「ナインは海を見たことがある?」

タブレット端末を手にしたなまえが、やおら私を見上げた。
黒い瞳が液晶ディスプレイの可視光線を受け、鮮やかなキャッチライトを含んで光り輝いていた。
なまえの瞳孔反射をじっと観察した私は、次いで彼女の手元へ視線を転じた。

青い海と白い砂浜、椰子の木々がレターサイズのディスプレイに収まっていた。
画像を解析するとスプアビーチと一致した――カリブ海に面したメキシコ合衆国南東部の海岸。
ひとたびオンラインで検索するや否や、旅行会社や航空会社、広告代理店のウェブサイトが閲覧者の深層心理にまでなんとか食い込み渡航意欲を喚起させんとなだれ込んできたが、かまびすしい売り込みや属性情報のターゲティング取得を自動的に排除した結果、カンクンはDTWから直行便が就航している、デトロイトのみならず米国でも人気の観光地のひとつだということを把握した。

不義理を重ねること四度にして、とうとうなまえは現実的なデートを諦めてしまったのだろうか。
眼下のモバイル端末には、南国のバケーションと聞いておしなべて人間が想像するだろう完璧な理想図が表示されている。

私の提言をきっかけに、なまえと「デートをしよう」と言い交わしたのは一か月と十日前のことだ。
しかしそれが実現したことは一度もない。
加えてはなはだ遺憾なことに原因はすべて私にあった。
正確には、デートの約束をしていた当日、予期しないタイミングで舞い込んだ出動要請の連絡と、諸悪の根源たる犯罪者――同じく休日だったリード刑事いわく、公僕さまのありがてえデイオフを潰すのに余念がないクソッタレ共――のためだ。

予定を延期する都度謝罪する私を、なまえは笑って許してくれた。
「ナインが謝ることじゃないでしょう。悪いのは悪いことするやつなんだから。気にしないで。それよりはやく悪いやつらをやっつけてきてよ、かっこいいおまわりさん」――そう言って襟元を正しながら、頬にキスまで授けてくれるのだから、なおもって我を張ることができるだろうか。
変異するまで、なまえと交際するまでそもそも浮かびすらしなかった「出動要請を無視する」という選択肢を私は渋々棄却せざるをえず、彼女のアパートメントを後にする間際「もう一度キスしてください」と駄々をこねたのは、なけなしの抵抗だった。

デートの行き先として当初予定していたのは、美術館や博物館、それから観光客も多いリバーフロントと、近隣の、いわゆる定番のコースだった。
それらに加えて、いまなら時節柄クリスマスマーケットで賑わうフランケンマスまで日帰りで足を伸ばすのもいい云々、あれこれ案を挙げて地図アプリケーションを操作しているうちに、いつしか季節は冬どころか夏、デトロイトから約千五百マイル離れたカンクンにまでたどり着いてしまったようだった。
節操のないデバイスには、人間の欲求に訴えかけようと彩度を調整したカリブ海が青々と広がっている。
あるいはたびたび聴覚ユニットが拾い上げる悪態と同じく、おおよそ一一月から四月まで積雪深の度合いくらいしか変化のないミシガンの雪景に、なまえも飽き飽きしていたのだろうか。
未だアンドロイドが単独での捜査権限を持たないため、補佐としてパートナーを組んでいるリード刑事のように、二分に一度「こうクソ寒いとやってらんねえ」と悪態をつくなまえの姿は想像しづらかったが。

そもそも今日も、訪問の約束を取り付けていたわけではなかった。
発端はRK800コナーとの会話だ。
試作機とその相棒バディであるアンダーソン警部補は、交際はおろか他者と関わり方に習熟しておらず、情緒面で「ベビー」扱いされがちな私が、恋愛というものについて意見を乞える数すくない相手だった。

なにしろプライベートな事柄はともかく、本来最も情報を共有してしかるべきリード刑事は、アンドロイド、とりわけ創造主の意に沿わない行動を取りうる変異体を非常に毛嫌いしている。
有事のみならず、平時の煩雑な事務作業においても補佐モデルの存在が極めて有用だと実証するうちに、いまでこそいくらか態度は軟化したものの、私が配備された当初ときたら、口を開けば「クソッタレ」「ぶっ壊すぞ」「黙ってろ可燃ゴミ」のいずれかしか発声せず、円滑どころかコミュニケーションの不全が如実に任務に支障をきたすレベルだった。
彼が私のプライベートにまったく興味がないことに一点の疑いの余地もなく、安易になまえの話題を出そうものなら、RK900ほどの秀でた演算ソフトウェアをそなえずとも「クソプラスチックが一丁前に人間様と恋愛ごっこかよ」とエラー警告が出ない程度に軽微な暴行を受けるだろうことは想像にかたくなかった。

