「あなたを愛しているんです、黎明卿」
「ええ。私も君を愛していますよ。なまえ」

――およそヒトとヒトが持つことができる繋がりよりも遥かに、深く、強く、我々は結びついているでしょう?
出来の悪い生徒へ言い含めるように丁寧に、わずらわしそうな素振りひとつ見せず、ボンドルドはいっそ献身的なものすら感じられる口調で、なまえへ頷き返した。
黒い仮面の中央を彩る紫色の光は微動だにしない。
おのが手の妄言に戸惑うでもなく、その本意を問いただすこともなかった。
さも平然として交わされる会話は、この奇っ怪なやりとりが初めてのことではないと言外に示していた。

返答は満足のいくものだったらしい。
なまえは胸の煙を打ち明けるのに相応に、真摯かつ熱っぽくボンドルドに縋りついていたが、彼の答えを聞くや「ありがとうございます」とこうべを垂れた。

「卿、このあと袋小路での実験にご臨席をお願いします。アルプとヤブズズの両名が、身長と体重がカートリッジ製作の既定値に達しました。他の生体との兼ね合いもありますし、当初の予定通り、合わせてご使用になりますか」
「そうですね。先日の実験をベースに、試したいことが二、三増えましたので、追って指示します。いやはや、子どもの成長というものはいつでも喜ばしい。あの子たちは同じ貧民窟からここまで来てくれました。直接の血の繋がりこそありませんが、兄弟同然に育ったそうですよ。祝福についての実験は再現性が問題でしたが、彼らならきっと応えてくれるでしょう」

直前の応酬など、まるで文字通り目に見えぬ煙が霧散するかのように、なまえたちの会話はごくなめらかに本日の業務へ移行した。
ふたり揃って声音にも様子にも、熱っぽいものや色めいたものは微塵も見当たらない。
至って上司と部下然とした受け答えである。

ひるがえって完全に置いてけぼりを食らったのは、ほんの数分前、偶然なまえと合流し、共に通路を歩いていたがために、現場に居合わせることになってしまった祈手のひとりだった。

「……なにアレ」

必要な報告や指示をつつがなく終え、「私は遺物保管庫に寄ってから合流します。なまえ、君は先に実験の準備を」と命じたボンドルドは、先んじてその場を立ち去った。
なまえと共に、その折り目正しい後ろ姿を見送って五秒だか六秒。
さすがに周章狼狽こそしなかったものの、静まり返った通路の一角で、最初から最後まで完璧に蚊帳の外だったグェイラは、毒にあたった大型の原生生物よろしく緩慢な動作で首を傾げた。
いつものように軽々しくボンドルドに挨拶のひとつもできやしなかった。
それもこれも、先程の胡乱にもほどがある会話のせいだ。

彼らの頭部をすっかり覆う仮面によって、じかに確かめるすべはなかったが、その下で思い切り顔をしかめているに違いない。
ぽつりと漏れた呟きは、向けられたなまえがそう察するには十分すぎる声色だった。
当惑と呆れが絶妙に入り混じった口ぶりに、彼女は遥か頭上に位置する仮面を見上げた。

「アレって?」
「いやいまの愛だのなんだの……え? もしかしてもしかしなくても、いまのって愛の告白?」
「グェイラの口から“愛の告白”って出てくるの面白いわね」

彼の問いは至極真っ当なものだった。
一体この「前線基地」の、果たしてどれくらいの者が予想できただろう。
上司と同僚が、出会い頭に「愛しています」と言い交わす状況に同座するとは。
しかし尋ねられた女祈手はイエスもしくはノーの代わりに、からかうように抑揚を付けてその語を繰り返すだけだ。
どこか面白がっているのが窺い知れる声音に、グェイラは「そんなんでごまかされねぇからな」と不満を露わにした。

「上昇負荷でも食らったかと思ったわ。幻聴にしてははっきりしすぎてるし」
「そこまで言う? 幻聴にしたって、……っ、ふふ」
「笑うなよ」
「ごめんごめん。幻聴にしたって、“愛の告白”くらいでそこまで驚くかしらと思って。挨拶みたいなものよ。グェイラだって、生育担当の子ども相手に、おはようとかおやすみとか言うでしょう」
「そりゃ言うぜ? 言うけどもよ」
「それがいつもの、わたしと卿の挨拶なのよ。いつからだっけ……わたしが希望して、卿はお付き合いくださっているの」
「ええ……尊敬してる教師が、教え子と連れ込み宿にしけこむとこ目撃しちゃったみたいな気分……」
「なによその気色の悪いたとえ」
「同僚のあれこれまで見たくなかったってこった」
「それは失礼。毎日やっているから、祈手の何人かも知っているはずだけど」
「俺ァ初耳だわ……。思ったよりマジで挨拶で驚いてる」

