ぱっぱっと明滅するネオンサインは、けばけばしいピンクやブルー、オレンジ、シアンにスパークし、無防備な眼球を突き刺した。
時折ジジッとブラウン管の砂嵐じみた不快な音がするのは、みだりがわしく纏わりつく羽虫たちが接触を訴えるのに余念がないためだ。

夜空に月が輝かずとも、地上に光は満ちる。
きらめく星も、どぎつい蛍光灯も、中天より俯瞰すれば大した違いはあるまい。
後者は文句も表号マーク計画的システマティック按配あんばいには程遠く、それぞれの共通項といえばとびきり猥雑、低俗、ただしわかりやすく人間の世俗的な欲を刺激するための、歓楽街のビビットな花環としてはこれ以上ないほど正確無比な・・・・・下品さだった。
情緒もなにもあったものでなかったが、ともあれ光は光である。

おもむろにレヴィは懐のソード・カトラスを抜き、いつものようにぴいちくぱあちく益体もないおしゃべりを開陳するでもなく、ぼんやりと地上の光を眺めている鳴鳥へ「なんかあったか? なまえ」と声をかけた。
香港三合会トライアド張維新チャンウァイサンから直々に金糸雀カナリアのおりという発注を請けた彼女は、こうしてかれこれ二〇分ほどうらぶれた路地で立ちん坊を決め込んでいた――なまえとふたりきりでだ。

主要な戦力を割く采配に、はじめこそラグーン商会のボスは難色を示していたものの、ダークスーツの強面共をぞろぞろ引き連れるよりはマシだろうとの御諚ごじょうである。
とどのつまり数多の凡夫より、一騎当千たる二挺拳銃レヴィの力量を認めているのと同義であり、覚えめでたいご指名とはいえ、傷ひとつでも付けようものならこちらの首が飛びかねない爆弾――もとい小鳥を端からふらふらと遊ばせるのでなく、高閣層楼へ後生大事に仕舞い込んでおいてくれと差し出口を叩きたいところだった。
とまれかの御仁が無意味な差配なんぞすまい。
腹案あってのことだろうとは呑み込めた。

夜降よぐたちいまのところ彼女たちの他に人気ひとけはなく、街灯なんぞ気の利いたものはない闇路に黒々とした影を刻んでいた。
もういくらも経たないうちに黒い車がお迎えにあがる算段だった。

なまえの立ち居振る舞いやら為人ひととなりやらはともかく、あの・・張維新チャンウァイサン永年ながねんそばに置く金糸雀カナリアの鉄火場に対する嗅覚は、レヴィも認めるところだった。
仄聞そくぶんした世評や外聞に左右されない、とりわけ生き死にに直結する性質に関して口さがない他者の評価なんぞ、無償で物品を贈与するらしい赤い服の老人サンタクロースやら処女信仰の一角獣ユニコーン並みにまったくもって信じていない彼女の判断のものさしは、至って単純明快、おのが目で見た代物にしか信を置かない、それに尽きた。
そして飼い主への気違いじみた敬慕と、自分の身の安全に関するヴィジランスに限っていえば、なまえは二挺拳銃レヴィの審美眼に適う女だった。

鳴禽めいきん然許しかばかり滅多になくくちばしをつぐんでいるのから、荒事に慣れたラグーンの女銃手ガンマンいぶかしむのも当然だった。

「ンだよ、物珍しそうに。いくら“穢れなき処女”つったってよ、今更この手のハンドサインやらジャーゴンやらに恥じらうほど初心うぶッてわけでもあるめえ」
「そうね。未だに理解の及ばないスラングが多々あるのも事実だけれど」

なまえが凝然として見上げていたのは、店舗の看板とネオンサインだった。
星を霞ませる電飾は夜目にはどぎつすぎ、不躾に眼球を突き刺した。
卑俗極まりないガラス管は、この街の往来という往来、糧道という糧道に掲げられており、レヴィの言う通り珍しいものではない。

棟割長屋のように壁を共有している建造物は、右はポルノショップ、中央は上階の賭場への入口、左は安酒場と三分割されており、モルタルの壁いっぱいにごちゃごちゃと不揃いな電飾がひしめいていた。
たとえば「落ちぶれた放蕩者とか、ぐれて冒険的な生活を送っているブルジョアの子弟とかのほかに、浮浪人、兵隊くずれ、前科者、逃亡した漕役囚、ぺてん師、香具師、ラッツァローニ、すり、手品師、博打打ち、女衒、女郎屋の亭主、荷担ぎ人夫、文士、風琴弾き」――そんなルンペンプロレタリアート共がうごめく熱帯の魔境ロアナプラにあっても、とうに盛りを過ぎた娼婦、火の消えた花火のようなしなびた雰囲気が漂っていた。

