アンドロイドは嫉妬をしない。
彼らは人間を傷付けるようにつくられていない。
わたしが生まれる前にとっくに古典と化していた『I, Robot』やら『The Rest of the Robots』やらを引くまでもなく、娯楽としてのフィクションから現実的な人工知能の開発まで、長い年月をかけて人間が築いてきた倫理的指標は大前提としてあり続けている。
アンドロイドはネガティブ、または攻撃的な心理状態に陥ることはない。
嫉妬はもとより、欲望や自我そのものも持たない。
想定していない無茶な速度を出したり、必要な保守点検を怠ったりしなければレール上を走行する電車が脱線しないのと同じで、プログラムに則って明瞭に是々非々を判断しますと、あらゆる媒体メディアで喧伝されてきた。
だから安心してご自宅のことは家事から子どもの面倒まで、会社のことは経理から人事考課まで我が社の被造物に万事お任せください、というわけだ。

その一方で、人間は嫉妬をする。
喜びであれ、怒りであれ、悲しみであれ、自分でラベリングできる種類のものも、そうではないややこしいものも含めて、あらゆる感情のなかでとかく嫉妬ほどコントロールが難しいものはない――というのは勿論わたしの持論だったけれど。
なにも恋愛関係に限った話ではなくて、仕事の上司や同僚、親しい友人や家族に至るまで、たとえばあのひとはこれを持っている、あのひとはそれができる、あのひとはあれを楽しんでいる、それに比べて自分は、と、挙げ出すとキリがなかった。
なんといったって自他の境界をはっきり区分できない乳児期の子どもですら、親が他の家族や兄弟にかまっていると「親を取られた」と、嫉妬による行動を見せるらしい。
クモが生まれながらにして精巧な網目状の巣をつくれるように、孵化して砂から出たばかりのウミガメが海原を目指すように――後者は、アンドロイド動物園で懇切丁寧に説明してくれるディスプレイ以外でお目にかかったことはなかったが――、きっとわたしたち人間は、生得的に嫉妬という情性をそなえているんだろう。

そういうわけで遺伝子情報に連綿と受け継いできたらしい情動のなにが始末に負えないかというと、ねたんではいけません、ひがんではいけませんと、仮に非の打ちどころがない正論を説かれたとしても、いままさにその疎ましいものを抱えている真っ只中の人間にとっては、そんなことはわかっている! と逆上したくなってしまうコントロール不可な点にあった。
これほどわずらわしい情調が他にあるだろうか?
スピーカーに声をかけさえすればオンオフの切り替えが容易なディスプレイのように、感情という機能をぱっと切断できたら良かったのにと、ひとりで眠りに就く折、益体もない夢想をしない夜はなかった。

嫉妬しないアンドロイドがうらやましい。
このうらやましいという気持ちも嫉妬なんだろうか。
だとしたら、わたしは誰に、なにに対して嫉妬しているのだろう?

「――待って」

押し退けるほどではないにせよ、相手の胸元に手を置いてほんのすこし腕を伸ばせば、それはわかりやすく拒否を示すジェスチャーだ。
なんの疑問もなくキスをしようとしていた恋人は、わたしの言語、非言語のコミュニケーションをきちんと汲んでくれたようだった。
コナーはぴたりと動きを止めて「なまえ?」とぱちくりとまばたきをした。
至近距離で見つめられ、光の当たる加減によってはアンバーの色味も含むブラウンの虹彩に、わたしの顔がちいさく映ずるのがよく見て取れた。
いまにもお互いの唇が重なろうとしていた距離のまま、彼は不思議そうに首を傾げた。