当人の言にたがわず、こともなげに行われた応酬は、なるほど確かに挨拶と表するにしくはない。
どうしてまたそんな奇矯な挨拶とやらを交わすようになったのか、未だに理解しかねるが。
まだ「基地」内へ外敵が侵入した緊急時の方が、落ち着いて相対できたに違いないとあって、彼がなおも食い下がったのは仕方ないといえば仕方のない話だった。
そもそも興味も持たず捨て置けるなら、はじめからそうしていたに違いない。

「……旦那のこと好きなの?」
「“愛の告白”をして、毎回お返事を要求するくらいには」
「本気?」
「残念ながら」

右手がしていることを左手は知らないという自明から、グェイラが恐る恐る「旦那と寝てんの?」と問えば、なまえは「まさか」と声をあげて笑った。

「言ったでしょ、挨拶って。挨拶に性行為は伴わないと思うけど」
「そもそも、なんでよりにもよって旦那なわけ?」
「グェイラはどんなものに“愛しています”って言う?」
「そりゃ字面通り、愛してる相手でしょうよ」
「それが答えよ」
「答えになってねぇ……」

響く靴音で拍子を打つようにぽんぽんと軽口が飛び交う。
祈手たちの足音や無駄口は、始業前のよもやま話と呼ぶにぴったりの軽やかさだった。
が、いかんせん内容が内容だけに、平均を優に超える長身をやや屈めた男の方は、やはりどうしても煮え切らないものがあるらしい。
嚥下しかねるといわんばかりのグェイラの有り様に、なまえは仮面の下で苦笑を漏らした。

「わたしが“愛しています”って言うから、卿は“私もです”とお言葉を返してくださいって依頼したの。実態は伴わなくて良いのでって。知ってた? 業務に差し支えない程度なら、希望や要望、わりと融通してくださるのよ」

分かりやすく経緯を説明してみせたなまえは、「卿に“お気は済みましたか?”って言われると普通に傷付くけど」と肩をすくめた。
とはいえ口ぶりは至ってあっけらかんとしたものだ。
その様子に、いわく「傷付く」様子はさしてない。

「じゃ、例えば別の祈手がなまえとおんなじように依頼したとしてさ。なまえはそれで構わねぇの?」
「そうね。構わないわけではないけど……こうしてああしてって身の程知らずな要求はできても、あの方の行動を制限しようなんてことは考えられないなあ。まあ……もし卿が他のひとに“愛しています”っておっしゃっているところを見たら、ヤキモチは焼いちゃうかしら」

恋い慕うひとを思って終夜輾転てんてん――この深界五層には、朝だの夜だの目に見えて分かる時間の区分はなかったが――、道ならぬ恋に苦しんでいるのだと殊更大仰に両腕を広げて語ってみせる女祈手に、グェイラは「やっぱり分かんねぇ」とこぼした。

「ヤキモチって概念はあんだな」
「だって、好きなひとが他のひとと親しくしていたら妬いちゃうでしょう?」
「一般論はな」
「つまりわたしは一般的じゃないと」
「面白がって混ぜっ返しなさんな。なまえの悪い癖だぜ。自覚してんだろ」
「性分かしらね、ごめん」

思いの外あっさり謝罪したなまえは、打って変わって今度は真剣に言葉を探るように、やおら独特な意匠を施された仮面を揺らした。
彼は信じてくれるだろうか。
不真面目な物言いは、別段はぐらかすつもりも、機嫌を損ねさせようとの意図もこれっぽっちもない。
それどころか内心、なまえはほんのすこし驚いてすらいた。
面と向かって「悪い癖だ」といさめられる程度にはグェイラとは親しく、付き合いは長日月に及ぶほどだったが、元来、面倒見が良いとはいえ、好き好んでヒトの恋路に首を突っ込むような悪趣味な気質ではかったはずだが。
よほど己れが所属する隊の隊長たちが言い交わす「愛の告白」とやらが衝撃的だったらしい。
脳裏をよぎった恋路という単語のうそ寒い響きに、彼女は今更ながら「天蓋」の下でぞわっと身ぶるいする心地だった。

「……あのときああすれば良かった、こうすれば良かったって後から考えるの、馬鹿らしいと思わない?」

胸中の当惑なぞ微塵も声色には出さぬまま、なまえはこともなげにうそぶいた。
後悔しないように生きているだけだよ、と。

言語に絶する過酷な道のりを歩んだ探窟家たちは、潜り抜けた死線の数に比例して、程度の差こそあれ、悔いが残らぬよう全力を尽くそうという気質をそなえている。
常人が束になろうと相手にもならないものすさまじい原生生物、盗掘や密猟をなりわいとする犯罪者集団、なにより決して逃れられぬ大穴の呪い――道なき道を一歩一歩踏み締め、人知を超えたアビスの深層へまでたどり着ける熟練者は、些細な判断ミスが取り返しが付かない事態へ直結すると知り抜いている。
そのため、そのとき最善と思われる選択肢を取ることに彼らは躊躇を要しない。
被毒した折、その部位を切除するのをためらわないように。
犠牲を払わねば先へ進めない事態に陥ったなら、己れすら差し出して踏み出すもう一歩を選ぶように。

