――へえ、そう、ふうん。
そんなつもりはこれっぽっちもなかったのに、しっかり記事の全文にすみずみまで目を通してから、わたしは端末をベッドめがけてぽいっと放り投げた。
やわらかいスプリングに受け止められたディスプレイは跳ねもせず、表紙カバーに戻って死んだように沈黙した。

まだチェックしていないけれど、画像や短文を投稿するタイプのソーシャルネットワークサービスに接続すれば、あの写真とは別のアングルからの投稿も拝めるはずだ。
わたしが生まれる前から普及していたモバイル端末によって、いつでも誰でも素人カメラマンになれる世界だ、さぞかしネットワーク上で話題をさらっているころだろう。

とても愉快とはいえない心地で、大人しく横たわっているタブレット端末の後追いをしようとしたところで、ポケットに入れっぱなしだったセルフォンが声高に通知を告げた。
見計らったかのタイミングで届いたメッセージはくだんのヒーローからのものだった。
唐突な連絡を詫びつつ、いわく「いまから伺おうと思いますが、なまえは自宅にいますか? あと二〇分程度で到着する予定です」と簡潔に訪問の可否を求めていた。

彼は、オンラインの家電製品にアクセスするなり、ウェアラブル端末のGPSを追跡するなりして、在宅の有無なんてものは一秒かそこらで把握できる。
にもかかわらず、わたしが通知に気付かず返答が遅れてしまうリスクだってあるのに、オンラインのデバイスがなければメッセージひとつ確認できないこちらに合わせて、手間をかけてお伺いを立ててくれたらしい。
いつもならそういった律儀なところに浮き立つような喜びを感じていたはずなのに、どうしてだろうか、いまばかりは妙に腹立たしかった。

一心に焦がれているときにはおいそれと会えなかったくせに、こちとら購入してしばらくは傷ひとつ付けないよう後生大事に扱っていたはずの電子機器を、使い慣れた結果、ぞんざいに放り投げられる気分の真っ最中なのだ。
そんなタイミングで向こうから来訪を求めてくるなんて、なんらかの作為めいたものを感じなくはなかった。
もしも神さまとかいうやつが本当に存在するのなら、被造物がこんな益体もないことで右往左往する姿をご覧じて楽しんでいる、底意地が悪いやつに違いなかった。

それでも駆け引きをする余裕も、突っぱねる意地の悪さもなく、犬が尻尾を振るように二つ返事で待っていると返した。
わたしだって会いたかったからだ――別にセックスできなくても。
なにしろ例の写真からは、ナインが怪我を負ったかどうかの判別はつかず、ゴシップまがいの記事も、優秀かつ容姿端麗なアンドロイド捜査官に誌面を割いてはいても、人間以外の負傷者に関する記述は一切なかった。
シャワーを浴びておこうかともよぎったけれど、いかにも待っていました、期待していましたとあからさまかもしれないと悩み、結局なにくれとなく言い訳を連ねてやめにした。

そうして軽く化粧をなおし、そわそわといたずらに部屋の調度を動かしてみたり、また元に戻してみたりしていると――かつて出し忘れたゴミ袋が床に散乱していた惨状すら彼は知っているのだから、今更だと自覚はしていた――、きっかり二〇分後、ナインが現れた。
劣化して塗装の剥げた戸口に、仰ぐような長身が直立している光景も久しぶりだった。

「お疲れさま、ナイン。さっきニュース見たよ。オズボーンの事件の担当をしていたんだね」

ぱっと視線をはしらせたところ、整えられたブラウンの髪も、こちらの肩までこってしまいそうな高襟にも一分の隙も見当たらず、どうやら怪我どころか上着のほつれひとつないようだった。
もしかしたら本当は負傷したけれど、ここを訪れる前に手当て――修理を済ましてきたのかもしれない。
実際のところは素人目にはわからなかった。

「はい。突然だったのもそうですが、連絡を長く怠っていてすみません。以前お会いした、RK800の相棒パートナーであるアンダーソン警部補を覚えていますか? 彼から忠告をいただきました。“取り調べは他のやつに任せて、放ったらかしの恋人のご機嫌取りでもしてこいよ”と。犯人を連行し、情報の共有や最低限の報告書の作成を終えた時点で、稼働時間が大幅に超過していたのもありますが」

