「棘さん!」

地獄の悪鬼に寸時とはいえ二の足を踏ませたのは、女の悲鳴が、耳にするだけできりきりと胸が締め付けられるような悲痛な響きだったからか。
白い頬をはらはらと伝い落ちる涙を見て、心を強く動かされぬ者がいるだろうか。
血塗れで倒れ伏した男に対し、明暮あけくれ彼女がどれほど深い情愛と慈しみとを抱いているか知り及んでいるならば、否、たとい彼らの累日に及ぶ理無わりない仲など知ったことではないどんな悪逆の徒ですら、まるでどこに行くにも随伴する影のように、夜に光を添える月のように、そば近くにはべる様相を一瞥したことがあるなら、思わず手を差し伸べてしまいたくなっただろう。

革張りの肘掛け椅子に隠されていた盗聴器を、青児が発見した。
青児と凜堂棘は絶句していたが、その場で唯一、表情を変えることなく静かに佇む者がいた。
なまえである。

凜堂探偵事務所の書斎スペースの隠し部屋から現れ出てた青年を、三対の瞳が――ひとりは困惑、ひとりは驚愕、ひとりはどこか悲しげに、言葉も忘れて見つめた。
息を呑む彼らの前に姿を示したのは、白髪の鬼。
繊細なガラス細工じみた容貌は、うつくしい。
しかしそれは見る者に否応なしに忌まわしい感情を抱かせるうつくしさだった。
不吉、不祥、わざわい、ありとあらゆる呪言をもってしても言い尽くせぬ、おぞましい美。

「……荊?」

とっくに死んだはず・・・・・・・・・の青年の登場に度肝を抜かれたのは、青児ひとりではない。
あたかも来し方行く末すべての悪因悪果も、しがらみも、すっかり抜け落ちてしまったかの如く立ち尽くしていた凜堂棘が、かの鬼の名を呼んだのだ。
――五年前、目の前で自死したはずの兄の名を。

呼ばれた荊の方は、疎ましげに弟を睥睨したかと思うと、無造作ともいえる動作で散弾銃の引き金を引いた。
耳をつんざく銃声が鳴り渡る。
どさりと重たく湿った音が後を追った。
左肩を撃ち抜かれ、どうと仰向けにくずおれた棘は、それでもなお目の前に立つ喪服じみた黒衣の男を――双子の片割れを、いっそあどけないほど純一無雑な瞳で見上げた。

咄嗟に反応したなまえが「棘さん!」と叫び、昏倒した彼をかばうようにその身を投げ出した。
荊が存在を明かすことは見越せても、流血の惨劇など予想だにしていなかったらしい。
うがたれた風穴からは勢いよく血潮が吹き出し、彼女のワンピースを赤黒く汚す。
なまえは落涙をぬぐいもせず、死蝋じみた白皙はくせきの美貌を振り仰いだ。

「お願いです、荊さん、やめてください」
「なまえ、邪魔だよ。お前も撃たれたいというなら構わないけれど。……それにしても。ふふ、こんなに物覚えが悪いとは思わなかったな」

――それとも誰が主人か、お前は忘れたのかな。
酷薄な弧をいた薄い唇がそう嘯いた。
お前は要らない、と失望と気疎けうとさを音にしたような。
どんな禍々まがまがしい呪詛といど、琥珀色の邪視を持つ死人が吐いた軽口ほど、邪悪なものはなかったに相違ない。
臓腑はおろか魂すら凍えそうな冷徹な声音に、なまえはぴしゃりと打たれたように項垂れた。
それどころか身をていして命乞いをしていたはずの棘を明け渡すように、おもむろに身を引きさえするではないか。
凶手は、その繊細な手に不釣り合い極まりない無骨な猟銃を未だ握ったままだ。

青児は眼前の光景を、そんな、と信じられない思いで凝視した。
なまえのことはよくは知らない。
凜堂棘のことも、てて加えて荊と呼ばれた亡霊じみた風体の男のことも。
彼らにどんな多生たしょうの縁が、どんな宿怨しゅくえんがあろうと、青児には関係ない。
しかししおれた花のようにうつむいているなまえという女性は、青児が知る限り決して、絶対に、凜堂棘の身柄を凶手に委ねて構わないなどと打ち捨てられるような人物ではないのだ。

