「前線基地」の奥の奥、六層に程近い最深部にそれは安置されている。
どの区画にいようと必ず視界に入る「絶界の祭壇」が、特定の遺物と人物を用いない限りその真価を発揮することは決してないとあってか、ある意味「絶界行」のための物々しい装置より余程厳重に秘匿されている。
さぞかし貴重な遺物、はたまた人間社会を揺るがしかねない研究成果のすいたぐいかと思いきや、遺物は遺物でも、到底ヒト如きの手には負えない恐ろしいものだった。

特級遺物「精神隷属機ゾアホリック」。
さながら祭壇の上にまつられた聖遺物のように鎮座する巨体は、触腕よろしく笠を開き、露出した突起は種子植物のやくによく似ていた。
花被片が漏斗形に反っているさまは、ヒトが両腕を広げている姿を彷彿とさせる。
ずんぐりとした巨体を無数にはしる葉脈は、ヒトの血管にも、脳に刻まれたシワ、脳溝のうこうにも見えた。
それそのものが発光しているかの如くぬめる表面は、死んだ表皮が硬化した蛇の鱗のように生々しく、エナメルじみた光をたたえていた。

なまえは処置台に横たわったまま、照明によって描き出された巨影をぼんやりと見上げた。
四肢は自力では解けないよう拘束されている。
すべて同意の上のことではあれど、そうしてただ寝転がって「精神隷属機ゾアホリック」を仰いでいると、視界がもやもやと不明瞭になっていった。
それは同じ文字を凝視しているうちに、意味が分からなくなったりかたちに違和感を覚えたりするのに似ていた。
遠近感を失って、近くにあるのか遠くにあるのかすら判別できなくなりそうだ。
据えられた遺物が、まるで眼前へ迫り来るかのように恐ろしく大きく見え、押し潰されるのではという馬鹿らしい錯覚に襲われた。

しかしながらこれほどまでに妙に生々しく、毒々しい見目にもかかわらず、巨体に対してなまえが気持ち悪い、避けたいと負の感情を抱くことは不思議となかった。
どちらかというとむしろ、その表面のさわり心地はどうだろう、硬いのだろうか、それともやわらかい? ぬめるように光っている皮膜は濡れているのだろうか、温度はあるのか? 云々、興味を引かれる機微の方が強かった。
普段ならおそらく嫌な感じがするまがまがしい仮相だろうに、どうしても目が離せない。
意識から追い出せない。
まるで、毒が仕込まれていると知らされたのに、見ているだけでよだれが溢れそうな極上の料理の数々が、目の前で「どうして食べないのか」とこちらの五感へ訴えかけてくるようだった。
なまえがそう素直に吐露すると、ボンドルドは「この遺物の特性です」と頷いた。
「特級遺物、“精神隷属機ゾアホリック”は使用者を誘います。ふれるだけで利用方法を植え付けられるのです。なんらかの物質を発して、周囲へ働きかけている可能性は否定できません。虫媒花が受粉のために虫を呼ぶように、寄生虫が宿主を操って鳥に自身を食べさせるように……。そのため、管理や整備をしている者は直接ふれず、意識にも幾分か制限をかけているのですよ」と。
当のボンドルドはいまはなまえに背を向け、「精神隷属機ゾアホリック」直下にしつらえたコンソールにかかりっきりだ。
周囲では数名の祈手アンブラハンズが、各々作業にあたっている。

薄暗い内陣で凝然と息を詰めていると、「絶界の祭壇」を中心として「前線基地」全体が音と振動を立ててゆっくりと回転していることを、今更ながらに思い出す。
天の陽光が注がない深層は、アビスの底から届く光の方が強く、なべて明るい。
とはいえ巨大な砦水のためか、頭上に垂れ込めた暗雲が如き靄のためか、深界五層は上の四層、下の六層とも趣をことにするいささか不気味な異観を誇っていた。
「祭壇」を腹に抱え込んだ「前線基地」も似たり寄ったりの佇まいだが、なにも殊更におどろおどろしい雰囲気を醸し出す意図はない。
等級の高い遺物には恵まれているものの、多数の人間が長逗留するための資源やエネルギーは豊富とはいいがたい深淵で、実験や筆記が可能な光量が確保できれば問題ないとの、至ってプラクティカルな理由によるものだ。

自由にならない四肢を持て余しながらなまえがもぞもぞ身じろぎすると、首元で笛が転がり、から、とかすかな音を立てた。
拘束着とまではいかないが、あつらえられた「暁に至る天蓋」という探窟着は重く硬い。
着慣れない装束と共に、なまえは未だこの黒い笛にも一向に慣れなかった。

