天上の陽光が注がぬ深淵は、その実、自然にできた洞穴どうけつや原生生物の巣穴といった暗帯へ自ら入り込みさえしなければ、石灯だけを頼りに真っ暗闇を前進せねばならないということはなかった。
なにしろ三層より下は、アビスの底から届く光の方が強い。
奈落の底から放たれる光は、大穴を隅々まで満たす力場によって探窟家、研究者や調査隊、盗掘者云々の区別なく、踏み入る者へあまねく恩恵を――そして呪いを等しくもたらす。

死が堆積する「なきがらの海」。
時折、凪いだ水面が揺れるのは、風のせいではない。
五層では力場がたわむことにより波が立つ。
ただひたすら白く停滞、沈殿するさまは、生きとし生けるものがふつくに眠る墓所のよう。
深度一万二千メートル、深界五層へ至った探窟家は、目もくらむような遠景に例外なく息を呑むという。

ひるがえって、三層での採掘、採取任務を終えた祈手は、仮面の下で恍惚の溜め息を吐いた。
五層への帰還は体感時間にして約半月ぶりであり、果てのない白い景象は、心細さよりも慕わしさ、懐かしさが勝った。
常冬の佳景を目にするたび、帰るところへ帰ってきたという実感が湧くようになって久しい。
生まれ育った遠い故郷より、この駘蕩たいとうたる五層の凍原こそが最早「帰る場所」なのだろう。

波打つ白い丘はあたかも砕けた波がその瞬間に時間を止めたかのようで、骨片と見分けの付かない結晶がうず高く積もり的礫てきれきと目を射った。
いくらヒトがせっせと踏み締め歩もうと、この地に足跡を永劫刻むことは敵わない。
雪稜はさらさらと崩れ、ともすれば流砂じみて足を取られかねなかった。
この偉観いかんに何にまれ「前線基地」以外の堂舎を築こうなどと蒙昧な野望を抱くのは、奈落へ石を投げ込み、その落下音に耳を澄ますほどに愚かというものだ。

しかしうつくしい眺望にひたる感慨すら持ち合わせていないのか、祈手の寂然じゃくねんとした物思いを破ったのは、背後で鳴った足音だった。
水気を含んだ、ギュ、という慮外の靴音が、仮面の内の鼓膜を叩いた。

「五層に着いた途端、あからさまにスピードを落としやがって。エスコートはここまでってことか? ご大層な“前線基地”まであとどのくらいか、教えてくれたっていいだろう」

やおら振り返ると、男がひとり、ふところから銃を取り出すところだった。
頭部はフルフェイスのヘルメットに覆われており、面構えは判然としない。
ひび割れじみた変則的な模様を描くヘルメットは、ぎょろりと剥いた単眼と相まってまがまがしい。
首元に笛はなく、背負った荷物や装備から、南海ベオルスカ――オースで正規の手続きを踏んだ探窟家ではないことは一目瞭然だった。
正規の探窟家ではないとはいえ、単独では到底対処しきれぬ問題や危険に見舞われるアビスでは、往々にして盗掘者も隊を組んでいる。
しかしながらこれみよがしに銃弾を装填している男は、白い外套を纏う祈手と同じく単身だった。
ひょっとしたら、過酷な道中、何人か脱落したのか。

男は、背景と同化してしまいそうな白装束との間合いをうまずたゆまず測りつつ、口調ばかりは軽薄に「生物の気配もない、薄っ気味悪いとこだ」と吐き捨てた。
すぐ上の四層は森林といわず河川といわず、豊かな生態系を誇っている。
個体数の多寡、大小を問わず、様々な生命が稠密ちゅうみつしており、警戒すべき気配の量も尋常ではない。
四層から下りた直後は尚更、五層の「なにもなさ」に戸惑うのもさもありなんといったところだった。
しかし広大な浮遊海には、ヒトが及ばぬために未だ名称の付けられていない水棲生物や、砂岩地帯にはカッショウガシラをはじめとした危険な原生生物が、息を潜めるようにして数多く生息している。
深度一万二千まで到達した探窟家に説くことではないが、ちらとでも油断しようものならすぐさま奈落の猛威に呑まれよう。