「さて、予想よりも酷いありさまですね」

そのとき、見覚えのある黒革のショートブーツが荊の手めがけて飛んできた。
呆然と目を見開く青児の半歩前に、満開の白牡丹が凜と咲いた。

「お久しぶりです、荊さん。それから、青児さんも」






兄弟が生まれ育った西洋館は、東京郊外にありました。
人家の群れはおろか、最も近い住居ですら数キロ離れ、おまけに徹底的に結界が張られているとありまして、ひとの行き来は皆無です。
深い木立に埋もれ、人目を忍ぶように建っておりましたが、誇る威容いようは到底隠せるものではなく、近隣で「お屋敷」というとそのまま彼らの生家を指したほどでした。

彼らの家は付近一帯の山林や土地を所有しておりまして、西洋館の裏手にそびえる連峰もその一部でした。
その裏山を、兄弟はわずらわしいお目付け役や教育係たちの目を掻い潜って、勝手気ままに闊歩したものでした。
監視の目の盗んで逃げ出す悪童とはいえ、いやしくも王公の子息たちといったところでしょうか――年相応に無邪気に転がり回ることはありません。
まあひとつ想像してご覧なさい。
仕立ての良いシャツと靴に身を包んだ年端もゆかぬ少年たちが山野をゆく光景は、パストラルの絵画とでもいうべき牧歌的な佳景でした。

揃いの金糸めいたうつくしい髪を風に揺らされて、その日も幼い兄弟たちはふたり連れで山道をそぞろ歩いていました。
年の頃は十二ほど。
その頃既に「悪神、神野悪五郎の嗣子として挑む王座争い」とやらの陰惨な未来をお父君より宣告されていました彼らにとって、他愛もない逃奔は、生家における――生まれながらに収監された牢獄と言い換えてもよろしいでしょう――ほんのまばたきほどの息抜きでした。

と、背の低い草むらをあてもなくほっつき歩いていました少年の片割れが、ふいに足を止めました。
ものも言わずその場でしゃがみこみます。
弟がなにを見付けましたか、その後ろを足音どころか気配すら立ち消えそうな足取りでゆったりと追行していた兄は、すぐに見て取りました。
足元にあったのは、つんと上向きに咲いた鐘形の花。
明るい緑よりも黄や茶色が大部分を占めます冬隣の枯野にあって、鮮やかな青紫色の花は一際目を引いたのでしょう。

「リンドウだね。珍しい、もう季節は過ぎてるはずだけど」

読書家の兄が、独り言とさして変わらぬ口振りで説明を施しました。
声変わりもまだ遠い、鳴禽めいきんの囀りにも似た声で囁きます。

「こういう時節を過ぎて咲く花を、帰り花、あるいは忘れ花というんだ」

鈍臭い花もあったものだね、と。
訳知り顔で吹鳴すいめいするでもなくさらりと事実を述べた兄に、弟はそういうものかと素直に敬服しました。

兄に教えられたばかりの語を口のなかで繰り返します。
――リンドウ、リンドウ。
発音のアクセントはやや異なるようでしたが、音の響きはよく知ったものでした。

「そうだね。僕たちと同じだ・・・・・・・

弟が考えていることなど易々と汲み取ったのでしょう。
悪神の令息に無礼ではない範囲で、配下の者共すべてからといっても過言ではないくらい、往々「恐ろしいほどお母君に生き写し」と評されます佳容を、兄はいくらかやわらかくゆるませました。

「ここ最近、季節外れの暖かさだったからね。予報では明日からまた寒さが戻ってくるそうだよ。こんな忘れ花、すぐに枯れてしまうだろうね」

さして興味も感慨もないのでしょう。
野花が辿る道を淡々とつまびらかにしました兄は、野山を歩く少年らしからぬ、血の気の引いた白いおとがいをつと上げて「そろそろ戻ろうか」と言問いました。
肌にふれる風はいつの間にか冷えきり、空の端では黒々とした雲が不穏な渦を巻かんとしています。
もう冷たい雨が降り始めるのにいくらも猶予はないでしょう。

兄の視線を追って空を仰いだ少年は、やおらまた目を足元へ転じました。
少年には、力強く咲くリンドウが明日には枯れてしまうとは到底信じられなかったのです。
――いいえ、ただ信じたくなかっただけかもしれません。

余程、名残惜しそうな顔でもしていたのでしょうか。
しゃがみこんでいる彼の横に、おもむろに兄が膝を着きました。
未だ男でも、はたまた女でもない、あまりの繊細さに月も隠れてしまいそうな指先が、ついとリンドウの茎をさらいました。

