「ちょっと疑問に思ったんですが」と祈手アンブラハンズが言った。

「“精神隷属機”によって、僕たちのなかには常に卿の意識がいるのに、“黎明卿”とお呼びするのはいつもひとりだけですよね」

「前線基地」を掌中に収める白笛、数多の祈手アンブラハンズを束ねる黎明卿の臨席を要さない、小規模な実験を終えたばかりの演習室では、数名の隊員たちがそれぞれの役割を果たしていた。
結果や課題を几帳面に書面へ記している者、様々な色合いの液体で満たされたビーカーを一定の法則に従って整頓する者、使用した器具を洗浄したり廃棄したりする者といった具合に。
そんななかためらいがちに声をあげたのは、床の清掃のためにモップを握った新顔のひとりだった。
独特な仮面を与えられてまだ日が浅い同僚は、そうしてうじうじとモップをこね回していると足元の溝を埋めることができるとでも思い込みたげに、タイル貼りの床の目地を熱心に擦っていた。

「白笛や仮面の兼ね合いもあるんでしょうけど、交代じゃなくて、僕たちのなかにいらっしゃる黎明卿の意識を……たとえばふたりとか、三人とか、複数同時にあらわす……起こすことはできないんでしょうか。黎明卿が複数いたら便利――というとものすごく失礼かもしれませんけど――同時に別の場所にいてくださったら、わざわざ許可を取りに伺ったり、判断を仰いだりする必要もないですよね? もしも探窟の際、常に同行してくださったら、きっとより多くのものが得られるし、他の祈手アンブラハンズの生存率も上がりそうですし……。体の切り替えに伴う不具合だって……」

その場にボンドルド当人がいないとはいえ、とんでもなく差し出がましい妄言を並び立てているのではないかと、やにわに彼は恐れたようだった。
持論を述べるとうとうとした声は、費やす語が増えるにつれ尻すぼみになっていった。
周囲の反応は、突拍子もない言説をあざけって笑い飛ばすでもなく、かといって熱のこもった賛同をするでもなく、しらじらとした無言が跳ね返ってくるばかりだった。
しかしあわや彼が前言を撤回するために口を開きかけたところで、彼らのなかでは最も古株の祈手アンブラハンズが、どちらでもない反応を返してみせた。
すなわち丁度、綴じ込みバインダーになにやら書き込んでいたなまえが、出し抜けに仮面の内へひょいと虫でも入り込んだかのように「ああ……」と呻いたのだ。
思わずといった様子でこぼしたなまえに、まだ仮面のなかの顔色を他人に伝えるのに慣れていない新顔は、握ったモップの柄を手持ち無沙汰にそわそわと揺らすことでその代わりを果たした。

「ええと、その、自分みたいな新参者に言えないなら結構です。無理に聞き出そうってつもりはなくて」

なんとなく不思議に思っただけなので、といくらか早口に加えた同僚の実直さを、その場の誰もが疑っていなかった。
あるいははっきりとは声に出さないだけで、密かに同じ疑問を抱いている者もいたのかもしれない。
実際、なまえは「ああ、違う違う」と首を振った。
手にした筆記具でバインダーの縁をこつこつと細かく叩きながら「やっぱり至るところへはみんな至るものよね」と独り言めいて呟いた。

「なくはないのよ。いっぺんに黎明卿がお目覚めになったこと。……ただ、あんまり楽しい話ではないから、過去のおっかない話を披露して、怖がらせたくないってだけ。新人いびりみたいに思われたくないしね」

なまえには殊更に思わせぶりな言い回しをする腹積もりはこれっぽっちもなかったに違いない。
が、秘密めかした物言いは、いみじくもますます若輩者の興味を引く効果があったようで、彼は「教えてください。なにがあったんですか」と身を乗り出した。
研究熱心なのは良いことだ。
古株の祈手アンブラハンズは記入を終えたらしい綴じ込みバインダーをおもむろに脇へ置くと、一連の動作をもどかしさを堪えて見守っている後輩へ向けて、「おっかない話」とやらに相応なくらい声を潜めた。
沈黙を保ったまま素知らぬ顔で己れの作業に従事している同輩たちも、ひとり残らず仮面の内で耳をそばだてているのを委細承知とばかりの、絶妙な塩梅だった。
――「あんたの言うように、“同時に複数の意識を発現する”なんて、あの黎明卿が思い付かないはずがないでしょう。そして思い付いて、試しもせず、なおざりにしておくお方でもないって、ね? あんただってもう分かっているでしょう?」。
そうして青い光をたたえた仮面は、ゆっくりと昔話をはじめた。




