(※『黒鉄の魚影』ネタバレ)




「……どうしてまた、情報システムのエンジニアが?」

電子メールを表示した無機質なディスプレイを凝視したまま、なまえは思わず呟いた。
アポイントメントを求める文面は、手短に述べる能力がないと判断されるのを恐れてか、要点に絞った至って簡潔なものだった。
いわく、あるシステムの開発のため、法医学の立場からの助力を求めたい、と。
漏れたなまえの声が、怪訝というよりも胡散臭そうなものになってしまったのも、致し方ないことだった。

研究を進化、拡張させるため異分野の研究者の交流は、各大学の垣根を越えて積極的に行われている。
無論、異なるフィールドからもたらされる刺激や見識は、柔軟に受け入れてしかるべきだ。
しかしながら医療と情報の融合だとか、犯罪科学にいままでにないアプローチをだとか、理念だけは高邁だが到底実現不可能なお題目を掲げる胡散臭いベンチャー企業に、肩書きによるネームバリューやら説得力やらを付加させるために声をかけられるというわずらわしい手間を、おそらく大学の研究所にいて経験したことがない者はいなかった。
なまえも例に漏れず、その手の勧誘やら招致やらに辟易することが一度や二度ではなかった。

なにしろメールに記載された「情報システム」の語も、その内容はソフトウェアの開発から、軍事民生問わずGPSの利用、航空宇宙、金融機関におけるコア・バンキング、はたまた普段利用しているインターネットショッピングまで多岐に渡る。
受信したメールでは、顔認識システムを発展させたプロジェクトと銘打っていたが、大方機密性が高いものなのだろう、詳細は伏せられていた。
つまるところ、どこぞのシステムエンジニアが門外漢である法医学の戸を叩く理由が、皆目検討も付かなかった。
金になりやすい医学部や理工学部ではなく、わざわざなまえの属する法医学の研究室にお声がかかったのも疑問だった。
法医学は、法科学における崇高な一分野だ。
が、その実、警察の要請を受けて死体検案や司法解剖を行うのがなまえの日常的な実務である。
監察医でも検視官でもなく法医学医に回ってくる死体は、基本的に事件性があるものばかりだ。
頭部が完璧な形で揃っていれば文句なし、五体満足ならありがたいくらいの死体を扱う業務は、上記の分野に比べて知名度が低いのは事実ではある。
かくいうモルグの住人たるなまえも、余所の庭から「どうして医学部を出たのに医者にならなかったのか」との悪意のない問いを受けたことがあった。

電子メールの差出人は直美・アルジェント。
名前を検索してみると、在学中に発表したらしい人類学の分野での学術論文がヒットした。
添えられたPh.D.からも、とりあえず得体の知れない新興会社の線は排除して良さそうだ。

とはいえ、依然としてどうして情報システムのエンジニアが、という疑問は解消されない。
たっぷり午後の時間を民族学、民俗学、文化人類学についての論文の読解に費やした結果、畑違いであるはずの法医学医の興味を十二分に引くものだったため、なまえは了承と面談の日時を指定するメールを返した。
常日頃から死人ばかり相手しているのだ。
たまには生きている人間と向き合ってみるのも悪くない。

そうして初対面を果たした直美・アルジェントは、聡明な眼差しと、ひとの好さそうな笑顔が印象的な女性だった。
肌は白いものの、額から耳にかけての広がり方、骨格的に南欧系の血が入っているらしかった。
名前から察するに、イタリア系と日本の生まれか。
ゆるい癖のついた髪を無造作に後ろで編んださまは研究室に缶詰めになった哀れな院生たちを彷彿とさせたが、身なりは小ぎれいにまとまっており、唯一身に着けたアクセサリーである平たい四角錐形のペンダントが胸元で光を放っていた。

昼食の時間をとっくに過ぎた学内のカフェテリアはそれでも混雑していた。
科学教育施設に併設されたカフェテリアは、学外の人間も利用可能、講義によってはホールを利用することもあるため、スポーツの試合ができそうなほど広い。
学生の集団から離れ、なまえたちは窓際の一角に陣取った。
開放感のあるガラスカーテンウォールの向こうで、学生たちが笑いながら通り過ぎていった。

来客を直接研究室へ招かなかったのは、数年来酷使されたコーヒーメーカーが今朝とうとう音を上げたのも原因のひとつだったが、機密性の高いプロジェクトとやらへの猜疑心によるところもないとは言い切れなかった。
なまえの思惑や警戒を知ってか知らでか、互いに世間一般的な挨拶や紹介を済ませると、直美は真剣な顔でこう切り出した。

