通路の照明のひとつが、じ、じじ、と点滅している。
橙色がかったライトの明滅は、いやに目を引いた。

「黎明卿。本当に、申し訳ございません」

深々と腰を折ったなまえは、仮面の下で流れる汗をぬぐいたくて堪らなかった。
この場から逃げ出せるのなら、己れの過ちを吐露せずに済むのなら、自ら廃棄槽へ飛び込んで良いとすらと思った。

ずらりと並んだ、赤みがかった光。
生体反応を示す肉電球に照らされ、黒い仮面が妙なる陰影を描き出す。
表情など窺えるはずもない仮面を見上げ、なまえは再度「すみません」と口走った。
数多の精神を束ねる白笛が、おのの謝罪の文言に重きを置くべくもないと頭では理解しているのに、萎縮した口が心ならず詫び言を吐く。

なまえを含め探窟隊「祈手」は、すべて「黎明卿」新しきボンドルドである。
その祈手が彼の意に背く愚を犯すとは、なまえは思いも寄らなかった。
誰が想像しえただろう? 
まさか祈手のひとりが「前線基地」に秘匿された遺物の横流しに手を染めていたなど。

研究においてはさして重要でない、しかし地上では高値で取引される等級の高い遺物は、引き上げるのが困難どころか、そもそも足を踏み入れるのも容易からぬとあって、層を隔てれば、海を越えれば、付けられる値が法外なほど跳ね上がる。
人知の及ばぬ奈落の研究に、資力も人命もふつくに割いている「前線基地」といえど、それら「金になる」遺物はなにもほこりを被って十把一絡じっぱひとからげにしまい込まれているわけではなかった。
資金捻出のため秘密裏にオークションに出品したり、あるいは洋の東西を問わず好事家や既得権益のお歴々といった手蔓を獲得するために移譲したりと、至って有効に・・・利用されている――無論、正規の手続きを経てはいないが。
要するに、祈手風情が個人の目的のために左右して良いものではないのだ。

主に外部との折衝せっしょう用、それらを納めた保管庫の管理をなまえは担っていた。
どの場所にどの遺物がどれくらいの数量あるのか、どれをどのように利用するのかをすべて記憶し、物品の出入りを把握する。
祈手の例に漏れず、あくまで主たる仕事は研究や実験、探窟であり、常に保管庫に常駐、監視しているわけではい。
新しくなにかしら着荷する際、業務の一環として検分するだけだった。

なまえは仮面の下で唇を噛んだ。
これは彼女のミスでもある。
入ってくるものより出ていくものの確認をおろそかにしていたのは否めない。
常日頃から厳しくあらためずにいたなまえの怠慢といわれれば、否定はできなかった。

出入りする者が元より多くなかったこともあり、造作なく既遂犯は特定できたものの、よりにもよって寝食を共にするともがら、信用していた同僚がまさか密かに窃盗行為を企てていたとは思うまい。
記録と実員が一致しないことになまえが気付いて発覚したが、それにしても、くだんの手長は末始終露呈しないと本気で考えていたのだろうか。
既に身柄は押さえて捕縛し、厳重に鍵のかかった例の保管庫の床へ転がしてきた。
その後の処遇を含めて、ボンドルドへ報告するためなまえはここまで赴いたのだった。

「遺物の管理は君に任せていましたね。なまえ、君はそれを黙認していたのですか?」

懺悔めいた報告を最後まで口を挟むことなく聞き終え、なまえがこわごわ差し出した書類へ目を通すと、ボンドルドはそう尋ねた。
平坦な声音での問いかけに、なまえは思わず息を呑んだ。
出納を記録した紙束を手に、ボンドルドは静かにこちらを眺めている。
なまえが即答できなかったのは耳に釘だったからでは断じてなく、下問があまりに馬鹿げたものだったからだ。