「私は、私は、わたしは、わたし、わ、わ、わ、」

あたかも劣化した音声録音装置が、すっかり壊れてしまう間際に、ボンドルドの声を借りて断末魔の訴えを漏らしたようだった。
そうすべきではなかったと彼らが結論付けたのは、「精神隷属機」を介して運用するボンドルドの数を試験的に増やすようになって、いくらも時間が経たないうちのことだった。

繰り返されるわたしは・・・・という語音が、なまえの脳天を貫いて鳴り渡り、彼女はふらふらとした。
自分が言おうとする語をひとつずつ目の前に並べて置いて、それらをまた念入りに細かくばらばらにしてためつすがめつしてから仮面の隙間に挟ませて寄越すような、暗くはっきりした声で、ボンドルドは「私は」と繰り返した。
陰気な薄闇が目詰まりしているようだった。
ヒトのかたちをした肉の内側で、のたうっているなにかがいつその皮膚を食い破って飛び出してくるか、考えるだけでおぞましい心地がした。

「あ、あ、あなたは? あなたは、あなたは、君は、お前は、私は」

なにしろそれは寸分たがわず見慣れたボンドルドの姿で自立し、動き回り、発声するのだ。
まったくもって不気味という他ない。
いかにも快く耳に響く声は、抑揚や調節を忘れ、暗い穴蔵からひたひたと這い登ってくる亡霊のものといまやさして違いはなかった。

祈手アンブラハンズにあまねく植え付けられた「ボンドルド」の意識を複数稼働させたところ、ふたりでは問題なかった。
三人でも。
いや、もしかしたら弊害はあったのかもしれない。
しかし不吉な兆候がはっきりと姿を現すより先に、次から次へと――四人、五人、六人、七人、八人と、慎みなく・・・・彼を増やしていったのは、たくさんのボンドルドたちがあまりに重宝したからだ。
すべての祈手アンブラハンズの経験と知識を記憶している彼によって、「前線基地」におけるアビスの開拓、研究は、それまでにもまして躍進した。
なんらかの不具合が生じたときのことを想定して、オリジナルの彼は――白笛は、「精神隷属機」のそばで研究に専念するボンドルドが所持することと決めた。
身長も体格もそれぞれ異なるにもかかわらず、相手が地上のお偉方だろうと幼い子どもだろうと、いっかな崩れることのない端然とした言葉選びや口調のせいか、非の打ち所がない立ち居振る舞いのせいか、その身に宿った、憧れを追い求める理も非もない深い魂のためか、それら・・・は全員、完璧に「ボンドルド」だった。

しかしながら、そのうち、妙なことが起こるようになった。
同時に複数のボンドルドが存在し、議論し、あちこち立ち回っている光景が当たり前になった頃だった。
例えば、ずっと「前線基地」内の実験区域で活動していたボンドルドと、外での採集、採掘から帰還したばかりのボンドルドに、偶然同じことを尋ねた折、発言に食い違いが生じるようになった。
食い違いといえど元は同一の人間なのだから、大した差異ではない。
が、仮にこれがアビスで探窟中の事故、もしくは采配ひとつで命運が分かれるといった差し迫った局面だった場合、打ちやることのできない相違だった。
もしもいつか、彼らの発言や指示に決定的な違いが生まれたら?
どのボンドルドの判断を優先するのか――これは大袈裟な悲観ではなく、必要な懸念だった。

結果、違いを埋めようと、そもそもなぜ違いが生じるのか話し合おうと、とうに十を超えていた数のボンドルドが一堂に会した折、それは起こった。
ボンドルドが一斉に「私は」「あなたは」と声をあげたのだ。
意味のある語を発することができず、間延びした母音をぶつぶつと断続的に垂れ流す者もいた。
まったく同じ声、まったく同じトーン、まったく同じ口調で交わされる、自他を尋ねる応酬の異様さときたら。