本来なまえは、さげる色の笛に釣り合う探窟家ではない。
アビスの探窟にあたう技量も膂力りょりょくも持ち合わせていなかった。
医療に関する知識を他ならぬボンドルドに見込まれて「前線基地」に定詰するうち、笛を与えられ、いまこうして「祈手アンブラハンズ」になるための処置を受けようとしている。
彼女へ笛を授けたのは、ボンドルドだった。
正規の探窟家は鈴付きから始まって、赤、蒼と段階を踏んでいくのが通常である。
黒い笛を得るには年齢による制限のみならず、卓越した実力は勿論のこと、短くはない歳月を要すると、南海ベオルスカ出身ではないなまえですら常識として知っていた。
しかし協会や組合へどんな手を回したのか、そのどちらも有していないなまえの首元を、ボンドルド直々に「君の黒笛です」と差し出された笛は、我が物顔で占めている。

深界五層には達人級以上、つまり黒笛か深度制限のない白笛を持つ者しか足を踏み入れることができない。
「前線基地」に常駐するため、自分のように役柄を詐称している「ニセ黒笛」がどれくらいいるのか、なまえには皆目見当が付かなかった。
笛に見合う力量を擁する探窟家にまったく引け目を感じないといえば、嘘になる。
しかしながら誰が予期しただろう、肩を並べて実験や研究に明け暮れる同輩たちは、その不気味な仮面や風体からは想像できないほど親しみやすく、気のいい連中だった。
もしかしたら円滑なコミュニケーションというものは、なまえが考えているよりずっと重要なのかもしれない。
閉鎖的な環境、限られたリソースのなか、洋の東西を問わず集った者たちが、些細なトラブルでも命取りに直結しかねないアビスでの「探窟隊」を形成するのに、欠かすことのできない技能のひとつなのだろう。

コンソールを操作していたボンドルドが、やおら指揮卓じみたそこから離れた。
黒々とした仮面がなまえを振り返った。

「なまえ、気分はどうですか」
「問題ありません……すくなくともいまのところは」
「異変があればすぐに言うように。いいですね?」

はい、と答えた。
自分もあれをかぶることになるのか、とボンドルドや祈手アンブラハンズたちが装着している仮面をやや不躾に眺める。
仮面の集団のなかで長く生活していると、素顔をさらしているこちらの方が、なんとなく居心地の悪いものを感じていた。
同調行動の心地よさはなまえも了解している。
個人が大多数の人間と同じ行動を取ることで安心を得ようとする群集心理は、程度の差こそあれもれなくヒトにそなわった傾向だ。
他者に受け入れられる、帰属することによって覚える喜びは、人間の基本的な欲求でもある。

顔色や瞳孔、精神への介入に伴う反応や症候を詳細にチェックするため、ボンドルドがなまえの素顔を深く覗き込んだ。
紫色の光芒こうぼうが眩しい。
なにを考えているのか掻暮かいくれ窺えぬ硬い仮面の奥から、「リラックスしていてくださいね」とこともなげに言い添えるものだから、なまえは思わず笑ってしまいそうになった。
四肢を拘束されて、これから遺物によって精神へ干渉しますと宣言されているのに、リラックスしろとは。
なかなか容易ならざることをおっしゃるものだ、と。

なまえは「前線基地」下部で単純作業に従事している、祈手アンブラハンズになり損なった者たちに思いを馳せた。
彼女もああなる可能性はあった。
ヒトとしての尊厳どころか、生き物としての枠組みから無惨に外れたあれら・・・を見て尻込みする者もいるだろうに、ボンドルドは一切隠し立てすることはなく、なまえに説明した。
「私の探窟隊に加わってくれる意思を持っていましたが、“精神隷属機ゾアホリック”による精神の植え付けが上手くいかなかった者たちです。精神の植え付けの可否は、いまのところ個人差としか言えません。条件がはっきりすれば、対策や手立てを講じられるのですが」と、希望と探究心に満ちた声音で嘯いた。
微塵も悪びれることなく「彼らも大切な“前線基地”の一員ですよ」と。
敬服や畏怖を一心に集める白笛ですら、十全の運用には及ばぬ特級遺物である。
いかがはなまえがどうこうできようか。
なり損なってしまうならそれはそれで仕方がないものの、世界最後の未踏の地、凡人なら踏み入れる足すら持たぬ深度にまで可惜あたら至った若輩者、持ちうる知識や技能を「祈手アンブラハンズ」として存分に活かしたいところだったが。
さて、どうだろうか。
なまえは「なに」になるのだろうか。

ボンドルドはゆったりと両腕を広げ、掌中をさらした。
背負う「精神隷属機ゾアホリック」のさまかたちと重なり、諸共になまえへ覆いかぶさるように紫色のグレアを注いだ。

「おやすみなさい、なまえ。次に目覚めるときは、あなたも“私”です」

眠りをめいずる声は、沼の底からゆっくりと湧き上がってくるよう。
子守唄にやさしく促され、なまえは目を閉じた。
がちゃがちゃと金属の擦れ合う耳障りな音が聞こえ、祈手アンブラハンズたちが「精神隷属機ゾアホリック」を操作しているらしいことは窺えた。