最近はアンドロイドの超過勤務も罰せられるようになりましたから、と規則書を読み上げるみたいに平坦な声で説明しながら、ナインは装うまでもなく完璧に無感動な目で、ぐるりと部屋を見渡した。
もしかしたら捨てなければならないゴミやら片付ける箇所やらを確認していたのかもしれない。
ハグの前に整理整頓チェックだなんて、恋人との再会にしては色気がなさすぎるけれど、これもまあ、以前のわたしのだらしなさが原因なので甘んじて受け入れよう。
というか仮に散らかっていた場合、まずは清掃作業に取りかかるつもりだったのか。

「なまえもお元気そうでなによりです。顔色もバイタルも悪くないどころか良好――節制していたのがわかります」
「……優秀な捜査官さまは、わたし個人の体調管理までしてくれるの」

つい皮肉っぽく口の端を歪めてしまったのは、トップニュースで報じられる事件からようやく解放された恋人に、家庭用アンドロイドの真似事をさせるようなろくでなしだと思われていた事実もさることながら、健康維持アプリケーションじみた物言いが気に食わなかったからだろうか。
ナインは至って冷静に「あなたがきちんと食事や睡眠を取っているか気がかりでしたから」と答えながら、定位置と化しているカウチに腰掛けた。

購入したときにはちょうどフリーだったし、ふたりがけで十分だろうと選んだカウチは、彼が座ると途端にせせこましく見える。
均整の取れた長い手足を窮屈そうに折り畳んでナインが行儀良く納まっているさまは、さながら質の悪い合成映像みたいで、いつまで経っても慣れなかった。
ふたりでカウチを利用する際は、大抵の場合わたしは容赦なくナインの上に乗っかったり、肘置きに背を預けて、文句ひとつ言わない彼の両足にだらしなく自分の足を投げ出したりしていた。

しかし今晩ばかりはなかなか寄って来ないわたしに、ナインは「なまえ?」と無防備に首を傾げた。
あどけなさすら感じられる動作だった。
青に近い灰色の瞳に見上げられるや否や、無垢なほど澄んだ眼差しはたちまち激烈な効き目をもたらした。
とにかく歓迎できない不愉快な心地だった――なにもかもぶち壊したくなるような、すべて放り投げて逃げ出したくなるような。

「セックスしよう、ナイン」

珍しくぱちくりとまじろいだナインの面差しは、RK800コナーによく似ていた。
じかに見比べるまでもなくとても表情豊かな彼の従来機とは、交際をスタートさせてすぐ生真面目な恋人に紹介されたきりだ。
人間でいえば兄のような存在であるコナーとご対面した折、目を丸くして「RK900が恋人、それも任務やサイバーライフにまったく縁のない女性となんて……!」と、感動しているのか、当惑しているのか判別しかねる面持ちで凝視されたのは忘れられない。
あの言い草は、どこか「どうしてこんな女と」と困惑するニュアンスを含んでいたように感じられたのは、下種の勘繰り、あるいは過剰な自己卑下というやつなのだろうか。

そもそもわたしたちが出会ったのも、痴情のもつれというありふれた修羅場だった。
犬も食わないこじれにこじれた別れ話、加えて、かわいらしく泣いていたならまだしも、すがられていたのはわたしの方だった。
よりにもよってひとの往来がすくなくない道辺で、情けなく詰め寄ってくる男を見下ろして、わたしが考えていたのは、履いているヒールが何センチだったか、どのタイミングで靴を脱ぐか、だった。
結局、お気に入りのヒールも、ついでに相手の顔面も無残なことにならずに済んだ。
それもこれも周辺での聞き込みを終えて市警へ戻る途中だったRK900――ナインが、偶然通りがかったおかげだった。

人間の警官なら面倒くさがって放ったらかしにしていたに違いないいさかいを、彼は几帳面に制した――「あなた方は通行の妨げになっています。騒音による迷惑行為と合わせて、署で話をお聞きしてもかまいませんが」。
市警所属を示す徽章きしょうを見せながら、いかにも機械然とした態度と声で述べる彼と相対して、元恋人は続行する気概までは持ち合わせていなかったらしく、すごすごと退散した。
なんであんなのと付き合っていたのだろうか。
あちらもあちらで同じことを考えているかもしれないけれど。

