この男は何なのだろう。
まるで荒らげることを知らないように常に穏やかな声音とセリフは、わたしを心底いらだたせる。
探窟の指揮を執ったり、子どもたちを抱き上げたりといった行為は指先まで気品に満ち、そのひとつひとつがわたしのかんに障って腹の奥をざらざらと波打たせる。
賞讃のひとつでも受ければ脳が煮えたぎり、偶然、爪先がふれ合おうものなら破れんばかりに心臓が痛む。
忌々しい。
恨めしい。

「おやおや」

分かり切っていたけれど黎明卿は特段驚いた様子もなく、現状に適当だろう、困惑を示す感嘆詞を平坦にこぼしてみせた。
憎らしい。
たったいま処置台へ黎明卿を押し倒したばかりのわたしは、目の前がぐらぐらと揺れるような怒りに焼かれていた。

実験後、片付けと清掃をつつがなく済ませたばかりの無機質な処置室には、黎明卿とわたし、ふたりしかいない。
組み敷かれた彼はのんびりと処置台に横たわっている。
頭部を上下にはしる紫色の光は、微動だにしない。
仰向けのまま起き上がる気配すらない男をじっとにらみ据えた。
頭上の無影灯を切った薄暗い処置室で一等明るく光る紫色に、すがめる目が射られた。
押さえ付けるこの体が誰のものかは知ったことではないが、探窟家として申し分ない立派な体躯は処置台に収まりきっていなかった。
たくましい両足ははみ出て、爪先が宙に浮いている。

気がふれそうだ。
愛も過ぎれば憎に至るとはよくいったもので、愛慕も憎悪もさほど違いはないだろう。
他ならぬ「ボンドルド」を押し倒し、見下ろしているというのに、わたしが覚えたのは際限のない喜びと、そしてそれを上回る憎らしさだった。
思い通りの状況なのに、八つ当たり、あるいは逆恨みのようなものがふつふつと煮える。
どうしてだろう。
人間の感情ほど分からないものはない。
わたしだって、差し当たりなにもかものぞみ通りだというのに、どうして駄々っ子じみた癇癪や喚き声がいまにも口を衝いて出てきそうなのか――これっぽっちも分かりやしない。
自分自身の考えすら判然としないのだ。
ましてや他人のものなど。
あれこれおもんぱかるだけ無駄である。
ならば気が違ってしまいそうなこの有り様より層一層、深みへ沈む他に選択肢があるだろうか?

「――わたしのこと、お叱りにならないんですか」
「おや。叱るとは一体どういうことでしょう。君はなにか過ちを犯したのですか? なまえ。失敗したなら改善に努めましょう。間違えたのなら正せば良いのです。どうぞ、話してみてください。なにしろ私には、君を叱る理由に心当たりがないものですから。なまえ、君は私に、なんと言って叱ってほしいのですか?」

前触れも断りもなく自分を組み敷いた部下に、なんら思うところがないらしい。
会話の途中、重心がかかとに乗った瞬間を見計らって引きずり倒すという、とんでもない不行跡を働いた部下に。
平素とまったく変化のない、白笛の落ち着いた声音ときたら!
わたしのいらだちがますます募るのも当然だった。
まさか文字通り自分の・・・祈手が、意に染まない所業をやらかすまいとあなどっているのか――いいや、「黎明卿」新しきボンドルドに限って、あなどるなどという無調法を犯すべくもないと骨身にしみて知っている。

彼は、わたしという個を尊重している。
わたしという自我を、そして個から生じる独創性を。
無論、わたしだけではない。
深い暗闇を切り拓く「奈落の星」は、同じ装束に身を包んだ祈手たちから、あどけない子どもたちに至るまで、どんな者だろうと等しくそれぞれに価値を見出し、尊重とそれに伴う愛を過不足なく注いでいる。
未だ底の見えぬ大穴、人知の及ばぬ深淵、アビス以外のすべてへ、等しく。
ヒトはひとりひとりが得がたく尊いもの。
例えば、上層から深界五層「なきがらの海」へ足を踏み入れたとき、だだっ広くなにもないと呆れるひとがいてもいいし、堆積する白い粒子の主成分はなんだろうと探究心をそそられるひとがいてもいい。
長く五層に留まっているせいで、わたしのように「帰ってきた」と安堵の息を漏らす者もいるかもしれない。
この世にまったく同じヒトはいない。
たとい見目形や生育環境が一律だったとしても、完璧に同一の考えや価値観を持つ者はふたりと存在しない。
その違いが、ヒトがヒトであることの証左だ。

群衆を率いるには、個々のアイデンティティを無視するのがなにより手っ取り早いだろう。
我々祈手の自我を排除すれば、群盲を意のままに管制するのはより容易だし、実際、遺物によって可能でもある。
しかし黎明卿はそうなさらない。
それは彼が、ヒトそれぞれの個性や独創性といったものを尊んでいるからに他ならない。
――本能に基づく性的な愛情、愛着や愛欲、肉体的接触を排した、ヒトの身では到底不可能な、無限にして無償であるアガペー。

