「お前を連れたところで、なんの役に立つというんだろうね」

声は、濃い夜霧の向こうから届くように縹渺ひょうびょうとして、それでいてたがねで鋼を掘るように一言一句明確だった。
ズモルツァンドとでもいうべき囁き声はいまにも掻き消えんばかりにもかかわらず、目を逸らした瞬間に喉頸のどくびを食い破られやしないかとじりじり焦燥に駆られる危うさを孕んでいた。
他人へめいじることに慣れた者の声音だ。

「足手まといは御免だよ。お目付け役もね」
「それがご指示なら、なまえは喜んで従います」

人目を忍ぶ隠れ家は、明かり採りの窓がなく白昼にあってもなお薄暗い。
当然だ、年季が入った「凜堂探偵事務所」の石づくりの外壁はびっしり蔦に覆われているとはいえ、外観から「あの窓はどこの部屋のものだろうか」と間抜けな疑問を持たれては「隠し部屋」の意味がない。
書斎スペース最奥に巧妙に設えられた小部屋は、設計から内装まで他人の手にふれさせなかった主人だけが知っている――はずだった。

小窓のひとつもない隠し部屋は快適とはいいがたく、とまれそもそも長期間の居住のために設えたものではないのだから文句を垂れるべくもない。
が、数寄すきらした臥龍窟がりょうくつはさすがの審美眼、敷かれた分厚い絨毯をはじめ、必要最低限とはいえ置かれた調度の数々は、ことごとく主の趣味を反映していた。

ここ数年、具体的には五年前から・・・・・この探偵事務所の代表者たる凜堂棘すら知らぬ隠匿された場において、いま現在静かに対峙しているのは、ひとりの鬼とひとりの女。
一度露呈した隠し部屋など、以降その意義を完全に失う。
無用の長物以外のなにものでもない。
にもかかわらず当の主人は憤るでもなく、退室を迫るでもなく、ただ相対する女の至って温順な微笑を物憂い眼差しで見つめるばかりだった。

「わたしは、あのひとの憂いをはらいたいだけです」

瞳の琥珀は、まるで三悪趣のありとあらゆる不祥なものを集積して極限まで煮詰めたかのようなうつくしさ。
妙相と呼ぶにはしかしあまりに不吉に過ぎる。
うつし世のものならざる双眸からちらとも逃れることなく、隠し部屋の意義を喪失せしむる女はそう呟いた。
祈るような、懺悔するような声音だった。

女の嘆願めいた言葉を聞くや否や、それまで呼吸やまばたきといった生きている者に必要不可欠な些細な身じろぎすら忘れていたかのように微動だにしなかった男が、ようやくヒトらしい反応を見せた。
白皙はくせきの美貌に怒りや失望はない。
ただ、色の失せた唇は禍々まがまがしく割れていた。
蝋人形というよりまさしく死者の顔で、黒衣の男はわずかに肩を揺らした。
――笑ったのだ。

「ふふ。お前も、あの子も。死人のなにを憂うと?」

死霊に背を撫でられたような囁き声は、否応なしに嫌忌の情をもよおさせる。
ぞっと総毛立つ声音とは、きっとこのような声を指すに違いない。
白い顔貌は幽鬼じみた凄味を帯びており、し目の当たりにしようものなら、息を呑む間もなく一切衆生の心の臓をひとつ残らず凍てつかせただろう。

しかしながら相対する女はといえば、困ったような微笑を漏らしただけだった。
のほほんとした笑みは、場所が場所なら、さながら文雅ぶんがなティーラウンジで供されるロー・ティーの相伴にあずかっているかのよう。
山野にひっそりと咲いた花めいて素朴なかんばせは、有象無象をあまねくふるえ上がらせる、悪鬼羅刹の眼光などまるで意に介した様子もなかった。

「それでも心を痛めるのが、兄弟というものでしょう?」
「随分と知ったような口をくね。ヒトにも劣る雑草風情が」
「一般に、飼育物は主人に似るといいますし」
「驚いたよ。なまえ、似るだけの情緒がお前にあったなんてね」
「おかげさまで」

――なにもそこまで言わなくても。
もしもこの場に第三者がいたなら、そう苦言のひとつでも呈したくなっただろう。
それほど男の物言いは一言一言、やわ肌を突き破るかの如く冷淡だった。
実以じつもって地獄の眷属にしか許されぬ眼光で「ヒトにも劣る雑草」呼ばわりされた女は、しかしやはり臆した素振りひとつ見せず、なおも言い募った。

