十一月の奥飛騨で大規模な山火事が発生して――取りも直さず西條皓の安否が不明になって、はや三日が経過していた。
捜索のため現場に赴いて直接指示を行っている篁さんは、青児から見ても疲労の色が濃い。
皓少年を巡る現況、そして昔話を青児に語って聞かせた彼は「私は生きていると信じていますよ。なにせ皓様ですからね」との言葉を残して、いつものようにふっと消えてしまった。

篁さんが立っていた空間を、青児は唇を噛んだまま見つめていた。
状況は理解した。
しかしそれ以上は未だなにも分からないに等しい。
そもそもこの件のみならず、八月の長崎の事件でも、直接手を下した犯人こそ突き止めはしたものの、絵図を描いた首魁自体は不得要領のままなのだ。

本当は、篁さんに正直に明かすべきだったのかもしれない。
――実はあのとき、なまえさんと会ったんです。
何度かそう言いかけて、やめた。
捜索の指揮をとる御仁も「関与の可能性は低いだろう」と口にしていたように、この騙し討ちじみた策謀を企むとは皆目思えないのだ。
あの・・凜堂棘が。
そして凜堂棘が関与していないはかりごとに、なまえが介入するだろうか。
青児にとってその答えは否だった。
相対した機会は数えるほど、さしてむつびず、関係も因縁も深いとは到底いいがたい。
合縁奇縁というにも奇妙な関わりではあったが、あのとんでもなくプライドの高い傲慢野郎もとい凜堂棘がこの件に関わってはいないだろうと確信できてしまうのと同じくらい、なまえという女性が一切の黒幕だとは思えなかった。

手記を残した浅香繭花や一軒宿「九ツ谺」を騙って皓少年たちをおびき寄せた周到な罠も、山間やまあいに張り巡らされていたという大がかりな結界も、なまえひとりがどうこうできるものではないはずだ――なによりその理由がない。
いずれにせよ青児の目は、彼女の姿をおぞましい魑魅魍魎のたぐいと断じたことは従前ないのだから。

とまれ篁さんがいた空間をいつまでもぼんやり眺めているわけにもいくまい。
青児が二階へ戻る途中、出窓に置かれた金魚鉢とにらめっこしていると、紅子さんに声をかけられた。

「こちらにいらしたんですか」
「ちょ、え、もう起きてきて大丈夫なんですか?」

屋敷へ戻ってからというもの、一切の面会と治療を拒んで自室に閉じこもっていたはずの紅子さんが、洗濯物らしき小山を脇に抱えて立っていた。
金魚を思わせる朱と黒を纏った見慣れた着物姿が、いまはなぜかひどく懐かしく感じる。
病み上がりにもかかわらず、煤汚れや焦げまみれだった青児のダウンジャケットを見かね、クリーニングに出すところだったらしい。
恐縮しきりの青児へ煙草の箱を渡すついでに、紅子さんがふと思い出したように「そういえばひとつお聞きしたいことが」と細首をわずかに傾けた。

「あのとき青児さんがおっしゃった、“紅子さんも”とはどういうことでしょう」
「……え、ええっと、俺が言ったっていうのは、どういう……?」

聞かれたことをそっくりそのまま聞き返してしまったのは、返答をうやむやにしよう、考えることから逃げようといった不埒な企みあってのことではない。
正真正銘、なにを問われているのか、皆目見当も付かなかったからだ。
鳩が豆鉄砲を食ったような青児の顔を、紅子さんは黒硝子のような目でじっと見つめていたかと思うと――自分の発言すら覚えていないのかこの鳥頭、と内心罵られていないことを祈ろう――、「あの山でのことです」とひとつ頷いた。
ありがたい、説明の労をとってくれるらしい。

「火の手から私が逃げてきた際、青児さんが叫んだんです。“紅子さん、どうして”と。――もしあの場にいたのが私ひとりでしたら、そんなふうにはおっしゃらないと思いまして。私以外の誰かに会った……それも直前に、と考えるのが自然かと」
「お、俺、そんなこと言ってましたっけ……」