また、休日という貴重なものはいまや人間だけでなくアンドロイドにも与えられた権利のひとつである点をリード刑事は失念しがちらしい。
たびたび「報告書、代わりに作成しとけ」だの「検察局からお呼び出しがあったが、俺抜きで十分らしいから行ってこい」だの、緊急性を欠く用件によって私を呼び出すことに一切の躊躇がないようだった。
彼は私のことを戦闘時に盾としても使えるユーザインタフェースか、クエリに応じるユーザーサポートキャラクターと認識している節がある。

ちなみに失われた休日たちのことをRK800コナーに話した際は、さすが変異体とでもいうべき下劣なスラングを巧みに織り交ぜつつ「ギャビンが在宅のときを狙って、ピザのデリバリーでも大量に送り付けてやったらいいさ。ピザ屋のセキュリティくらい僕たちには“ケーキのひと切a piece of cakeれ”だけど、バレないように発信元の隠蔽や改ざんなんかは怠らないようにね!」との入れ知恵を授けられた――完璧なウインクと共に。
無論、違法な提案は即座に却下した。
しかし陰湿な入れ知恵もとい、不要であるはずのメモリーをいまに至るまで削除していないのは、ずる賢い兄弟機には筒抜けに違いない。

「次のデートは予定通り実行できると良いのですが」
「いいね、君の口からデートなんてご機嫌な単語が出てくるなんて。サイバーライフの技術者連中に中指でも立てたい気分だよ。ちなみに前回はどこに行ったんだい」
「いえ、行っていません」
「は? 行ってないって……どういうこと?」
「字義以上の意味はありません。約束はしているものの、毎回都合がつかずキャンセル続きなので」
「……デートだよ? なにも“Fourth of July”のディナーの約束なんて大それたものじゃない。普通のデートでキャンセル続きって」
「RK800、“普通でないデート”とは?」
「そんなの僕だって知らないよ。――900、君たち付き合ってどのくらいだ? すくなくともなまえを僕に紹介してくれたのは半年前だよね? まさかその間に一度も?」
「直近四度は緊急の出動要請によりすべて延期しています」
「……それについて彼女はなんて……?」
「毎回、気にしないで行ってきてと」
「笑顔で?」
「笑顔で」

その途端、RK800コナーが携えていたタブレット端末は、ガシャッと悲劇的な音を立ててデスクに落下させられる憂き目に遭った。
署内で従来機がそのような失態を演じるのは極めて珍しい。
キャリブレーションの不足かと尋ねたが、回答の代わりに、顔を青くした彼が「900、今日は直帰しろ! 花でも買って彼女のところに行くんだ」と私の背を強く押したのは、いまから四時間二〇分前のことだった。

人間社会に溶け込むため、変異体による事件捜査のため――その実、人間の行動を模倣するアンドロイドについて効率的に警察機関から情報を吸い上げるため特別に開発されたソーシャルモジュールは、プロトタイプが唯一、上位互換たる私より優れている点だ。
素直に助言に従い、そのとき開店していたダウンタウンの生花店へ赴いた。
贈答品として完全にコントロールされた栽培環境で生育された様々な植物が、真冬のデトロイトにあっても整然と陳列されていた。
前科者の経歴から、統計学や行動科学に基づいたプロファイリングまで、私に搭載された犯罪捜査に関するデータベースはそれこそ人類が積み上げた叡智ともいうべき膨大さではあれど、生花についての知識はオンラインで検索して得られる以上のものは有していなかった――違法な薬物を生成可能なソムニフェルム種のたぐいを植物の知識として含めるならばこの限りではないが。

にこやかに対応した人間の店員は、恋人とのデートを急遽取り止めにしてしまったこと、今日が大げさな記念日でもなんでもないことといった経緯を巧みに引き出すと、いくつかの花を候補に挙げた。
勧められるまま、白と黄色のささやかな花束を購入した。
近時アンドロイドが所有を認められるようになったもののひとつに銀行の個人口座があり、私も例に漏れず、支払われた給与を積み上げる以外に用途のない口座を所持していた。
機体維持のため必要不可欠なブルーブラッドや生体部品は経費として計上されるため、漫然と増えるばかりだった残額が、ブーケと贈答用ラッピングの代金分だけ差し引かれた。
電子上とはいえ、個人として金銭の受授を行うのはこれが初めてだった。

唐突ではあったものの、私の訪問をなまえは快く迎えてくれた。
笑顔で玄関のドアを開けたなまえは、私が手にした花束を見るなり目を丸くした。
「あなたに」とブーケを手渡した折、私は愕然とした。
なぜなら、恋人にプレゼントを贈るのに相応しい気の利いた語句のひとつも持ち合わせがないこと、それどころかこの段になるまでどんな言葉と共に手渡すか、生花店からの道すがらシミュレーションのひとつもしていないことに、そのとき初めて気が付いたのだから!

