(※『黒鉄の魚影』ネタバレ)




粘ついた潮風がびゅうと吹き抜ける。
都内の某埠頭は、無骨なプラント群が無数の照明に照らし出されて不気味な陰影を描き出していた。
薄気味悪い雰囲気の原因は、場所がヨットやプレジャーボートが停泊するハーバーではなく、鉄鉱石や石炭、石材、建築材料といった工業用原料を運搬するための工業港であるためか。
隣接する波止場にはガントリークレーンやアンローダーが居並び、夜が明ければ大量の貿易船が寄港し、コンテナの積み卸し作業で賑わうのだろう。

しかしいま現在、寒々しい工業港には、武器を帯同したスーツ姿の捜査官たちが息を殺しているばかりだった。
既に各々所定の配置に就き、容疑者の到着を固唾をのんで待ち設けていた。
直接現場を指揮する上司は、いまは愛車にて通話中だ。
おそらく、伊豆諸島八丈島近海に設立されたパシフィック・ブイを訪問している上官と、報告や連絡を行っているはずだ。
車外に立ったなまえはその邪魔をしないよう、ターゲットである船の航路を逐一チェックしていた。

日本のみならず世界中の表といわず裏といわず、社会へ影響を与えているコングロマリットは、未だその全容すら掴めていない。
今夜、捜査官たちが潮風吹き荒ぶ工業港に集ったのは、組織との繋がりのある会社の船舶が暗々裏入港するとの情報を、組織随一の「探り屋」――バーボンから得ていたためだった。
くだんの会社は、表向きは真っ当な貿易会社の看板を掲げているものの、コンテナ船が運ぶのは重軽工業用品だの資材だのではなく、主な船荷は小火器を中心とする武器であるのはほぼ疑いようがなかった。

組織きっての「探り屋」といえば、蒸留酒の名を持つ彼を指すほどで、直接的な暴力や殺人といった実働部隊にはあまり積極的には交わらず、幹部のなかでもとりわけトップの覚えがめでたい幹部の秘密とやらを握って「探り屋」というポジションを築き上げたのは、並大抵のことではなかったに相違ない。
より内部の情報、機密に潜り込むためには、組織内で台頭する必要がある。
が、突出どころかコードネームを与えられるためには致し方ないこととはいえ、違法行為に手を染めざるをえない難局に直面するのは必定。
その点、対象を制圧して初めて真価を発揮する狙撃手や暗殺者ではなく、主に諜報活動を担うセクションにおいて頭角を現したのは、違法捜査や囮捜査等を是としない日本国の捜査官として、考えられうる限り最善手だったといえる。
よしんば実力行使を辞さなかったとしても、降谷ならば並み居るコードネーム持ちよりも遥かにハイレベルに任務をこなしただろうが。

主立った幹部連中が雁首揃えて、州島側地域の南方二八七キロの太平洋上に留まっているのだ。
彼らを一網打尽にできれば御の字だが、功を急いだ挙げ句に首魁を逃しては元も子もない。
幹部ですらお目にかかれるのはごく一部の者だけという、徹底して秘匿された「あの方」は、ただでさえ既に死亡したと目される老獪な分限者だ。
更に深海じみた夜闇の奥深くへ潜られては、現在潜入している捜査官も、そしてすべてを白日の下に晒さんと散っていった同胞たちへも申し開きができない。

と、未だ通話を続けているらしい降谷零が、愛車から降りてきた。
電話の相手はどこの誰だろうか、常になく声を荒らげている様子から、パシフィック・ブイにいる上官との通信ではないらしいのは見て取れた。
海風になぶられるまま、金色の髪が揺れる。
まとうのは見慣れたグレーのスーツ姿ではなく、夜闇に溶けてしまいそうな黒いコート。
組織に「バーボン」として潜入している彼も、数時間前までインターポールの新施設、そして組織の潜水艦に乗り合わせていた――いずれも非合法な手段での侵入ではあったが。
捜査官としてなまえも日々多忙ではあるものの、この上司を見ていると「忙しい」と口に出すことすらはばかられる。