さすが、鋭い。
あんな状況で、混乱の極みにあった青児の叫び声まで覚えていらっしゃるとは。
さすがの紅子さんっぷりに恐れ入っていると、あれ? と首をひねった。

「でも、あのー……紅子さん、記憶が曖昧なんじゃ」

恐る恐る顔色を窺うも、平生と変わらぬ涼しい表情で「この身が金魚だった昔が昨日のことに思われたり、今朝のことが遠い過去のように感じられたりと、記憶がまだらになっております」とすっぱり言い切られた。
これ以上の追求は不要とばかりに言明されてしまえば、なおも食い下がることができようか。
そんなことよりお答えをさっさとどうぞとばかりに、黒目がちの眼差しに見上げられて、観念した青児は「ええと、実は」と頬を掻いた。

「あのとき、なまえさんにも会ったんです。紅子さんの言う通り、紅子さんと合流する直前に。……たぶん、偶然」
「……なまえさんに?」

黒硝子めいた双眸のせいで印象が薄めの柳眉が、いぶかしげにひそめられた。
さすがに「まさか」と笑いこそしなかったものの、鉄壁の無表情がデフォルトの紅子さんにしては珍しく、表情は困惑――その一言に尽きる。

「……あれ、そういえば紅子さんとなまえさんって、面識ありましたっけ?」
「ないことはない、というのが正しいでしょうか。直接ご挨拶する機会には、いまのところ恵まれておりませんので」

なるほど皓少年が行くところ、陰日向になって常に見守ってくれている紅子さんのことだ。
直接の顔見知りではないにしても、商売敵というか、親の代から因縁づけられた、いうなれば宿命のライバル的なポジションの男くらい――そして青児がかつて紅子さん本人を連想したほど、付き人然とした女性くらい、あるいは素性くらいまで既に調査済みだったりするかもしれない。

「……もうひとつ。なまえさんは単独でしたか?」
「あ、はい。俺が会ったときには。でも“連れがいますので”って言ってたので、他にも誰かいたんじゃないかと」
「そうですか」

その「連れ」とやらが、長崎での一件のように策を弄して皓少年たちを奥飛騨へ誘い出したのだろうか。
先程の篁さんとの会話でも、なまえについては一言もふれられていなかったが、いるはずのない場所にいた彼女を、黒幕と関連づけてしまうのは致し方ないことだろうか。

だから、どうしてと尋ねたかったのもある。
煙草を吸いに表に出たところで、皓少年が残してくれたメモを発見し、紅子さんに「俺にできることを教えてください」と勢い込んだ結果、紅子さんを介して「青児さんにしか頼めないこと」との伝言まで受け取ってしまったなら。

と、いうわけで。
虎子を得るどころか、己れの命の保証などまったくもってできかねるとんでもない虎穴へ――凜堂探偵事務所の戸を、青児はくぐることになってしまったのだった。






「……あのー、なまえさんは、いないんですね……?」

うつし世、ここほど居心地の悪い場所もないだろう。
沈黙に耐えかねて、というわけではない。
可能なら声をかけるどころか、気配も消しておきたかったくらいだ。
呼吸すらはばかられる心地で、青児は凜堂探偵事務所の床に這いつくばっていた。

一分の隙もなく細身の英国式スーツを着こなした青年は、嫌味ったらしいほど長い脚を、これまた嫌味ったらしい仕草で組んだ。
――口が裂けてもサマになるなどとは言いたくない。
瀟洒なレザーソファにかけた凜堂棘は、青児決死の問いかけを、嫌味ったらしく「はッ」と鼻で笑った。

あれ・・はいま席を外しています。そもそも余所のものを気にかける必要が、アナタにあるとも思えませんが?」

いや、あれて。
あんまりな言いざまに一瞬鼻白んだものの、いやいや逃げちゃだめだと自分を鼓舞する。
見計らったかのような――というか実際そうなのだろう――タイミングで届いた、篁さんからの的確かつ頓珍漢っぷりを絶妙に両立させたメッセージのおかげで、どうにか皓少年の伝言通り居座ることはできそうだが、ここに来たもうひとつの理由をなんとか思い出す。
ま、負けない……! と悲壮な覚悟をひっそり決めて、青児は「皓さんが行方不明になったときのことなんですが」と口早に話し始めた。

「繭花さんを騙ってあの宿に誘い出したのも、結界ってやつを張ったのも、俺は、棘さんじゃないと思ってます。だから、会うはずがないんです・・・ ・・・・・・・・・・――」

ひどく焦って要領を得ない物言いになってしまったのは否めない。
相手の気迫や威圧感にされてしまう前にと、必死だったのだ。
これ以上ないほど物騒に顔をしかめた棘から「ちょっと待ってください」とストップをかけられなければ、急き立てられるようにしてまくし立てる与太は未だ続いていたに違いない。