「こんなところまで連れて来たんだ。ボスの首でも頂戴しねぇと間尺に合わん。旅の仲間を最後まで丁重に案内してくれよ」

銃の装填を終えたらしい。
不遜な舌端ぜったんたがわず、三層からずっと白外套の跡を付けてきた男は、未だ沈黙を保っている祈手へ銃身をひたと合わせた。
ほんのわずかな無調法でも犯せば、間髪入れず銃火を浴びせる殺気が筒口からは感じられる。

片一方、わずかにデザインに差異はあれど祈手たちがみな着用する面形おもてがた、表情や気ぶりをごうも窺わせぬ硬質な仮面から漏れ出たのは、浅い嘆息だった。
なんともはや、銃を突きつけてのお願いとは品がない。
仮にこの場で霜野を血に染めずに済んだとしても、そののちも銃口が沈黙を保ったままでいてくれるとは到底思えなかった。

ともあれこんなところで死ぬわけにもいかない。
――例えば原生生物に襲われ、食われ、消化され、糞になるならまだ良い。
人間を食った原生生物を食うことに、探窟家たちは尋常一様、躊躇は微塵もない。
生きて死に、魂はアビスへ還る。
連綿と営まれてきた生命の連なりのひとつだ。
数え切れぬ命を呑み込んできたアビスに、一片の骨としてうずもれるのは、探窟家の矜持ですらある。
しかしながらこの「終わり方」は悉皆しっかいまったくもって、心底、受け入れがたい。

「あんたの旅はここで終わりよ」

終着を告げる声は、思いの外高かった。
仮面によって素顔は隠れ、背は飛び抜けて高くも低くもない。
てて加えて纏う装束、その上に羽織った白い外套のために描く体の曲線は皆無であり、一瞥しただけではその祈手を――なまえを、けだし女だとは看破できまい。
実際、短くはない時間、追行していたのがまさか女だとは露ほども思っていなかったとみえ、素っ気ない宣告を受けた追尾者は意外そうに「へえ」と笑った。
あるいは女ならば勝機があると、愚にも付かぬ与太を抱いたか。

背負っていたリュックをなまえは足元に置いた。
ここまで来れば不躾な討ち手を生かしておく理由も、銃口を向けてくる狼藉者を基地まで案内する道理もない。

「さっさと済ませましょう。わたしははやく“前線基地”に帰りたいの」
「そう焦りなさんな。そっちこそ、俺の言うこと聞いてた方が賢明だと思うが。どうしてまた、そこまでして忠義立てるんだ? 黎明卿の探窟隊は揃いも揃って、ンな不気味なナリの集団だって聞いてるぜ。地の底でアビスの研究に明け暮れるバケモノってな……。こんな薄気味悪い場所に引きこもるなんざ、報酬が法外なレベルでもなきゃやってられん。なんでそんな奴のために働いてるんだ? ――四層で見てたぜ。お前、壁面が崩れて原生生物が襲ってきたとき、ルート確保のために動いてただろ。そんなに大事か? 自分の探窟隊とやらが」

挑発のつもりか、指先ひとつでいつでも弾を発射する筒口を掲げたまま、男があざけり笑う。
オースでは非常に高値で取引される、遺物の素材を加工した銃だ。
銃自体は地上の探窟用具店で購入できるものの、加工に使う連連玉や幣盤といった資材はアビスから引き上げるしかない。
耐久性や攻撃力は格段に上昇するものの、結果高額にならざるをえないものだ。
装備の数々から探窟家ではないらしいが、どうやらすくなくとも採掘、採取にまともに勤しむタイプではあるとみえる。

必要だろうか・・・・・・と考えて、答えが返ってこないことになまえは一抹のさみしさを覚えた。
力場の影響で、層を跨ぐと意識の同期に障害が生じかねないとあって、長期に渡って五層を離れる場合、あらかじめ「精神隷属機」による繋がりを絶っている。
視界の共有によりこちらの情報はいくらか不分明であれ伝わっているだろうが、自分の精神に己れひとりしかいないことに、絶えずなまえは違和感を覚えたものだった。
あるいは懐旧の念を抱いて眺める「なきがらの海」と同じく、自分の内界に他者が介在している状態こそが、生来の様態より遥かに身に馴染んでしまったのか。