アンドロイドたちによって「平和による革命」が成されてから一年が経った。
本格的な冬はまだまだこれからだというのに、既に雪はいくらか降り積もり、息を吸えば肺ごと凍ってしまいそうな季節をデトロイトは再び迎えていた。
コナーは正式に捜査補佐として再配備されて、相棒のアンダーソン警部補と共にDPDに勤めている。
なおかつ職務の傍ら、ジェリコとの折衝せっしょう、つまりアンドロイドたちとの橋渡しのような役割まで担っているのだから、わたしとは比べ物にならないほど多忙な日々を送っていた。

そんな忙しい合間を縫って会いに来てくれているのだから、なんてできた恋人なんだと感嘆するのは理の前だった。
DPDにはアンドロイド用の待機スペースがあるうえ、近頃では希望すれば元は人間用だった単身寮に寝泊まりもできるにもかかわらず、わざわざ往復の手間をかけて恋人のご機嫌取りまでしてしまうのだから。
彼には人間のような休息や睡眠は必要ではないと知っているものの、こちらが就寝する頃にやって来て、目が覚めるより早々と出勤する姿を間近で見ていれば、心配してしまうのも道理だった。
無理はしていないだろうかと不安に思ったわたしは、面と向かって話し合いの場を設けたことがある。
同じ人間がふたりといないように恋人という関係も千差万別であり、交際しているからといって必ずしも頻繁に会わなければならない事理はないのだと。
変異して――取りも直さず心というものを獲得して、間もない彼に「誤解しないでほしいんだけれど」「わたしは顔を見れて嬉しいけれど」とくどくど前置いた念の入りようは、いま思い返すとあまりにも慎重に過ぎたといささか気恥ずかしさを覚えるほどだった。

しかし誰が予想しただろう、当の本人は照れくさそうにはにかんでこう言った――「僕が、なまえに会いたかったんです」。
続けて、視線を逸らしながら「これが照れるという感情なんだ」と確かめるように呟いたコナーに、わたしは白旗を掲げる以外の選択肢を持っていなかった。
具体的な反応としては、照れくささというものを噛み締めているらしい彼に飛びついて、ぎゅうぎゅうと力一杯抱き締めた。
コナーはわたしの突拍子もない行動をとがめるでもなく、小揺るぎもせずしっかりと抱き留めてくれた。
見上げれば、どこに持っていけば良いのかわからないとばかりにたわめられた口角が、笑顔らしきものを形づくっていた。
ぎこちない笑顔は、率直な表現をいとわなければひどく下手だった。
しかしなによりもやさしく、甘く、いとおしくて、わたしは精一杯背伸びをしてキスをねだった。
希望が即座に叶えられたのはいうまでもない。
多忙な恋人に配慮してしおらしい物言いをしていたのはこちらのはずだったのに、どういうわけだかわたしが喜ぶという首尾に落ち着いてしまっていた。
恋人が完璧すぎる。

かくしてゆとりがあるときは、善良な一般市民が知ってかまわない範囲で、今日はこんなことがあった、今度の休みはどこへ行こう、そういえば君が好きそうな店を見付けたんだよ云々と他愛ない会話を交わし、恋人らしいふれ合いを大切にしていた。
余裕がない際にはわたしが就寝中に訪れているらしく、翌朝ひとりで起床すると、「おはよう、なまえ。先に出ます。君も良い一日を」と律儀にメッセージを残す甲斐性まで発揮してくれるのだから、本当に元は捜査補佐を専門とするモデルなのかと疑ってしまうのもやむなしだった。
もう一度言おう、恋人が完璧すぎる。

今夜は、久しぶりのふたりきりの時間だった。
このところ刑事課の人員をなんと三分の一も割いて当たっていたらしい事件がようやく片付いたのは、ひっきりなしに顛末と局の活躍を伝えるニュース番組からも明らかだった。
おおよそ一週間ぶりに対面した恋人は怪我もなく、制服代わりにしているジャケットも、清潔感のある髪も平生通り完璧だったものの、どこかくたびれた印象を受けたのは、極めて珍しいことに、わたしを抱き締めながら情感たっぷりに溜め息をついたせいかもしれなかった。
いわく「まさしく疲労困憊ってああいう状態なんだろうね。やっと事後処理まで片付いて、ハンクすら自分で運転することを放棄して、自動送迎タクシーを利用したんだ。あのハンクが、だよ! “これから二十時間、電話の一本でも入れてみやがれ、返事するのは俺の声じゃなくて銃声だぞ”なんて管を巻いてね」だそうで、コナーをしてここまで言わしめるのだから、DPDの皆さんの惨状は推して知るべし、である。

