あたたかいものにやさしく包まれている。
もしかしたら母に抱かれる心地とはこういうものなのだろうか。
わたしにその記憶はないため、あくまで心のなかに思い浮かべた偶像に過ぎない。
イメージが結び付いた結果の印象――しかしやわらかい心地は、容易に概念的な「母」を彷彿とさせた。

ずっとこうしていたい。
ずっとこうされたかった。
眠気に覆われた子どものようなぐずりと、過酷な奈落へ踏み入る探窟家として身に付けた、すぐさま目を開いて状況を確認しなければという真っ当な意識が、わたしのなかでせめぎ合う。
踏ん切りが付かずぐずぐずしていると、ふと笑い声が聞こえた。
軽やかな笑い声は、こちらをあざけるものではない。
それこそ、転んで泣いている幼な子を、仕方がないと抱き上げる母親がこぼす笑みだった。

誰だろう。
ここはどこだろう。
相反する気持ちによるせめぎ合いは、ようやく後者が勝った。
目をこするため、頭の後ろへ手をのばす。
折る指が足りないほどの年月、仮面を装着していると、顔面をさわるにはまずフルフェイスのヘルメットを剥ぐ動作を挟む。
何気ない動作はもはや癖といってもいい。
しかしいつの間に取り外したのだろうか。
被り慣れた仮面はなく、手はわたしの生身の頭にぶつかった。
そういえば手套も着けていない。

「……ここは……?」

緩慢に付近を見回す。
自分の立つこの場所すら皆目見当も付かず、途方に暮れてしまう。
辺りは力場のもたらす光に満ち、いやに明るかった。

と、傍らにひとり――体付きから彼と呼んで差し支えないだろう――、男性が立っていることに気付いた。
先程の笑い声は、どうやら彼がこぼしたものらしい。
一連の駄々っ子じみた挙動を目撃されていたことに、いささか気恥ずかしさを覚えた。

彼の、道なき道を踏み分ける探窟でつちかわれたのだろう立派な体躯も、姿勢良くぴんと伸びた背筋も好ましかった。
しかしなにより目を引いたのは、頭部だった。
肩はある。
胴体もある。
上肢も下肢も欠損することなく揃っている。
しかし、馴染みの深い「暁に至る天蓋」を身に纏った彼は、首の付け根からその先がなかった。
全身鎧の高襟は首の形状を保っているにもかかわらず、黒い煙めいたものがもやもやと頭部を覆っていた。
いや、覆い隠すというより、禁欲的に締められたクラバットから、こごった黒い濃霧が立ち上っているようにも見える。
いうなれば胴の中身に詰まった黒いもやが、首から溢れ出ているかのようだ。

おかげで、どんな目を、鼻を、口をしているのか、肌の色すらも定かではない。
平生、硬い仮面を被り、目鼻立ちを確認できないのに慣れているためだろうか。
はたまたのひとを思わせる折り目正しい立ち姿のせいか。
首元にさがるのが見慣れた白い笛だったからか――異様な風体にもかかわらず、奇妙なことに嫌悪感や恐怖心はまったく芽生えなかった。

「……黎明卿?」
「はい――と応えるべきなのでしょうね。ええ、なまえ。君にとって、私は“黎明卿”です」

生き物のようにうごめく黒煙は、そう答えた。
随分と婉曲的な物言いだ。
とはいえ、声も、口調も、「黎明卿」新しきボンドルドそのもの。
わざわざ騙る必要もあるまい、自認にたがわず彼が黎明卿なのは違いないのだろう。
それにしてもどうしてそんな謎掛けじみた言い回しを、と首をひねっていると、わたしが大量の疑問に襲われているのを見て取ったらしい。
顔のないボンドルドは、穏やかに「“私”がその名で呼ばれたことはありませんので」と補足してくださった。

