくれた。

「なんだこの状況」




「つまり、元恋人の男がなまえに詰め寄っていたところを、偶然通りがかったリード刑事が制止した。リード刑事は単独だったこともあり、犯人はそのまま逃走――ここまでで錯誤はありませんね?」
「はいありません」

言い訳も反論も無駄である。
灰色の瞳をしたわたしの恋人は、悪名高きデトロイトの悪漢共さえをも無様にちぢみ上がらせる鋭い眼光をお持ちであり、ひとえに「男運が悪すぎる」だけのしがない一般人には、反論の余地も抵抗の手段も残されていないのだ。
大人しく項垂れるわたしの横で、リード刑事がぼそっと「尋問かよ」と漏らした。
その感想には全面的に同意である。

なんと三人は同じ分署に勤めていた上、リード刑事はナインとバディを組んでいるというのだから、驚いて思わず彼らの顔を見比べてしまったものだった。
これは余談だけれど、彼が休日にナインを容赦なく呼び出していた元凶なのを知り、上がりかけた好感度が大幅にダウンした。

先程まで雁首を揃えていたRK800コナーといえば「僕はまったく関係ないからね」とにこやかに一抜けしていた。
「900はなまえから状況をお聞きしたいようだ。現場に居合わせたリード刑事にもね。僕は先に署に戻っているから時間稼ぎは任せて!」と親指を立てて颯爽と走り去っていった。
あれほど清々しく、かつ薄情なサムズアップは見たことがない。
逃走する背中に向かい、リード刑事は「テメェ、俺だけ犠牲にすんじゃねーよ!」と叫んでいた。

犠牲とは穏やかでない。
とはいえ、まあ彼の言うことにも一理あった。
なにしろご同僚の目前にもかかわらずわたしを背後から抱きすくめたきり、依然として解放する気配すらない恋人ときたら、直視するのがはばかられるほどの威圧感を放っていたからだ。
見上げると首を痛めそうなこともあって、結果、わたしは正面のリード刑事のそれはそれは不機嫌そうな凶相を眺める他なかった。

リード刑事は「俺は関係ねえだろ」ととめどない悪態を開陳しつつも、問答無用で同座させられていた。
この様子ではナインの生真面目かつ融通が利かない性質に、なんだかんだ言いつつ日頃から付き合っているのかもしれない。
実際、あれほどくだを巻いていたのに、いまは大人しく同席してくれているので、彼も取り調べモードに入った相棒バディになにを言っても無駄だと理解しているのかもしれなかった。

勤務中であるはずの彼らに速やかにお仕事へ戻っていただくためにも、穏便に場を解散させたい。
ひとまず拘束じみた腕のなかでなんとかぐるりと反転すると、規格外の長身を誇るナインを仰いだ。
黄と赤に明滅するLEDリングがそこはかとなく不穏だ。
上目遣いでの媚びへつらう仕草がアンドロイドにも通用するのかどうか怪しかったけれど、なけなしのかわいげを駆り集め、誠実そのものといった声で「後ろからより前から抱き締めてほしいな」と微笑んだ。

「ナインはわたしのことを心配してくれているんだよね。ありがとう。でも大丈夫だよ、ご覧の通り怪我はないしなにもなかったから」
「リード刑事?」
「俺が割って入んなきゃ間違いなくぶん殴られてたし、いまごろ意識があったかどうかも怪しいな。感謝しろよ、クソプラスチック。テメェのかわいいガールフレンドのお顔が滅茶苦茶にならずに済んだのは、俺のおかげだぜ」

心底かったるそうに頭の後ろで腕を組んだリード刑事はなんのためらいもなくそうのたまった。
とどめとばかりに「そういやひん曲げられてた肩は無事か?」と聞く吊り上がった口の端ときたら、あたかも相手の泣きどころを見付けるや否や、突付き回すことに嗜虐的な喜びを見出しているかのようだった。
リード刑事の口ぶりはこちらがぶん殴ってやりたいくらい腹立たしい塩梅で、ごく浅い付き合いとはいえ、わたしのことを心配してのものではないとはっきり理解した。
コナーとの好戦的なやり取りを参照するに、さぞかし署内でもその横柄っぷりを披露してはばからないんだろう。