というわけでわたしたちはソファに並んで座り、お疲れさまとお互いをねぎらっていた。
出会った頃は、澄ました顔で「機体が摩耗してパフォーマンスが低下することはありますが、これは人間が言う“疲れる”状態には当たりませんよ」なんて可愛げなく主張していた彼はどこへ行ったのか、いたわるようにダークチョコレートに似たブラウンの髪を撫で、ほくろがまばらに散る耳へ毛先を流すと、もっと撫でろと言わんばかりにコナーは甘ったれた仕草で身を寄せてきた。
さながら大人しい犬めいて目を細めている彼が可愛くて仕方がなく、遠慮なく髪や頬を撫で回していると、おもむろに手首を握り引かれた。
やさしく、しかし振りほどけない絶妙な力加減で抱き寄せられ、わたしの上体が彼の胸にやさしくぶつかった。
完璧な流れだったし、完璧なタイミングだった。

折も折、降って湧いたように無粋な「待った」がかかりさえしなければ、なんの問題もなくわたしたちの唇はぴったりと重なっていただろうし、あるいは今頃ソファの座面にふたりして倒れ込んでいたかもしれない。

「なまえ、君の嫌がることはしたくないんだ。ただ……理由を尋ねても?」

穏やかな声音でいつものように「わかりました」と頷くかと思いきや、しかしコナーはぴたりと静止したまま食い下がった。
優秀なソーシャルモジュールがどんな演算を経てそうすると決めたのか知るべくもないが、文字通り機械的に停止したまま、握ったわたしの手首を離す気も毛頭ないようだった。
変異したとはいえアンドロイドに対してそう表現するのが正しいのかわからないけれど、彼はやや神経質そうな・・・・・・所作で右目を細めた。
親しみやすさを指向したという端正な顔立ちの彼がそういう険のある表情をすると、ぐっと精悍さが増し、そわそわとどこか落ち着かない感覚に陥ってしまうものだった。

恋人という関係性を築いている相手に、真っ当なふれ合いを拒否されたのだから、そのわけを尋ねるのも道理だ。
考え込んでいますとアピールするように両手を擦り合わせることこそなかったものの――なにしろ片手は依然としてわたしの手首をつかんだままだ――、LEDリングは忙しなく黄色に光り、当惑を示していた。

とはいえわたしも、殊更に意地悪をしてやろうと腹積もりあってのことではなかった。
恋人とキスしたくないのではない。
勿論、コナーとのキスが嫌なわけでもなかった。

ただ、嫉妬していた。
おそらく。きっと。
なにしろキスをしている間のわたしときたら、決まって目も当てられないありさまで、熱に浮かされたようにぼうっとして彼以外のことをすっかり忘れきってしまうのが常だった。
端的にいって、いっぱいいっぱいになり、他のことを考える余裕なんぞこれっぽっちもなくなってしまう。