「ですが、なまえ、私はずっと君のなかにいましたよ」

そもそもどうやって発声しているのだろう。
頭のない彼と普通に会話できていることにまず驚くべきだったのかもしれないけれど、わたしは、ごく自然にそれを受け留めていた。
さながら夢のようだ。
夢のなかではなんの疑いもなく受け入れていた物事を、目が覚めてから思い返すと「あれはありえなかった」と気付く夢。
五層にしか生息しないはずの原生生物がなぜか地上を闊歩していたり、あるいは、
死んだはずの人間が現れたり・・・・・・・・・・・・・

わたしは頭を下げた。
黎明卿には違いないのに、いわく「その名で呼ばれたことはない」のならば、彼は。

「……“最初のボンドルド”とお話できて、光栄です」

いつだったか、卿からお聞きしたことがある。
白笛の研究に勤しんでいた節のことだ。
遺物の「真の役割」をも引き出す白笛――「命を響く石」からつくられる楽器は、奈落をより深く目指すのに有用なだけではない。
使用者と白笛は、感覚を共有できるという。
その命を捧げた石の者の声が、唯一無二の持ち主には聞こえるのだと。
黎明卿は「過去の白笛たちが残した文献によるもので、定かではありませんが」と注をほどこしていらっしゃった。
表情を確認すべくもないため推察の域を出はしないけれど、どこか不満げに「伝聞ではやや信憑性に欠けます。なにしろ白笛の“私”は、私に語りかけないものですから」と。

いま、黎明卿はわたしの体をお使いになっている。
完全に同期されたわたしは、外界がどうなっているのか、自分の肉体がどう動いているのか、ほとんど分からない。
痛みも苦しみもない、やさしく包まれるような感覚は、精神のみだからこその心地なのだろうか。

目の前で静かに佇立している「オリジナルのボンドルド」。
彼を見つめていると、そのとき、支え水の結晶が前触れなく崩れるようにある考えが浮かんだ。
端無くひらめいた妙案は、馬鹿馬鹿しいと一笑に付すべきだろうか。
しかしその思い付きはもっともらしいことのように思われた。
ああ、これを黎明卿にお伝えできたなら。
あの方のことだから、きっと興味を示してくださるに違いないのに。

複製を繰り返した結果、いまの「黎明卿ボンドルド」には白笛ボンドルドの声が届かないとするなら。
――もしかしたら、こうして完全に同期されている間だけ、外に表れず不要になった対象わたしの精神と、精神体たる「最初のボンドルド」は、意思の疎通が可能なのかもしれない、と。

「卿……いえ、ボンドルドとお呼びするべきなのか……。はじめまして、と挨拶するのもおかしいでしょうし、不思議な感じです。いつもお世話になっていますというのも、なんだか……。わたしが祈手になってからのことはすべてご存知なんでしょう? オリジナルのあなたにお聞きしてみたいことは、それはもう、たくさんありますが」

黎明卿の探窟隊「祈手」の一員として加わり早数年。
白笛となって幾年、わたしが初めてお会いしたときには既に彼は「黎明卿」であり、五層に据えられた「精神隷属機」によって増えた祈手たちのなかにあまねく存在していらっしゃった。
ボンドルドが生来の肉の体を持っていた頃から随伴する隊員は、もうほとんど残っていないと聞く。
つまり「命を響く石」となった最初のボンドルドと、わたしが差し向かいで言葉を交わすのは、まったくの初めてである。
どうせならオリジナルの顔のひとつやふたつ拝見したかったところだが、そう上手くはいかないらしい。

たどり着いたわたしの答えにご満足いただけたのか。
黒いもやを頭部から吐き続けているボンドルドは、ゆっくりと両腕を広げた。
見慣れた所作も外套も相まって、寸分たがわず「黎明卿」の姿だった。

「ええ、勿論です。たくさんお話しましょう、なまえ。最初の私と会うのは、これが初めてですものね。おっしゃる通り、白笛を介して私は君のことをよく知っています。とはいえあまり時間がないのが残念です。このところ、同期しても複製された“私”はあなたたち隊員をすぐに使い潰してしまうもので。あなたたちにとってはそちらの方が望ましいのかもしれませんが」
「望ましい……?」