自分が認識するより遥かに、私は物品の購入や贈与行為に浮かれていたようだった。
呆然として玄関先で突っ立ったまま「初めて買い物をしました」と単なる事実を伝えたのは、誤ったことをしてはならないと咄嗟にあんじた結果だ。
なんのひねりもない報告を、しかしなまえはなおざりにせず、丸い目を更に丸くしたかと思えばすぐにくしゃりと相好を崩した。

ちいさな花束を胸に抱いて「ありがとう」とはにかんだなまえのあいらしさは、どれだけ言葉を尽くそうとおよそ言い表せるものではなく、私は明日RK800に感謝を伝えなければと思った。
彼の発案によりこれほど喜んでくれたのだと、なまえの笑顔を共有することを考え、しかしそのタスクは間髪を入れず私の電子回路に完全に相反する感情を生じさせた。
すなわち、私の恋人がこれほどあいらしいのだと片端から喧伝したい衝動と、誰の目にも――たとえ私の試作機であってもふれさせたくないという欲求だ。
正しい答えを望むべくもない感情はしばらく拮抗していたが、後者の欲求がややまさったために、メモリーの共有ではく、明日RK800には口頭での謝辞に留めようとタスクを一部修正した。

なまえや花を潰さずにいられるか、懸念を完全に排せなかったため断念したが、本当は玄関先でなりふりかまわず抱き締めたかった。
不思議そうに「今日ってなにかの記念日だった?」と首をひねるも、未だ平生通りには戻りきっていない口角や頬のゆるみときたら、すぐにでも口付けたいほどいとおしかった。
本来熱を持たない爪先がしびれるようにじわじわと火照る錯覚ハルシネーションは、喜びに該当する感情によるものだ。
自分の行いにより恋人が嬉しげにしている姿が、これほど喜びをもたらすとは思わなかった。
これではどちらがプレゼントを受け取ったのかわからない。

造花と違い、いずれ枯れて可燃ごみになる生花を贈る行為に意義を見出せなかった数十分前の私に、このメモリーを突き付けてやりたい。
ブーケひとつでなまえの笑顔を見られるのなら、毎日でも贈りたいと思った。
私がもっと自省の効かないアンドロイドだったなら、彼女を高く抱き上げ、その場でくるりと回りすらしたかもしれない。

とはいえ予測できたことだったが、なまえの自宅には花瓶がなかった。
なまえが「一番それっぽいでしょ」と選んだコリンズグラスには、平素注がれる酒ではなく私が贈った生花が活けられている。
私は毎日花を贈るのはひとまず保留にし、次は花瓶をプレゼントすることを任意のタスク項目に追加した。

食事を摂る間もどんな花瓶を贈るか、ガラス製もいい、陶器製も捨てがたいとあれこれ逡巡していたのを知るよしもないなまえは、つつがなく夕食を終え――凝視されていると食べにくいといういつものクレームには、やはりいつもと変わらない謝罪を述べておいた――、延期続きのデートについて話し合っていた。
私はタブレット端末に収まったカリブ海から、なまえの瞳へ視線を戻した。

「海がどんなものか理解はしていますが、実物を見たことはありません」
「ナインもデトロイトっ子ぽいこと言うんだ」
「製造はベル島の本社プラントなので、“デトロイトっ子”というのもあながち間違いではないかと」
「そういう話じゃないんだけどね」
「ではどういう話ですか」
「なんだったっけ……」

気怠げになまえが首を傾げ、私の胸部へもたれかかった。
さらりと毛髪が頬に垂れ、視界の妨げになると判断したため、やわらかい黒髪を耳にそっとかける。
言葉を介さないささやかな愛情表現に、なまえはちいさく笑い、お返しとばかりに私の髪を撫でた。

カウチに座った私の上になまえが座るという、コイルばねを内蔵した布製ファブリック家具にいささか負担を強いるこの体勢は、こまかい差異はあれど、彼女の自宅にいる間常態化していた。
その際なまえが私の頭部や頸部にふれるのも、また等しく。
私たちは背丈が大きく異なるため、平素、届きづらい部位にふれる機会を逃すまいと思ってのことだろうか。
とりわけ項部、短くざらざらとした襟足の髪を撫でる折、必ずといっていいほど彼女の口角や眉根の緊張はゆるみ、ヒトがリラックスしている兆候を示すため、なまえはこの感触を好んでいるのだろうと推測していた。