「なまえさん。あなたは2020年、罪のないアフリカ系アメリカ人が、顔認証システムの誤認識によってアメリカのデトロイト市警察に逮捕された事件をご存知ですか」

インターネットを中心に新聞やテレビで連日騒がれていたその事件を、なまえも知っていた。
BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動自体はそれ以前もあったが、警察による黒人への差別的な対応の数々がインターネットによって公になるにつれ、大統領選挙を巻き込んだ運動に発展していった。
その後、世界最大手規模のIT企業、IBMが顔認証や分析のためのソフトウェアの停止を発表し、株価にも大きく影響したのは周知の事実だった。
なまえがかいつまんで話して同意を示すと、直美は大きく首肯した。

「現在の顔認証アルゴリズムでは、人種――つまり肌の色によって認証の精度に偏りが生じます」
「確か白人より、黒人やアジア系……特に女性の誤認識が多いんですよね」
「ええ。私は、人類学とAIについて学んでいます。人種や性別、年齢によって人間は人間を区分したがるのは、純粋な事実です。同じところ、異なるところを探すのは、自分と他者というものが存在する限り、普遍的で、不変でしょう。私は人種や年齢を問わずに認証できる、全年齢認証プログラムを考えています。例えば、そうですね……」

システムエンジニアというよりも、熱意に突き動かされて前代未聞の難題に挑む学生然とした表情で、直美・アルジェントは外を歩きながら談笑している数人の学生を指し示した。

「彼らのような笑顔の場合、現在の顔認証システムでは誤認識が起こりえます。無表情では問題ありませんが、笑ったり怒ったりといった感情が顔面に表れると、途端に認識率が低下するんです」

自動車のナンバー自動読取は比較的早い段階で実用化されたが、こと人間の顔認証には技術的にも倫理的にも、課題が山積しているといわざるをえない。
ここ数年、スマートフォンのロック解除や空港での自動手続きをはじめ、広く普及してきた顔認証だが、しかし一般的なスマートフォンに搭載されているレベルの顔認証技術は、一卵性双生児や、意図的に似せた他者との区別は付きづらいとされている。
直美が言ったように、表情が変わると認識率が低下したり、素材は真正面からの写真に限られたりと制約も多い。

「人種や年齢に影響を受けない認証プログラム、私はこれを“老若認証”と名付けました。老若認証の開発のため、解剖学と法医学の見地からなまえさんのご協力をいただきたい……私はそのために伺いました」

この時点でなまえは、彼女のことを得体の知れない門外漢と見くびっていたのを、深く反省した。
聞き慣れない「老若認証」という語はともかく、直美・アルジェントの解剖学、法医学に対する造詣は深く、おそらくシステムエンジニアとして求められるラインを遥かに超えていた。

実用にあたう水準にまで精度を高めるとなると、国内外を問わず膨大な量の統計データが必要である。
無論、たかが一個人の研究員では無理だ。
必ず社会倫理的な問題が発生する――老若認証が、警察や司法制度レベルの問題をはらむのは必定だった。

法医学という学問は、なにも司法解剖ばかりが仕事ではない。
科学的で公正な医学的判断を下すことによって、個人の基本的人権の擁護、社会の安全、福祉の維持に寄与する「社会医学」なのだ。
街頭やショッピングモールの監視カメラにはじまり、ネットショッピングの購買履歴、ウェブサイトの閲覧履歴、ターゲティング広告に至るまで、プライバシーの問題は、現代、常に付随している。
不合理だが感情というものがある以上、人間は顔による認証や識別をなんとなく・・・・・嫌悪する。
なぜなら、指紋や生体による認証は強制的には行えないが、顔という常にさらしている部位を用いての認証は、本人の同意を必要としないためだ。
自分が知らないうちに監視、認証されていることへの悪感情は、なまえも理解するところだった。
大部分の国民は『一九八四年』の「ビッグ・ブラザー」じみた政府の監視、検閲、権威主義を恐れるだろう。
なるほど彼女の言う全年齢認証プログラム――「老若認証」には、司法における法律的な視点も必要不可欠になる。

直美によると、民間ではキャッシュカードと暗証番号の代わりにATMでの認証を顔によって行う研究も進められており、将来的には、インターネット上の各種サイトへのログインといったセキュリティに応用も視野に入れているらしい。
ここまで来ると『マイノリティ・リポート』か『ガタカ』みたいなSF映画の世界ね、となまえは思っていたが、どうやら現実は予想よりも早く未来を招いているようだった。

なまえはコーヒーを一口すすり、老若認証について率直に「すごい技術だな」と思った。
顔の角度や表情といった制約のみならず、年齢をも計算に入れて個人を認証するプログラム。
説明を続ける如才なさとは裏腹に、直美がこのシステムにかける情熱は並々ならないものであると自ずと伝わってくる。
途方もない構想を語る口ぶりには、理想ばかりを追い求める愚か者に特有の具体性を欠いた展望とは無縁の、しっかりと地に足がついた確かな自信がみなぎっていた。
聞けば数理経済、統計学の研究室にも協力を仰いでいるらしい。