「百歩譲って、闖入者たるアナタがここで呼吸するのは容認しましょう。千歩譲って、明日までという期限付きであの腹黒の配下を置くことも、まあなんとか許容しましょう。なにしろ閻魔庁のお達しですからね。――しかし万歩譲ろうと、益体もない空言を聞かされる謂れはないのでは?」

突然なにを吐き出すんだこの駄犬、とばかりに素気なく切り捨てられる。
切れ味が良すぎて、口火どころか精神までざっくり引き裂かれそうだ。
なけなしの覚悟が塵のように雲散するのを自覚しつつも、青児は懸命に言い募った。

「あ、あの火事が起こってすぐにはぐれちゃったんで、大丈夫だったか気になってて。今日ここに来たのは、勿論、皓さんのためですけど、無事を確かめたかったのもあるんです。……なまえさんの」

筋道が立たないしどろもどろの弁明に付き合わされ、すこぶる胡乱そうにすがめられていた双眸は、しかし意にたがわず、青児がなまえの名を口にした途端、こぼれんばかりに見開かれた。
実以じつもって意想外だったに違いない。
この流れで挙げられる名がなまえのものとは。
平生のスカした似非紳士っぷりから程遠い動揺具合から、関わっているはずがないと考えたのは果たして見当外れではなかったらしい。

「……現場は、奥飛騨――山奥の廃寺でしたね」
「えっ、あ、はいっ」

地を這う声とはまさしくこういうものなのだろう。
肝も寿命も縮みそうな夜叉の低音に、バネ仕掛けじみたぎこちなさで青児はこくこくと首肯した。
思わず返事が情けなく引っ繰り返ってしまうのもやむをえまい。
錯覚ではなく、物理的に酸素が薄くなっている気がして、ごくりと生つばを飲み込んだ。

「事件があった三日前、確かになまえは不在でした。だからといって、イコールその場にいたという証明にはなりません。なによりあれが、現場に赴く理由も必要もない」

よりにもよって、半妖が失踪した場所になど。
直接言葉にせずとも、如実に伝わってくる。

「それより、飼い主が消息不明とあって進退きわまっているのは理解できますが、その御大層な目の不調を疑った方が余程――」

なにを言いかけたのだろう。
なにを決めつけてかかっていたのだろう。
続く言葉は、澄んだ女の声に取って代わられた。

「お察しのように、棘さんはなにもご存知ないんです。棘さんならこんな計画を立てるはずがない、関わっているはずがない……そうお考えになったから、篁さんにも告げ口をなさらなかったのでしょう? 青児さん」

ゆったりとした口調と足音だった。
階下から、かん、かん、と鉄製の踏み板を上がってくる足取りからは、焦りも驕りも、まるきり感じられない。
あの地獄じみた猛炎の山懐で、ただそれだけが清浄であるかのように目映かった青紫色の装いは、こんなときですら目にさやか。
ぽかんと目も口も丸くした青児へ微笑みかけたのは、野の花めいて佇む女――渦中のなまえだった。

そういえばこの事務所へ上がってきた際、行き先を操作するボタンは上か下を示すものしかなかった。
つまり青児が乗ったあの年代物のエレベーターは、一階と二階を昇降するだけの機能しか持たないのだ。
しかし枯蔦に呑まれつつある建物は、外観からそれと分かるように三階建てで、実際、先程棘が階段を下りてきたのも生活スペースとおぼしき三階フロアからだった。
壁の一面、実に三階分という浩瀚こうかんな蔵書と書棚に圧倒され、入ってきたときにはさして注意を払っていなかったが、ちゃんとエレベーターとは別に一階スペースとを行き来する階段も傍らにひっそりあった。
つまるところ足を踏み入れた来客はことごとく、青児のようにこのいかにも事務所然としたロフトの二階へ上がることになる。

なんというか、念の入り用が尋常ではない――というのが正直な感想だ。
このビルを建てた人物は、余程疑り深いか、あるいは慮外の客を如何いかがわしいものと端から決めてかかっていたらしい。
そういえば皓少年たちが住まう西洋館も、一般人が入り込めぬよう結界が張ってあると聞き及んでいるが、ここまで物理的にも来客の動線をせばめる間取りもそうあるまい。
立場上、そしてその性格上・・・・・敵の多い「死を招ぶ探偵」のことだ、それくらいの用心が必要なのかもしれないが。