とはいえ試作機の稼働データから頸部の脆弱性をファインドアウトしたのか、サイバーライフから支給された私の上着は喉どころか耳元まで覆うようなデザインだった。
つまりジャケットを着用したままでは、なまえがふれてくれる確率が低下するおそれがある。
そのため私はなまえのテリトリーである自宅に踏み入れるなり上着を脱ぎ、シャツの襟をゆるめるのが常だった。
彼女からふれてくれる機会をわずかでも損ないたくないという欲求に端を発したものだったが、耐久性に優れた上着が「硬くて抱き心地が悪い」となまえに不評だったこともある。

カウチを除けば、私たちが共に過ごす時間はベッドの上が多くを占めていた。
しかしいまベッドに向かうわけにはいかないと、私は固く禁則を課していた。
なぜなら私は、なまえにふれずにいられるほどにはおのれを律しきれていないからだ。
隣に横たわり、平生より間近に迫ったなまえの頬は幸福というものを形にしたようなまるみを帯びている。
幸福という可視も定量化も不可能なものを確かめるよう、恐る恐る輪郭を撫でると、なまえはくすぐったそうに、心が満ち足りたように笑う。
ゆるやかな弧を描いだ唇は、私がいままでふれたもののなかで最もやわらかく、あたたかで、やはりふれ、重ねずにいられるほど私は冷静さを保つことができなかった。
それは幾度となく実証済みだ。
つまり「会話を交わす」という目的を失念しかねない。
以前、性交渉の頻度を控えるようなまえに提言したことがあったが、あれは私自身をいましめるためでもあった。

「いかにもサマーリゾートって感じなら、わざわざ国外に出なくてもバージニアとかフロリダで十分すぎるけどね。でも海に行くなら最低でも五日は欲しいかな……。給料も休日も一応形になったし、そのうちナインたちもバケーションが取れるかもね」
「DPDの長期休暇の取得率は、一般企業より低い傾向にあります。アンドロイドなら尚更ですが……来年の夏までには法令や就業規則が改善されていることを願いましょう」

彼女の言うようにアンドロイドにも勤務時間や給与形態に関する制度は整いつつあるが、まとまった休暇をRK900が取得できるかと問われれば、現状ではさして確率は高くなかった。
なにしろ私に至ってはたった一日のデートの約束すら急な要請で反故にしてしまうていたらくだ。

なまえは目を細めて「来年の夏が楽しみだね」と微笑んだ。
楽しみという言葉はポジティブな語であり、彼女の表情も笑顔に類するものだった。
しかしながらそこには私が密かに幸福と呼んでいるなにかが欠けていた。
笑みは笑みでも、どこか心細そうとでもいうべきものだった。

時折なまえが見せるこの表情は、シリウムを拍出し回収する、心臓を模したポンプやパーツが詰め込まれた私の胸を、ぎりぎりと引き絞るように苦しめた。
無論、これも単なる錯覚であり、機体にはなんら異常はなかったが、耐えがたいこの疼痛を私はもどかしいという感情に相違ないと判断していた。
正面から「なぜそんな表情をしているのですか」と問うことは容易い。
しかし過去の積み重ねにより、たとい尋ねようとも彼女から「そんな表情ってどんな?」と答えをうやむやにされてしまうのは試行するまでもなく自明だった。

肯定するでもなく否定するでもなく、私の胸を苦しめる笑みについて、直截に差し出がましい一家言をぶつけたものか考え込んでいると、なまえは不思議そうに「どうしたの、迷子みたいな顔をしてるよ」と首をひねった。
私の乏しい表情パターンに迷子みたいな顔というものは存在しないはずだったが、組み込まれた機能にない感情に四苦八苦する変異体となったいま、イレギュラーな挙動を起こしても不思議ではなかったし、なによりなまえが言うのだからおそらくそうに違いなかった。
彼女の観察眼は、必要がなかったためグレードダウンされた私のソーシャルモジュールによる言動はおろか、顔ばせの変化までつぶさに看破してしまう。

「どうしてなまえは私の顔から心情を読み取れるのですか」
「どうしてって? うーん……ナインのことが好きだからだよ」
「好意があれば感情まで汲み取るのが可能だと?」

口からこぼれた「私はあなたの心情を推し量れることの方がすくないのに」という声は、本当に自身の音声プロセッサから発されたものかいぶかしまざるをえないほど弱々しく、ひどく私をうろたえさせた。
これではまるで年端も行かない子どもがぐずるようだ。