相も変わらず持って回った弁口だ。
卿は端的に言い表すことを好むと思っていた。
「自分」でもある祈手相手ならばともかく、首尾よく他者を動かすため、必要な情報を開示しないということはしょっちゅうある方なのは事実だが。
それともわたしをなにかご自分のお考えに沿って動かしたいのだろうか。
それならそうとおっしゃっていただければ、特段こちらに否やはないのに。
はたまたひょっとすると生来、ボンドルドはおしゃべりの合間、こうして煙に巻く気質がおありだったというだけかもしれない。

そこまで考えて、どうやらわたしはこの「最初のボンドルド」と、文字通り心身を捧げる「黎明卿」とを、おのずから分けて考えているらしいと自覚した。
おかしなことだ。
ボンドルドの延長線上に「黎明卿」があるはずなのに。
どうして目の前の彼と黎明卿を区別しているのだろう。
複製を重ねた結果、彼の連続性、同一性はどこかしら欠けているのだろうか。
違うと感じるのなら、具体的にはどこが異なるのだろう。
もっと知りたい、彼のことを理解したい、という欲求が沸き起こる。
それは黎明卿に対しては抱いたことのない探究心だった。

「ボンドルド、あなたは同期している間、その肉体の精神と接することができるんですか? こんなふうに……」
「ええ。必ずしも意思の疎通が可能なわけではありませんが。実はこうしてなめらかに会話できることは滅多にないのですよ。たくさんお話をしましょうと言ったのは、私の希望も含んでいます。なにしろ“私”には上手く声が届かないもので……。なまえ、どうしてあなたとはこれほど自然にコミュニケーションが取れるのでしょう? 不可解ですよね。原因を明らかにしたい。対処法を見付けられれば、生身の体があった頃のように、隊員のみなに指示を伝達できる可能性が高まります」

同意を求めるように見つめられ――なぜだか見つめられているという実感・・があった――、わたしは「難しいかもしれません」と答えた。

「一度同期を取ると、消費するまではそのままであることが多いんですもの。ボンドルド、他でもないあなたにお教えすることじゃありませんが……。頻繁に切り替えていると、祈手の肉体や意識に影響が出やすくなるみたいですから。あなたがおっしゃったように、同期が解かれるときには用が済んでいる・・・・・・・のが常だから、このことを黎明卿へお伝えするのは難しいんじゃないですか」
「そうですね。ですが、それなら別の方法を考えるまでです。“私”と意識や感覚を共有できないのは退屈ではありますが、不満はないのですよ。なにより、あなたたちとこうして言葉を交わすことができます。アビスに還るまでの短い間、皆さん、私に祈りを捧げてくれます。なまえ、あなたほど意思の疎通が円滑ではなかったとしても、伝わるのです。言葉にせずともね。いずれ迎える夜明けのため……皆さん、“あなたになら託せます”とおっしゃってくれます。“お役に立てて光栄です”とも。それなら、構いません。共に歩むあなたたちの足跡のひとつひとつが、深淵の闇を払うヒトの手となるのです。あなたたちがいる限り、きっと“私”は、夜明けを迎えることができるでしょう」

祈るような口ぶりだった。
手こそ編んでいなかったものの、それはまぎれもなく祈りの言葉だった。
わたしは驚いた。
彼がこれほどまでに敬虔に、祈りを口にするひとだとは思わなかった。

「ボンドルド。さっき、あなたは“君たちにとってはそちらの方が望ましい”、とおっしゃいましたよね」
「そうですね。祈手はみな、私。恐れることなく奈落へ挑む者たち……あなたたちのおかげで、私は歩み続けることができます」
「だから、消費されることは“望ましい”?」
「はい。なまえ、君にもいつも感謝していますよ」

やはりこれは夢なのだろうか。
それも、夢のなかで夢だと気付く夢。
肉体の意識を伴わない、現実の経験であるかのように感じる心像が夢ならば、なるほどこれは夢と呼ぶにしくはない。
なにしろいま、わたしの肉体という器を満たすのは黎明卿。
外ではあの方の意識が表れている。
ゆるやかにたゆたう意識は、夢が敗れる瞬間の、まばたきよりも短い刹那を引き伸ばされるのに似て、やさしく、あたたかく、とても抗いがたい。