よくもまあそんな出会いから恋人というポジションに収まれたのだから、人生はなにが起こるかわからないし、ナインがわたしに好意を抱くに至った経緯が未だに掻暮かいくれ見当も付かない。
そりゃあ兄みたいな立場の従来機から「縁のない女性」と嘆息されるのもむべなるかなといったところだった。
たとえば、そう、ニュースのトップを飾るような派手な事件に巻き込まれて、絶体絶命の危機を救い出してもらった――なんて劇的かつロマンチックな出会いだったなら、きっとこんなわたしでも映画の主役を張れたかもしれなかった。

咄嗟のことで返答に手間取っているらしいナインに頓着せず、やにわに自分のシャツのボタンを外した。
そんな雰囲気どころか脈絡や前ぶれもなく、突然服を脱ぎはじめたわたしに彼は戸惑っているらしかった。

ごちゃごちゃと御託を並べず、やはりシャワーを浴びていれば良かった。
白い上着をさっさと奪い、ローマンカラーじみて禁欲的な襟を暴こうとしたところで、ようやく混乱から復旧したらしいナインからストップがかかった。

「待ってください。なまえ、あなたは三週間前に――」
「気が変わったの。元々、我慢とか自律だとか向いていないみたい。それともナインはわたしにさわられたくない?」

ナインは思わずといった仕草で立ち上がりかけたけれど、突き飛ばすように厚みのある肩を押し戻した。
間髪入れずカウチに座った彼の両足をまたいで乗っかり、膝立ちの姿勢になる。
これで彼は逃げられない。
無理に立ち上がろうとすれば、ただでさえ危ういバランスで座面に膝立ちしている馬鹿な女は、引っ繰り返って落下するかもしれない。
カウチの周りには割れ物や貴重品が落ちていないのはちらっと見て確かめたけれど、ろくに受け身の取り方も知らないわたしが無様に怪我しない保証はなかった。

ひとによってはかまわず打ち払ったり、ナインほどの力自慢なら有無を言わせず抱き上げて放り出したりしていたかもしれないけれど、彼は恋人が負傷する危険をおかしてまで、自分の選択を優先するような性質をしていない。
それが人間に服従するようつくられたアンドロイドのプログラムによる作用なのか、はたまたわたしへの愛情とやらに起因するものなのか、知るよしもなかった。
どちらなのかはっきりさせることそのものが無意味で、どちらも等しく正しく、あるいはどちらも間違っていたのかもしれない。

いずれにせよ、判断を委ねるような誘い文句といい、退路の塞ぎ方といい、ひどくずるいやり口だった。
本当に自分のことが嫌になる。

「……どうしてなまえが泣いているんです」
「泣いてない」
「泣いています」

声音は、泣きたいのはこちらの方だと言わんばかりに途方に暮れていた。
RK800コナーより起伏も精彩も薄くはあるものの、呆れを表現する口調は心底お上手で、ますますわたしを意固地にさせ、挙げ句の果てには荒唐無稽な妄想すら生み出させた。
つまり、精神になんらかの異常をきたした第三者が、いますぐそこの玄関のドアをぶち破って掲げた銃で乱射でもおっぱじめてくれないかという、暇を持て余したローティーンが思い描くたぐいのあれだ。
しかしいくらデトロイトがわたしが生まれる前からの長きに渡って全米ワーストの犯罪発生率をひた走るソドムの街といえど、悪辣な犯罪者がピンポイントでこの部屋を襲撃してくれるかというと、公算は大きくなかった。
加えていうなら、狭苦しいカウチに極めて不似合いな超高性能アンドロイドさまは、同型機が特殊武装の部隊に配属されるほど戦術的に秀でており、仮にすべてを滅茶苦茶にしてくれる馬鹿げたデウス・エクス・マキナが躍り込んだとしても、ものの数秒で伸してしまうに違いなかった。

「なまえ、なまえ、」
「なに」
「泣かないでください」
「泣いてないって言っているでしょ」
「……」

腿上にべたりと座り込み、上体を投げ出すようにナインの厚い胸板へ勢いよくぶつかったのは、顔を隠すためだった。
いくらウォーターレジスタントを謳う化粧品にも限度というものがある。

体格が大きく異なるために、足の上に乗っかっていてもなお頭の位置は彼の方がやや高い。
無意識のうちに首元へ額を寄せたその瞬間、わたしは不意に冷たい水を浴びたようにぱっと体を離した。
映画のポスターじみた男女の姿が、頭をかすめたからだった。
いまのわたしの姿勢は、ディスプレイにでかでかと表示されたヒロインに酷似していた。

