梅雨のこの時期、連日の雨で気温が下がることを「梅雨冷え」というらしい。
高温多湿だからといってむやみに体を冷やすと、自覚のないまま体調を崩して悪化させてしまうことが多いそうだ。
お天気キャスターのお姉さんは、大きく肩を露出した可愛らしいワンピースを着こなして、皆さん気を付けてくださいね、と微笑んでいる。
わたしは、テレビのなかで今日も素敵な笑みを振りまいているお姉さんを、恨めしく思いながら見上げた。
……も、もっとはやく教えてくれていたら良かったのに……!
いや、悪いのはお姉さんじゃなくて、わたしなんだけど。

「こら、ちゃんと寝ているように言われただろう」

ぱっとテレビの画面が真っ暗になった。
天気にまつわるこぼれ話から、見頃を迎えたアジサイ園へと話題を移していたお姉さんの姿も同時に消える。
重たい体でのろのろと寝返りを打った。
背後には、テレビのリモコンを手に呆れ顔のプッチさんが立っていた。

「う……だって、寝てるの飽きました」
「飽きたと言っても、まだ熱は下がってないだろう?」

喉が熱を持ってひりひりと痛む。
出てきた声はまるでわたしのものじゃないみたいにかすれていた。
堪らず顔を顰めると、プッチさんは困ったように眉を下げた。

暑い日が続くようになってきたこんな時期に、まさか風邪を引いてしまうなんて。
体調管理がちゃんと出来ていないのが情けない。

熱を測るように、額にプッチさんの手が置かれた。
わたしの体温が高いから余計にそう感じられるんだろうけど、冷たい手がとても気持ちいい。

ちなみにこの家に体温計はない。
みんなが体調を崩すことがそうそうないこと、そもそもまともに風邪を引くことが出来るか怪しいひとが複数いること、が理由だ。

今朝、目が覚めたときから違和感はあった。
頭が重たくて、足元がひどくふわふわとして上手く立てなかった。
まともに思考が働いていなかったのか、わたしはその不調を特に気にすることなく、いつも通りみんなに「おはよう」と挨拶した。
誰が想像しただろうか、瞬時に全員から「寝てろ」と返されるなんて。
みんな洞察力すごすぎるんじゃないですかね。びっくりした。
そうしてぼんやりと立っていたわたしの体を、いつものようにカーズさんが抱きすくめた。
びっくりしたこと第二段。
わたしを抱き締めたままカーズさんは「おおよそ38.2度といったところか」と呟いていた。
小数点第一位まで、だと……!
本当に体温計要らずである。
というかそんなに熱があったのか……。
自覚した途端に、どっと体が重たく感じられるのはどうしてだろう。
なんとなくそんなことを考えていたわたしを余所に、カーズさんの言葉を聞いてますますみんなは慌ててわたしを布団に押し込んだのだった。

なんとはなしにぼんやりと今朝のことを思い返していると、プッチさんはわたしの額に置いていた手を離し、立ち上がろうとした。
あ、行ってしまう。
そう思うと、殆ど無意識にプッチさんの服の裾を引っ張っていた。

「なまえ?」
「……ごめんなさい、もうちょっとだけ」

病人の周りで騒ぐなとの吉良さんのお言葉で、朝からずっと狭い部屋にひとりきり。
締め切られたふすまの向こうにはカーズさんやディアボロさんもいるはずだけれど、いつもよりずっと静かなこの空間がなぜだかひどく寂しい。
病気のときは人恋しくなってしまうとよくいうし、そのせいかもしれなかった。
風邪をうつしてしまうかもしれないのに、どうしてもその手が離せない。
プッチさんはそんなわたしの我が儘にひとつ苦笑して、大きな手でわたしの目元を覆った。
真っ暗になった視界でも、感じられる体温のおかげで不思議と安心できる。

「君が眠るまでここに居るから、早く寝るんだ」
「……じゃあ寝られないじゃないですか」

痛む喉で拗ねたようにそう呟くと、プッチさんはくすくす笑った。

「それじゃあ訂正しよう。君が寝ても傍にいる。だから安心して寝なさい」

小さな子に教え諭すように笑み混じりに言われ、ちょっとだけ気恥ずかしい。
でもその言葉が嬉しいことに変わりはなくて、大人しくはいと返事をした。
体の節々が痛くて、頭がひどく重たいのはまだまだ治まりそうにないけど。
朝よりはずっと楽だ。
そうして、空からたくさんの雨粒が下りていくように簡単に、眠りに落ちた。

・・・


――ふいに、目が開いた。
真っ先に覚えたのは、底なし沼に体が沈み込みかけているような、どろどろとした虚脱感、嫌悪感。
気持ちが悪い。
自分の体なのに、思うようにならない不快感に眉を寄せる。
目だけを動かして窓の外を見れば、随分と眠っていたんだろう、もう既に暗くなりつつあった。

狭い部屋にはわたしひとりきり。
目線を上に向ければ、見慣れた天井がなぜだかひどく遠くにあるように感じて、そしてそれに比例するように、わたしがどんどん小さくなっていくような、変な錯覚が襲ってきた。
狂ったような遠近感。
それがパニックに陥りそうなほど怖くて、上手く呼吸が出来ないくらいで。
は、は、と浅く息が漏れる。
昼頃にはいったん落ち着いていた熱も、ぶり返してきたらしい。
呼吸が上手く行えず、口内に唾液が溜まる。
それを飲み下そうとすると、喉が燃えるように痛みを発した。
全身を倦怠感が占領していた。
少し身動ぎするだけの動作がおそろしく億劫で、そんな自分にじわりと焦燥が募る。