天井の高い洞穴内で小石が落下したとき、うわんうわんと反響する音をちょっと想像してみるとよろしい。
洞穴の奥から返ってくる音は、果たして元の音と同じか?
毛を逆立てる猫のように、なんだかぞっと肌が粟立つ感じがすると、あれこれ多言を要すまい。
考えてみてほしいが、その反響する隙間から、ちらりと過去の亡霊が覗いて密かに語りかけてきたら――、丁度、向かい合った鏡のなか、幾重にも並んだ鏡像のひとつが、ひょいと他と違う動きをしたら、誰しもぎょっとするに違いない。
大量のボンドルドの合唱はそういう、かたちで示すことのできない、しかしはっきりと目の前に現れ出るたぐいの不気味さだった。

はじめこそ祈手アンブラハンズも自分たちの頭領の異変に狼狽し、解決のため奔走したものの、なんともはや人間とはどんな環境や異常であっても慣れることができる生き物で、発作じみた症候が表れ出るのが片方の指で数えられなくなる頃には、「ああ、また黎明卿が不具合を起こしているな」とのんびり肩をすくめるようにすらなっていた。
なんの前触れもなく、度々ボンドルドは恐慌状態に陥った。
いまや発作・・は、集合する人数によらなかった。
このままでは遅かれ早かれ、著しい機能障害が「前線基地」全体に及ぶのは明らかだった。

白痴じみた錯乱は時と場所を選ばず、短くて数十秒、長ければ二、三時間で治まった。
が、いくらか表面を糊塗してみたところで、世界がこのアビスのなかだけで完結しているわけではない限り、オースの探窟組合や協会、その他海外とのやり取り――くだらない社交やわずらわしいコネクションといった細々した些事からは、完全には逃れられないものだ。
いくら取るに足らない凡夫とはいえ、手に入れた「前線基地」を意のままに運営するためには避けられない上層部との会合は、従来ひどく手間だったが、ボンドルドのひとりをあてがえば、別のボンドルドがその間、実験や研究に没頭できる。
その分担は最適だと考えられていた。
しかしそういった要人の来訪だったり、他の探窟隊と組んで大規模な隊を編成したりといった真っ最中、よしんば例の制御不能な状態に陥ったら?

加えて、元来、白笛が発信した情報はいかなるものも真実として扱われてきた。
もし正気を失ったボンドルドを、地上のお歴々が目の当たりにしてしまったら――そして「黎明卿」のみならず、いままで歴代の白笛たちが残してきた記録や伝聞に懐疑的な目を向けられたら?
白笛が伝えた事実・・の上に、たくさんの探窟家や研究者たちがこつこつ積み重ねてきた成果や結実が、土台からぐらぐら揺らいでしまう可能性だってあるのだ。
ことによっては、ボンドルドの生命線、秘匿している「精神隷属機」の存在も露呈してしまいかねない。
早急に解消しなければならない問題なのは、誰の目から見てもはっきりしていた。

試しに、同時に稼働しているボンドルドの数を減らそうとした。
しかし意味はなかった。
事態が思いの外悪い方向へ、それも脇目も振らず猛然と突き進んでいることになまえたちが気付いたのは、いつまで経っても彼らが健在だったからだ。
つまり減らそうとしたのに、気付くとボンドルドが増えていた・・・・・
原因は分からない。
もしかしたら、枝分かれした意識のうちのどれかが、更なる探究心に突き動かされて、こっそり祈手アンブラハンズのなかのボンドルドを呼び覚ましていたのかもしれない。
なにしろ遺物使用者は「ボンドルド」だ。
彼ならそれが可能だったし、彼以外には不可能だった。
なにより彼ならやりかねなかった。
一旦、祈手アンブラハンズからすべてのボンドルドの意識を引き揚げようと試みたが、それも失敗に終わった。
一度でも「精神隷属機」による意識の植え付けを受け入れた者は、完全にその精神や人格から、遺物使用者の意識を除去することは敵わないらしかった。

