(※「砂糖の花」を踏まえてのお話です。先にそちらをご覧になってからお読みください)




「――痛っ……」

小さく声が響き、なまえが慌てて包丁を置いた。
みるみる左手の人差し指に赤い血が滲んでいく。
隣に立っていたなまえは、反射的にバッと私を見上げる。
見開かれた夜色の瞳が大きく揺れた。

「あ、あのっ、吉良さん、ご、ごめんなさいっ……!」

心の底から申し訳なさそうに、目にはうっすら涙さえ浮かべてなまえが俯いた。

私がいつもより早く帰宅したところ、なまえが夕飯の準備をしていた。
聞けばドッピオが外出しているとかで、今日は彼女ひとりでつくっていたらしい。
お疲れでしょうからと遠慮するなまえを説き伏せ、手伝おうとスーツの上着を脱いでいたときのことだった。
他愛ない会話を交わしながら包丁を扱っていた彼女が、自分の指を切ってしまったらしい。

私が女性の手に執着しているのはここの住人皆がよく知っていることだし、なまえの手は私が大切に手入れして美しくつくり変えたものだから、彼女自身、自分の手というより私の所有するものだという認識が強いようだった。
所在無げにきゅ、と唇を噛み締めたなまえの手を握る。
その手に傷をつくるだなんて確かに頭に血がのぼりそうだったが、申し訳なさそうに消沈した彼女に、更に責めるような言葉を投げつけようとは思わなかった。

「なまえ、私は怒ってなどいないよ。君が料理をしているときに話しかけてすまなかった」
「いえ、そんな……わたしの不注意で、」
「私も配慮が足りなかったことを反省するから、今度から君も気を付けるようにね」
「はい……」

怪我をした左手を引き、水道の蛇口を捻って水で洗い流す。
眉を下げ神妙な顔をしたなまえはされるがまま、流れていく水とそれに混じる血を眺めているようだった。

じっくりと傷口を見つめる。
左手の人差し指、親指側の側面を一筋赤い線が走っている。
ああ、私の美しい手が。
浅いようだし、痕は残らないとは思うが……と薄く歎息し、患部から目を逸らそうとした。
しかし。
私はなまえが怪我をしたことより――勿論、怪我をした彼女のことを心配する気持ちも十二分にあったが――、私が美しく手入れして保ってきた白い手に、一筋赤い線がはしり未だじわじわと血が滲み続けているそこが、なぜか目に焼き付いて離れなかった。

「吉良さん?」
「……ああ、いや、」

微動だにしない私を見上げ、不思議そうになまえが首を傾げる。
一瞬我を忘れるほど血に意識が向くなんて、ウチにいる人外じゃああるまいし、と苦く口の端を歪める。
そもそも血そのものというより、白い肌に混じった別の色という点が原因なのだろうと、取り留めもなく自己分析した。
なぜだろうか、それがいやに私の目と意識を奪って仕方がない。

「取り敢えず手当てしようか」
「はい、お願いします」

洗い流した手から水気を拭い、救急箱を取りに行こうと体を翻したそのとき。
視界の端でなまえの指を、つう、と血が垂れた。
小さな傷だったため、それはごく細い線だった。
しかし気付けば私は彼女の華奢な手首を強く握り締め、その筋を舐め取っていた。
ああ、私の、私が育てた、美しい手。

「き、吉良さん、……っ」

傷口に私の舌が触れた途端、痛みが走ったのかなまえの肩がびくりと跳ねた。
それでも手首を握った私の手が振りほどかれることはなく。
こうして手に触れることは日常と呼べるほどに繰り返してきたし、何より今は、ほんの小さくとはいえ指に傷を負ってしまったことで私に負い目を感じているのか、なまえは殊更大人しくしていた。
いじらしいじゃあないか。
手指を傷付けられ、確かに腹立たしく不快に思っていたはずだったというのに、その感情が霧散していく。
口の端が薄く笑みへと歪むのを、どこか他人事のように自覚していた。

人差し指から指と指の間にまで垂れていた血液を、尖らせた舌先で掬い取り、何度も何度も傷口を往復する。
そのたびになまえはぴくぴくと、手を、肩を、ふるわせた。
滲むそれがなくなると、怪我をしている人差し指を口に含む。
さっきまで流水をかけられていた指はひんやりと冷たかったが、丹念に舐めしゃぶっていると、すぐに私の口腔内と同じ温度になっていった。

舌腹を指に沿わせ絡めたまま僅かに口を開くと、くちゅりと大きく音が漏れた。
は、と息を吐く。
なまえが従順なのを良いことに、人差し指だけでなく、中指も一緒に口に含む。
二本の指のせいで空気の入り込む隙間が出来たせいだろう、さっきよりも大きくぐちゅ、じゅぷ、とあられもない水音が響いた。
なまえはなんとも健気なことに、されるがまま、かつ私の喉奥を突かないようにと、僅かに指を曲げて私の動きを助けてさえいる。
恍惚で頭の芯が痺れるかのようだ。
我ながらみっともないほど熱い息が漏れた。

じゅ、と音を立てて指たちを吸い、最後にまた傷口を舌先で擽って口腔から吐き出すと、とろりと唾液が糸を引いた。
気付けば夢中で舐めていた。
ああ、なんだったっけ、そうだ、救急箱を取りに行こうとしていたんだった。

指から口を離すと、なまえが深く深く俯いていることにそこでようやく気が付いた。
髪の隙間から覗く耳は、ひどく赤い。

「んん、は、……なまえ?」
「っ、あ……」

名前を呼べば、びくりとその体がふるえる。
しかし彼女が顔を上げることはなく、その様子はまるで、悪事を起こした子供が叱責されるのを待っている姿を彷彿とさせた。
どうしたのかともう一度名前を呼ぶものの、俯いた表情はやはり隠されたまま。
元々気の長い方ではないと自負している私は、なまえの左手を拘束しているのと反対の手で、顎に手をかけ無理に顔を上げさせた。