ということは、と青児は首を傾げた。
おっかなびっくり自分がこの事務所へ足を踏み入れたときも、世界一物騒な壁ドンに見舞われて死を覚悟した間もずっと、なまえは物音ひとつ立てず一階にいたことになる。
床や壁で区切られた、画一的な間取りが並ぶ普通のビルではない。
この探偵事務所は一階から三階までの吹き抜け構造であり、物音は普通よりも響きそうなものだが。

――皓さんも紅子さんもそうだけど、ほんと、気配なく登場したり、こっそり潜んでたりするよな。
ひょっとして地獄堕とし、もしくは探偵業の必須技能だったりするんだろうか、と明後日の方向へ意識が飛んでしまう。
自分が察知する能力がとりわけ著しく不足しているかもしれないのはさておいて。
むしろ鈍い自分のためにわざわざ足音を立てて知らせてくれたのかもしれないとの由無しごとがよぎるほど、声をかけられるその瞬間まで彼女の気配は皆無に等しかった。

とまれなまえの登場に一驚を喫したのは、青児ばかりではなかったらしい。
秀眉を跳ね上げ、前触れなく現れた女をじっと睥睨すると、凜堂棘はとうとう地どころかその下数千由旬ゆじゅんの奈落を這うかの声音でこと問うた。

「……どうして上がってきた」
「ごめんなさい、お邪魔でした? でも、折角、本人がいるんだもの。あれこれ推測するより、一次情報に直接当たった方が話が早いかと思って」

差し出口を詫びてはいるものの、困ったような苦笑は、さながらきかん気な子をなす母親の心得顔。
地獄のともがらといえどいみじくもほだされてしまいそうなやわらかな笑みを、しかし長年彼女をそば近くに置いてきた男は、涼しげというより剣呑さが大いに勝る切れ長の目でめつけた。

「……なまえ。所詮、一から十まで駄犬の妄言だとは思いますが。その口振りでは、半妖が失踪した一件に関与していると取られても仕方ない――無論、そう承知してのことなんでしょうね?」
「ええ。すべて青児さんがおっしゃった通りです」

顔色ひとつ変えず、温雅おんがな立ち居振る舞いもそのままに。
奥床しげに佇立する女とは対照的に、棘は鼻の頭にしわを寄せ、至極忌々しげに顔を歪めた。
さすがに青児にやったように胸倉をつかみ上げることこそなかったが、真意を計りかねるようになまえを真っ直ぐ見据える悪鬼羅刹の瞳には、黄泉の陰火いんかじみた光が宿っている。

秒針すら時を刻むのをためらうような静寂。
睨み合いはほんの数秒だった。
そもそも睨み合いというには、片方があまりに落ち着き払いすぎていた。
真っ向から相対しているわけではない、それどころかいまやすっかり蚊帳の外になってしまった青児の方が「もう許してください」と音を上げてしまいたくなるほどの苛辣からつさにもかかわらず。

あたかも核心にふれる語をひとつでも口にしようものなら、やにわに相手がばらばらに破砕せんと信じている愚かな幼な子のように、とつおいつ薄い唇がわずかに痙攣した。
来し方、血を分けた兄弟たちが皆死ぬより前――それどころか年端もゆかぬ少年の姿の頃から、共にいた彼女へなんと告げたものか。
常ならば理も非もものかは、不可逆的、決定的な一言を突き付けることを断じて躊躇しないはずの棘が逡巡した時点で、勝敗は決していたのだろう。

「……芝居がかった言動も、それに振り回されるのも、兄ひとりで十分だ」
「そうね。わたしもそう思います」

折しもあれ、階下から機械音が響いてきた。
青児も乗ってきた主玄関正面のエレベーターが、来客を運ぼうと稼働し始めたのだ。
予期せぬ来客が姿を現すより先に、目を逸らした棘が吐き捨てるように呟いた。

「……この件はまた後程。なまえ、それまでせいぜい言い訳のひとつやふたつ、考えておくといい。納得のいく釈明を聞けるものと期待してますよ」
「ええ、きっと」

恭しくなまえが頷いたのとほぼ同時に、蛇腹の引き戸が音を立てて開かれた。
現れた老婦人へ「いらっしゃいませ」と微笑むなまえを、依然、凜堂棘が射すくめるような鋭い眼差しで睨み据えていた。


(2023.5.26)
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