「……ひとつ訂正を。お役に立てるのはともかく……消費されることをわたしは望んでいないし、あまり喜んではいない、と申し上げておきます。どうせなら、もっと生きていたいですし……。わたしが祈手になったのは、あなたの進む道のためではありません」
「おや。そう言ったのは君が初めてです。祈手はすべて私……ですが、確かに全員を同じものとするなど、君たちの自我に対して、いささか礼を欠いた考えかもしれません。これは失礼いたしました。お許しいただけますか? そして、なまえ、君はなんのために祈手になったのですか?」
「……ご不興を買いたいわけではないと、理解していただけます?」
「ええ、勿論。遠慮なくどうぞ、なまえ」

礼儀正しい問いかけとは裏腹に、なべて自分であるはずの祈手から想像の埒外にある発言をぶつけられ、存外興味をそそったらしい。
好奇心に満ちた仕草で、ボンドルドはやや身を乗り出した。
肉の厚みを持った黒煙がわたしへ降り注ぐ。

「わたしは、あなたのために生きて死ぬのではないんです。わたしが生きて死ぬのは、わたしの“欲”のためです。“あなたの迎える夜明けが見たい”という、こちらの都合なんです。わたし個人の意思であなたを選びました。あなたのためではなく、わたしのため。つまるところ、ボンドルド、あなたがどうなろうと、知ったことではないんです。――あなたの迎える夜明けが見たいという、わたしの“欲”……これはわたしだけの“憧れ”です」

きっぱりと言い切ると、どうやら最初のボンドルドはそこで初めて驚いたらしかった。
消費されるために付き従う、いずれ自分が原因で死ぬ部下から、まさか「お前は関係ない」と突き放すような大言を吐かれるとは思ってもみなかったのだろう。
なんでも知っていますと言わんばかりだった余裕と物言いをほんのすこし崩せたようで、なんとも胸がすく心地だった。
意趣返しして溜飲を下げるなど、やはり黎明卿相手には抱いたことのない情動だった。
――彼と相対していると、どうして黎明卿に覚えたことのない感情や考えが際限なく浮かぶのか。
わたしにも分からない。
やはり「知りたい」という欲求が湧くけれど、同時に、この探究心を満たせる日は決して訪れないということもわたしは理解していた。

意外だとでも言いたげに、黒いもやは肩をすくめた。
ちっとも気分を害した様子はない。
それどころか、むしろ楽しくて仕方がないとばかりにわずかに体を揺らしさえしている。
どうやら笑っていらっしゃるものと窺えた。
そういえば顔がないのだった。
笑わせる意図など毛頭なかったものの、仮に目や口といった、表情をかたちづくるものを彼が持っていたなら、屈託のない笑顔を見られたのだろうか。

ようやく笑いが治まったところで、彼は嬉しそうに自分の胸元をそっと撫でた。
そこに鎮座するのは「命を響く石」の加工品――いまでは彼そのもの・・・・・となった白い笛。
もの言わぬ石となった自分を撫でながら、「最初のボンドルド」がのたまった。

「おやおや。なかなかどうして君はヒトが持つ“欲”……自分自身の“祈り”に忠実なようですね。君自身の純粋な“欲”に、アビスはどんな判断を下すのでしょう。興味深い。ああ、まるで……ふふ、かつての“私”のようではないですか」

――なまえ、またお会いしましょう、奈落の果てで。
共に夜明けを見ましょう。

・・・


頬を一筋伝ったものが自分の涙であることに、なまえはようやく気が付いた。
仮面は取り外されている。
紫色の光を放つ仮面が、近距離でなまえの素顔を見下ろしていた。

完全に同期していたなまえから別の祈手の体へ、ボンドルドは問題なく意識を切り替えられたのだと窺えた。
全身のみならず、胸元で黒笛がかたかたと振動しているのは、いまもなお昇降機ポッドが上昇しているためだろう。
とうに痛苦は過ぎ去り、明るい眠りがなまえを包もうとしていた。