「……いいえ、決して。黎明卿、二心はありません。言い訳に過ぎませんが、把握してすぐにその者を押さえて、こちらに報告に伺いました」

いくら高値で売買される遺物とはいえ、それで得られるのはたかが金、あるいはありふれた世俗の権能くらいのもの。
アビスに、探窟に、「黎明卿」に、実以じつもって来し方行く末すべてを捧げた身なのだから、人間のつくりだした貨幣価値など、なまえにとっては浅い層で発掘できる四級遺物より取るに足らないものだった。
そもそもそんなつまらない俗輩にくみするくらいならば、端から冷たい汗にまみれて自白に参じるべくもない。
なまえの実らしい申し開きに、ボンドルドは抑揚のすくない声で「そうですか」と応じた。

「地上で……とりわけ異国では、遺物は高額で売買されます。ですがひとりでは、切り回して利益を上げるのは難しい。運搬したり、さばいたり……おそらくその者ひとりの計画ではないでしょう。すくなくとも地上に、手引した者がいるはずです。なまえ、祈手で他に関わっていた者はいますか」
「申し訳ございません、分かりません……。単独だったのか、他にも協力した者がいたのか……」

起伏に乏しい声色が、また「そうですか」と繰り返した。
なにを考えているのか皆目見当も付かない声だった。
感情も料簡りょうけんも、なまえの答えに落胆しているのか、背信行為に憤慨しているのかすら定かでない。

なまえはブーツに包まれた爪先が、わずかにふるえるのを自覚した。
陳述に露いささかも嘘偽りはない。
窃取の手合いに加担したなど、たといアビスの底が引っ繰り返ろうとありうべからざること、胸を張ってそう断言できる。
しかし無様にすくみ、揺れる下肢は、片生かたおい他人のものを無理やりはめ込んだかのよう。
居心地が悪いどころではない。
不面目を招いたなまえの思い過ごし、過剰な自責による錯覚と軽んじられたらどれだけ良かったか。
なにしろ目の前で静かに立っている黒々とした形様なりさまは、数千由旬ゆじゅんの口を開けた奈落もかくやとばかりに、尋常ならざる重圧感を発している。

酸素が薄い。
目蓋が重い。
耐えがたい息苦しさに、なまえは仮面の内側でゆっくりと舌舐めずりした。
そうして意識的に湿らせなければ、貼り付いた舌を上手く動かせなかったからだ。
上顎にくっついた舌を剥がす音が口腔で聞こえた。
ぱりぱり、という乾いた音が。

常軌を逸する圧迫感に押し潰されているなまえなどお構いなしに、ボンドルドはやはり無言のまま佇立していた。
黙して語らぬ仮面の奥、あるいはまつられた巨大な遺物の内で、どんな沈思がうごめいているのか、掻暮かいくれ判然としない。
なまえはすがるように、ほとんど渇望のように「なにか言ってほしい」と思った。
さげすみでもいい、叱責でもいい、平生のようにうつくしい声で、よどみなく語りかけてほしかった。
あたかも彼の一声で一切衆生が救われると信じ切っている愚かな盲唖もうあが如くひざまずいていた。
なまえはそこで初めて、自分が膝を折って這いつくばっていることに気が付いた。

度を失い、屠所としょの羊じみて床へ伏せた祈手の眼前で、しかし一語も発することなく、「奈落の星」と仰がれる男はゆったりと両腕を広げた。
相対する人間を抱き留めるような、なまえも見慣れた動作だ。
黒い装束、黒い手套。
完璧な釣り合いが取れたシンメトリカルな立ち姿は端然として事もなし。
黒い仮面の上下をはしる紫色の光芒こうぼう、それだけが鮮やかに、まばゆい光を注いで、――