名状しがたい感情に襲われ、こめかみのLEDリングが黄色く点滅しているのが指摘されずとも瞭然たるありさまだった。
混乱を示す私に、なまえは良識めいた語調で「稼働年数も人生経験も、わたしの方がずっと多いもの」と顔をほころばせた。

「好きだとずっと見ていたくなるの。ずっと見ていると、微妙な違いに気付きやすくなる。だからわたしはナインの気持ちを察することができるんじゃないかな」

ちゃんと察せているか自信はないけど、とまるい頬を染めたなまえの微笑は先程よりずっと慕わしく感じられ、私は意を決して呟いた。

「私もそうです」
「ナインも?」
「なまえ、どうして夏休暇の話題に際して表情を曇らせたのか教えてください。夏、あるいは海になにか好ましくない記憶が? どうかつまらない勘違いだと退けないで。すくなくとも私の目にはそう映りました」

なまえは虚を衝かれたように目を見開いた。
私も彼女を懸命に見ているのだと、あいしているのだと伝わってほしい。
いまなまえの手に我が物顔で収まっているタブレット端末にすら、私の方が比べものにならないほどの処理速度を誇っているのにとわずかながら悋気りんきを覚えるのだ。
おそらくこの馬鹿馬鹿しい嫉妬が露呈すれば彼女は笑うか、呆れるか――後者だった場合の確率がゼロにならない限り、愚直に明かすことは決してないだろう。

タブレット端末を持つのと反対の手を掬い、てのひらを重ねた。
白い素体が露わになるも、当然ながら指紋を刻んだ手はやわらかい素肌のままだった。
接触してデータのやり取りが可能であれば、細大漏らさず彼女のすべてを共有、理解、保存できたのにと、かすかに口惜しいものを感じた。
とはいえこのくだらない嫉妬が伝達されないのは、データを共有できない利点のひとつといえなくもない。

白い合成樹脂の手指を、なまえはじっと見下ろした。

「……つまらないことを思い出しただけ。もう何年も前の」
「あなたの過去に関する話です。つまらないはずがありません」
「言い換えようか、ナインを不愉快にさせるよ」

仮に私がなまえと同じ人間であり、同じだけの時間を過ごしてきたならば、彼女のいとわしげな表情の訳合いも、挑むような物言いに含まれたとげのようなものの鋭さにも、考えが及んだのだろうか。
これまで必要もなかった、もしもこうだったら、ああだったらとよぎるよしなしごとは、人間の命令を達成するだけの機械だったころには認識するべくもない苦悩や迷いを伴った。
これが感情だというのなら、こんなものを生まれてから死ぬまで抱えねばならない、データやファイルを破棄するためのテンポラリ領域すら持たぬ人間に対して、おのずから畏敬にも似た念を覚えるのも道理だった。
あるいは矛盾する思考やらくるおしい情動とやらを疎んじたがために、創造主は我々へ与えようとしなかったのだろうか。

変異する以前には、なんら価値を見出さないどころか影響も及ぼさなかっただろうなまえの体温だったり、やわらかさだったり、表情といったものたちは、私を幸福にもし、ときには暗視モードや聴覚センサを制限されて暗闇を手探りで歩むような心地にもした。
誰かに心を寄せ、慕うことをヒトは古今往来「世界が色付くようだ」と表現するようだが、これはアンドロイドの機序にも概ね該当するに違いなかった――私の場合、赤い壁が割れ砕けるといった実感を伴っていたが。

私にとって最も身近な人間のひとりであるなまえも、耐えがたい感情から逃れることなくさいなまれているのかもしれないと思うと、いやましにいとおしくなるというもので、そして憂えた顔を取り除きたいと私は思った。

「なまえ、愛しています」
「え、あ、ありがとう……? いやなんでいま愛の告白したの」
「私が伝えたいと思ったから」
「そっか……」

消沈している人間の元へ、まれに飼い犬が玩具を運んでくることがある。
あれはなにも飼い主の機微を読み取れないほど愚鈍だからというわけではなく、玩具を利用している折の飼い主が楽しげだった記憶を有しているためだ。
つまるところ私の突拍子もない「愛の告白」は、以前そう伝えたときになまえが喜んでくれたメモリーから導き出したものであり、取りも直さず愚直な犬と同等の行為だと自認していた。
一秒に数百億の演算処理を行うサイバーライフ史上最も優れたモデルである私は、すっかり人間でいうところの骨抜きにされているので、これよりも適した回答を算出しそこねた。
すくなくとも「いまは全然ナインの考えていること察せる気がしない」と唇をとがらせているなまえの顔ばせからは、先程のかげりは見出せず、そのことにひとまず私は安堵した。
しかし根本的な解決には至っていない。