ニル・アドミラリに摘まれたリンドウが、幼い指の合間でだらりと垂れています。
突然の蛮行に目をみはります前で、兄は野花を摘んだのと反対のおのが手を、歯で裂きました。
傷はほんの微々たるもの。
しかしみるみるぷつりと血の玉を結びました。
なにを、と声を荒げる前に、兄はいとけない指先を血で濡らしたまま、おごそこかなものさえ感じられる挙措きょそで花を握りました。

そのときはまだ、地獄の朋輩が為果しおおせるしゅまじないもさして知らなかったのです。
血を介していびつな生命を与える術を弟が目の当たりにしたのは、このときが初めてだったということです。

手折った青紫色の花を、長めの前髪の隙間から見下ろして、双子の兄が――凜堂荊が、囁きました。

「別に、お前のためではないよ」

その言葉は一体どちらに・・・・向けられたものだったのか。
――未だに、分からずにおります。






「おはようございます、棘さん」

そっと頬に添えられたてのひら。
やわらかな繊手せんしゅがひどく冷たく感じられたのは、自分の体温が常になく高いためだろうか。

どこからかムクドリの鳴き声が聞こえる、物憂い暮夜のことだった。
熱と痛みに意識がふつふつとぶつ切りにされる。
ともすれば再度深い奈落へ落ちそうな正気を叱咤し、焦点を定めるのを億劫がる目をぐらぐらさまよわせると、傍らでやつれた女が簡素なスツールにかけていた。

「いくらお寝坊の棘さんといっても、こんなに長い間お休みしているなんて……。はやく元気なお顔を見せてください。わたし、もう、あなたの寝顔は見飽きてしまったもの」

かつて、悪神、神野悪五郎が令息、凜堂荊の血を与えられたことによりヒトの身をとれるようになった元野花は、ふるえる唇を引き結んで笑みの形をこしらえてみせた。
まるで夜泣きする子に手を焼かされた明朝の母のように「放っておかれすぎて、枯れてしまうかと思いました」と嘯いた。

意識が混濁しているのだろう。
なまえのり言をぼうっと聞いていた棘は、一度、二度、口を開閉して、病人が横たわる部屋の暗い夜気を吸った。

「……夢を見た」

落ちる雨粒めいてぽつりとこぼれた声は、かすれ、ひび割れている。
みみしいになったかの如き静かな病室でなければ、すぐ隣にいるなまえでさえ聞き取れなかったに違いない。
いまは指一本動かすことすら億劫だろうに、彼は深い眼窩をつかむように強く目元を覆った。

「まだ渡英する前、生家にいた頃の――」

夢のなかで夢を見ているような声で、痛みのためか、時折口をつぐみつつ、雨垂れのようにぽつりぽつりと、なおもって棘は言葉を続けた。
母の生家でもあった郷里が牢獄のようだったこと、密かに兄と野山を歩いたこと、そのときリンドウの忘れ花を見付けたこと、そして兄が血を与えたこと。

殊更、他者に語って聞かせようとしてのことではなかったかもしれない。
彼自身、実際に声に出している自覚もあったかどうか。
その表情は右手に遮られて確かめることは敵わなかった。
途切れ途切れの声は、懐古するようにも、あるいは懺悔のようにも聞こえた。
かつて野の花だった女は、相槌を打つでもなく、質問を挟むこともなく、雨垂れめいた独り言をただ静かに聞いていた。

高熱にうなされる子どもがうわ言を漏らすのに似て、突如始まった問わず語りは、やはり不意にうやむやになってほどけた。
業火にあぶられているかのように一度呻くと、やがて棘は力なく右腕を下ろした。

「荊は……」
「いまは行方不明です。あのあと、閻魔庁から連絡がありました。お父君と、魔王、山本五郎左衛門さまの魂が、照魔鏡によって封じられているそうです。荊さんはおふたりの魂を人質に、皓さんと王座争いをなさるおつもりだと……」

なまえの簡潔な報告に、棘は反応らしい反応を示すことなくまた目を閉じた。
一旦取り戻したとはいえ、意識は未だ昏迷から脱しきってはいまい。
もしかしたら次に目を覚ましたときには、夢の話を――思い出話を語ったことも、なまえから現状の報告を受けたことも、はっきりとは記憶していないかもしれない。

死人じみて血の気の失せた棘の病相は、思いの外、双子の兄に似ていて、なまえはそっと目を伏せた。
――すべて、遠い過去の話だ。


(2023.06.07)
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