「――あ、」

まずはじめに大きな音が聞こえた。
おぼろげに、はっきりと、どこかひどく遠く、たとえるなら果てのない五層の端から、あるいは内耳という極端な至近距離で、アアァ――だとか、オオォ――だとか、角笛のような太くやわらかい音が鳴っていた。
暗い洞窟の奥深くに潜んでいる大型の原生生物があげる、断末魔の呻き声にも聞こえた。
しかしいくら太くやわらかい音といっても、度を超えた大音響がまったく途絶えることも揺らぐこともなく一本調子で続いていると、耳鳴りどころか全身がじーんと痺れてくる。
さながら鐘塔の、大きな釣り鐘の真下に立っているかのようだった。
轟音はどこにも逃げずに高波のようにしつこく覆いかぶさってきて、体が楽器の一部になり果て、小刻みに胴ぶるいしている。
むしろどうしてまだ鼓膜が破裂せずにいるのか、不思議なくらいだった。
脳髄から脊髄に至るまでびりびりと振動する。
外部振動の刺激を受け、振幅が増大する共振が全身で起こった。
撹拌された髄液が泡立ち、眼球がぐるぐると跳ね回る。
びしゃりと重たく湿った音がして、なまえが目線を落とすと、胃のから吐き戻された吐瀉物が仮面の隙間から溢れて、這いずる床に溢れていた。

地響きのような轟音に意識を奪われていると、折から眼窩のくぼみに指先を引っかけられた。
なまえの指ではない。
誰か・・の手は、なまえの頭蓋の縫合をなぞり、そして中身・・へ入ってきた。

通常、腕にさわられた場合、腕にさわられたという感触がある。
それは皮膚に触覚器という外受容器があるためだ。
外受容器は刺激を受けると、感覚神経を通り「さわられた」という情報を脳へ伝達する。
電気信号を受け取る脳には外受容器はない。
つまり脳そのものは「さわられた」と感じるのは不可能である。
そもそも開頭手術でもしない限り、硬い頭蓋骨の中身が外気にさらされる、他者からふれられることが起こりえようか。

にもかかわらず、なまえははっきりと体験していた。
爛熟した果実をもぎ取るように無愛想に、無慈悲に、誰かの手が頭のなかへ差し入れられているのを。
理解ではない。
体感だ。

脳の中身を物理的に探られている・・・・・・・・・・・・・・・
気持ち悪い、気持ちいい、痛い、快い、恐怖と恍惚、嫌悪と信頼、怒りと寛容、恥と誇り、幸福と不幸、驚きと期待、落胆と熱意、拒絶と受容、侮蔑と崇拝、寂しい、鬱陶しい、不安と安堵、劣等感と優越感、後悔と達成感、妬ましい、慈しみ、葛藤と安らぎ、諦念と執念、悲しい、嬉しい、寒い、暑い、――おおよそヒトが感じられるすべてを、限度を超えていっぺんに味わった。

同時に、膨大な量の記憶・・がなまえの脳を埋めていた。
目蓋を千切られ、強制的に見たくもない回顧録を網膜へ投影されているような――いいや、そうではない。
客観的な視点で眺めているのではない。
脳のなかの記憶を司る部位が、身に覚えがない記憶を実体験として・・・・・・思い返していた。
見たことのない誰かとむつまじく微笑を交わしていたり、馴染みがない料理の強い香辛料を嗅いでいたり、見覚えのない「自室」で穏やかな眠りに就こうとしていたり、異国の文字で書かれた書物を熱心に読んでいたり、知らぬ探窟隊の面々と親しげに焚き火を囲んでいたり、遭遇したことがない原生生物から命からがら遁走していたり、知らない女と性行為をしていたり、幼い子の臓腑を解剖していたり、――それはさまざまな記憶だった。
それらの体験を一切していないにもかかわらず、味や、においや、温度や、感触すら、懐かしさと共になまえは思い出していた。

回路を直列にして電流を流すのと同じ具合だったに違いない。
恣意的に直列に繋げられたすべての脳が、すべての記憶を共有していた。
見ている。
見られている。
見たくない。
聞いている。
聞かれている。
聞きたくない。
ふれている。
ふれられている。
ふれたくない。
嗅いでいる。
嗅がれている。
嗅ぎたくない。
知らない。
知っている。
知られている。
知りたくない。
知りたくない。
知りたくない。
知りたくない。