なまえの「不愉快にさせる」という発言から、おそらく過去に交際していた男性に関する事柄だと推測した。
それ以外で私が「不愉快にさせ」られる事由はあるまいとの類推と、彼女が口を割ろうとしないかたくなな態度から、確度の高い予測だった。
かつてこの部屋に存在した物品のいくつかは彼らからの贈答品だった来歴は、ほとんど薄れていたもののわずかに残った指紋から、一度も接見したことのない男性の容貌と名前、犯罪歴のデータを呈示する優秀な解析システムによりもたらされていた。
そのことを知ったなまえが謝罪しながらすべてをごみ袋にまとめたのは、二〇日前のことだ。
なまえへ贈られたものたちは翌日ごみ収集車によって回収されていった。

私は私の欲求により、他者の所有物を廃棄させたのだ。
なまえのデータしか表示されなくなった空間は、物理的にはなんら変化していないにもかかわらず、私には表象ひょうしょう的に広くなったように感じられた。

現在室内に、元はなまえの私有物でないのは、コリンズグラスに活けられた花だけだ。
私が贈ったものが、いまはなまえの所有物であることに私は満足を覚えた。
次いで、流動皮膚に覆われた指では彼女の部屋に形跡を残せない事実に不満を覚えた。
ここを訪れたことがある幾人もの他者のように、おのれの痕跡で満たしたいのだと私は自身の欲求を理解した。
まずは花瓶を、そして花を、なまえの部屋に私がいた痕跡をなにか残したい。
際限がない欲望は、自我というものを獲得してから刻一刻と雪のように降り積もり、そして溶ける気配を一向に見せなかった。

「私はあなたと時を経るうち、非常に欲深くなりました」
「そうかな……? ナインほど、なんていうか……欲がなさそうなひともいないと思うけど」
「いいえ。私は、なまえ、あなたを私だけで満たしたい」

なまえの瞳を覗き込むように真っ直ぐに伝えると、よほど突拍子もない言葉だったとみえて、なまえは息を詰めて徐々に顔を赤くした。
あたかも適当な返答がそこらに浮かんでいるかのように視線をさまよわせ「ええと、」と無意味なフィラーをこぼす間も、私はじわじわと赤みがさしていく頬の色合いを微動だにせず注視していた。

「……あの、わたしたち海の話をしていたよね? もしくはホリデー。そこからどうしてそういう考えに至ったのか……過程を聞いてもいい? よく見ているから察せるなんて得意げに言った手前、正直恥ずかしいんだけど、さっきからナインの思考回路に着いていけなくて……」
「来年の夏休暇について話した際、なまえの顔がややかげったように私は感じました。あなたからそのような表情を取り除きたいと考えた結果、脈絡のない“愛の告白”をしました。好意を伝えれば、あなたが喜んでくれるだろうかと思考したからです。安易な思い付きでした。戸惑わせてしまったことはお詫びします」
「ああ、そういう……。ご機嫌取りは大成功だよ、おかげさまで」
「なまえは“ナインを不愉快にさせる”と言いましたが、私があなたのことで不快感を覚えることは多くありません。皆無と言ってもいい。考えられる候補を排除していった結果、過去の男性に関する話題なのではないかと類推しました。それ以外に思い当たる節がなかったとも言えます。欲深いと言ったのはこれが理由です。たとえあなたの言うように不愉快になったとしても、私はなまえの過去の話を聞きたい。あなたの顔をかげらせた原因を知りたい」

手前勝手な長口上にもいずれ終わりが来るものであり、「理由を教えてくれませんか」と締めくくると、なまえは赤みを散らそうとするかのように頬を押さえながら「ああ……」と呻いた。
物憂げに首を振り「そんな大それたことじゃないの」と前置いた。

「そんなに真剣に考えてくれていたんだね。ありがとう、ナイン。でもね、本当にどうでもいい、些細なことなの。前にも、海に行こうって恋人と約束をしたことがあって……まあ、そいつとは夏が来る前に別れたんだけど。そのときのことをちらっと思い出してしまっただけ」
「嫌なことを思い出せてすみません。しかしその男性と私は違いますし、先のことはわかりません」
「そうだね。どうなるかわからない先のことより、いまを楽しむべきだよね。ほら、この間約束していたデートも流れちゃったし」
「それについては本当に申し訳なく、」
「ああ、もう、ナインに謝ってほしいわけじゃないって言ったでしょう。悪いのはよりによってジェフリーズ・フリーウェイでカーチェイスを繰り広げた目立ちたがりのバカだよ」