「前線基地」で「精神隷属機」に接続しなおすたび、意識がクリアになる。
研ぎ澄まされる感覚を味わう。
硬い頭蓋の中を、やわらかい脳溝のうこうを、直接撫でられるかの如き筆舌に尽くしがたい心地が、いまはただひたすらに待ち遠しい。
他者の意識、精神を混ぜられて・・・・・、己れのみのときよりクリアになるとは奇異だろうか。
それならそれでなまえはいっかな構わなかった。

「……説明して理解する気はある?」
「はは、ないね」
「できない奴に、わざわざ説明してやる手間、どうして割いてもらえると思ったの」

そうなまえが言い終えぬうちに、銃口が火を吹いた。
エスコートを要求したにもかかわらず、初弾から寸分たがわず眉間を狙ってくる躊躇のなさは賛するべきだった。
生きて捕縛などと生ぬるい選択肢を排し、のっけから殺す気で向かう判断を取れるのは手練れの証だ。

銃火をなまえが避けるところまで見越していたらしい。
不意打ちの銃弾が外れたにもかかわらず、男の動作には逡巡のタイムラグが一切なかった。
しかし予想できただろうか?
あに図らんや、撃った銃を、彼が空中に置くようにそのまま手放すとは。
眼前に銃口を突きつけられれば、どんな人間だろうと気を取られるのが当然だ。
銃を持つ右手に意識が集中しているところに、突如別の暗器が踊り込んでくれば、不意を突かれて反応が遅れるのも無理はない。
男が殊更見せびらかすように掲げていた銃はダミー、本命は左手に隠し持ったナイフだった。

銃による一発目が命中すれば僥倖。
しかし悪名高い「祈手」、とりわけ白い外套を着ている探窟家だ。
次弾装填に時間を要する銃での戦闘は不利でしかないと、男は理解していた。
目線と注意を誘導する、示威行動としての銃砲である。
本命のナイフが目立っては、騙し討ちの効果が損なわれる。
刺突せんと唸りをあげたナイフは、彼が叩く軽口には不釣り合いなほど小ぶりだった。
ちゃちなナイフは、彼女の上着くらいしか裂けそうにない。
が、毒でも塗られている可能性を鑑み、なまえは刃にはふれぬよう、男の左肘を膝で蹴り上げた。

「ぐッ……!」

突っ込んでくる相手のスピードと体重を利用したなまえの蹴りは、到底女のものとは思えぬほど鋭く重い。
名状しがたい音を立て、男の左肘があらぬ方向を向いた。
関節、あるいは骨が損傷したらしい。

不意打ちの初弾、そして意識外からの刺突という一連の攻撃を完膚なきまでにくじかれ、男は歯噛みした。
左腕はもうまともには使えまい。
それどころか蹴り上げた祈手の足が地に着くや否や、それを軸にして旋回し、返す刀に顔面を狙ってきた。
肘関節を砕かれる激痛に図らずも硬直していた男は、しかしさすが単身、深界五層までたどり着いただけはある。
咄嗟に上体を反らし、頭目掛けて寒風を切り裂いたなまえの蹴りを間一髪のところで避けた。

とまれ無傷とはいかなかったらしい。
かすった顎は砕かれこそしなかったものの、防具であるヘルメットが割れていた。
まともに食らっていたら、文字通り頭蓋が粉々になっていたに違いない。
趣味の悪いヘルメットから男の顔の下半分が覗く。
露出した口元から血がしたたっている。
痩せ我慢か、はたまた己れを奮い立たせるためか。
それかあらぬか、男は血で汚れた口角を居丈高ににやりと歪ませた。

「っ、は、大した腕だ。口数がすくないのを抜きにしたら、惚れ込んでたかもしれん。折角ここまで一緒に旅してきた仲だ。おしゃべりしようぜ」
「……じゃあ質問。あんたの体に遺物は埋め込んである?」
「はあ?」

なまえの無愛想な問いかけに、男はいぶかしげに首を反らした。
この期に及んで遺物の話とは。
なんのつもりだとばかりの襲撃者に、寡言かげんをなじられた祈手は、まるで入手できる情報を制限されている赤笛の効かん気を諌めるような無頓着さで補足した。