乗り上げたカウチから咄嗟に下りようとしたものの、わたしが転ばないよう先んじて背に回されていたたくましい腕のせいで、逃走は敵わなかった。
両腕を突っぱねて離せとアピールするものの、拘束じみた抱擁はちっともゆるむ気配はない。
格闘ともいえないくだらない小競り合いを無言で続けていると、やがて降参だと言わんばかりに溜め息をついたのは、ナインが先だった。
おそらくこれ以上続けると癇癪を起こした加害者わたしの方が怪我しかねないと判断したのだろう。
出会ったころは溜め息を吐くという動作を知ってはいても、使用する理由もタイミングもなかった最新鋭のRK900さまは、情緒不安定インスタビリティな女とかかずらううちにボディランゲージで呆れを表明するのも随分とお手のものになったらしい。

ナインは腕の力をほんのすこしゆるめ、わたしも仕方なく彼の腿上に座りなおした。
なにを考えているのかまったく窺い知れない冷淡な面差しで、口をつぐんで黙秘を貫いているわたしを見下ろした。

「……なまえ、あなたはいま現在、私の他に親密な関係にある人物はいない、そう言っていましたね?」

問いかける声音は抑揚を欠いていた。
尋問さながらの語調により、愛すべき我が城もといこれといった特徴のないリビングは、にわかに殺風景な取調室へと変貌した。
取り調べを受ける被疑者もこんな眼光ですごまれるのだろうか。
だとしたら同情する。
氷の塊を彷彿とさせる灰色の眼差しは、生半可な凡俗にべらべらとあることないこと謳わせるのに不足ない威圧感を放っていた。

「私以前にも、なまえに多くの恋人がいたのは知っています。もちろん、同時に複数の人間と交渉を持つような不誠実な関係ではなく、ひとり当たりの交際期間が平均より短かったことも」
「……否定はしないよ。なに? ナインもそのうちのひとりになりたいって?」

無様に片頬が歪んだのは笑顔をつくろうとし、失敗した産物だった。
挑発的な物言いのわたしとは正反対に、案の定ナインは「いいえ」と静かに目を伏せた。
白い頬に睫毛が影を落とした。

彼の言葉はすべて正しい。
こまめな報告や相談を求める繊細な男性には、わたしは分不相応で、遅かれはやかれ呆れさせてしまうのが常であり、かといって軽薄なお付き合いを重ねるタイプの相手には、冗談まじりに「浮気相手には最適なんだけどな」と評される始末だった。
「男運が悪すぎる」とは、先日、酒の席でぱあっと騒ごうと誘ってくれた同僚女性の至言である。

ただし、すべてナインと出会う前の話だ。
融通の効かない優等生然としたナインとはいえ、さすがに往時をさかのぼってとがめられる謂れはないはずだった。

「私は、捜査補佐専門モデル――RK800の後継機です。現場の照合と分析を行い、事件関係者がどんな行動を取ったのか、状況を再現することが可能です。いまのところRK800と900のみに搭載されている優れた機能ですが、疎ましいものにもなりうると……あなたと交際するようになって知りました。なまえの行動や所有物から、この部屋で恋人たちと過ごした過去を私は推察できます。たとえばなまえは以前にも、こうして性行為を求めることにより相手との対話を回避しようとした経験がありますね?」
「……そうだね。ナインは流されてくれなかったけど。そんなことまでわかるんだ?」
「カウチに乗り上げた際、あなたは冷静さを欠いてはいましたが、周囲の確認を怠らなかった。おそらく落下した場合を懸念したのでしょう。過去に似たようなことをし、危険な目に遭った経験があるのでは?」
「痛いからね。振り落とされた挙げ句に、グラスだとか――割れ物が落ちていたら。ほら、背中に痕があるでしょう。そのときに怪我したやつなの」

顔色こそ変化しなかったものの、ナインのLEDリングがギュルギュルと効果音が聞こえてきそうなくらい激しく明滅した。
肩甲骨のあたりに刻まれた古傷は、しばしば彼が好んでキスを落とす場所のひとつだった。

「……データを照会しましたが、市警に被害届を受理した記録はありません。なまえ、その男に関する情報を。氏名だけでかまいません。しかるべき刑罰を受けさせます」
「別にいいよ、生真面目スクウェアさん。昔のことだし」