ヒトひとりが生まれてからいまに至るまでの記憶情報は、いうまでもなく甚大な量である。
誰かの半生を公私の隔てなく、正邪曲直の境なく、無味乾燥に、洗いざらい徹底的に、それも複数人分、同時に受け入れ、処理しきれるはずがない――常人には。
そう、「黎明卿」新しきボンドルド以外の人間には。
ヒトひとりが抱えられる感情と記憶は、ヒトひとり分である。

脳の細胞と神経がただれ、はじけ、とびちるのをなまえはかんじた。
懐古するこれがほかのだれかの記憶だと、りかいすることはなかった。
なぜならそれよりさきに、きょよう量をはるかにこえたかんじょうときおくのせいで、――なんだこれは、――なまえは目をひらいているのかとじているのか、さけんでいるのかないているのか、息をすっているのかはいているのか、おちているのかとんでいるのかもわからず――、なまえは、なまえは、なまえは、――むらさきいろのひかりにみおろされている、――これいじょうなにもしりたくない、――なんだこれは、――

――たすけて。



「なまえ」
「……っ、あ、ぅあ……」
「なまえ、なまえ、しっかりしてください」
「く、ぁ……ッ、れ、れいめい、きょう……?」
「ええ、そうですよ。ボンドルドです。なまえ、大丈夫ですか。舌は噛んでいないようですね。状況は理解していますか」
「いえ、っ、すみません……ちょっと混乱してて……。わ、わたし、ええと……」

黎明卿から尋ねられているのだから、なんとか答えなければ。
しかしいくら焦ったところでわたしのなかに返す答えはなく、唸りと大差ない荒い息が漏れるだけだった。
それどころか見上げた視界はひどく不明瞭で、焦点が合うまでやや時間がかかってしまうというていたらく。
平衡感覚もあやふやだったけれど、どうやらわたしは、黎明卿に上体を抱き起こしていただいているようだった。
背に回された硬い腕の感触から、卿が「枢機へ還す光」をはじめとした種々の武器をしっかり装備していらっしゃるのが伝わってくる。

――どうして、どうして?
考えようとすると、ずきりと鋭く頭が痛む。
まるで頭のなかでたくさんの針がてんでんばらばらに跳ね回っているみたいだった。
思わず両手で頭部を押さえる。

唾液が垂れ、ふるえる手でぬぐう。
しかし唾液どころか、いつの間にかわたしは嘔吐したらしく、仮面といわず服といわず異臭に満ちていた。
時間が経って乾いた吐瀉物のすえた臭いはひどいもので、口の端がひりひりと痛んだ。
探窟中ならともかく、気持ちが悪くて、いますぐ湯浴みしたくて堪らない。
汚れも悪臭も気にせず助け起こしてくださっている卿に、いつまでも寄りかかっている場合ではなかったけれど、しかし情けないことにすぐには立ち上がれそうになかった。
項垂れると、いつもかぶっているわたしの仮面が脇に置いてあるのが目に入った。
どうやら眼球や口内をチェックする際、黎明卿が取り外したものらしい。
もしくはわたしが吐瀉物で窒息しないよう、気道を確保してくださったのか。

「ああ、頭が痛むのですね。先程転倒したときにぶつけたのでしょう。どうやら外傷はないようですが、なまえ、念のため検査をしますか?」
「いえ、結構で……転倒? わたし、転倒していたんですか?」
「ええ。肉電球の前のここで。あなたの部屋か医務室に運ぶか、それとも動かすべきではないか……考えていたところでした」
「それはお手間を……申し訳ございません。でも、どうしてわたし、倒れて……?」

なんの前触れもなく意識を失っていたことは分かった。
その際、頭をぶつけたことも、どうやら嘔吐していたことも。
症候は上昇負荷を彷彿とさせるけれど、階段や通路を上がった覚えはない。
これっぽっちも原因に心当たりがなかった。
未だ混乱から抜け出し切れずにいるわたしに、卿はやさしく説明を加えてくださった。