「もしもあんたの体に仕込まれた遺物が重量のあるものだった場合、上層うえで殺していたら運ぶのが大変でしょう。それに解体の最中、血のにおいで原生生物が集まってくるかもしれないもの。ここでならその危険性は低いわ。だからさっさと申し出てほしいの。あんたが素直に答えてくれたら、バラして探す手間が省けるから」

羽虫よろしくまとわり付く気配を鬱陶しく思いながらも、戦闘用の祈手がわざわざ五層まで男を引き連れてきた理由――それは当人に脚を動かさせ、ひとえに運搬の手間を減らすため。
さもなくば察知した時点で撃退するなり、尾行を巻くなりしていただろう。

至極道理ではあったものの、吹鳴すいめいするなまえの都合はどうやらお気に召さなかったらしい。
男は砕かれずに済んだ顎を噛み締めると、とうとうなくもがなの軽口も放棄して右手にナイフを構えなおした。
目の役割をしているらしい大ぶりなレンズ越しでも、たぎるような殺気がほとばしる。
向けられる憎悪は可視化しないのが不思議なほどだ。
並の探窟家ならば、ヒトを殺すのに慣れた鋭い殺気に怖気おぞけをふるったに違いない。
相対したのが黎明卿の探窟隊「祈手」――なかんずく戦闘に秀でた「死装束」でさえなければ。

なまえは気取られぬ程度にわずかに肩を落とした。
益体もないおしゃべりを要求してきたにもかかわらず、乗ってやった礼がこれか。

「そのナイフも銃も、遺物を加工したものでしょう。体はどう?」
「お前を殺したら、犯しながら教えてやるよ」
ここは五層よ・・・・・・。難しいと思うわ」

凶器が旋回したときには、またも襲撃者の脚は凍原を激しく蹴って突進してきた。
真正面から突っ込んできた肉薄の瞬間、互いに仮面越しだというのに、至近距離で男がにやりと笑ったのが分かった。
深層を陰湿に付け回していた追跡者の笑み。
みるみる迫ってくる鋼を臆する色もなく易々弾くと、なまえはしかしわずかに眉をひそめた。
――まだ原生生物と相対している方がマシだ。
たとい食い散らかされることはあっても、彼らはおのが欲求や腹いせのために、他者の尊厳を蹂躙しようとは欲さない。
人間ほど面倒かつ傍迷惑な生き物はない。
腹が減れば食う、眠くなったら寝る、生殖のために交わる、ただそれだけで十分にもかかわらず、人間はそれらを報復だの憂さ晴らしだののために行うことがある。
元来の目的のためではない行為に、嗜虐性だの支配欲だのを付加し、精神的な悦びを見出すことができる。
まったくもって、厄介な生き物だ。

気怠げになまえは足元のリュックから同じくナイフを拾い上げた。
凶漢がその姿を現して以来、リュックを置いた地点から彼女はほとんど移動していなかった。
むやみに自分からはしかけず、踏み込んできた相手の勢いを利用して処理する。
その場をほとんど動くことなく、かつダメージを一切受けることなく凶手をさばききる手腕は称賛に値したが、しかし一歩たりとも動こうとしない無精を、慢心、あるいは手抜きと見なしたのか。
男は至極不愉快そうに舌打ちすると、出し抜けに一際大きく跳びすさった。
空中で、コートに大量にしつらえられた衣嚢いのうから銃を抜き出す。
彼が所持する銃は一丁ではなかった。
こんなところ――未だ「前線基地」の影もかたちも拝んでいないにもかかわらず、虎の子の改造銃を持ち出すとは想定外だったが、肉弾戦では埒が明かない。
出し惜しみをしている場合でもない。
対して、不気味な仮面をかぶった女の武器はナイフだけ。
素手での戦闘を諦め、ナイフに獲物が絞られた分、いままでより手の内が読めるというものだ。
彼我ひがの距離は、銃手に圧倒的な優位性を与える。
舐め腐った白衣の探窟家に、遺物の弾丸を浴びせてやろうと、電光石火の早技で照準を定めた。