キスどころか恋人という関係を結ぶことすらまるきり初心者であるはずの彼から、「なまえはキスが好きなんだね」とまるで幼い子どもにするように、口の端からだらしなくこぼした唾液を親指の腹でぬぐっていただいたのは、単に唇と唇をくっつけるより一段階か二段階ほど深いキスをはじめて交わした夜のことだった。
あのときのいかにも微笑ましげなコナーの笑顔を思い返すだけで、未だにじっとりと汗が浮いてしまうのを堪えられない。
彼は初めてなのだから、落ち着いてこちらがリードしてあげなくては、などと考えていたとは口が裂けても打ち明けられまい。
また、セルフォンが健気に職場からの着信を知らせてくれていたというのに、あまりにキスに夢中だったせいでまったく気付けずにいたのは記憶に新しい。
なにしろこれは前回――具体的には一週間ほど前のことだ。
早々にまともな思考を手放し、なすすべもなくコナーとのキスに溺れていたわたしに、見かねた彼が「なまえ、電話の通知が」と冷や水を浴びせるように注意を促してくれなければ、重要な連絡を無視していたに違いなかった。
皆が皆そうではないのは重々承知だけれど、すくなくともわたしという人間は、キスひとつでここまでだめになってしまうのかとそら恐ろしい思いさえした。

ひるがえって彼はどうだ。
初めてのキスで相手を慮る余裕はあるわ、電話の着信だって教えてくれるわで、うらやましいほど、憎らしいほど冷静だった。
なにしろ優れた捜査補佐官であるところの恋人は、わたしがまばたきするよりも速く、スキャンした顔面から名前や生年月日、犯罪歴を照会しているし、わたしが溜め息をつくよりも速く、社会保障番号に基づいたあらゆる情報にアクセスできる。
一般人であるわたしが事件現場に足を踏み入るはずもないので、直接お目にかかったことはないものの、彼の舌パーツは捜査をより円滑にするため優れた機能をそなえているらしく、証拠品をわずかに摂取するだけで成分を分析できるのだという。

うろうろと視線をさまよわせれば、コナーの形の良い唇が否応なしに目に入った。
水を差さずキスしていれば良かった、そうすればしかばかり愚にもつかないことで頭を悩ませはしなかっただろうにと、今更ながらにわたしは後悔しはじめていた。

目の前にコナーがいなければ、なりふりかまわず頭を抱えていたかもしれない。
あれやこれやと屁理屈やら逃げ口上やらを連ねたところで、心の機微といった手っ取り早い表現に逃げずにおのれの心情に立ち向かうなら、つまるところわたしは、単に拗ねていじけているだけだった。
――自分と違い、コナーばかり冷静でずるい! と。

「なまえ?」

いつまで経っても口を割らないわたしにとうとう痺れを切らしたか、促すように名前を呼ばれた。
深い情緒を得てからひとしお豊かに発話するようになった声音には、怒気どころかこちらをなじる響きすらちっともなかった。

いつの間にかうつむいていたらしく、手首を握ったのと反対の手でそっと顔を上げさせられた。
いまだってただ頬を撫でられただけで中途半端に開いた唇がふるえた。
どんなデータを参考にしたのか見当もつかないが、日頃から完璧な恋人っぷりを披露してはばからないコナーは、こういった非常に面倒くさくも切実な感情を抱くこともないのだろうか。

「……ごめんなさい。嫉妬したの」
「……嫉妬」

コナーは鸚鵡返しに繰り返した。
なにか思うところがあったのか、開きかけた口をもごつかせたものの、結局押し黙った。
こめかみのLEDリングはいまもって黄色のままであり、わたしの簡素な返答で困惑が解消されるどころか、呑み込みがたい疑問をいたずらに増やしただけだったとみえる。
たかがキスひとつ、言葉ひとつのこととはいえ、恋人の一挙一投足に振り回されているのがこちらだけではないと顕著に示され、おのずから溜飲が下がってしまう自分自身をわたしは認めないわけにはいかなかった。

――良くない、これは非常に良くない。
情報を小出しにしたり曖昧な物言いをしたりと、小賢しいやり口で相手に戸惑いや混乱を与えるなんて、どう考えても褒められた行いではない。
あまつさえそのことに喜びすら感じているのだから、ひととしても、恋人としても、とても誠実とはいえない態度だ。
それでなくともストップを命じられた姿勢のまま、メモリーを精査してなんとかわたしが嫉妬なんぞ言い出すに至った要因や対象を突き止めようと苦心しているらしい恋人は、自我が芽生えて一年かそこらのベイビーなのだ。
頬に落ちた思慮深い睫毛の影を目の当たりにして、わたしの後ろ暗い優越感は軽率な指にふれられ弾けてしまったシャボン玉のように消え失せた。