眼裏まなうらでも紫色の光条は残っていた。
星や電球など、暗闇のなかで点状の光を肉眼で見た際、多数の光の筋が周囲に見える。
睫毛や眼の虹彩の縁、水晶体内の縫合線による回折が引き起こす内視現象だ。
その光を閉じた目蓋のなかでじっと注視していると、じわじわとほどけるように輪郭が曖昧になっていった。
光明の境目が溶ける。
――どれが光で、どれが暗闇なのか。
おぼろげだ。
俗っぽい言い方をあえてするなら、冷えた体で湯浴みをしたとき、熱い湯にぴりぴりと粟立っていた肌が徐々になれて、心地よく感じるのにほんのすこし似ていた。

そして他者が入ってきた・・・・・・・・
彼の意識が、ふたりの隙間を埋めていくのが分かった。
自分のなかに自分以外のものが入ってきて初めて、なまえは自分自身の「かたち」をまざまざと認識した。
――どれが自我で、どれが他我なのか。
いままで生きてきたうちただの一度も感じたことのない、「自分」が揺らぐ感覚。
自我と他我の境目が絡み合い、混ざり合い、溶け合い、ひとつのものになっていく。
恐怖とするにはあまりにあたたかく、不快に感じるにはやさしすぎた。
仮象かしょうは、元々「なまえ」がいる場所から無理やり「なまえ」を引き剥がすような荒っぽさはなく、むしろこちらをゆっくりと受け入れ、あやし、同じ温度になろうと抱擁するようなやわらかさに満ちていた。
わたしは、私は、――

――「わたしはわたしのままでいられる?」。
曖昧な意識では、脳は発話のための命令を下すことが敵わなかった。
しかし声に出して尋ねずとも、文字通り精神を掌握する者には、考えていることは細大漏らさず伝わったらしい。
ボンドルドはやはり穏やかな仕草で、なまえの声なき問いに答えた。
あるいは彼もまた口腔や声帯での音声言語を伴わず、直接「なまえ」というものへ語りかけていたのかもしれない。

「ええ、勿論ですとも。なまえ、君は君のまま。君の意識が私の意識。君の祈る手が私の祈る手……君の進む道が、私の歩む道。なまえ、あなたは私になりますが――忘れないでください――、私もあなたになるのですよ」

ゆったりと語りかけるボンドルドの声は、耳元で衣擦れが囁いているようで、かつ深い森の向こうから濃霧越しに聞こえてくるようでもあり、そして同時に、上側頭回の後部へ直接刻みつけられるようでもあった。
――どれが現実で、どれが夢なのか。

脳には、他者の言葉を聞いて理解する部位、それから応えるために言葉を組み合わせる部位が別々にある。
生まれたときから持っていた部位たちを、なまえは今更ながらに認識した。
普段は気付かない、わざわざ意識していないだけで、それらはずっとそこにあった。
ヒトとして当然のように使っていた、言語中枢における機能を経由せずに他者と交流するのは、言うまでもなく生まれて初めての経験だった。
途方もない違和感に戸惑い、混乱するものの、やはり抱く腕はどこまでも柔和で、穏やかで、嫌な感じはちっともなかった。
ちょうどよく収まり、あるべきところにあるという安堵すら覚えた。
聴覚にも視覚にもよらない他者との意思疎通は、ひどく不透明で、かつあまりに鮮明だった。
繋がっている・・・・・・「実感」がなまえの違ってしまいそうな気を辛うじて繋ぎ止めていた。

彼がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
なまえは手放さぬよう必死に握り締めていたものを差し出す心持ちで、おずおずとあたたかい抱擁を受け入れた。
てのひらのなかのものは、はじめこそ驚き、尻込みし、心細げに揺れていたものの、自分以外の存在にすぐに馴れて喜びに波打った。
ボンドルドの言う通り、自分が彼になるのと同時に、彼が自分になるのは、とても素晴らしいことのように思えた。
命あるものとして否応なしに覚える、自我がぐらつき、ほどける脅威よりも、遥かに安堵が勝っていた。

ぐるぐると混ざり、撹拌されていた意識が均一になり、やがて「なきがらの海」の水面めいて凪ぐ。
――どれが彼で、どれがわたしなのか。
区分は不要だとなまえにも分かった。
足の爪先、髪の一本にまで満ちるのは、充足感に他ならない。
等分にならされるうつくしいバランスは、ヒトひとりが終生、持ちうる以上のものを与えた。

目を開くと、光があった。
精神も肉体も命も捧げた紫色の光芒こうぼう
夜明けの異名を冠する「奈落の星ネザースター」。
どうかわたしたちの手・・・・・・・が、暗く深い奈落を切り拓く一手となりますように。

――「おはようございます、なまえ」。


(※タイトルはALI PROJECT『Nocturnal』より)
(2022.12.11)
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