増えすぎたのが原因なら、解決法は明らかだ。
その答えにたどり着いたのは、他でもないボンドルドだった。

つまり、ある日、ボンドルドが廃棄槽へ身を投げた。
「絶界の祭壇」を使わずに至れる深界六層、袋小路は、なるほど文字通りどん詰まりの打開にも打って付け・・・・・というわけだった。
ひとり、またひとりと、静かにボンドルドは自殺を行った。
しかし探窟における実力も知識も経験も達人級、白笛には及ばないとしても、各々が憧れの眼差しを受けることもある黒笛たちの肉体を、そうしてばかすか矢継ぎ早に消費しては、いくらたくさんの祈る手を有する黎明卿といえど、その明敏な頭を悩ませないわけにはいかなかった。
上昇負荷を他者へ転嫁する装置を応用して、ボンドルドの意識を移す案も考えられたが、製作しようと発起して一朝一夕に完成するものではない。
そもそもアビスの呪いを他人に肩代わりさせる装置も、数々の失敗を乗り越え、試行錯誤の末にようやく運用まで漕ぎ着けたものだ。
実用化に向けては課題と障害が山積みだった。
その間にもひとり、またひとりと、時計の秒針が進むようにためらいなく、淡々と、ボンドルドはゆるやかなペースで自殺を続けていた。

死体の処理にあつらえむきの袋小路も、さすがに両の手指では足りない数の死体を次から次へと投げ込めば、衛生、悪臭の面で被害を主張してはばからない。
「前線基地」内に充満する死のにおいは、吹きすさぶ力場の風ですら掻き消せず、積み上がる同胞たちの死体は日ごとに増えていった。
とはいえ人間はどんなカタストロフィにもやはり慣れるもので、日々減っていく同僚を巡って打ち沈んだり、すわ明日は自分がと錯乱したりする者は皆無だった。
すくなくとも表立って是々非々を論じる祈手アンブラハンズはひとりもいなかった。

そうしてはじまりと等しく、ある日突然、ボンドルドの自殺は終息した。
どうやら植え付けられる意識の数に上限はないものの、同時に発現し、それが常態化してしまうと、水銀の一滴がころころと転がるように自他の境界が不分明になり、加速度的に不具合が発生するらしかった。
現時点で目覚めている意識がとうとうひとりきりとなったボンドルドは、一連の出来事を「興味深い」と評した。
以前よりすくなくなったとはいっても、未だ本影を形成するには十分たりえる数を保って集うなまえたちへ、新進気鋭の探求の徒ようにアウフヘーベンの説明の労を取った。

「私は私を、私だと認識しています。“これは自分だ”と強くとらえているため、普段、意識は安定しています。ですが、そう主張するたくさんの“私”のバランスを取るのが非常に難しい。いやはや、ヒトの意識と精神……そして遺物による影響は、まだまだ未知数ですね」

「興味深い」と繰り返したボンドルドは、凪いだ「なきがらの海」ように落ち着き払って宣言した。

「解決策や、なんらかの別の要因が生じない限り、当面は“私”の意識を目覚めさせるのはひとりまでとします」

何十という死を身をもって体感したボンドルドは、うつくしい所作で祈手アンブラハンズへ頷いた。
探窟でつちかわれたたくましくもむくつけき肉体と、彼が常にそうであるように、性差や年齢といった個人の本来イミュータブルな属性を曖昧にしてしまう一種独特の気品に満ちた挙動は、ひょっとすると彼のことを知らない者には水と油のように、相反するものと思われるかもしれない。
しかしそれが「黎明卿」新しきボンドルドならば、これ以上ないほどしっくりと馴染み、むしろそうあらねばならないという道理を見る者へ十二分に理解させた。
後悔という感慨からもっとも遠い、先の夜明けへの希望に胸を踊らせる「奈落の星」は、本影たちへ志あつく語りかけた。

「“精神隷属機”には不明な点がまだまだ多い。今回の事例からも、学ぶことが大いにありました。素晴らしい。どんなことがあろうと、諦めずに前進を続ける強さこそ、ヒトにそなわった最上の性質だと私は考えます。また一歩、私たちは夜明けに近付いたのです。――ありがとうございます。皆さんのおかげですね」

お気に入りの「箱庭」の前で、ボンドルドは恭しく両腕を広げた。
生き残った祈手アンブラハンズはその姿に集い、群がり、波打ち、うねり、とぐろを巻いて、収斂し、ひとつのまがまがしい祈る手をかたちづくった。
幾十、幾百の指が折られ組まれ、祈りとなる。
一個の生物のようにわだかまる本影たちの背後で、粘性を帯びたようにぬめって光る「精神隷属機」が、触腕を伸ばして燦然と鎮座していた。


(※タイトルはフロクロ『超解像の破壊活動』
(https://youtu.be/X5NhQ--8qu8)より)
(2023.01.05)
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