余計なことを! とリード刑事をにらみつけようとした。
が、それよりも先に恐ろしく抑揚を欠いた声が頭上から降ってきた。

「なまえ」
「ひっ、はい」
「これまでの恋人の情報を開示するよう求めます。無論、ひとり残らずです」
「拒否権とか黙秘権ってないの……?」
「特にありません」

ナインの声音はぞわりと総毛立つほど冷えきっていて、思わず姿勢が伸びた。
小枝が一本折れてもびくっとしてしまいそうな静けさだった。
見上げたこめかみのLEDは、相も変わらず黄色と赤を行ったり来たりしている。
無表情でとんでもない要求を突き付けてくる恋人に、深々と溜め息をついた。

「仮に教えたとして、ナインはどうするつもり?」
「全員のデジタル端末の位置情報を取得し、なまえの半径一〇〇ヤード内に当該の人物が接近した場合、即座に警告を発します」
「おまわりさんたすけて」
「私もリード刑事も、市警所属の者ですが」
「世も末」
「おい俺まで一緒にすんじゃねえ」

さすがに黙っていられなかったのか、リード刑事が口を挟んできた。
すくなくとも自分も「理想的なおまわりさん」には程遠いことは自覚していてほしいけれど、どちらの意見に同意したいか問われればそれは彼の方だった。

「ナインはまずプライバシーって概念を学ぼうね。優秀な頭をそんなことに使わないで……サイバーライフの技術者とか泣くんじゃないの。ただでさえわたしの現在地まで把握するのに、わざわざリソースを割いているんだよね?」
「おい待てよポンコツ、お前、女の位置情報まで把握してんの?」
「なまえの自宅のデジタル家電製品やセルフォン、ウェアラブルデバイスは私の管理下にあります」

突如吐き気をもよおしたみたいに、リード刑事がげえっと舌を出した。
これ以上ないというほどしかめた渋面の理由を、懇切丁寧に説かれる必要はなかった。
言いたいことはわかる。

「なァにが“素敵なひとです”だよ。パネル詐欺もいいとこだぜ。とんだクソ束縛ストーカー野郎じゃねえか」
「ひとの恋人をストーカー呼ばわりはやめて。誰だって覚えがあるでしょう、初恋で、なんていうか……こういう感じになっちゃうの……」
「なまえ、“こういう感じになっちゃう”という発言の内容について詳細な説明を」
「なあ、あんた、なまえだっけ? やっぱ俺にしとかねぇ? 童貞プラスチックよりは満足させてやれるって、絶対」
「この状況で口説けるバイタリティはいっそ尊敬するけど、度胸試しなら余所でやって」

ギュルギュルと音が聞こえないのが不思議なほど激しく明滅する、不穏極まりないLEDがリード刑事の目には入らないのだろうか。
依然としてわたしを拘束もとい抱き締めているナインの顔は、いつも通りなにを考えているのかよくわからない静かなものだったけれど――とにもかくにもLEDリングが。
まずい。
ものすごく怖い。
さながら爆発まで数秒を切った時限爆弾の液晶パネルを凝視する心地で、ナインの頬に手を伸ばした。
ふたりきりならともかく、ひと前でべたべたするのはあまり好きではなかったけれど、いよいよ進退窮まったらキスの一発や二発をかますことも辞さない覚悟を固めつつ、頼むから落ち着いてくれと念じながら薄い頬を撫でた。

「つーかプラスチック風情が一丁前に束縛男ぶってるわりによ、デカい事件がありゃ平気で 缶詰 クープドアップやってるよな、お前。オフィスで連絡取ってるとこも見たことねーし。クソプラ一号とは知り合いっぽかったけどよ、俺はなまえのこと全然知らなかっただろ。隠れてこそこそちち繰り合ってやがったわけ?」
「特段交際を隠していたわけでは。RK800コナーだけでなくアンダーソン警部補もなまえと面識があります」
「まあ、機械野郎のプライベートご事情なんぞ知りたくもねえけど。いまはなぜか巻き込まれてるけどな! ――要請でもなけりゃオフィスから出もしねえし、かわいいガールフレンドにさみしい思いさせちゃってんじゃねーの?」