「水もやらないで花が咲くのを期待するもんじゃないわ。黎明卿を見てみてよ。ご自分の子どもを愛していらっしゃるでしょう。与えもせずに愛や祝福を分捕ろうなんて、あの方は狭量なことなさらない。愛には愛を返されるってご存知なのね」
「……だから旦那に愛を与えようって?」
「この世には見返りを求めない愛っていうものもあるのよ、グェイラくん」

いくら馬鹿らしくてもやれることはやっておきたいじゃない、と語る口舌くぜつはあまりに無味乾燥、かつ明瞭だった。
探窟家はなべて愚か者だ。
ヒトの感情も巡り合わせも、さながら左右に揺れる振り子のようなもの。
振れ幅がちいさな者は大した喜びも感じられなければ、大した不幸も覚えない。
大切に思うものをはじめからなにひとつ持たぬ者が、なにかを失ったところで悲しみにくれるだろうか。
振れ幅が大きくなればなるほど、得るものも失うものも比類なく大きくなる。
自分の命を天秤にかけてでも、特大の振れ幅を求めるのが探窟家という生き物だ。
誰に強制されるでもなく、平穏無事な地上での生活よりも、憧れという至極おぼろげにもかかわらず、あたかも喉の乾いた者が水を欲するように心から強く求めるものに突き動かされ、笛を掲げた者たちは奈落へ下りてゆく。
これを愚か者といわずしてなんと呼ぶ?

「言いたいことは分かんのに、なまえがなに考えてんのか分っかんねぇ……」
「そう? 難しく考えなくていいのに。とってもシンプルよ。好きなひとに好きって言っているだけだもの。たとえ自分と同じ愛を返してもらえなくたってね」
「……だから上っ面だけでもって? それって虚しくないか?」
「だって相手はあの・・黎明卿よ?」
「そりゃそう」

益体もない与太話を重ねているうち、いつの間にか彼らは飼育区画に到着していた。
待ち構えていたのは、堅牢堅固を体現したかのような鉄扉。
実験に用いる生体たちが集められている区域へ入るには、必ずこのエアロックじみた扉をくぐる必要がある。
他に出入り口はない。
子どもの手では開扉できないのは勿論、頑丈な障壁で区切られた区域は、崩落して行き止まりになっている箇所もあるとはいえ、どのルートを取ろうと他のブロックへは断じてたどり着けない構造になっている。
健全な発達には、親や保育者に対する隠し事だったり、自発的、独創的な試みも必要との考えで、居住のためあてがわれた部屋以外にも、子どもたちは自由に動き回ることができた。
――無論、自由とは名ばかりで、独行にあたうのはこの区画内だけの話ではあったが。

「じゃあね、グェイラ。今日も一日お互いやることやりましょう」

仮面の下の、彼の釈然としない表情が見えるようだ。
なまえは自分の頭より高い位置にあるひろい肩を気安く叩き、「担当の子によろしくね」と微笑んだ。

「へいへい。なまえも実験いってらっしゃい」

おそろしく切り替えが早いのは、彼の美点のひとつだろう。
ひらひらと片手を振ってみせるグェイラは、耳穴へ指を突っ込んで付着した耳垢の行方を顧慮する馬鹿がいないように、あたかも直前のくだくだしい問答などすっかり忘れたようだった。
仰ぐほどの長身を見送ったなまえは、水密扉じみたドアを通り過ぎ、自分の持ち場へ歩いていった。
上昇負荷に注意しつつ、彼女はもう二階ほど上へ登らねばならない。
ひとりきりになった通路に、対人用の暗器を仕込んだ靴底が、キン、と硬い足音を響かせた。

ヒトとして、憧憬の的たる白笛として、心身を捧げる隊の隊長として、艱難辛苦を共に歩む仲間として、そしてひとりの異性として、なまえはボンドルドという明星みょうじょうを心から愛していたが、しかし底の見えぬ大穴の奥深くで、愛を説き、愛を再現する精神の顕現バケモノが、果たして他者に対して愛をいだけるものかどうか、はなはだ疑問ではあった。
とまれ愛だの恋だの、なんであれ情を交わすにあたって、ふたり以上の人間がまったく同一・・・・・・の量の感情や思いを持ち続けられることは決してない。
場所が遥か遠い地上であれ、地下数千由旬ゆじゅんの底であれ、相対するふたりの感情は常にどちらかがすくなく、どちらかが重い。
当然のことだ。
ヒトはそれぞれ違う人間なのだから。
他者と完璧に同一、均等の精神や感情を持つことはありえない。
だからこそなまえは現状を喜ぶべきだった。
なにしろ彼も言っていたではないか。
――「およそヒトとヒトが持つことができる繋がりよりも遥かに、深く、強く、我々は結びついているでしょう?」。

絞首台のきざはしを上がるようにゆっくりと、女祈手は階段へ足をかけながら呟いた。

「のぞみのない恋なんて、するもんじゃないわね」


(2023.03.06)
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