「“精神隷属機”によって意識の混濁が起こったと、そう私は考えています。現在、君以外にも……おそらく“前線基地”にいたすべての祈手が、同じように錯乱、昏倒していると思われます。全員の確認がてら、見回っているところなのですよ。祈手が行動不能となれば、“前線基地”の機能や安全性が気がかりですからね」

起こしたのは君で十二人目です、とこともなげに言われ、耳を疑った。
まさか意識障害に陥っていたなんて。
それもわたしだけではなく、祈手の全員が?
「精神隷属機」を巡って、層を隔てると不具合が生じかねない事実は、祈手の間では公然のものだったけれど、まさか同じ深界五層、それも「前線基地」内にいたのに。
いままでこんなことは一度もなかった。

「他の者たちも? 黎明卿、あなたは……」
「私は大丈夫です。幸い、遺物使用者に影響はないようです」

肩から力が抜ける。
嘆息を伴って、口から我知らず「そうですか……」とこぼれていた。
卿に障りがなかったのは不幸中の幸いといえた。
わたしを含む祈手たちがいくら潰れようと、さして差し支えはない。
「精神隷属機」によってその存在を保っていらっしゃる、黎明卿ご本人がご無事なら。

ともあれおっしゃる通り、祈手の全員が身動きが取れないとは深刻どころではない事態だ。
武装した卿が直々に「前線基地」を巡回していらっしゃるのも頷ける。
万が一、悪意を持った余所者でも侵入していたら、なんて考えたくもない。

そういえば「精神隷属機」による錯乱が起こったのなら、遺物の支配下にない子どもたちにはなんの影響もないだろう。
生育している数はいまはそう多くはないとはいえ、祈手の誰ひとりとして顔を見せずにいたら不安を与えるかもしれない。
子どもたちに関する業務にわたしは携わっていなかったけれど、手が要るなら自分の仕事が片付き次第、助力を申し出ようか。

――と、ふとそのとき、わたしは首を傾げた。
自分の仕事とは――わたしはなにをすべきだっただろうか。
そもそも気を失う直前まで、なにをしていたんだった?
分からない。
思い出せない。
さすがに黎明卿へ「さっきまでわたしがなにをしていたかご存知ですか?」と馬鹿正直に尋ねるのははばかられて、うんうん唸っていると、卿は心配そうな素振りで紫色の光をわたしの素顔へ降らした。

「おや。まだ混乱が治まっていないようですね。それともなまえ、なにか気になることでも?」
「いいえ、その、お恥ずかしい話なのですが……意識を失う直前まで、自分がなにをしていたか、どうしても思い出せなくて。なにか重要な件を忘れていたと思うと……」

痛む頭を押さえてつっかえつっかえ告白する。
他の者たちがどうかは知らないけれど、これも意識混濁の影響なのだろうか、失神する直前のことがわたしはどうしても思い出せなかった。
卿は顎に軽く握った拳を顎に当て、ふむ、とわずかに首を傾げた。

「短期記憶が失われているのでしょうか。果たして、なにを忘れたのか……忘失した内容は気になります。ですがそれ自体を忘れているのに、なにを失念したのか思い出すなんて、土台無理な話ですよね。なまえ、焦ることはありません。無理に思い出そうとしなくても良いのです。記憶の欠落は、日が経つにつれて徐々に戻ったり、ある日突然、鮮明になったりすることもあります。無理せずそのままにしておくのも、ときには大事ですよ」

