今日はわたしのお誕生日。

オースに来て最初の頃は毎日指を折って数えていたけれど、日付けも、曜日も、すぐに分からなくなってしまった。
だって太陽が昇ってあたたかくなったり、目の前が暗くなって寒くなったり――そういう分かりやすい区切りが、がたごと揺れるゴンドラのなかでも、五層の「前線基地」に着いてからも、ちっともなかったから。
なのにわたしは、今日がお誕生日だってちゃんと分かった。
それは「前線基地」でアビスの研究をしている白笛、黎明卿がわたしたちの様子をいつも見に来てくれるからだった。
彼は毎朝「おはようございます。皆さん目が覚めましたか? 今日は十日。今日もあなたたちの元気そうな顔が見られて、私も嬉しいですよ」と丁寧に話してくれるのだ。

アビスの奥深くへ進むゴンドラには、わたしと同じくらいの年頃の子たちがたくさんいた。
この子と仲良くしなさい、あの子と親しくしちゃいけません、なんて指図されなくても――そもそもそんな意地悪を言い付けられることはなかったけれど――、ふたりとか三人とか、少人数のグループがいつの間にかできあがっていた。
わたしにもすぐに仲良しができた。
ゼフラはとても元気が良かった。
わたしがうつむいていると、いつも顔を覗き込んできてにっこり笑う。
「なまえ!」と名前を呼ばれるだけで、わたしの胸のところにぱっと光がともる。
光は太陽みたいにあたたかくて、真っ直ぐに見つめられると、逃げ出したくなってしまうくらい眩しかった。

頭がかゆくなっちゃう悪い虫が住み着かないようにと、親戚のおばさんが短くってしまったわたしとは違って、ゼフラは紅茶みたいな色の髪が腰近くまで伸びていた。
もらったリボンや布の切れ端で、彼女の髪を結ばせてもらうのがわたしの楽しみになった。
髪の結び方なんてそんなに知らない。
たぶん下手くそだったけれど、ゼフラも他の子たちも、変な髪、なんて笑うことはなかった。

五層の「前線基地」に来て二日目、ゼフラが黎明卿に呼ばれていった。

「あの……黎明卿、ゼフラはどこに行くの」
「他の子どもたちと同じですよ。なまえ、慌てないで。あなたもすぐに同じところに行けますからね」

黎明卿を見上げるゼフラの横顔は嬉しそうだったけれど、わたしを振り向いたとき、太陽みたいな笑顔がはっとして曇った。
きっと自分だけ先に外に出られるのが気がかりなんだ。
とてもやさしい子だから。
だからわたしも「一緒に行きたい」と駄々をこねるのを我慢した。
代わりに「ゼフラ、待っててね」と手を振った。
ゼフラも隠しきれない笑顔で手を振り返してくれた。
「なまえもはやく来てね」って。

わたしはゼフラといちばん仲良しだったから、彼女がいなくなって悲しかった。
けれど他の子はもう多くはなかったし、ここまで一緒に過ごしてきてみんな顔見知りだったから、寂しくて耐えられないということはなかった。
わたしがゼフラの髪を結ぶのを見ていたらしくて、女の子から「あたしのも結んで」とせがまれもした。
わたしも喜んで、いろんな色の端切れでおさげを編んであげた。
でもゼフラほどさわり心地がいい髪の子はいなかった。

「皆さん、おはようございます。朝ですよ。朝食を配りますから、一列に並んでくださいね」

みんなで「はーい!」と声を揃える。
馴染み深い硬い固形のご飯を配り終わった頃だった。
いつも通り黎明卿が教えてくれる日付けを聞いて、わたしはびっくりした。
その月と日は、年に一回だけの特別なものだったから。
口の端からご飯のかけらがぽろりと落ちた。
日付けの響きがぐるぐると頭のなかを駆け巡っていて、折角のご飯なのにどうやって食べたのかさっぱり記憶がない。
元々、味わうってことはできないご飯ではあったけれど。

「なまえ、朝食を食べ終えたら来てください」

今日はわたしのお誕生日だ!
ずっと路上や貧民窟で暮らしていた子たちと違って、わたしは自分の生まれた日を知っていた。
父さんや母さん、おばあちゃんが生きていたときは、生まれ育った家でみんなでお誕生日を祝っていた。
父さんたちがはやり病で死んでから、いろんな親戚のおうちを短くて数日、長くて半年くらい、あちこちに行かなきゃならなかったせいですっかり忘れていた。
家族が死んでどれくらい経っていたんだろう?
何度目かのお引っ越しのときだった。
今日からどこどこのおじさんのところに行きなさいって、住所を書いたメモを手渡されて、わたしは厄介になっていたところから外へ出された。
そのときはなんにも疑っていなかったけれど、もしかしたらお引っ越し先のおうちなんて最初からなかったのかもしれない。
地図はぐちゃぐちゃで、知らない文字ばかり並んでいたから。
お腹を空かせて読めない地図を握って歩いて回っていると、有名なアビスの探窟家、白笛と呼ばれるひとがやって来ていることを知った。
そうしてわたしはゼフラたちと一緒にゴンドラに乗って、憧れていた大穴の、そのまたずっと奥深くまでたどり着いたのだ。
だからわたしは自分のお誕生日を知っていた。