――引き金を引いた瞬間、男の目には、なまえの姿がコマ落としじみて視界から消えたように見えただろう。
が、驚愕も、寒心に堪えない思いをすることもなかった。
なにしろいっそ小気味よいほど一刀両断された頸部けいぶは、それ以上、彼の頭を支えられなかったからである。
未練がましく鮮血の尾を引き、男の頭部が白い野面に吹っ飛んだときには、血を噴き上げた胴体の方もどうと崩れ落ちるところだった。

不愉快な笑い顔をさらした生首は、自分の身になにが起こったかすら知るまい。
いままで一点から動こうとしなかった祈手が、人間離れした跳躍力で男の足元まで飛び込んできた刹那、バネじみた動きで真上に伸び上がり、彼の頸椎けいついを両断したとは。
血煙が冬野を染める。
首をねた勢いのまま装束をひるがえし、血飛沫とは逆方向に抜けたため、血のひとしずくたりとも彼女の白い外套を侵すことは敵わなかった。

同じく「死装束」と呼ばれる他の者たちへその衣の意義を直截に尋ねたことはないが、すくなくともなまえにとって白い装束は「誇り」に他ならなかった。
今回がそうだったように、危険度の高い単独行による任務は、頻繁ではないにせよゼロではない。
安穏と地上で暮らす凡夫とは比べものにならぬほど、絶えず死の危機に瀕する彼らへの辞世の埋葬布、あるいは無慈悲に死をもたらす彼らが、喪に服す手向けの野花かみばな――白い装いにあえて意味を求めるなら、指折り数えることができよう。
ここ「なきがらの海」に限るならともかく、過酷な探窟作業において白い身なりは不利な要素以外のなにものでもなかった。
自然界に存在しない白色の外套は、原生生物の目も、あだする人間の目もとかく引く。
現に探窟家の上着や帽子は、笛の色や長幼によらず、なべて馴染みやすい土埃カーキ色や灰色、ようやく血飛沫の勢いが落ち着いてきた死体が着ている、くすんだダークグリーンといった色合いが主流だ。
峻峭しゅんしょうなる探窟において、探窟着は否応なしに汚れるもの。
にもかかわらず、名にし負う「死装束」の白外套は幾久しく白いまま。
装束は、いつしか彼らそのものを指す語となった。
たとい意匠を凝らした綺羅といえど、この簡素な白い外套こそが、なまえにとって無上の玉衣だった。

事程左様に誇り高い白外套だったが、結局、刺客が遺物を所持しているかどうかは聞き損ねた。
会話スキル、それも情報を聞き出すような高等な話術は、生憎持ち合わせていない。
なまえはちいさく溜め息を漏らした。
人心収攬しゅうらんに長けた者なら言葉巧みに引き出せていたかもしれない――例えばあのひと・・・・のような。
あるかどうかも分からないものを探すのは億劫だったが、資源が豊富だとはいいがたい五層で、みすみす捨て置くわけにもいくまい。
所持品をあらためんと死体の脇へ身を屈める。
これで二級遺物のひとつでも所持していなかったら腹立たしいな、と顔をしかめながら、ゆっくりと膝を着き、死体の衣類に手をかけた折だった。

「なまえ」

声は、彼女の耳がとらえられる音のなかで一等うつくしかった。
なにかに意識を奪われていようと、命を削り合う戦闘の最中だろうと、決して逃れるべくもない。
呪いよりやさしく、祝福より強い。
――わたしの肉体は、わたしより彼を優先する。
水を注ぎ込んだうつわもかくや、なまえを一部の隙間もなく満たし尽くし、喜びにひろく波打つ。
いつ何時でも自分のなかに彼の思考の一片が入り込んでいるのだと思うと、なまえはいつも幸福に包まれた。

顧みると、折しもあれ、「黎明卿」新しきボンドルドが祈手をひとり連れて歩んでくるところだった。
砦水から「前線基地」へ――最奥の「絶界の祭壇」へ真っ直ぐ伸びた光芒こうぼうに酷似した、紫色の光。
生きた宝石じみた光をあやなす仮面。
白い稜線へ、さながら黒点が如き異相を深々刻んでいた。