労るようにやさしく説かれ、大人しく頷きかけた。
が、些細な――しかし決して無視できない違和感が、わたしの動作をほんの数秒だけ遅らせた。

見上げる黒い仮面も、砦水と「絶界の祭壇」を結ぶ光の柱に酷似した紫色の光も、いつもと変わらず明るく輝き、小揺るぎもしない。
平生となんら差異の窺えないお姿は、疑念を差し挟む余地がない。
違和感は、彼の言葉にあった。
わたしの知っている黎明卿は、たとい人格に異常をきたそうと、自分の肉体を奈落に捧げようと、更なる探求を、進み続けることを、決して諦めない方だった。
凡人では二の足を踏むだろう問題も難境も、憧れという光でもってためらいなく歩み拓いていく。
夜明けのようにまばゆい光は、数多のひとに憧れを抱かせる。
わたしもそのうちのひとりだ。
にもかかわらず、その黎明卿が「無理に思い出そうとしなくても良いのです」とおっしゃった。
考え続けることをやめる、思考を放棄するよう促す不実は、よしんば誰か第三者によるものだったら、なんの疑問もなく聞き過ごしていたかもしれない。
けれどそれが他でもない「黎明卿」新しきボンドルドの発言なら。
宙に浮いたような、漠然とした疑問を抱いた。
――どうして?

「なまえ?」
「え、あ……いいえ、なにも……」

なにか後遺症でも、と幼い子にするようにやさしく背を叩かれる。
曖昧な戸惑いを明確に言い表すすべはなく、いつまでも卿に抱き起こしていただいているわけにはいかないという焦りと、気遣わしげなてのひらによって、疑念というにも不確かな片鱗は急速にしぼんでしまった。

やっと意識も平衡感覚も安定してきた。
立ち上がるのにも、歩行にもそろそろ支障はないだろう。
未だ違和感はぬぐえないけれど、ただでさえ転倒する前後のことすら覚束ないのだから、些細な違和感に振り回されている場合ではない。
「黎明卿」新しきボンドルド。
わたしたちの精神に等しくいらっしゃる、白笛。
彼がおっしゃることを信じなくて、なにを信じるというのか。
自分を信じられないわたしが、唯一信じられるものがあるなら、それはこの方をおいて他にいるはずがない。

「君はこの場で倒れていました。その前は保管庫にいたのでしょう。そちらへ向かえば仕事の続きに取りかかれるのではないでしょうか」
「そう、ですね……。ありがとうございます、卿。……他の祈手たちの救護にお供いたしますか?」

わたしで十二人目なら、すくないとはいいがたい数の祈手がまだ「前線基地」のあちこちに倒れているはずだ。
自力で意識を取り戻す者もいるかもしれないが、そのチェックも含めてひとりひとりを助け起こすのは、いくら黎明卿といえど手間だろう。
身支度を整えてから加勢する旨をお伝えしたけれど、卿はゆったりと首を振った。

「また同じような意識の混濁が起こらないとも限りません。しばらくは……そうですね、すくなくともあと一時間くらいは、体調や意識に変化がないか、経過に気を配っていてください。いいですね、なまえ。仕事に戻るのはそれからですよ」
「はい、かしこまりました。卿」

問題ないとアピールするようしっかりと頷くと、ようやく黎明卿は安心してくださったらしい。
わたしに合わせて着いていた膝を伸ばすと、きびすを返した。
かつん、かつん、と硬い靴音をお供に、奥に進むにつれ暗さを増す通路を歩いていく。
あちらは保管庫のある区画へ続いている。
わたしもあとで向かわなければ。

ひとりになったわたしも、仮面を拾って起き上がった。
起立した瞬間はわずかに目眩を覚えたけれど、それもすぐに治まった。
とりあえず身繕いのため自室に戻ろう。

「……あれ、」

わたしが倒れていた脇には、仮面の他に、ひっそりと書類の束が放置されていた。
筆跡は見慣れた自分のもので、どうやら昏倒する前のわたしが記入したのだと察しが付いた。
ということは卿のおっしゃった通り、保管庫でいつものように遺物のチェックをしていたのだろう。
とはいえどうしてその書類をわざわざここまで持ってきたのかまでは、やはり見当も付かなかった。
並んだチェック項目の欄を見下ろした途端、また頭がずきりと痛む。
相変わらず頭の奥深くでちいさなとげが爆ぜるような、不快な痛みだ。
卿がおっしゃったように、まだまだ回復しきったわけではないのだろう。

通路の照明のひとつが、じ、じじ、と点滅している。
橙色がかったライトの明滅は、いやに目を引いた。
――ああ、頭が痛い。


(2022.12.26)
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