とてもどきどきした。
黎明卿はそんな経緯もわたしの生まれた日も、知らないはずなのに。
どんなだろうってずっと思い描いていたアビスに来て、友だちができて、毎日ご飯を食べられて、寒くない寝床で眠ることができて、みんなの憧れの白笛にまさかお誕生日に呼ばれるなんて。
なんて偶然なんだろう。
もうお誕生日のプレゼントをもらったみたいな気分だった。

黎明卿の横で歩く間、そんなことを考えていた。
隣で落ち着きなくそわそわしていたのがあんまりにも目立ったんだろう。
通路の途中で、黎明卿はふと立ち止まった。

「なまえ、どうかしましたか。体調が優れないのですか?」

心配そうに覗き込まれて、わたしはどきどきしていたお腹のなかがぴょんと跳ねたのが分かった。
わたしのなかに収まっている心臓とかいう中身。
それが内側でどたばたとひっきりなしにジャンプしているのを感じる。
跳ねる音はとんでもないやかましさで、彼にまで聞こえていやしないか、不安になった。
黎明卿はいつもとなにも変わりなく静かに立っているのに、わたしばっかり怖いくらい心臓が暴れているのが、どうしてだろう、なんだかとても恥ずかしかったのだ。

わたしが答えられないでいると、黎明卿は屈んで目線を合わせてくれた。
紫色の光が目の前にある。
ちっとも揺らがない光のせいで、ますますどきどきは大きくなって、わたしのお腹のなかだけじゃそろそろ収まりきらなくなってしまいそうだった。

バカみたいに「あ、あう、」と口ごもってしまう。
出てきたがっている言葉が、中身を絞り出そうとするチューブみたいに詰まって、喉の辺りがぎゅっと熱くなった。
はやく言わなきゃと焦れば焦るだけ声はつまずいて、喉だけじゃなく耳まで熱くなって、じわじわと頬や首に広がっていった。
黎明卿は、親戚のおばさんたちみたいにぐずぐずするなって叱ったり叩いたりせず、無視することもなく、わたしがしゃべるのをじっと待っていてくれた。
どうしよう、どうしよう。
別にいままでだっておしゃべりが上手というわけじゃなかったけれど、どうして今日に限ってこんなに上手くいかないんだろう。

急かされていないのに、叩かれてもいないのに、なぜだか目の奥が痛くなってきたところで、黎明卿がわたしの頭へ手を乗せた。
ぐらぐら頭が揺れるくらいしっかり撫でられる。
頭を撫でられるのはすごく久しぶりだった。
ガラスのコップみたいに割れちゃうもろいものではなくて、わたしには肉の体があるんだと思い出させてくれるような強い力だった。

「なまえ、大丈夫です。無理に話そうとする必要はありません。話せるようになったら話してください」

わたしの頭なんて簡単につかめちゃう大きな黎明卿の手に包まれて、ふいに全身の力が抜けた。
探窟家の硬いグローブはごわごわしていて、お世辞にもやわらかくてあたたかいとはいえなかったけれど、いまはそれが心地よかった。
力強い感触は、これが夢じゃないぞって教えてくれているみたいだったから。

「……きょ、きょう、とくべつなの」
「特別?」
「っ、おたんじょう、び」

しゃっくりとあまり違いのないわたしの言葉を、黎明卿はすこしも間違わずに汲み取ってくれた。
驚いたみたいに「おや」と頭を傾けた。

「なまえ、今日は君の誕生日なのですか?」
「う、うん……」
「おやおや。そうだったのですね。教えてくれてありがとう」

黎明卿は「おめでとうございます」と手を叩いた。
分厚いグローブのせいでなんだか間抜けな音が通路に響く。
ぱちぱちじゃなくてぼふぼふと。
思わずわたしは笑ってしまった。
目が細くなったせいか、ちょっとだけ涙がこぼれてしまった。
だけどちゃんと「ありがとう」と言えた。

「今日は健康診断のあと実験を手伝ってもらう予定でしたが、変更しましょう。折角、君の誕生日ですものね」
「……いいの?」
「ええ、もちろん。今日はなまえの言う通り、特別な日。お祝いをしましょう」

――なまえ、君はなにがしたいですか?
そう尋ねられて「アビスを見てみたい!」とすぐに答えたわたしに、黎明卿は「良いですね」と頷いてくれた。
「前線基地」全体や砦水をじっくり見るのは、五層に初めて来たとき以来だった。
あのときも思ったけれど、砦水からわたしたちの方に伸びている紫色の光は、黎明卿のヘルメットのものととてもよく似ている。
もしかしたら、あの光を見て黎明卿はヘルメットをつくったんだろうか。