ボンドルドは従容しょうようとした足取りで歩み寄ると、未だ湯気を上げる死体を、次いで脇に膝を着いたなまえを見つめた。
いやしくも「死装束」、なまえが返り血の一滴すら浴びていないのを看取して「素晴らしい」と両手を打った。
厚手のグローブがぼふぼふといささか間の抜けた音を立てた。

「ご苦労さまでした。採取作業だけではなく、私を狙っていた刺客までお相手してくれたのですね。相変わらず見事な戦いっぷりでした。私も思わず見惚れてしまいましたよ。さあ、なまえ。傷の手当てをしましょう」

「精神隷属機」に接続されていないにもかかわらず、妙に折よく現れたとは思っていたが、なまえの戦闘を鑑賞していたらしい。
落着し、声をかけられるまで彼の気配を察知できずにいた己れを、なまえは恥じた。

「……お気付きでしたか」
「ええ。死体のものとは別に、かすかにですが血のにおいがします。上層での負傷ですか」
「はい。四層の歪面石柱で落石がありました。それに伴って、大量の原生生物が飛び出してきたんです。……ねぐらが突然崩れて余程驚いたんでしょう。相手構わず襲ってきたもので、怪我を負いました。横穴のひとつが塞がって通行できなくなっているので、皆に共有をお願いします。手当てをしている最中に襲われないとも限らなかったので、簡易処置だけしてそのまま下りてきました」

なまえが積極的に自分から攻撃をしかけなかったのは、なにも不躾な局外者を軽視していたからではなかった。
手並みを見極めたかったのもあるが、なにしろ四層で負ったのは度外視しがたい重傷だった。
恭謙きょうけんを絵に描いたようにこうべを垂れる祈手の肩へ、「奈落の星」と仰がれる男は労るように手を置いた。

「それはいけません。どうやら戦っている最中に傷が開いたようです。すぐに戻りましょう」

伴っていた祈手に彼女と死体の荷を任せる旨を指示すると、ボンドルドはなまえへ向き直った。

「なまえ。君なら仮に処置中に襲われたとしても、撃退できたはずです。なぜ傷の手当てをおざなりにしてまで、下降を優先したのですか」
「……」

返答は無言。
平生、打てば響く受け答えをする白外套が、口ごもったのが一方ならず意外だったらしい。
折り目正しい立ち居振る舞いを崩すことなく、ボンドルドは「おや、答えてくれないのですね」と首を傾げた。

「……それは叱責ですか、卿」
「いいえ、とんでもない。なまえ、君がどうして叱責されることがあるでしょう。単なる疑問……いわば私の興味です」

――「疑問を解消したい、そう思っただけですよ」。
言葉通り穏やかに語りかけるボンドルドに、それでもまだなまえは言いあぐねた。
とつおいつ仮面の下で口を開き、閉じる。

「……あなたを失望させてしまうかもしれない。お気に障るかもしれないことを言いたくないんです。保身です。怪我を負ってしまいましたし……黎明卿、あなたに見限られたくないと、怯えているんです」
「おやおや。心外ですね。自分をおとしめるような言葉そのものが意に染まないとは考えないのですか。なまえ、君は“私”でしょう。私が私に失望すると、本当にお思いですか?」

なまえの足元には血溜まりが形成されつつあった。
裂けた腹から血があふれ、白い装いが色を変える。
赤く染まる上衣をなまえは悔いと共に見下ろした。
誰からも責められずとも、他でもない彼女自身が汚れるそれを許せなかった。

否定したというのに、尚以なおもって叱られる幼な子めいて口を引き結んでいる意固地な祈手を見下ろして、ボンドルドは溜め息こそつかなかったものの、問答よりも帰還を優先することにしたらしい。
依然ひざまずいているなまえを軽々と抱き上げた。

有無を言わさず横抱きにされ、なまえは目を白黒させた。
抱え方など他にもあるだろうに、よりにもよってまさか抱き上げられるとは思うまい。
なんなら引きずってくれた方がまだマシだ。
負傷した部位をおもんぱかってのことで他意などないと理解はしていても、ボンドルドの両腕を占有してしまう不実に、いかんともしがたい焦燥が募った。