「卿、あなたが好きです。愛しています。あなたへ向けているのは――異性に対する、性欲を伴った愛情です」

とまれ、飼い犬に手を噛まれるという言葉をご存知ないのだろうか。
わたしの自我をどこまで尊重するおつもりなのだろうか。
相変わらず卿は身じろぎもしない。
抑揚のすくない声で「そうでしたか」と答えた。

「なまえ、君が慕ってくれているのは承知していましたが、性愛によるものとは知りませんでした。親しみを覚えていただけるのは嬉しいものですね。ありがとうございます。ああ……もしかして叱ってほしいのは、このことでしょうか。君が私を愛していることに対して? ――どうして君を叱る必要があるでしょう。誰かを愛するのは素晴らしいことです。そうでしょう? なまえ。特に、ひとの思いが目に見えるかたちとして表れうるこの奈落においては、尚更です。あなたの思いが、我々の行く手を照らすしるべとなることだってあるかもしれません。叱るなんてとんでもない。私へ好意を抱いてくださって感謝していますよ。それに、ひとがひとを思う……愛する気持ちは、とがめられるものではないでしょう?」

吐き捨てられた愛の言葉に応えたのは、低くやわらかな男の声だった。
愛でるように感情を肯定され、こともなげに同意を求められ、わたしは笑い声がこぼれるのを堪えられなかった。
「奈落の星」め。
そう激しく責めなじり、ヒステリックにき下ろしたい。
正気を失ってしまいそうな憤りに頭のみならず四肢の隅々まで焦げ付きながら、比例するように声音ばかりは冷えていくのが我ながら不思議だった。

「……“精神隷属機”使用者へ、純粋な探究心からお聞きしますけれど、卿、あなたは性欲を覚えることがあります?」
「ないわけではない、というのが正しいでしょうか。理解はしていますよ。体感もね。そもそも私自身、この精神と肉体が同一のものだった頃から、生命維持以上の欲求が薄い性質ではありました。加えていまは、直接の体を持たないもので」

「仮に行動に差し障るようでしたら、他の祈手に同期しますよ」云々、丁寧に答えてくださる物言いにはよどみがない。
場が場だけに、実験概要を説明する際のようだ。
いつもと違うのは、依然わたしが彼を組み敷いているという、まぎれもなく不適当な体勢だけ。

気がふれそうだ。
焦燥感だろうか。
わたしの捧げることができる、すべての幸福と苦しみとを感じ、味わい、所有してほしかった。
わたしが感じる無上の幸福を、彼も同じだけ、もしくはそれ以上に得てほしかった。
この感情をなんというのか。
誰かに幸福でいてほしいというのぞみをなんと表すのか。
――しかしこののぞみは既に叶えられていた。
純然たる事実として、祈手たるわたしは肉体も精神も「黎明卿」新しきボンドルドに所有されている。
今生、わたしのなかには黎明卿の一片が存在しており、ひとたび完全に同期しようものなら記憶や感覚までも彼のものとなる。
つまりわたしの感情を体感・・するのは、この方には造作もないことだ。
にもかかわらず満たされた心地に程遠いのは、なぜか。
途轍もない相違が横たわっているように思われるのは、どうしてなのか。
あるいは本当にのぞんでいるのは、捧げたものを所有してもらうのではなく、――。

「黎明卿。このあと、珍しくお時間が空いているとおっしゃっていましたよね」
「ええ。丁度、急を要する案件が立て続けに片付きましたから。とはいえ、手を着けなければならない課題や研究はまだまだたくさんあります」
「たまにはすこしご休憩なさいませんか。お手をわずらわせて申し訳ないんですが、このままわたしの性処理に付き合ってくださいません? 卿はそのまま寝ていてくださったら良いので」
「おや。君は、この祈手と性的な関係にあったのですか?」
「まさか。その体が誰かも知りませんし……なによりいまは黎明卿、あなた以外の誰でもないでしょう」
「ふむ。構いませんが……他の祈手では問題があるのですか?」
「あなたを愛しているとお伝えしたでしょう。わたしはあなたと性行為をしたいんです。それに、同僚とはいえ他のひとに性交をねだったら、どんな目に遭うか分からないもの。他のひとには頼めません」
「おや、私なら構わないと?」

きょとんと幻聴が聞こえそうな仕草で、黎明卿が小首を傾げる。
さながら生娘じみた動作までしゃくに障る。

「黎明卿、あなたなら安心でしょう? 隊員に無体を働くような方ではありませんもの」
「どちらかというと、現状、無体を強いられているのは私の方でしょうからね」

数多の祈る手を束ねる白笛がどこか楽しそうに言い、怒りで目眩がした。
――なにがこれほどまでに腹立たしいのか?
腹に据えかね、くらくらしながら内心自問すれば、答えにはすぐにたどり着いた。
なんとなればこの期に及んで、黎明卿が邪険にする素振りのひとつも、制止の一言も、発さないからだった。