真摯に向き合うべく、意を決してまずは「順を追って説明させてください」とつかまれたのと反対の手を挙げた。
投降めかして大人しく挙手をするわたしに、コナーは居住まいを正して「どうぞ」と頷いた。
傍から見ればさぞ間の抜けた光景だっただろう。
しかしいささか手狭ではあれど愛着のある我が家に第三者の影はなく、そしていまわたしたちに必要な行程だった。
なにしろアンドロイドと違い、人間は直接メモリーに接続しての相互伝達を行えない。
おおまかな樹幹ばかりでなく、伸びる枝葉や末の方にある節をも削ぎ落とすことなく、噛んで含めるように言葉を尽くす努力こそが、誤解やすれ違いを生まない最善手だとわたしはコナーと交際する上で学んでいた。
主観的で言語化することができないものを完全に共有することはあたわずとも、そうあろうと努める気組みを欠く理由にはならないのだから。
ごまかしたりはぐらかしたり、迂遠な言い回しで一時的にその場を取り繕えたとしても、後々良い結果に繋がったためしはなかった。

さすがにウミガメだのクモだののたとえ話は省いたものの、キスをしていると恥ずかしながらまともに頭が働かなくなってしまうのだと、わたしはしどろもどろになりながら白状した。
こちらがいっぱいいっぱいになっているのに対し、コナーはいつだって理知的で、自分ひとりで盛り上がっているようで居た堪れない、悔しかった、嫉妬していた、そのために意地が悪い真似をしてしまったということまで、細大漏らさずぶちまけた。

自分自身でさえ曖昧にしかとらえられていない感情を吐露するという、要領を得ないだろう説明の間、コナーは一言も口を挟むことなく、じっとわたしを注視していた。
仮借かしゃくない宣告を待つ囚人のような気分で「……以上です」と締めくくると、彼は一秒か二秒、逡巡するようにまばたきした。
折り目正しく「なるほど」と頷いた。

「つまり……冷静な思考や判断が不可能なほど、なまえは僕とのキスに夢中だということ?」
「うっ、いえ……あの、はい」
「それなのに、僕は常に君以外のものに意識を向けられるし、データ処理や演算にCPUを割いている。それが不公平だと感じた。だからなまえはキスするのを躊躇した――そういう認識で間違いない?」
「……間違いないです。ごめんなさい」

まったくもっておっしゃる通りではあるものの、こうも理路整然と並び立てられると、身の置きどころがない心地がする。
ただでさえ、これこれこういう状況ですか? と現状把握に勤しむコールセンターのオペレーターじみた生真面目な口調でだ。
至らない恋人で非常に申し訳ない。

最早なにに嫉妬していたのか、そもそもわたしはどうしたかったのかすら判然とせず、あまりの居心地の悪さにいっそ逃げ出したい思いに駆られていた。
もしもわたしにもLEDリングが装着されていたなら、今頃ちかちかと赤く点滅していたに違いない。

相も変わらずぐるぐると考え込んでしまったわたしとは対照的に、コナーは易々となにがしかの答えを見付けたらしい。
やおら薄い唇を喜びを示すように引き上げて「なまえ、ふたつ訂正を」と呟いた。