いまは黙っていてほしかった。
なんならわたしがナインに抱き着いて健気に足止めしている間に、さっさと退却を決め込んでくれていたらと願わずにはいられなかった。
ひょいとわたしの顔を覗き込んでくるリード刑事は、ひとの努力を無に帰す才能があるに違いない。
この感懐は、彼の一連の言動によって一層強められた。

わたしたちのごたごたに付き合っていられないとばかりに――そのわりに立てられる波風には余念がなさそうだけれど――、リード刑事は自分のセルフォンを取り出した。
退屈そうにデバイスを操作している彼へ顔だけ向き直り、ナインはいまなお腕のなかに女ひとりを閉じ込めているとは思えないほど真面目くさった口調で答えた。

「事件発生時は任務を優先し、連絡も控えています。これはお互いに了承済みです」

ナインの言う通りだった。
のべつ幕なしに「いまなにしてる?」だの「会いたいよ」だの、つましくも愛らしいコミュニケーションに没頭するのは、わたしたちの性分に馴染まなかった。
会えないときは会えない、連絡を寄越せるなら寄越す、優先すべきことがあればそれを優先するというナインの簡明直截なスタンスは、変に勘繰ったり気を回しすぎたり、思わせぶりな駆け引きプレイングといった、対人関係に不和を生じさせる要因の多くを的確に排除していた。

優秀な捜査補佐官はかくあるべしと明文されているかのような真っ当な返答は、しかしDPDの不良警官の胸にはまったくもって響かなかったらしい。
リード刑事はセルフォンを操作する片手間に、ナインの潔い行動様式を「俺が言えたことじゃねえけど」と無造作に一蹴した。

「仕事が忙しいときは放置プレイかまして、そのくせ自分は束縛厳しいやつってよ、クソ野郎の代表格だよな」
「……“クソ野郎の代表格”」
「そんなことないからね。ナイン、落ち着いてね。あとリード刑事はちょっと黙っていてくれます?」

見惚れるくらい端正なナインの顔面と声音から「クソ野郎」と繰り出されるのは、思いの外衝撃が大きい。
相棒パートナーの言葉を復唱した恋人は、どこか呆然としているように見えた。

「……私は、」
「――時間切れだ、童貞ストーカー。戻るぞ」

ナインはなんと言おうとしたのだろう。
続きを聞くことはできなかった。
考えうるなかでとびきり下劣な呼称でひとの恋人を呼ばったリード刑事が、操作していたセルフォンを掲げてさえぎったからだ。
彼はだるそうに後頭部をがしがしと掻き、モバイル端末でナインの頭を軽くはたいた。

「クソプラ一号の時間引き延ばし工作もそろそろ限界らしい。さっきから署に戻ってこいってうぜえんだわ。お前にも届いてんだろ、連絡。おかげでこっちまでクソ煽りメッセージが来てんだよ。ご丁寧に中指の絵文字ミドルフィンガーまで添えやがって」

行くぞとナインの襟首をつかんだリード刑事は、ようやくわたしを解放させた。
なんらかの衝撃から未だ復旧できていないらしい補佐役パートナーを、猫を放り投げるみたいに車道へ押しやった。

「タクシー呼んでこい、ポンコツ。なまえの分もな。そんで痴話喧嘩は家でやれ」

遺憾なくレイシストぶりを発揮する口から吐かれたもののうち、それは間違いなく本日一番まともな発言だった。
ちらりと見えたセルフォンがアカウントをブロックした旨を表示していたのも、先方がコナーだったのも、見間違いであってほしいけれど。

鬱陶しそうな仕草でジャケットへ端末を突っ込んだリード刑事は、ふいにくるりとこちらを振り返った。
ずいっと顔を寄せられ、鼻梁に刻まれた物騒な向こう傷が眼前に迫った。