かつて古傷について「そんなにいいものでもないよ」と苦笑していた原因を知らされ、どうやらナインは著しくご機嫌を損ねたみたいだった。
それは未だにちかちかと赤い色を主張しているLEDからも明らかで、このままだとわたしが口を割らなくても暴力男の素性を突き止めかねないほど剣呑なありさまだったので、卑怯なやり口だったけれど「これ以上嫌なことを思い出させないで」とばっさり切り捨てた。
言うまでもなくかばいたてするつもりは一切ない。
今更わざわざ関わり合いになりたくなかっただけだ。

ナインはなおも言い募ろうとしたけれど、鬱陶しげに「それで? 話の続きは? 過去の恋人のことが気になるんでしょう?」と促せば、無表情で一度二度と薄い唇を開閉するだけで、追求するのを諦めてくれたようだった。

「……ドレッサーに置いているあなたの好みではない香水も、窓際に飾ったあの陶器製の装飾品も、すべて過去交際していた男性からの贈答品。これも事実ですね」
「え? ああ、うん、そうです……?」
「お伝えしたように、RK900は捜査補佐専門モデルの後継機です。プロトタイプより優れた解析システムを搭載され、残った指紋や毛髪といった情報から、氏名や生年月日、犯罪歴を照会できます。あなたが選んだ物品ならば疑問はありませんが、どうして彼らからの贈答品を所持し続けているのですか? まだあれらや贈り主に愛着を持っていると?」

ナインは証拠品を指し示すように化粧台、白い小鳥と、順繰りに視点を転じていき、最後にぴたりとわたしの顔へ戻した。
至って深刻そうな顔つきを崩さず尋問を続ける様子に、思わず毒気を抜かれてしまうのも無理はなかった。
誰が予想できただろう、この話の流れでまさか化粧品やインテリアについての詰問を受けるなんて?
わたしはささやかながら取っ組み合いを繰り広げていたのも忘れて、いやいやと首を振らざるをえなかった。

「そんなことないよ、飛躍ってやつだよそれは。大切に取っておいたつもりはないの。……だってほら、どれもまだ使えるから。ナインがそこまで優秀だって知らなかったのもあるし……そういえば過去の恋人からのプレゼントが気になるってタイプのひともいるよね。ごめんごめん、そこまで気が回らなかった。――ほら、ナインも知ってるでしょう? わたしの不精っぷり。いままでずっと嫌な思いをさせてきたのは謝るし、あれもぜんぶ捨てるよ」

恋人と別れるたびに、泣きじゃくって思い出の品を捨てたり壊したりといったたぐいのかわいげをそなえていなかったのが、まさかこんなところで問題を生じさせるとは夢にも思わなかった。
恋人の自宅を訪れるたび、強制的に知らない男の残滓を見せられていたとしたら不快になるのも当然だ。
なんの嫌がらせかと、わたしだったら勝手に捨てまではしないけれどクローゼットの奥にしまい込むくらいのことはしたかもしれない。
家主の許可を得ずに廃棄しようとは端から選択肢に浮かびすらしないだろうから、ナインは長らく不快な情報に囲まれていたことになる。
その忍耐強さは、よくもまあこれまで一言たりとも苦言を呈さなかったなと驚き呆れてしまうほどだ。

もっとはやく言ってくれればと責任を転嫁するひねくれた考えすら起こらず、酷なことをしていたと心の底から反省しながら、カウチから下りようとした。
香りは趣味ではないけれどボトルデザインを気に入っていた香水瓶も、愛嬌のある白い小鳥にも罪はないが、いまいましい元恋人共の置き土産を宣言通り一切合切処分するためだ。
しかしながら爪先は片方たりとも床に着くことはなかった。
一旦力をゆるめはしたものの、やはりナインに解放する気は毛頭ないらしい。
ぎっちりと腰に回された腕は、たといわたしが全体重をかけたってびくともしないだろうことがひしひし伝わってくる塩梅だった。