「……幹部の移動のためにわざわざヘリを用立てるなんて、犯罪組織って余程儲かるんですね」

なまえは独り言じみた呟きを漏らした。
別段、誰かに聞かせたいわけでも、なにがしかの反応を求めての発言でもなかった。
全員が配置に就き、容疑者がまもなく到着との報告のために、降谷を呼びに来たらしい風見だけが、偶然その呟きを耳にした。

早急に都内へ戻るにあたり、組織のヘリを用いたと聞いて、なまえは驚き呆れたものだった。
そして覚えたのは、ある種の空虚感。
ヘリといい、潜水艦といい、世界有数の資産家が抱える秘密部隊とはいえ、いくらなんでも運用にも維持管理にも莫大な金を要する軍事設備をこれだけ有しているなど、一国の行政機関ごときが太刀打ちできる相手ではないのでは、と。
無論、一警察官としてあるまじきことだったが。

水中航行可能な軍艦、すなわち潜水艦の動力は、歴史に登場して以来、長らくディーゼルエンジンが主流だった。
しかしながら第二次世界大戦後に急速に発達したのは――建造に要する技術的水準や建造費、維持費が高く、加えて否定的な世論もあって日本は保有していないが――、原子力を動力とする潜水艦である。
もしも組織の運用する艦が原子力潜水艦だった場合、日本の領海内――伊豆諸島の八丈島近海で、国際刑事警察機構の施設に向けて犯罪組織が大規模なテロ行為をしかけるなど、もはや警察庁どころか国家の安全保障の範疇である。

風見は、なまえの言葉をとがめるでもなく、ちらっと見下ろしただけだった。
ただ眉をひそめた面差しは、あるいは彼も同じことを考えていたのかもしれない。
国家の治安維持を担う彼らにとって、上司が潜入している組織は、あまりに巨大な冥闇めいあんに包まれており、この逮捕劇も些細な一端に過ぎないのだ。

「降谷さん、あと二分で容疑者が到着します」

風見に促された降谷は、我に返ったように「ああ、」と頷いた。
しかし足を踏み出すより先に、碧眼が地味なスーツ姿の女を一瞥した。
公安部きっての捜査官は、部下のこぼした不埒な呟きを耳聡く聞き取っていたらしい。
鮮烈な夜明けの海にも似た光を宿す降谷の瞳に射すくめられ、なまえは顔を引き攣らせた。

「も、申し訳ありません、職業意識に欠けていました」

慌ててなまえは頭を下げた。
容疑者逮捕のため張り込んだ山場にあって、あまりにも間の抜けた独り言だった。
しかも数百キロ離れた自国の領海内において、いましもテロリストやスリーパー・セルによる桁外れな戦闘行動が執られようとしているにもかかわらず。
緊張感を欠くにも程がある。

冷や汗をかいている部下を見下ろし、その鋭敏な頭脳でなにを考えていたのだろうか。
未だしかつめらしく頭を下げているなまえを睥睨へいげいすると、降谷は「ひとつだけ言っておく」と口を開いた。
静かな、しかし断固とした口調だった。

「みょうじ。君の言う“儲かる”――非合法の組織が動かす大金は、元を辿れば無辜むこの人々の被害によって得たものだ。そのことを忘れないように」

事々しくあげつらうでもない。
語気を荒らげたわけでもない。
しかし託宣めいて告げられた冷静な声は、吹き荒ぶ海風に掻き消されることは決してなく、なまえは降谷の口上にぴしゃりと打たれたように目を見開いた。

「はい、降谷さん。肝に銘じます」
「よし。ならいい。――全員配置に就いたな。アンカーとタラップを下ろして、奴らが地面に一歩でも足を着けた時点で出る。ひとりたりとも逃すな」

短く告げた公安部のエースに、ふたりは我知らず背筋を伸ばした。
上げたなまえの顔にもはや倦怠やためらいは一切なく、見違えるほど精悍な眼差しで降谷を見上げた。
インカム越しにも「はい!」と声を揃えた捜査官たちの返答を聞き、垂れ込める闇夜を切り裂くように、降谷零と部下たちは迷いのない律動的な靴音を夜寒の工業港に響かせた。


(2023.04.26)
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