初めてこの景色を見たときは隣にゼフラがいたけれど、いま手を繋いでいるのは彼女ではなく黎明卿だった。
それがちょっとだけ寂しい。
だけどいつも研究や実験で忙しい黎明卿を、いまはわたしがひとりじめしているんだって思うと、やっぱりどきどきの方がずっと大きかった。

奈落見取り図を広げてくれた黎明卿は、ずっと下の方を指さして「深界五層、いま私たちはここにいます」と言った。
地上との距離は一万三千メートル。
とても大きな数字ってことは分かるけれど、見たことも食べたこともない海外の料理を言葉で説明されるみたいに、思い浮かべるイメージが数秒ごとにころころ変わっていってしまう。
首をかしげていると、黎明卿は「これがだいたい一メートルです」と両腕を広げてくれた。
それがたくさん集まると、一万三千になるらしい。
やっぱり不思議だ。

「前線基地」からあまり離れず、危険な原生生物がたくさんいるという「砂氷地帯」や「雹の牢」はパスして、わたしたちは五層を冒険した。
支え水の結晶が崩れたときは、びっくりして座り込んでしまった。
安全なところから見ていたのに、ひっくり返りそうなほど尻もちをついちゃったわたしを、黎明卿は笑わないで「大丈夫ですか? 大きな音と振動でしたね」と抱き起こしてくれた。
探窟家みたいなブーツをわたしは持っていなかったから、彼は子ども用のしっかりした靴を貸してくれた。
靴はちょっと大きかった。
黎明卿は「探窟家に限らず、靴は重要な装具です。成長期である君の年頃では尚更。本来は、ぴったりの靴をプレゼントしたいのですが……」と残念そうだったけれど、わたしは「これが好き」と首を振った。
地面を踏みしめる、ギュ、ギュブ、という音がはっきり聞こえて気に入ったし、お誕生日だって打ち明けたのはさっきなのだから。
なにより白笛とふたりだけの冒険なんて、かたちのある他のどんなものより、ずっとずっと特別なプレゼントに違いないもの。

手を繋いだまま、黎明卿はわたしに合わせてゆっくりと歩いて、尋ねたことにはなんでも答えてくれた。
わたしは子どもだし、ぜんぶを理解はできなかったけれど、彼は言葉を節約することなく、やさしい言い回しでひとつひとつ指を指して教えてくれた。
子どもだからってバカにしているのではなく、わたしにも分かるように丁寧に用語を選んでくれているのが分かった。
それだけできちんと言葉を交わす相手なんだって思ってくれているのが伝わってきて、やっぱり体のなかがどきどき、むずむずとした。

たくさんのものを見た。
たくさんの音を聞いた。
たくさんのにおいを嗅いで、たくさんのものをさわって、たくさんのことをしゃべった。
黎明卿は、わたしの声をひとつ残らずすっかり掬い上げて、丁寧に言葉を返してくれた。
アビスに来て一番――ううん、父さんや母さんと一緒だった頃だって、こんなにわくわくしたことはなかった。
そういうと、父さんたちは嫌な気持ちになってしまうだろうか。
だってそれくらい、こんなに楽しいお誕生日は初めてだったんだもの。

「さあ、そろそろ夜です。名残惜しいですが、なまえ、“前線基地”へ戻りましょう」

一日の終わりに、わたしは硬いベッドみたいなものの上に横になった。
熟睡して寝返りを打ったら落ちちゃいそうなくらい狭い。
そうじゃなくても、どきどき、わくわくして眠るなんてできそうになかったけれど。
久しぶりにたくさん歩き回ったからくたくたなのに、全然眠たくないし、なにより目を閉じて今日をおしまいにしたくなかったのだ。

ベッドの周りには黎明卿の探窟隊のひとたちがたくさんいた。
黎明卿が「今日はなまえの誕生日なのですよ」と言うと、みんな口々に「おめでとう」とお祝いしてくれた。

「ああ、素晴らしい一日でしたね、なまえ。あなたの特別な日を共に過ごせて、私も嬉しい。なまえ、今日という日をどうか忘れないでいてくださいね」

何度も言われる「おめでとう」が、くすぐったくて仕方ない。
だけどわたしは手も足も動かせなかった。
動かそうとしても、どこかにつっかえる。
袖や裾のない、とても窮屈な服を着ているみたい。
わたしのかたちは変わってしまったけれど、嬉しいという気持ちにこれっぽっちも変わりはなかった。
「今日という日を忘れないで」なんて。
そんなことお願いされなくたって、絶対に忘れられるはずがないのに!
声が出せなくて、ちゃんと「ありがとう」とお返事ができないのが残念だった。

けれど窮屈ななかでもにもにといっぱいはしゃいだら、言葉なんてなくてもやっぱり黎明卿はちゃんと汲み取ってくれた。
脇の下に手を入れて持ち上げるよりもずっと簡単に、わたしをやさしく抱え上げた。

「ハッピーバースデー、なまえ」

ありがとう!


(2023.01.13)
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