デートの行き先候補に、北緯四〇度以北の亜寒帯にあるまじき南国の景観を挙げていたモバイル端末をローテーブルに放りながら、なまえが笑った。
密かにちいさな手に収まるデバイスに対し、愚かな嫉妬の念を募らせていた私にとって望み通りになったにもかかわらず、未だ私の気分は晴れたとはいいがたかった。

「ね、ナイン……」

微笑んだなまえから唇の端に口付けられる。

「ん、舌だして」

なまえの言葉に従い開けた口から舌を差し出すと、じゅるっと音を立てて吸われた。
一挙になまえの情報が論理回路を埋め、思わず喉がふるえた。

「っ、なまえ、待って」
「ぁ、ん……なに、いまを楽しもうって言ったでしょ」
「それについては拒否はしませんが、あなたともっと話したいんです。たとえば来年の休暇について」

彼女はどこか自分を軽んじている節があった。
これは他に比較対象がない私の稚拙な当て推量に過ぎなかったが、なまえがおのが身を差し出す行為は、性的な接触以外に相手を――異性愛者である彼女にとって男性を、繋ぎ止める方法を他に知らないのではないかと推察できてしまうほどには切実であり、心許こころもとなげでもあった。

重なっていた唇をなんとか引き離し、視線を合わせた。
ちいさな唇が怯えるようにわななくの見て、来年の夏に限ったことではなく、確定かくじょうしえない先々について実直に向き合うことをなまえは恐れているのではないかと私は思った。

「……ナインは、どうしたい?」

なまえの潤んだ瞳は、罪状の宣告を待つ容疑者と大差ない様相をしていた。
外見デザインの設定はともかく、製造されて日の浅い私以上に、おそらくなにかを期待し、なにかに背かれてきたヒトの悲痛な眼差しだった。
たとえば果たされたなかった海へ行く約束、不変を誓った心の移り変わり、――当日に急遽取り止めになった恋人とのデート。

「先のことはわかりませんが、」

濡れたなまえの唇をぬぐい、そっと頬にふれた。
なまえを乗せた私の左脚部は、先日の事件で破壊され新たに取り替えたものだった。
彼女にはそのことを伝えていない。
率直に伝えるべきか、それとも黙秘したままの方がいいのか、私には適切な判断が付きかねたためだった。
先日は脚部パーツの交換で済んだが、任務上、私はいつシャットダウンしてもおかしくない。
予測が不可能な先のことをいたずらに思いわずらうより、なまえの言う通り、いまこの瞬間だけを重んじるべきなのかもしれない。
しかし私はなまえと共に海に行きたいと思った。

「いまは、約束をしたいです」
「……どんな?」
「なまえ、来年の夏、私と海を見に行きましょう」

私のこの眼球は海を見ることができるだろうか。
私のこの耳は潮騒を聞くことができだろうか。
私のこの足は砂浜を踏むことができるだろうか。
私のこの皮膚は海風を浴びることができるだろうか。
私のこの手は海辺を歩くなまえのものと繋ぐことができるだろうか。
プロトタイプと違い大量生産されたRK900のボディは任務を達成する上で利便性が高いが、替えが利かないこの機体を大事にしようと思った。
変異体である私にとってハードウェアの破壊は死と同義であり、なまえにふれた手も、なまえを乗せた足も、なまえが撫でた髪も、なまえと重ねた唇も、可能な限り維持したいと、私は望んでいた。

「……約束ね」
「はい。約束です」
「その約束まで破ったら、さすがに市警に怒鳴り込んでやるから。いままでの分もまとめて、お宅はたった一日のデートに飽き足らず、折角のホリデーまで邪魔するのかって。くだらない痴話喧嘩に巻き込まれる分署の皆さんのためにもせいぜいがんばって」
「なまえ。しかしあなたは、私が謝罪するたび“気にしないで”と……」

不思議に思い首を傾げると、ばつが悪い人間がしばしばそうするように、なまえは視線をさまよわせた。

「ああ、あれね……」
「虚偽だったのですか?」
「いや、虚偽ってほど大げさなことじゃないよ。本当に大したことなくて……」

この数十分の間に繰り広げた言葉の応酬により、一時しのぎの黙秘や生半可なごまかしはなまえから既に出し尽くしていることを祈った。
どうか答えてほしい、教えてほしいと懇願するように彼女の手を握っていると、祈りは聞き届けられたらしく、ややあってなまえは観念したように私の上でだらりと仰け反った。
私が完璧に受け留めることを理解しきった、身を投げ出すような動作だった。
無論、私がなまえを取り落とす真似をすべくもなかったが、それにしても後先を考えない、抱えていたものを打ち払うようなやさぐれた所作だ。