確か並び三軒コロンビア人共がケツを持っている店だったかとレヴィは当たりを付け、わずかに険しさを増した目元で水を向けてやった――不倶戴天の商売敵共の表構えになにがしか思うところがあるのかと。
しかし真っ当な懸念とは裏腹に、警護対象が目を注いでいたのは、壁面に掲げられた店名や男性器を模した卑俗なネオンサインだった。
光り輝くペニスを無感動に見つめるさまは、小鳥に「塔の上のお姫さま」なんぞくだらない幻想を抱いているタイプの信奉者なら、卒倒せんばかりの光景だ。

「ただ懐かしくなっただけなの。違和感を覚えたものだなあって」
「違和感?」

いかにも怪訝そうに目を丸くして鸚鵡返しに言うが、我関せず焉、なまえは苦笑した。

「ただの独り言よ、至極つまらないタイプの」
「ヘッ、囀りやがれ。金糸雀カナリアがぶっこいた寝言で、いままでに身を乗り出すほどつまらなくねえトピックがあったかよ」
「もう、レヴィったら。そんなに褒めないで」

故意に思わせぶりな言い回しをしたつもりは毛頭なかったが、とはいえレヴィの性分ではここで宙ぶらりんにされるのを良しとはすまいとは、誰の目にも、とりわけ他者の顔色を窺うのに長けた小鳥には明らかだった。
むやみに気を持たせるでもなくなまえはあっけらかんと答えた。

「ネオンサインがちかちか光っているなあと思って」
「そりゃあな」

なんだこいつ、と口に出したか否か、レヴィは自分のことながら判然としなかった。
へし口に曲がったしかめっ面とはいえ一応反応を返してやったのは、まことや馬鹿馬鹿しいおしゃべりが恋しくなったからではない。
真実まったく暇だったからだ。

無論、周囲の警戒を怠るべくもなく、暗がりからの強襲にも即応できるよう、けばけばしい彩りを放つ広告照明からふいと視線を外して瞳孔の保護に努めた。
発火炎やらフラッシュバンによる羞明しゅうめいならばまだしも、たかが安蛍光灯に目が眩んて反応が遅れるなんざお話にならない。

「そういや前に仕事で東京――新宿に行ったときも、似たようなもんだったな。タイムズスクエアだのブロードウェイだの有名どころはもうちょいお上品ぶっちゃアいるけどよ。文字やらハンドサインやら変わろうが、掃き溜めってのはどこも臭ェ空気だけは似通ってやがる」

香港も有名だったろ、とり入れたトライバルタトゥを見せびらかすような具合で肩をそびやかした『三文オペラ』の海賊ジェニーに、香港三合会ナンバー四麾下きかの女は「ええ、観光名所のひとつよ」と率直に同意を示した。

香港島中環セントラルから、高密度の建造物群が乱立するコーズウェイベイ、銅鑼湾トンローワンにかけてハーバーに面した大通りは「百万ドルの夜景」と称えられて久しく、また、九龍の尖沙咀チムサーチョイから旺角モンコックは、道路に水平に突き出た電飾看板の下をオープントップバスでただ通るだけの観光ツアーが組まれるほど人気の観光スポットだ。
バスの運転手たちが仕事を始める際に支払う「道路使用料」、いわゆるみかじめ料も、それどころか元締めの運営会社まで黒社会の業容であることは、ヴィクトリア湾を臨むかの地では公然の秘密、そして邪径じゃけいではあったけれども。

「いまのところわたしたち・・・・・が大きなお顔をしていられる理由のひとつに、当局の“ご協力”は欠かせないけれど……そんなお上でも、珍しく厳重に目を光らせる対象がひとつあるの。レヴィ、なにかわかる?」
「やっといつもの調子が戻ってきやがったな。やけに勿体ぶるじゃねェか。まさかなぞなぞリドル遊びまでさせられるとは思ってもみなかったが。そんならあたしからは“What has a head and a tail but no body?”とでも出題してやろうか?」
「……だって暇なんだもの。あのひとに焦がれる時間もまたいとおしいものだけれど。それに“コイン”はきちんとお支払いされているでしょう?」
「そうかい。あたしが請けたのは用心棒であって、レディズ・コンパニオンもどきじゃなかったのは確かだけどよ。ま、ラジオよりかなんぼかマシかもな。なんたって一方通行にベラベラくっちゃべるだけじゃなく、クソくだらねェなぞなぞにもすぐに答えてくれンだ、そうだろ?」