「先程連絡をした際、私はあなたの位置情報を取得するのを躊躇しました。不安に思ったからです。直前に接触を――性行為の頻度を下げるよう提言していたこともあり、今夜ももしかしたら自宅ここではなくどこかで……私の知らない人間と、もしくはアンドロイドと、過ごしているかもしれないと。メッセージのやり取りすら怠っていた私の行動は、アンダーソン警部補いわく“愛想を尽かされても仕方ない”ものだそうです。なまえ、あなたは私に愛想を尽かしましたか?」
「いやひとをそんなとんでもないビッチみたいに」
「どうして?」
「どうしてって……」
「なまえ、あなたは魅力的な女性です。私たちが初めて出会ったのはコークタウンの路上で、当時交際していた男性との口論のさなかでした。あなたの元恋人は感情的に怒鳴り、いずれ暴行にエスカレートしかねないほど逆上していた」
「いや暴行云々はどちらかというとこっちの方が……それにわたしが魅力的とかそういうのではなくてね」
「当時、私は彼を制圧すべきかどうか、制圧する場合の行動予測、そして付近の警邏中アンドロイドの配置状況といった、トラブル解決のためだけに演算処理を行っていました。それ以外にCPUを割く必要がなかったからです。……ですが、あなたに捨てられまいと声を張り上げていた彼の心情がいまの私には理解できます」

ぽかんと口を開けた。
この非の打ちどころがまったくない、完全無欠のアンドロイドさまはなにを言っているのだろう?
我ながら本当に薄情だと思うが、例の修羅場を繰り広げた男の顔や声を、わたしは既にぼんやりとしか思い出せなくなっていた。
しかしながらこの上なく優秀な情報記録媒体をお持ちの彼は、あの馬鹿げた騒ぎの一部始終を残念ながら細部に至るまでメモリーに保持しているらしかった。

「約束してください、なまえ。私と交際している期間中は、他のアンドロイドとも、人間とも、親密な関係を結ばないでください。性的な行為を含めてです。――そして同意していただけるなら、私は可能な限り関係を継続したいと思っています」

すぐに「当たり前でしょ、なに馬鹿なこと言ってるの」と笑い飛ばせなかったのは、なにもふたごころや後ろ暗い見込みがあったからではないときっぱり断言できる。
そのときわたしの口を閉じさせたのは、ナインの眼光ひとつ、声音ひとつ、眉や頬の緊張具合、表情から雰囲気に至るまで、彼を構成するなにもかもが真剣で、知らず知らず気圧されてしまったためだった。
氷を連想させるブルーグレイがわたしを射抜いた。
ちらとも揺るがない目が、生半可なごまかしや逃げ口上は許さないとばかりに鋭く光っていた。

必死とでもいうべき形相は、犯罪グループの拠点へ踏み込む現場にあっても凛々しい横顔を見せていた写真と同じ造形をしていたけれど、いまほどは差し迫っていなかった。
眉根を寄せ、下手に出るような言い回しとは裏腹に、わたしを離すまいと腰に回した腕は相変わらず微動だにしなかった。

彼がなにを危惧しているのか、セックスの最中でもないのにどうしてそんなに切羽詰まった表情をしているのか、さっぱり理解できなかった。
よっぽど怪訝そうな顔でもしていたのか、ナインはおもむろにわたしを抱き締め、念を押すようにぎゅっと力を込めた。

「なまえ、お願いします。そうでないと、人間だろうとアンドロイドだろうと、誰もふれることがないよう、すべての機器に接続できないオフライン環境にあなたを留め、私のこの機体がなければ生きていけないようにしたくなります」
「……なんかすごい怖いこと言ってる……」
「嘘偽りない本心です」
「なお悪いよ」
「ですから、なまえ、」

そういえば自らはだけたままだった服の隙間から、大きなてのひらが入り込んできた。
むき出しの腹を撫でられ、ぞわりと肌が粟立つ。
それが怯えによるものなのか、はたまた期待してしまっているせいなのか、わたし自身のことなのによくわからなかった。

「あなたの言う“なんかすごい怖いこと”とやらを、私にさせないでください」

懇願するみたいにわずかに首を傾げて、その実、了承以外は受け入れられないとばかりに、ナインは引き結んだ唇で薄い弧を描いた。
惚れ惚れするほど冷たく、総毛立つほど熱っぽく、めまいがするほどやさしい笑みだった。

それ脅迫っていうんだよ、と茶化そうとしたものの、依然として不埒なてのひらはわたしの脇腹や腰をゆっくりと撫で続けており、思考も呼吸も熱く上ずるばかりで、ちっともまとまる気配がなかった。


(2023.12.09)
- ナノ -