「ミス・アルジェント、あなたはこの老若認証でどんなことができるとお考えですか?」

この物言いでは研究協力の要請というより、査問か面談のようだ。
内心で苦笑しつつ、なまえは彼女の熱にあてられたようにいつの間にか自分が昂揚しているのを自覚した。
直美は「認証の精度を高めるのは勿論ですが、」と慎重に前置いた。

「長期の逃亡犯や、幼少期に誘拐された被害者の発見に役立つと考えています。そのために老化による変化が起こりにくい、骨格を中心にしたデータ検索システムの構築が必要かと。骨格から老化や若返りを計算して、その顔をCGで作り、それと合致する顔を顔認証で探します。三次元での顔認証、感情認識に左右されない検索……つまり解剖学、法医学の知識が不可欠だと考えました」
「なるほど。実現して認証の精度が上がれば、顔認証システムによる誤認逮捕も減るでしょうね」

直美が開口一番に切り出した話題へ立ち返ると、彼女は目を輝かせて頷いた。

「私の個人的な経験から、人種の違いによって不当な扱いを受けることはあってはならないと考えているんです」

顔認証のバイアスについては、多くの研究機関が認めているところだ。
白人男性が最も精度が高く、マイノリティに属する人々の精度が低い。
これはAIそのもの問題というより、AIを構築する人間によるバイアスが大きい原因という。
IT企業のエンジニアの多くが白人男性であり、彼らが顔認識システムを一定の人種の特定で高い成果を上げられるよう設計してしまう可能性があるというのだ。
作る者の人種間バイアスが、AIにも反映されてしまう――つまりシステムや技術そのものより、問題はそれらを「人間がどう設計し、どう運用するか」である。

その点、直美・アルジェントの老若認証は恐ろしい代物ではあった。
なにしろ悪意をもって用いられた場合、現在のみならず過去も未来もデータを抽出し、書き換え、犯罪歴や行動の履歴を改竄、抹消が可能かもしれないのだ――それこそSF映画の世界だろうが。
もし仮に顔や骨格、個人情報などの膨大なデータが流出したり、システムを悪用されたりといった問題が発生した際はどうするのだろうかとふとよぎったが、それは法医学ではなくプログラムを構築する彼女の領域の問題だ。
なまえにできることはセキュリティが強固であるよう願うのと、なにより誤認識を起こすことがないよう、より精度を高めるための助力だった。

「分かりました。ミス・アルジェント、老若認証システムの開発、お手伝いさせてください。法科学がこうして日の目を見るのはわたしとしても嬉しいです」
「ありがとうございます!」

勢いよく立ち上がった直美に、学生たちが驚いて一斉にこちらを向いた。
皆一様に目を丸くしている。
図らずも注目を集めてしまった彼女は恥ずかしげに頬を染め、おずおずと着席しながら「すみません」と呟いた。
いくらか緊張も解けたのだろう、思い出したように冷めたコーヒーに口を付けた。

「とても嬉しいです。なまえさんは警察からの要請を受けて、捜査協力もしていらっしゃるんでしょう? 心強いです。どうして協力しようと思ったのかお聞きしても?」
「こう言ってはなんですけど、普段、死人ばかり相手をしているもので。生きている人間のために役立つというのも興味があります。それに……言い訳にはしたくないけど、人種によって大なり小なり、煮え湯を飲まされたことはあるもの」

――あなたもでしょう、直美?
なまえがそう尋ねると、不意を突かれたように薄い肩がびくっと跳ねた。
ここの法医学研究室に籍を置くのはなまえひとりではない。
そもそも他大学にも、いくらでもとはいいがたいが、なまえよりも実地経験が豊富で優秀な法医学医はいる。
にもかかわらず直美が白羽の矢を立て、直接メールを送ってきたのは、アジア人であるなまえだった。
もしかしたら、彼女からメールを受け取った節になまえがしたように、法医学の論文と執筆者の名前から当たりをつけたのかもしれなかった。
良くいえば人種的に親近感を覚えて、悪くいえば打算的な人選は、おそらく直美の「個人的な経験」とやらに根ざしているのだろう。
しかしそれについてとやかく言うつもりは、なまえには毛頭なかった。

「直美、さっきあなたは“同じところ、異なるところを探すのは、自分と他者というものが存在する限り、普遍的で、不変”だとおっしゃった。じゃあ、システム上でくらい、完全に平等で差別のないプログラムを作りましょう」
「はい!」

大きく頷いた彼女の胸元で、貝殻のようにも、浮標ブイの形のようにも見えるペンダントが、きらりと輝いた。



(※タイトルはクリスティ『ゼロ時間へ』より)
(2023.04.16)

参考資料
ウォール・ストリート・ジャーナル「顔認証技術に人種バイアス、白人以外で多い誤認識」(2019.12.20)
国立情報学研究所「顔認証システムの倫理的課題について-人工知能とバイアス-」(2022情報処理学会第84回全国大会)
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