あんまりな物言いにくちばしをとがらせて不満を表明してみせたなまえは、しかしごくあっさりと、それこそてのひらのコインを開いて見せるように答えを披露した。

「布政司署が厳しく取り締まるもの――答えはね、ネオンサインの点滅よ」

どこか遠いところを見晴みはるかす眼差しは、恋しかるべき夜半の月を探すようにも、遠いお国の夜色へ思いを馳せているようにも見えた。
ヴィクトリア・ハーバーに燦然と輝く大型ネオンの夜色は、だいたい看板ひとつあたり月三千元もの電気代を広告照明に費やして生まれる偉観いかんであり、「百万ドルの夜景」との呼称もまんざら誇大宣伝というわけでもない。

それらと比べるべくもない、この街に掃いて捨てるほどあるかまびすしいガラス管へ、指し示すには冒涜的ですらある白腕しろただむきがそっと差し伸べられた。

「香港の国際空港を知っていて? 啓徳カイタックは市街から車で二十分もかからなくって利便性は高いんだけれど……世界一着陸が難しい空港と呼ばれていたの。普通、飛行機の着陸誘導灯って、滑走路の延長線上にあるものでしょう? 周囲になんにもない原っぱとか。そうじゃないと、万が一オーバーランでもしてしまったらとっても危険だもの。ね? でも、埋立地の啓徳カイタックは土地に余裕がなくて……着陸誘導灯が、ビルの屋上にも取り付けられているの。建物の高さを示す“航空障害灯”ではなくて、空港とは関係のない一般のビルによ? そんな空港って余所にもあるのかしら。寡聞かぶんにして知らないけれど。――つまり、ね、パイロットは下界からちかちかしている誘導灯の列を探して、滑走路の端に辿り着かなくちゃならない――すぐ近くに高層ビル、海岸線ぎりぎりに迫った山に囲まれているっていう立地環境でね。滑走路自体も短くて一本しかないのに。……ふふ、確かにあれだけの量のネオンサインが一斉に点滅していたら、九龍はとっくに焼け野原になっていたでしょうね」

そこまで安穏と語った女は、聞き手がいたことをそのときようやく思い出したかのようにぱちぱちまじろぐと、にっこりと殊更に笑顔を浮かべてみせた。

「だから違和感を覚えたの。この街ったらどれもこれもネオンサインがちかちか光っているんだもの。そのときのことを懐かしんでいただけよ、レヴィ。点いたり消えたりする電飾を見てびっくりした、まだ小鳥と呼ばれる前の――娘の頃の」

眩しいのか、うっすらと目を細めた横顔はどこかセンチメンタルなものだったかもしれない。
飼い主恋しさに益体もない感傷にとらわれたらしい「白い手の女」がふるう長口舌は、あながち的外れでなかっただろう。

街でも名うての銃手ガンマンは、口直しでもするかのようにおしゃべりを浴びせられた耳穴へ人差し指を突っ込みながら「クソの役にも立たねェ小話だった」とぼやいた。
「だからはじめにそう言ったでしょう」と答えたなまえの表情が実以じつもって困ったような苦笑だったため、彼女にしては珍しくり言は大人しく呑み込んでやることにした。
暗い隘路に立ち、代わりにかざした二挺の拳銃を揺らしてみせた。

「ペーパーバックから引っ張ってきたみてェなトリビア、どーも。カーラジオの代わりくらいにはなったかもな。――なまえ、飼い主の“お迎え”予定時刻まで二〇分ってとこだ。神さまの右隣の席に座りに行く奴がそろそろ出ないとも限らねェ。おしゃべりにも飽きてきたし、クソったれなネオンだの落書きボムだのじっくり鑑賞するより、金糸雀カナリアの目はマズルフラッシュに備えときな」
「あなたのカトラスを使わず済むに越したことはないけれど。小鳥が驚いて鳥籠から飛び出てしまったら大変」