「卿、下ろしてください、歩けます……。お召し物が汚れてしまいますから」
「着替えれば良いのです。依頼した採取物や我々の装備には、代替品があります。必要ならまた探窟や採集のための隊を組みます。着類は新しいものをあつらえましょう。ですがなまえ、君に代わりはいないのですよ」

性質たちの悪い冗談かと思った。
反応に困ったなまえが無言のまま見上げるが、表情こそ窺えないもののボンドルドは至りて真剣である。
戦闘に特化した祈手をたしなめるように、鷹揚に首を振りさえしている。
それ以上の抵抗を諦めて、なまえは全身から力を抜いた。
すくなくない血液を失ったせいか、いやに疲れていた。
そもそも彼の言動を諾とする以外、祈手にどんな選択肢があるというのか。

なまえはふるえそうになる唇を噛み締めた。
気を抜くと、泣き言を漏らしてしまいそうになる。
体勢だけはどうにかならないだろうか、と。
なにしろ眼前で白い笛が揺れていた。
永劫ほどけることのない、組み合わせた指のかたち。
仮面をずらしてほんのすこしなまえが首を差し伸べれば口付けすらできてしまいそうなほど近距離に、白い楽器が鎮座している。
とこしえに祈りを捧げる手。
――最初のボンドルド。
彼が歩くのに合わせてかすかに揺れる、目睫もくしょうの間におわす白笛に、目眩がした。
じっとりと背に汗が浮く。
先程、刺客から銃を突きつけられた際よりも――否、比べ物にならないほど緊張した。
激しい動悸は失血によるものばかりではない。

はやく解放してほしい焦燥と、永遠に続いてほしい忘我。
相反する情動が渦巻き、ともすれば呼吸すらし損じる。
なまえは泣きたいような、笑いたいような、はたまた逃げ出したいような衝動に襲われ、仮面の内側で注意深く息を吐き出した。
口の端に上る際、畏怖と憧れを伴う「死装束」の名が聞いて呆れる。
「黎明卿」新しきボンドルドに相対したときに限って、なまえは自分の肉体のコントロールがひどく下手になった。
思い通りにならない自分が忌々しくて、そしてそうさせる原因、紫色の光芒こうぼうを注ぐ男に、恐怖、畏れに似た情動が湧く。

――このひとだけだ。
このひとだけが、わたしを滅茶苦茶にする。

「……あなたのところに、はやく帰ってきたかったんです」

ふるえる吐息の隙間からそっと呟いた。
縹渺ひょうびょうとした「なきがらの海」で、いまにも立ち消えてしまいそうなほどか細い声だった。
頓狂極まりないことに、一片氷心、腹蔵なく囁いたなまえの言葉はそのままの意味しか持たなかった。
もっともらしい辞柄をくだくだ並び立てたところで、理が非でも帰路を急いだ理由など、真実まったく五層へはやくたどり着きたかった――「黎明卿」新しきボンドルドのいる「前線基地」へ帰りたかった、それに尽きる。

「なるほど、そうでしたか。お帰りなさい、なまえ」
「ただいま戻りました、黎明卿」

なんの感慨もなくボンドルドは頷いた。
曰く「疑問」が解消され、なまえの治療の段取りや、背後の祈手が抱えている死体の使い道といったプラクティカルな案件へ、思考は移ったらしい――なまえの煩悶や葛藤など、露いささか歯牙にもかけず。

なまえが「なまえ」だからではなく、たとえこれが彼女ではなくとも、夜明けの異名を奉ぜられた領袖りょうしゅうは平等に慈しみ、負傷をおもんぱかり、たくましい腕で抱き上げただろう。
それをなまえが不満に思うことも、口惜しがることも、ついぞなかった。
だからなんだ、と思う。
我々は皆、祈手。
ひとり残らず等しく、祈る手により生まれる本影。

白い地面には、ボンドルドの足跡と共になまえの血痕が点々と追随した。
想定より血を流しすぎていたらしい。
体に埋め込んだ遺物の影響で痛覚が鈍っているのは自覚していたが、自分の状態を正しく認識できないのは由々しいことだ。
過信せず把握しておかなければ、となまえは自身を戒めた。
今回の単独作業は反省する点があまりに多い。