「足手まといにならないよう気を付けます。ご存知でしょう、山道をゆくのはなまえにとってそう苦ではありません。なにより、荊さん、あなた以外のどなたのめいにわたしが従うことがあるでしょう? それに“お目付け”とは、行いを監視する側近のこと……ですよね? あなたの行いを監視だなんて、ふふ、するはずも、できるはずもないのに」

このわたしが、とやや芝居がかった仕草で、なまえは小首を傾げてみせた。
慇懃な物腰を露いささかも損なうことなく、しかしどうき下ろされようとも退くつもりも曲げるつもりも毛頭ない強情さは、手段や様相は大きく違えど、なるほど確かに彼によく似ている。
長口上を聞いていた主人――凜堂荊は、薄闇にあっても光を集めたようにほのかに光るうつくしい目を、興が削がれたように女の顔から除いた。
ふいと逸らされた視線を好機と捉えたか。
伏して頼む調子はちっとも崩さず、なまえはとどめとばかりに囁いた。

「折角、ひとの身を得たのです。どうかなまえをあなたの手とも足ともお使いください」

あれこれ並び立てられる与太すべてを承知したわけではないだろう。
勿論、言い募る女に根負けしたわけでもないだろう――弟の方でもあるまいし。
しかし言い争いとも呼べぬ不毛な対話くちまじえに飽きたか――そもそも、もし彼をすこしでも知り及んでいる者ならば、滅多になく長々と贅言ぜいげんに付き合ったものだと驚いたかもしれない――、いかにも気怠けだるげに白髪の鬼はきびすを返すと、いままで言葉を交わしていた女のことなどきれいさっぱり面忘おもわすれしたかのように、さっさと歩き出した。

邪魔だとも、留守番だと言い付けられたわけでもない。
曲解、あるいはふてぶてしいとそしられようと構わなかったが、つまるところ同行を許されたということだ。
なまえは花がほころぶように相好を崩し、威圧感のある濡羽色のインヴァネスコートをまとっているにもかかわらず、華奢な印象の否めない後ろ影を追った。

「ありがとうございます、荊さん」
「感謝の言葉は早すぎるだろうね。それに、細々した些事に使える手足は、足りずに厄介なことはあっても、ありすぎて困ることはないだろうから。……それが自分の手足・・・ものなら、尚更だ」






照紅葉。
樹冠火もかくや、地獄の業火もさまで違いはあるまい。
燃えるようなという比喩が、比喩ではない見事な谿紅葉たにもみじは、しかしながら錦秋きんしゅうと讃するにはためらいが勝る。
完璧なはずの偉観いかんはどこかうそ寒い。
望月ではなく、ほんのわずかに欠けたのちの月こそを愛でる習俗をおもいみるに、なるほど情緒を欠いたうつくしさである。

一枚たりとも落ち葉のない気狂いじみた茜景色から背を向けて、青児は石段をようやく下りきったところだった。
旅荘「九ツ谺」の山門から伸びた石段をなにかに追われるようにして足早に下りきった途端、懐のスマートフォンが待ちかねたとばかりに通話の着信を告げた。
電話の主は鳥辺野佐織。
ようやく連絡が繋がったことに安堵しつつも「どうにも胸騒ぎがして」という彼女曰く、皓たちのことを案じてずっと連絡を取ろうとしていたらしい。
浅香家の元使用人と連絡をつけた彼女によると、「九ツ谺」という宿は村の西外れにあり、二ヶ月前に既に廃業、仲居も番頭も半月前に失踪しているという。
そして、宿の案内をしていた仲居、浅香繭花という女性は外見の特徴からおそらく別人・・だろうと。

青児は混乱のあまり、ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。
――じゃあ、あれは。
いままでいた一軒宿、いいや廃寺は一体なんなのか。
自分たちは誰に呼ばれ、誰と会い、誰と会話していたのか。
なによりいまなおそこに留まっている皓少年は――。

ほとんど意識しないままに通話を切り、皓との約束すら反故にする覚悟で、青児は下りてきたばかりの石段を駆け上がろうとした。
――その瞬間。
視界の端を人影がちらとかすめた。
いまここにあるはずのない・・・・・・・・・・色。
青児は目を見開いて、思わずその場でたたらを踏んだ。