夜闇をつんざく下品なネオンサインを背景に、白いワンピース姿の女がそれはそれは清らかに微笑んだ。






振動を抑えようと運転手は鋭意努めているらしかったが、如何いかんせん尺寸の街ロアナプラの道路状況は芳しいとはいいがたく、「Das Beste oder nichts.」を掲げた重心の低いロングボディといえど車体の揺れは快いものではなかった。
もっとも後部座席でいつものように張の横にはべるなまえには高級車の乗り心地なんぞ些細なことであり、もの思いといえば、硝煙の香りがする主人へ抱きついて良いものかどうか、ただそれのみに注がれていた。

予定通りお迎えにげた主は、彼女と同じく――内容には天と地ほどの違いがあるだろうが――なにやら一方ひとかたならぬ思案に暮れていらっしゃるご様子だったため、信心深い側女そばめは隣で静かに座していた。
ややあっておもむろに懐から煙草を取り出した張に、あたかしとばかりにライターを差し伸べながら「旦那さまをお待ちしている間ね、レヴィとおしゃべりしていたんです」と微笑んだ。

深沈と漂う白靄に焦点を合わせていた偉丈夫が、サングラス越しにも毒気を抜かれたように目をしばたたかせたのが、すぐ隣で見上げるなまえにはありありと見て取れた。
張維新チャンウァイサンは「またか」と深く紫煙を吐き出した。

「なんだかんだ言って、彼女レヴィもお前の囀りに付き合ってやる器量はあるんだよな。面倒見がいいというかなんというか」

肩の力を抜き、紙巻きをくゆらす相形そうぎょうはわずかにゆるんでいた。
いくらか気が逸れたものらしいと、なまえは嬉しそうに頷いた。

「ふふ、毒にも薬にもならない世間話ですよ。街灯もない夜道にネオンサインが眩しくて……目を痛めてしまいそうだったんです。やっぱりナイトヴューは“山頂ピーク”や大廈たいかのように、高いところから眺めるに限りますね。初めてロアナプラに来たとき、電飾看板がちかちかして驚いたと……レヴィにそう話しましたの」
「あー、あれか。確かに最初は目を引いたな。でかさも派手さも比べものにならんが――とっくに慣れちまって、いまじゃあ戻ったときやけに大人しいと感じるくらいだ」

みするでもなく、それどころか男が鷹揚に同意までしてみせたのは、あるいはかの特区・・から「生と死の狭間にとらわれた影が集まる場所」へ赴いた者は、大なり小なり似たような感慨を抱いていたのかもしれない。

懐かしいと思って・・・・・・・・。わたしもとうに慣れてしまいました」

ラグーン商会の二挺拳銃に語って聞かせたよもやま話には、余談があった。
香港の国際空港といえば長年、それこそ日本統治時代前から維多利亞港ヴィクトリア・ハーバーに面した啓徳カイタックを指したが、なまえが語った理由の他にも、拡張しようにもこれ以上九龍湾の埋め立てが困難であること、そして老朽化により「香港国際空港」は赤𫚭角チェクラップコクへ移転した――のみならず、英国統治の「置き土産」として途轍もない費用を注ぎ込んだ、政治的な意味合いの強い一大プロジェクトだったのだ。
閉港した跡地、そして新空港を巡っては、土木工事から利権にまで黒社会が一枚も二枚も噛んでいるのは、やはり極めつけの公然の秘密、邪径じゃけいだった。

一般のビル屋上に設置された着陸誘導灯は取り外され、九龍でも電飾看板の明滅が解禁となる予定だった。
おそらく今後、点滅するネオンサインが増えていくだろう。
しかし彌敦道ネイザンロードの路上に突き出す大看板は、明滅以外は無法地帯となっていたために観光名所たりえたが、サイズ規格や道路からの高さなど、昨今、当局による規制が厳しくなっている。
老朽化で撤去される反面、新しく設置するためのハードルは上がっており、最盛期に比べて減少傾向にあった。
「年々歳々花相似、歳々年々人不同」、万物はあまねく移り変わり、沙羅シャラの木さえいずれ花が枯れて白鶴の群れと成り果てるだろう。

「やれやれ。過ぎ来し方を偲ぶなんざ――俺も小鳥も歳を食うはずだ」

慨嘆と共に主人が紫煙を深々と吐き出すのを、なまえは惚れ惚れしながら見つめていた。
肺の奥底から煙を吐くその仕草が、張維新チャンウァイサンほど様になる男をなまえは他に知らない――再三再四、夜を重ねようと、煙草へ火をともそうと。

「まあ、随分なおっしゃりよう。
――そういえばこんな夜でしたね・・・・・・・・・・・・・。旦那さま、あなたがわたしを“金糸雀カナリア”とお呼びになったのは」


(2024.02.29)
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