「なに? 恋人をボロカスに言われてご機嫌斜めなんだけど、わたし」
「俺は事実しか言ってねえ。……じゃなくてだな」
「まだなにかことを荒立てようって?」

違えよ、とリード刑事はいかにも面倒臭げに鼻を鳴らした。
さしずめ彼にもこの街にも無縁な、ありがたいお説教を垂れる老牧師じみた咳払いをひとつこぼすと、親指でぐいっと後方のナインを指さした。
一際低く潜めた声でリード刑事は呟いた。

「確かにありゃあ、ハイになって女に手ェ上げるクソッタレよりかはマシだろうよ。そこらの商売女より、とびきり不感症揃いのあいつらにヤクなんざ大層なモン、たしなめられやしねえからな。クソの役にも立たねえ化学式のご講義を聞かされんのがオチだ。――けどよ、あんたもさ、躾けんならもっと上手くやれって」

忠告めいた文句になんと返答したものか、わたしは咄嗟になんの返答の用意もできていなかった。
すばしこくコートの端まで走ってテニスボールを打ち返すみたいに、軽い口を叩くのは――気の利いた冗談のひとつでも付け加えられればなお望ましい――、いやしくもあれだけくだけた会話に終始していた間柄たるもの当然のことだった。
くだけた会話といっても、不良警官の口ぶりにはおのずからレイシストの見本みたいな語とニュアンスが満遍なく宿っていた。

真摯に向き合うか、的はずれなアドバイスだと笑い飛ばすか、なんの話かと空々しくてのひらを掲げるか。
選択肢から答えを示すより先に、間近に寄っていた彼の上体が忽然として遠のいた。
どうやらリード刑事が着ている服のフードを、ナインが後ろから力任せに引っ張ったらしかった。
そこに先程わたし相手にやったような運動制御の配慮やら手加減やらは見受けられなかった――ナインもナインで、なかなかどうして横暴なバディを取り扱う補佐役ぶりが板についているみたいだ。

「っテェ! なにしやがるクソプラスチック!」
「自動タクシーを手配しました。あと二分五〇秒ほどで到着予定。なまえの帰宅用のタクシーも経費で申請可能でした」
「えっ、わたしは助かるけど……さすがに無理がない?」
「受理する側が納得するフォーマットさえ押さえていれば通せるという、リード刑事のアドバイスを実行しました。それともなまえは市警のパトカーでの送迎を希望しますか」
「タクシーを呼んでくれてありがとう、ナイン。あとリード刑事から教わった悪いことはできるだけ忘れた方がいいと思う」
「RK800も似たようなことを言っていました。“ファッキントラッシュの影響をできるだけ受けないように”と」
「コナーってあんなにひと当たりもお行儀も良さそうなのに、Fワードまでお手のものなんて……」
「リード刑事には積年の恨みとやらがあるため、多種多様なスラングを鋭意習得中だそうです」
「ナインはやめてね」
「なまえ、あなたがそう言うなら」
「テメェらよくもまあご本人様がいる前で、ンなペラペラ囀れたな」

こめかみに青筋を立てつつも、よっぽど時間に余裕がないらしく、リード刑事は聞くに堪えない悪態を並べ立てながらナインに引きずられていった。
無人のタクシーに乗り込む彼へ、軽く頭を下げた。

「ありがとうございました、リード刑事。一応、助かったのは事実だし」
「一応は余計だ」
「手放しで褒めてもらえない原因に心当たりはあるでしょ」
「うるせえ。俺を逃したんだぜ、男運クッソ悪すぎるだろ」
「ふふ、よく言われる」

わたしたちの気安いやり取りを、氷塊めいた灰色の目が静かに注視していた。
こめかみのLEDリングはいくらか平素の色を取り戻していたものの、これで落着としたわけではないのは、眼差しの鋭さからもはっきりとしていた。
釘を刺すように、平坦に「なまえ」と呼ばれてびくりと肩が跳ねた。

「私の勤務終了時刻は本日二〇時を予定しています。その後、必ず自宅に伺います」

二本指を突き付ける古式ゆかしい「Watching you」のジェスチャーこそなかったものの、ブルーグレイに光る目がなによりも雄弁に「逃げないでくださいね」と通告していた。


(※引用はバーホーベン『ロボコップ』(1987)より)
(2024.01.07)
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