「まさか、いや、でも……!」

普段なら気にも留めないような、地味な風体。
しかし酩酊すら覚えそうな濃いあか色の渦中、目の覚めるような青い装いはあまりに不釣り合いだった。

「なまえさん……?!」

どうして。
混乱の極みにありつつも、名前をそらんじる声はほぼ確信をもってこぼれた。
虚を衝かれたのは、あちらにとっても同じだったらしい。
青児の声に打たれたように、素朴な装いの女性がはっと振り返った。

「あら、あら。こんなところでお会いするなんて……偶然ですね。青児さんおひとりですか。珍しい、皓さんがご一緒じゃないなんて」
「そ、それはなまえさんだって……じゃなくて!」

誰が予想しえたか。
顔を突き合わせる相手として、これほど不合理な者もいないだろう。
青児が知る限り、たとえば皓少年と世話人の紅子さんのように、個人的にも素性的にも心底気に食わない男の――凜堂棘のそばに常にいる女性、なまえ。
それもよりにもよっていま、ここで・・ ・・・

なまえを連れていない凜堂棘に遭遇したことはあれど、その逆、凜堂棘の隣にいないなまえにはお目にかかったことがない。
すくなくともなまえのいるところに凜堂棘、とは、既に脳内にインプットした「事実」である。
しかしここに凜堂棘がいるはずがない。
ならばなぜここになまえがいたのか。
どうして。

折しもあれ、狂い咲きめいて生い茂っていた紅葉の帳が一斉に燃え上がった。
現実離れした光景は、あたかも葉の一枚一枚が自らの意思で瞬時に燃え立ったかのよう。
なにが起こったのか分からず、慌てふためく青児とは対照的に、不自然なほど落ち着いたなまえがやはり恐ろしく場違いに微笑んだ。

「山火事です。青児さん、ここは危ないですよ。早くお逃げになってください」
「じゃあ、なまえさんも一緒に……!」
「ご心配なく。わたしは連れがおりますので、共に下山します」
「連れ?」

まとまらない思考のまま、ともかくなまえさんを安全な場所へ、と腕を伸ばして促す。
自分のことよりも他人を心配する青児の姿に、手を差し伸べられたなまえは彼を見つめた目をやさしく細めた。

と、そのとき、猛火に耐えかねた大木が、バキバキッと文字通り生木を裂くすさまじい音を立てて崩れ落ちた。

「ッ、熱っ……!」

咄嗟に両腕で頭をかばい、身を屈める。
幸い、耳をつんざく轟音に気取られたが、崩落自体はすこし離れたところのものだったらしい。
焼けた大木に押し潰されるという、おそらく山火事の被害としては最悪な部類に類するだろう羽目は免れた。
しかしいつまでもこの場でのんびりしていられるはずもない。
刻一刻と退路は減っていくし、のたうつ大蛇じみてうねる業火の猛威により、ただ呼吸するだけでじりじりと肺腑が焼け焦げそうだ。
なまえさん、と慌てて顔を上げたが、しかし楚々としたワンピースは既に、まるで燃える照紅葉にかどわかされたかのように掻き消えていた。

紅葉の一枚一枚が火種になったかの突然の山火事、いるはずのない女、そしてなにより奇怪な山寺に残してきた皓少年の安否。
混乱を極めた青児が、出口のない迷路をひとりでぐるぐるとさまよっている心地で、我知らず山門へ続く石段を上がろうとしたところで、折も折、燎原りょうげんの火の合間から、もうひとり、見知った女性がふらふらと現れ出た。

「べ、紅子さんも! どうして!」

先程から尋ねてばかりだ。
己れの無力をつくづく思い知らされ、青児は歯噛みした。
自分になにかできるなどと思い上がっていない。
事件を解決へ導く優れた頭脳だの観察眼だの、はたまた害そうとしてくる者に太刀打ちできる胆力やら腕力やらとはからっきし無縁である。
皓を守ったり救い出してやるなんて、微塵も思ってもいない。
しかしながら、たったひとりの友人すら、また――。

押し潰されそうなほど重く垂れ込める虚無感を振り切り、崩れ落ちた紅子さんの体をなんとか支える。
と、もうこれで何度目だろうか、青児は眼下の光景に自分の目を疑った。
能面めいた白磁の頬を、一筋のしずくが伝い落ちていた。

「皓様が、お亡くなりになりました」


(2023.05.09)
- ナノ -