ボンドルドの「私が私に失望すると、本当にお思いですか」という言葉に嘘偽りはあるまい。
例えば年端もゆかぬ子に、重量のあるピッケルやハーケンといった探窟用具を背負えと迫るのは、土台無理な要求である。
それは期待とはいわない。
同じように、仮に調薬や製薬に秀でた祈手を設備の保守管理へ配立はいりゅうするならば、徒花あだばなとのそしりを受けても致し方ないだろう。
土壌動物が空を飛べないように、水棲生物が陸を歩まないように、できることとできないこと、適性や能力、資質、力量を発揮するフィールドはヒトによってそれぞれ異なる。
夜明けを冠した白笛は、その者に相応しい価値と使い道を見出すのに非常に長けていた。
祈手にも子どもたちにも、過度に信を置くことなく、独りよがりな失望もせず、この者なら可能だろうと判断したことを、正しく、過不足なく任せる。
万が一「死装束」として、なまえが単独行にて深層を踏破するにあたわずと露呈したとしても、彼は采配ミスを省察せいさつはすれど別段なまえという祈手に対して失望を覚えはしない。
ボンドルドがなまえの価値と使い道を下方修正するのを――定めなおす・・・・・のを、なまえ個人が胸三寸でいとっただけに過ぎない。
外套が汚れるのと等しく、他でもないなまえこそが自分を許せなかった。

幾許いくばくもなく失血による意識障害が起こるだろう。
けれどなまえはもうすこし意識を保っていたかった。
遺物と生物由来の繊維を織り込んだ分厚い「暁に至る天蓋」越しとはいえ、かすかに感じられるボンドルドの体温を味わっていたかった。

「……黎明卿、そろそろ意識の混濁が起こると思います」
「ええ。体温も低下していますね。なまえ、負傷箇所を申告できますか」
「左の脇腹の裂傷と、足首の骨折……、あとは肺に使っている遺物のチェックが必要かと」
「分かりました。怪我したところをひとつひとつ探すより、手早く治療に入れます。安心してお眠りください」
「お手間を、おかけします……」

感覚が鈍っているとはいえ、肉体的痛苦に意識がぶつぶつと千切られる。
しかし痛みは生きているからこそ感じるものだ。
なまえは甘んじて耐えがたい疼痛を受け入れた。
この反省を活かし、次はもっと首尾よく事を運ばなければ。

――永遠に生きるものはこの世に存在しない。
そんなものはヒトではない。
命に限りがあるからこそ、ヒトは同じ過ちを犯さぬよう学び、省み、より良くあろうと努める。
もしも明日死ぬと分かっていたなら、したいことやすべきこと――実以じつもって悔いが残らぬよう精一杯、今日を過ごすだろう。
しかしいつ世を去るかなど、現世にある限り誰にも分からないものだ。
それでなくとも彼らが生きている深淵は、不測の事態に、理不尽な災難に事欠かない。
凶暴な原生生物や敵対する人間に襲われたり、崖から滑落したり、原因不明の毒におかされたり――死亡する原因は、ぱっと思い付くだけでも枚挙にいとまがない。
決して逃れられない死を、どのように迎えるか。
生きることを、死ぬことを選ぶのは、とりわけ奈落では贅沢というものだ。
大抵の人間は、意に沿わずあっけなく死ぬ。
まことや「なきがらの海」の堆積物としてかさを増すあの男も、ここで往生するつもりなど毛頭なかっただろう。

意識を失うその瞬間まで、なまえは眼前で揺れる白笛を見つめていた。
一心に祈りを捧げていた。
僭上せんじょうなのぞみ、もしも「終わり方」を選ぶ贅沢が与えられるなら、どうか、このひとのために死ねますように、と。
もっめいすべき死があるとするなら、それはいま自分を抱いて歩む「黎明卿」のためについえるときに他ならない。
祈りを捧げる相手を、願いを託す相手を便宜上神と呼ぶなら、ボンドルドこそがなまえの神だった。

――わたしの手も足も、目も耳も、臓腑も血肉も、細胞、神経の一端に至るまで、このひとのために終わる・・・ことができるなら。
これほど幸運なことはない。


(※タイトルはポール・エリュアール『死なずに死ぬこと』より)
(2022.11.30)
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