実験の直後ということもあって、卿の両腕には「呪い針」も「枢機へ還す光」も装備されていない。
武器のたぐいは皆無、纏う外套の色も白ではないとはいえ、すべての祈手の意識や肉体の情報を記憶・・している彼は、傑物揃いのこの「前線基地」においても比類ない戦闘能力を有する。
性差による単純な腕力の差もある。
なにより精神に直接干渉すれば、わたし自身の足で廃棄槽まで歩み、そのまま自主的に・・・・落下させることも造作ない。
もしも彼がもうすこし・・・・・わたしのことを愛していらっしゃったら、きっと次のまばたきを終えたとき、この眼球が映すのは「箱庭」の景色だっただろう。
にもかかわらず、未だわたしは自分の意思で彼を見下ろしている。
なぜか。
つまるところ、現状――黎明卿を押し倒し、その上にわたしが覆いかぶさっているというこの有り様は、僅少といえど卿ご本人の許しをたまわっている結果以外のなにものでもないのだ。
――これを虫酸が走ると言わずしてなんとする?

「卿、これも無体ですか。愛するひとにふれることは過ちですか。わたしにふれられるのはお嫌ですか」
「ふふ。いいえ、いいえ、とんでもございません。なまえ、君にふれられるのも嫌ではありませんよ」

それかあらぬか、黎明卿は依然として無防備にゆったりと横たわって、わたしを見上げている。
反吐が出るような酩酊感。
脳が痺れる心地に抗うように、ぎゅっと顔をしかめる。
強く目をつぶる。
眼裏まなうらで、ただそれだけが信じるべきものかの如く、紫色の残光が強く、濃く、明滅している。

「お手間をおかけして申し訳ございません。お時間を割いてくださってありがとうございます」
「おや。そう畏まらずとも。謝罪も感謝も結構ですよ、なまえ。そう自分を卑下するものではありません。たまには休憩……ええ、それも大事なことです。装備のメンテナンスは欠かしませんが、生身の肉体を労わるのを私はおこたりがちですからね。同期している体の活動限界を、客観的に計れるためでしょうか……。君は実験がひと段落したタイミングで進言してくださったのです。感謝するのはこちらの方ですよ」

うるさい、と危うく叫びそうになった。
殴り付けなかったのを誰かに褒めてほしいほどだった。
わたしたちの頸部けいぶは遺物を加工した防具に覆われている。
そのさわり心地を――彼の首を力任せにくびる感触を夢想しながら、代わりに、わたしは引き締まって硬い、男の腹へ乗り上げた。
成人ふたりプラスそれぞれの装備の重量を受けても、頑丈な処置台はびくともしない。

「……タイミングが丁度良かったからとはいえ、卿、“あなたの意思”をわたしは無視しているんです。愛しているからという名分で、自分の欲を満たそうとしている」

耐えがたい怒気に促されて「チャンスはなりふり構わずモノにしたいタイプなんです」と唇を吊り上げた。
仮面の下のこの笑みが目に映っていないといい。
伝わっていないといい。
よしんばわたしの表情どころか、心中までそっくりそのまま露呈したとしても、この方が先程の実験の成否ほどの感慨を抱くことはなかっただろうが。

「なまえ。君のそういった積極性は、美点のひとつですね」

相変わらず他人を褒めるのがお上手な方だ。
露いささかも損なわれない温雅おんがな気組みは、マウントを取られたこんな状況でも発揮されるらしい。
腹上にまたがったまま、紫色の光をたたえた硬質な仮面を指先で撫でる。
やはり卿はわたしの手を払い除けなかった。
押し倒すのをとがめないどころか、あまつさえこうして仮面にふれることすら許し、受け入れる彼が恨めしくて堪らない。
祈る手により生まれる本影の身如きでなんたる世迷い言をとなじられても構わなかったけれど、わたしは更なる欲求で目眩を覚えていた。
硬いヘルメットを執拗に撫でながら、唇を湿らせるように舌舐めずりした。
喉が乾くほどの渇望。
もはや衝動といっても良かった。
この仮面を傷付け、損ね、害し、汚してしまいたい、と。

「最中に、その体との同期を切るのだけはどうかおやめくださいね、卿」
「おやおや。さすがに私もそこまで無粋ではありませんよ」

この体の祈手が驚いてしまいますからね、と良識めいた弁口で嘯くお方に、やはり途方もない憎しみが湧く。
「お気遣い、痛み入ります」と笑う。
絶対に搾り取ってやると心に決めながら、わたしは黒い外套の下へ手を這わせた。
ああ、意を翻して無様に逃げ出してしまいたくなるほど責めさいなみ、慈しみに満ちたその仮面を剥ぎ取って、明敏な思考と口調をぐちゃぐちゃに煮え溶かし、惨めに許しを乞わせてやりたい。


(※タイトルは東京事変『入水願い』より)
(2022.11.21)
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