「訂正……?」
「そう、訂正だ。まず一点目は、もし君の言う通り、本当に人間が嫉妬という感情を生まれながらに持ち、切り離せないのなら、変異して感情を獲得したアンドロイドが……僕が、それを絶対に持たないとは言い切れないこと」
「う、うん……?」
「具体的に例を挙げよう。君に会えずにいた六日と十四時間の間、僕の最優先事項は事件の解決だった。そのために行動していたし、持つ機能すべてを活用していた。だけど、ふとした瞬間……そうだな、以前なまえと行ったカフェに新しいメニューが追加されているのを見付けたり、オーディオ機器の店頭でなまえが聞いていた楽曲が流れるのを耳にしたり……そのたびに僕は、なまえ、君のことを思い出していたんだ。この曲を聞いていたときのなまえは僕が贈った髪留めを着けていて、僕が淹れた紅茶を飲んでいた――そんな些細なことまでね。事件現場やオフィスで、僕がこうしてデータ整理や必要な報告をしている間も、君の勤務先の同僚はなまえと会話したり、食事を共にしたりしてるんだと考えるたび、わずかにストレスレベルが上昇しているという警告が出た」

思わず頬を赤らめてしまうわたしを余所に、コナーはどこか感慨深そうに「変異する以前の僕だったら、ソフトウェアの異常を告げるダイアログが出ていただろうね」と呟いた。
大切な思い出話を明かすようにゆったりと目を伏せた。

「はじめはどうしてもわからなかったんだ。君のことを考えると、いつもならポジティブな感情が湧いてくるはずなのに、どうして今日に限ってストレスレベルが上昇するんだろう? って。そんなとき、向かいのデスクに座っていたハンクにからかわれたんだ。なんでもそのときの僕はひどく不機嫌な表情をしていたそうで……“確かにここ最近抱えてるのはクソ厄介なヤマだが、お前にそんな顔させるほどだったとはな”と」

アンダーソン警部補も、なにもコナーが職務に支障をきたすほどの深刻な問題を抱えているとは思っていなかっただろう。
オフィスでいつになく険しい形相の相棒にコーヒーを差し入れる程度の、なんてことはない軽口を放っただけだったはずだ。
しかしながら唯一無二の相棒へ全幅の信頼を寄せているコナーは、自らが抱える不整合について語ってしまったらしい。
すっかり。腹蔵なく。
どういうことだ、あれだけ完璧な恋人然とした振る舞いはどこへ行った。

至って真面目かつ率直に「どうしてでしょう? 僕はなまえを愛しているのに、いま彼女のことを考えると、ストレスレベルがわずかに上昇するんです」と明かされたときのアンダーソン警部補の心境は察するにあまりある。
さしものベテラン捜査官も、まさか変異体からティーンとまがうレベルの恋愛相談をぶつけられる日が来ようとは予想だにしなかったに違いない。
愛すべきデトロイト市警の名物刑事は目を丸くしたものの、いち早く動転から回復すると、次いで腹を抱えて笑い出したらしい。

自分の発言が相棒に大笑いの発作を起こさせたのは明白だったが、しかしその訳合いまでは理解が及ばなかったコナーは呆気に取られたのだという。
きょとんとまじろぐ彼に、人生の先達たるかの御仁はあっけらかんとこう答えた――「そりゃお前、“嫉妬”ってやつさ。恋人が別の野郎と親しくしてるかもしれねぇって考えたときにご機嫌でいられるやつがいるんなら、是非ともお目にかかりたいもんだね」。

ハンクはいつも僕にない視点からの意見やひらめきをくれる、と誇らしげに顔を輝かせている恋人とは裏腹に、一方わたしはアンダーソン警部補! と叫びたくなるのを堪えるのに必死だった。
頬の熱はいよいよ耐えがたいものになっていた。
そのときアンダーソン警部補が浮かべていただろう、顔中にやさしいしわをためた、ざっくばらんな親しみを込めた笑顔を容易に思い描くことができてしまったためだった。
ふたりの信頼関係はそれこそまばゆく感じてしまうほどだったけれど、コナーの情操教育を大いに担っていらっしゃる彼に文句を付けられるはずもない。
とはいえ、アンダーソン警部補の性合いやひととなりを心から尊敬するのと、恋人とのあれこれがすっかり筒抜けになってしまっていることに羞恥を覚えるのは、まったくもって別の話だった。