「驚きました。まさかまだ意識があるとは。おおよそ死亡の直前まで私が同期しているものですが、見通しが不十分だったのでしょうか。それとも、なにか別の原因が……? 素晴らしい。なまえ、どんな状態か、自己報告できますか?」

ボンドルドは虫の息のなまえを抱き上げたまま、丁寧に問いかけた。
死の寸前、遺物使用者たるボンドルドはその肉体から意識を引き揚げる。
目を覚まさずそのまま死亡するはずの祈手が、なぜか反応を見せたことに、喫驚を隠せないらしい。
目測を誤ったか、はたまた死んだはずの者がなにがしかの要因により辛うじて延命しているのか。
なにしろここはアビス。
予想だにしない事象に事欠かない。

なまえの容態を見るに、遅かれ早かれ死が避けられないのは明白だった。
ショーム、シンバル、金のハープ――死に臨むスワンソングを聞き取ろうと、ボンドルドはなまえの身を腕に抱き、上体を起こさせていた。
涙がこめかみではなく頬に流れたのはそのためだ。

「……卿。あなたは、夢をみますか」

色をなくした唇が吐いたのは、問いに対する回答ではなかった。
複製を繰り返された精神はヒトの夢を見るか?
フォークト=カンプフ感情移入度測定法を用いずとも、分裂、破綻した意識は、少なくともアビスからは願い下げのレッテルを貼られている。
死の床のたわごとというにも、文字通り夢見がちに過ぎる。
しかしボンドルドは、なまえの問いかけを今際の際の愚かな錯乱とみすることはなかった。
真摯に、死にかけの祈手へ頷いてみせた。

「夢、ですか。――ええ、ええ、いつも見ておりますよ。最初の“私”はあまり夢を見ませんでしたが、いまは違います。同期を取っていない祈手我々の……皆さんの意識が、“精神隷属機”を介して流れ込む感覚は、夢に近いものなのですよ」

黎明卿の口舌くぜつは、おそらく瀕死の祈手が望んだものではなかった。
しかし懇切丁寧に説くゆとりはない。
紫色の光が眼球の表面にじんわりと溶け広がり、視界をいっぱいに覆う。
目を開いているのか閉じているのか、もうなまえ自身、掻暮かいくれ判然としないのだろう。

「あなたの夢をみました」
「おや。君はアビスに還るときにあっても、私のことを思ってくださるのですね」
「あなたではなかったけれど……」
「なまえ?」

六層からの帰還。
白笛によって起動する「絶界の祭壇」は、上昇する最中である。
六層の呪い、アビスがもたらす上昇負荷は、死、あるいは人間性の喪失。
あたかも「行かないで」とヒトを引き留めるかの如き奈落の呪いは、ありとあらゆるものへ――生物ではないと断じたはずのボンドルドにも、平等に降り注ぐ。
「還らずの都」とまで謳われる六層から、本来ならば誰ひとりとして、人間性、精神性を残して帰還できる者はいない。
しかしボンドルドは未完成とはいえカートリッジを装備している。
祈手の体を順繰りに継ぎ、自我と知覚情報を保持したまま「なきがらの海」を浮上するという荒業を可能にしていた。

球体の昇降機ポッド内は、既にヒトとしてのかたちを保っていない祈手たちの残骸が多数散らばっている。
聞こえるのは、死なずに「成れ果て」となったモノたちの鳴き声ばかりだ。
血肉が広がり、足の踏み場もない。
ごろごろと転がる仮面がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ――臓腑の海のなか、黎明の名を奉ぜられた「奈落の星」は、みな等しく感謝の念を持って見やった。
腕のなかの祈手も既に死んでいる。

今し方自分だった死体を横たえる。
ボンドルドはやさしく「おやすみなさい、なまえ」と囁いた。
穏やかな声は、見果てぬ夢の寝物語を締めくくるようだった。


(2022.10.31)
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