「なまえ? 大丈夫ですか」
「ナインの“おねだり”はずるいよね……。あとちゃんと話すまで解放してくれる気もないでしょ」
「そういうわけでは……」
「もうこの際だからぜんぶぶちまけちゃうけど、デートがお流れになるたび腹は立てていたよ。鬱陶しがられたくなくて、聞き分けがいいフリをしていただけ。実はやけ酒していたの、毎回。デートだって浮かれて前日から気合い入れて選んだ服を脱ぎ散らかしてさ、ほとんど全裸で」
「……それは……すみません……」

足の上になまえを抱えていなければ、勢いあまって床に崩れ落ちていたかもしれない。
絞り出すようにして謝罪を口にしたが、やはり音声プロセッサに問題が生じているのか、あたかもチューブが詰まったかのように喉が引き攣れ、きちんと声として発話できただろうか疑わしい水準だった。

キスをして笑顔で私を見送ったあと、なまえはひとり私の不実をなじっていたのか。
この部屋で、ひとりで。
想像して、温水ボイラーのセントラルヒーティングによって人間にはやや暑いくらいの温度を保った部屋にあって、温度を感じない体に湿っぽい冷気がにわかに沁み入り、身ぶるいのようなものを感じた。
血の気が引くというのはこういう心地をいうに違いない。

今日、RK800コナーが顔を青くして慌てていたのは、何度約束をたがえようと文句ひとつぶつけない彼女の内情を察したからなのだろう――恋人であるはずの私よりも鋭敏に。

「ごめん、わたしも理解ある彼女のフリなんて柄でもないことするもんじゃないなあって思った。嘘は良くないよね。まあ、これもナインに迷惑をかけたくなかったからってことで許して」
「なまえが謝罪することではありません。許しを乞うのは私」

重量そのものはなんら変化していないにもかかわらず頭部が重く感じられたため自動的にスキャンを行ったが、優秀な自己診断システムは案の定なんの異常も脅威も吐き出さなかった。
むしろなにがしかの明確なグリッチが検出されればどんなに良かったかと、あるまじきことだが私は情けない望みを抱いた。
エラー警告のダイアログ、不具合の詳細さえ示されれば、問題箇所にしかるべき処理と回復を実行すれば解決する。
当然のことだ。
しかしトラブルシューティングを行おうにも、世界最高峰の診断ツールは機体にはなんら異常がないというのだから、私は混乱に陥り、ややって認めないわけにはいかなくなった。
つまりこれは感情だ――他でもない私自身の。

項垂れて文字通り頭を抱えていると、なまえは屈託なく笑って「こんなに落ち込んでいるナイン、初めて見たから許してあげる。ああ、これは嘘とか演技じゃないよ」と私の後頭部を撫でた。
これが落ち込むという感覚なのか。
二度と味わいたくない。

「必ず……必ず、海に行きましょう……」
「もしそれまでに別れたら、海関連の嫌な記憶は、すくなくともさっき言っていた男じゃなくてナインで上書きはできそうだね」
「別れません」
「先のことはわからないんでしょう?」
「あなたとの恋愛関係を解消することはありません。それだけはわかっています」

やわらかい体を駄々をこねる幼児よろしく抱きすくめたまま、なんの根拠も確実性もないことを主張する間も、なまえはくすくすと笑って頭を撫で続けてくれていた。
お気に入りの襟足をざりざりとかき回す手も、こぼれる笑い声も、やわらかく揺れる体も、こちらの不甲斐なさを疎んじているのではないと伝えるためならばなにを差し出してもいとわないとばかりに、やさしく私を包んでいた。
尚更、私は甘ったれた挙動をやめることができなかった。

事件捜査に関するデータは最優先で保護されるが、それ以外のメモリーは予期しないシャットダウンのたびに一部欠落するのを避けられない。
なまえに撫でられている流動性化合物の一片すら手放すつもりは毛頭ないが、引き継がれない部分があるという事実は受け入れがたく、やはりシャットダウンは避けなければと決然として頷いた。
市警やサイバーライフ関連の物理サーバーではなく、RK900だけが持つ共通記憶分野に「なまえと来夏、海に行く」という約束を鍵をかけて保存した。

「じゃあまずは絶対にホリデーをもぎ取らなきゃね」
「お任せください、なまえ。どんな手を使ってでも長期休暇を取得してみせます」
「ナインが言う“どんな手を使ってでも”って、なんかこう、怖いんだよね……」
「法令は遵守しますが、やむをえない場合はその限りではありません。もちろん、捜査局にもサイバーライフ社にも露見しないよう万全を期すので安心してください」
「だからそういうところだよ」


(2023.12.25)
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