平素は気にもかけない心臓が、動いているのはここだと今更その存在を強く知らしめるかのように脈打っていた。
仮に彼の秀でた観察眼がなくとも、依然として握られた手首の脈拍から、どくどくと激しく暴れるわたしの拍動を感知していたに違いない。
偽ることなく、飾ることなく、真っ直ぐに向けられる言葉と眼差しはこの場から逃げ出すことは敵うまい塩梅であり、情熱的な殺し文句を吐いたばかりの恋人は、なおもいろんな意味で・・・・・・・手をゆるめるつもりはないらしかった。

「そして二点目。確かにキスをしている間、僕の処理ユニットや視界にはなまえのデータが表示されている。これは眩しいものを見てひとの瞳孔が収縮するみたいにほとんど反射的なものだから、スキャン機能をオフにすることは難しい。でもなまえとふれ合っていると、とにかく君のデータを得るのに必死で、リソースが圧迫されて遅延が発生するんだ。普段なら即座に可能な、振り分けや削除の処理が滞ってしまう。君の情報で思考を埋め尽くされている――そう言うとわかりやすいかな。この感覚を、僕は人間が感じる“夢中”な心地だと判断している。キスしている最中のなまえは、その……とても魅力的だし、遅延が発生するのもやむをえないというか……。それに、君は僕と交際する前にも恋人がいたと話してくれただろう? 過去のことは変えられないのに、なまえのこんな表情を他の人間も見たことがあるのかと思うと、実は悔しくも憎らしくもなるんだ。いくら考えたって仕方がないことなのに……。つまり――ね、僕もいつも通りとは程遠い状態なんだ」

平生の、あたかも供述書を音読するような語調とはまったく異なり、コナーは取りこぼしがないように、伝わるように懸命に、丁寧に言葉を探していた。
自分の説明で思いが届いているだろうかという心配と、気分を害していないかとよぎった不安とがないまぜになったかの複雑な面持ちで、同意を求めるようにおずおずと下から覗き込んできた。
ただでさえ近かった距離は、額同士が接して目の焦点が合わなくなってしまうほどだった。

「この二点から、普段、僕は君の周囲の人間に嫉妬してるし、キスの最中はなまえの言うところの“いっぱいいっぱい”な状態に近いと思うんだけど……どう?」

わたしはといえば、情熱的な殺し文句、あるいは熱烈な告白に――これが熱烈な告白ではなくてなんだというんだ――最早息も絶え絶えで、ブラウンの瞳を覗き込んで確かめなくとも真っ赤な顔をしているのが瞭然たるありさまだった。
頬のみならず耳や首まで熱っぽく、なぜだか目の奥に痛みを覚えるほどだった。
そんな気遣わしげな表情をする必要はないのだと、キスでもなんでもしていますぐ証明してみせたかった。

「……コナーが、すごく、わたしのことが好きなのはわかった」
「もしもいままで伝えられてなかったのなら反省するし、アプローチ方法を変える必要があるなあ」
「普段から伝わっています。これ以上ないってくらい」

観念したように未だ握られたままの手首を揺らすと、「待った」をかけられてから唯一の抵抗だった拘束がようやくほどかれた。
代わりにてのひらを重ね、指と指を交互に絡めて、ぎゅっと繋ぎ合わせた。

そうして唇と唇がふれようとする瞬間、コナーがそれはそれは嬉しそうに「やっとキスできる」と、誰かに聞かせるでもなくそう呟くものだから、やはりわたしは彼のことでいっぱいいっぱいになってしまうのを避けられなかった。
せいぜいわたしの情報で埋め尽くされてしまえと念じながら、形の良い唇に自分の唇を押し付けた。


(2023.11.17)
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