「っ、は、」

狂った遠近感を振り払うように、ぎゅっと目を閉じて手を握る。
握り締めた掌はじっとりと気持ちの悪い汗をかいていて、不快感に拍車をかけた。
目をつむっても、暗闇のなかですらおかしな遠近感は消えない。
堪らず、年甲斐もなく涙すら滲みかけていたら。

「――なまえ?」

恐ろしく遠くにあるように見えて、手を伸ばすことすら出来なかったふすまが、簡単に開いた。
そこから顔を覗かせてわたしを呼んだのはファニーさんで、更にその奥にはプッチさん、カーズさん、ディアボロさん、ドッピオくんの姿も見えた。
ほっとして一気に力が抜ける。
あとちょっとで涙がこぼれるかと思った。
おかしくなっていた遠近感も、みんなの顔を見た途端、絡まった糸がほどけるように和らいでいく。
ひどく強張っていた反動なのか、まるで全力疾走した直後のように全身が無性にだるい。
浅かった呼吸がなんとか落ち着いて、やっと深く息を吸うことが出来た。
な、なんだったんだろう、いまの……。
無意識に息をつめていたのか、酸欠で頭がぐらぐらする。

「だ、大丈夫ですか、なまえさん」

よっぽど酷い顔をしていたらしい。
慌ててドッピオくんが駆け寄ってきてくれた。
その慌てようになんだか安心して、へらっと笑ったら、「なに笑ってるんですか」と怒られてしまった。
火がついたように熱く痛んでいる喉のせいで上手く喋れなかったけれど、口の動きだけでごめんねと伝える。
ドッピオくんは怒るに怒れないと言わんばかりの困った顔をして、きゅっとわたしの手を握ってくれた。

「すまなかった、ひとりにして」

言ったことを反故にしたと、暗くかげった表情のプッチさんに謝罪されてしまう。
わたしはぐっすり眠っていたし、あれから何時間も経っていたんだから、プッチさんを責めることなんて出来る訳がない。
ゆるゆると首を振って見上げれば、苦笑して頭を撫でられた。
プッチさん、わたしの髪を撫でるの好きですよね。
汗もかいているしいまはやめた方が良いとは思うけれど、撫でられる感覚が気持ち良くて黙ったまままばたきを繰り返す。

「どうしたんだ、悪い夢でも見たのか?」

心配そうな顔をしたファニーさんに、頬を撫でられる。
わたしは泣いてはいなかったけれど、まるで流れた涙をぬぐうような優しい手付き。
手袋を外したその手の冷たさがとっても心地良くて、無意識に擦り寄っていた。
カーズさんやディアボロさんには代わる代わる口付けられ(風邪がうつっちゃうといけないから駄目だと言ったのに)、甘やかされ、いつの間にかさっきまでの不快感や恐怖なんて、もう思い出すことすら出来なくなっていた。
またじわりと涙が浮かんでしまいそうだった。
受け取り切れないくらいたくさんの幸せな気持ちのせいで。

その後いつもよりずっと早く帰宅した吉良さんが、わたしの周りに居たみんな(その頃にはDIOさんもディエゴくんも増えていた)に対して怒ってしまったけれど。
みんなはわたしに付き合ってくれてただけなんですと言い訳すると、吉良さんは呆れたように溜め息をつきながらも、わたしの手に途方もなく優しく口付けてくれた。
……わたしが言うのもなんだけど、みんな甘やかしすぎなんじゃないですかね。


・・・



「ファニーさんの手、冷たくて気持ちいいです」

私の手に擦り寄りながら、かすれた小さな声で彼女が呟く。
なまえは幼い子供のように安心しきった表情を浮かべながら、愛らしくはにかんだ。

――夜の気配が忍び寄ってきていた頃、ひとりで眠っていたはずのなまえがひどく怯えた顔をしていた。
うっすらと上体を起こして私たちを見上げた彼女の瞳には、ひとり置いてきぼりにされてしまったかのような、強い恐怖が色濃く浮かんでいた。
しかし私たちがそれに反応するよりも早く、目に映った存在を認識した瞬間、すぐになまえの顔はぱっと安堵に染まった。
次いで浮かんだ笑みは、ほころぶように柔らかく甘く。
心の底からほっとしたと、愛おしいと、言外に露わにしていた。
ほんの数瞬のことだったが、目敏い私や周囲の男たちがその機敏に気付かない訳もなく。

たったそれだけのことに、どれだけ男が征服感と昂揚を覚えるのかなまえは知らないのだろう。
心の奥底を擽られるような、万能感。
それは陶酔めいた喜びに他ならなかった。
浮かんだ表情のみで私にそんな感情を抱かせることの出来る、この世界で唯一の存在。
なんと稀有なことだろうか。
手袋を外した素手で紅潮した丸い頬を撫でると、なまえはますます嬉しそうにその顔をほころばせていた。


彩る熱はまぶしいばかり
(2015.06.19)
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