「……ぁ、ぅ、きら、さん……」
「っ……」

直後、その顔を直視したことを少しばかり後悔する。
見え隠れしていた耳と同じく赤く紅潮したやわらかそうな頬、頼りなげに微かにわななく唇、熱く熟れた目元、――何より目を引いたのは、今にも泣き出さんばかりに涙をためた瞳だった。
清楚な容貌を悩ましく上気させたなまえの表情に、心臓がどくりと跳ねたのを自覚する。
それは私のよく知っている、愛らしく、爛漫に笑う「なまえ」ではなかった。

「なまえ、」
「ぁ、んっ……」

熱を持った頬に触れていた手をするりと動かして肌をなぞれば、なまえの口からは小さく声が漏れた。
私の知らない声。
欲にまみれた、雄を煽るためだけに発されるのではないかと錯覚するほどに浅ましい声。
か細いそれは、私の背筋をざわりと撫でるかのように響いた。
過去にも抱いたことのある動揺を、私は思い出していた。
あれはいつのことだったか……最中の彼女の表情を盗み見て、体が熱くなった記憶。
私の心を動かす対象は生まれてこの方「手」のみだったというのに――ああ、私は、手だけではない、「なまえ」という人間に、欲情しているらしかった。

喉が渇いていた。
年甲斐もなく、ごくりと喉が鳴る。
ぐらぐらと煮え立つような衝動で目も眩むような心地がしていた、その時。

「――あ? 帰っていたのか吉良」
「っ……あ、ああ……さっきね」

部屋から出てきた途端、ディアボロが訝しげな顔でこちらを見た。
確かに、私やなまえの状態を見れば致し方ないことだろうが。
それにしてもどうはぐらかそうか。
彼女の手を握ったまま上手くまとまらない思考で考えていると、ふいに、吐息をこぼしてなまえが小さく肩をふるわせた。

「なまえ?」

近寄ってきたディアボロが、首を傾げてなまえの顔を覗き込む。
小さく彼女が息を飲む音がかすかに聞こえた。
なまえの瞳は助けを求めるように視線を彷徨わせていた。

覗き込んだ彼女の顔を見て、ああ、と、得心がいったと言わんばかりに呟いたディアボロは、にやりと笑うと後ろからなまえの身体を抱き締めた。
それにも彼女はびくりと身をすくませる。

「なまえ、そんな顔をして、吉良にどう気持ち良くしてもらったんだ?」

同性の目から見ても驚くほど手慣れた動作で、ディアボロがなまえの身体に手を這わせた。
なあ? と笑み混じりに問われ、なまえは真っ赤な顔を更に泣きそうに歪めている。
熱く火照っているのだろう紅潮したうなじを甘噛みされ、彼女は濡れた目を見開いた。

「ひぅっ……! ディアボロさん、や、やめて、だめっ」

なまえの膝がふるえ、崩れ落ちそうになる。
しかしそうなる前に腰と上体をディアボロの腕で支えられ、彼女が床に倒れ込むことはなかった。

「ああそうだ、なまえ、吉良に言ってやるといい」
「は、ぁ……ぁあ、」

くすくすと底意地の悪さが滲み出た低い笑い声をこぼしながら、ディアボロが一言二言、彼女の耳元でなにか囁く。
なまえの上体を支えている左手で、俯かないようディアボロが彼女の顎を固定しているせいで、彼女の表情は私の眼前へ惜しげもなく曝け出されていた。
特等席で鑑賞するなまえの顔はひどく淫らで、どうしようもなく私の奥深くをざわりざわりと撫で擦るように刺激した。

躊躇うように濡れた虹彩をうろうろと彷徨わせていたなまえは、ディアボロに急かされ、桃色に潤んだ唇を噛み締める。
恥じらいよりも欲望の方が勝っていく過程、表情の移り変わりは、私に今まで感じたことがないほど、まるで肌が総毛立つような興奮をもたらしていた。

「……き、きらさん……なまえ、」

濡れた瞳をまたたかせ、なまえが私を一心に見上げた。
左手首は握られたまま、なまえは自由な右手を私の頬に伸ばす。
さっきの私のように頬を撫で、ゆっくりと下に降りた白い手は、未だしっかり結ばれたままだった私のネクタイをゆるく引いた。
引き寄せられ、必然的に近付くなまえの顔。
上気した赤い目尻は涙を浮かべ、桃色にほころんだ唇はゆるやかに弧を描いた。

「なまえ、からだが熱くて……助けてください、吉良さんに……きもちよく、してほしいんです……」

お願いです、と、至近距離で吐息まじりに小さく囁かれた言葉。
涙をためた夜色の虹彩が、欲深くゆらゆらと揺れていた。
自分が言わせたくせに、妬けるな、なんて笑いながらディアボロが彼女の首筋に舌を這わせた。

「っあ、あぅ……ふ、ぁあん、」

びくびくと身悶えながら、それでも私を捕まえるなまえの右手が離れることはない。
拘束していたはずの左手はいつの間にか、私の指と彼女の指を交互に絡めて、きゅ、と握られていた。
手におえないほど昂揚している気分を飲み干すよう嚥下すれば、また、ごくりと喉が鳴った。

「っは、なまえっ……」
「ん、あっ、吉良さん、っ、んんぅ……!」

初めて重ねたなまえの唇は想像していたよりもずっと熱く、脳内がどろりと爛れ溶け出しそうなほどの興奮をもたらして目眩がしそうだった。

エディブルフラワーの嗜好
(2015.07.08)
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