はッ、はッ、と犬のように呼吸が跳ねる。
耳の裏でどくどくと血流が暴れているのを、他人事のように感じた。
聞こえるのはわたしの大袈裟な息遣いばかりで、自分でも馬鹿らしくなるほど手がふるえている。
過剰に分泌されたアドレナリンできっと瞳孔が開いているんだろう、いやに視界が明るかった。

気が狂いそうなほどの達成感と、未だ静まる気配のない獰猛な殺意に、いまやわたしは大海に浮かぶ漂流者よりも浅ましく溺れかけていた。
他人を殺すことによって糊口ここうをしのぐ人間として主張せざるをえないところだったが、対象がいとけない子どもだろうと、大国の重鎮だろうと、これほどまでに感情の昂りに呑まれたことは一度もなかった。
にもかかわらずこのていたらく。
律しきれない己れを自嘲しようにも、なにしろ際限ない昂揚が相応の、すこぶる手強い相手だった。

足元には男の死体がひとつ。
わざわざ確認せずとも死んでいる。
当然だ。
どんな生物といえど、首をミンチにされて生き続けられるはずがない。
不気味なヘルメットはそのままだが、頸部けいぶは原形を留めておらず、文字通り皮一枚、ギリギリとはいえ胴体と頭が繋がっているのが奇跡といえた。
死体は、頭蓋から下が崩れきっているのは明白だった。
顎だったパーツは肉片と共に細々と散らばっている。
転々と散る白い粒は、吹っ飛んだ歯や骨片だろう。
それのどれが顎の肉で、どれが首の筋か、拾い集めて確かめてみる気にはならない。

「前線基地」に侵入したわたしを認めた瞬間、この死体――「黎明卿」新しきボンドルドは、のんびり「おや」と小首を傾げた。
驚くほど呑気に「外部の方がお見えになるのは久しぶりですね」と呟いた。
過去にこの男を殺さそうと襲撃した賞金稼ぎや、わたしのような刺客共は数知れず、とはその筋の間ではよく知られた話だ。
しかし誰ひとりとして地上へ帰ってこず、不気味な仮面をかぶった黎明卿は変わらず健在とあって、ボンドルドの命を狙う者は恐れをなしていまでは滅多にいなくなってしまったという。

そのためすくなからず油断していたんだろう。
奴は単独だった。
他に探窟隊の隊員の姿も見えない。
「前線基地」内の通路は薄暗く、画一的で、事前に内部の情報を得ていなければ、自分がいまどこにいるのかも分からくなっていたに違いない。
こんなところに四六時中詰めていると、気が変になってもおかしくない。

またとない折だと喜ぶほど、わたしは楽観的でも慢心してもいなかった。
しかしこの状況はまぎれもなくチャンスだった。
奇貨居きかおくべし、わずかな好機をモノにできなければ、わたしのような殺しをなりわいとする者にとって明日の日の目は遠い。
磨き上げた己れの技量や武器の他に、もしもなにかを信じるならば、差向きそれは幸運と呼ばれる曖昧ものをおいて他にない。
殺すか殺されるかという二者択一の世界で生きる人間がげんかつぎたがるのは、おかしなことだろうか。
しかしおのが技能をこの上なく研ぎ澄ませたという自負があるからこそ、それ以上は運だの巡り合わせだのといった掌中の外の力に委ねるしかないのも事実だった。
縁起や迷信にとらわれすぎるのも烏滸おこの沙汰だろう。
が、同じだけの力量を持つ者がぶつかり合った場合、勝利するのはいつだってほんのすこしの幸運を味方に付けた側だ。

わたしは最初から「帰り」のことはまったく勘定に入れず、全力で戦った。
遺物を利用した、貴重な銃弾を大量に消費するのは痛手ではあった。
しかしそんな悠長なことを言っていられる相手でもない。
銃を扱うため、リーチの差という圧倒的な有利をあますことなく利用した。
距離を取っても目にも留まらぬ速さで眼前へ詰めてくる相手との戦闘は困難を極めたものの、見るからに頑丈そうな装備の数々から、頭部や腹部を避け、首や脇、関節といった装甲が薄いだろう場所だけを狙った。
そのうちの一発が、顎下に命中したのはやはり幸運といえた。
わたしが一発一発手ずからハンドロードした弾丸は、着弾した瞬間、散弾よりも派手にターゲットの頸部を弾け飛ばした。
一歩、いや半歩でも間違っていたら、いま転がっていたのはわたしの方だったに違いない。

荒れ狂う歓喜で、ともすればくらくらと酩酊してしまいそうだ。
意識的に大きく息を吸って、吐く。
巡り巡っているアドレナリンの分泌がそのうち治まれば、腹の傷が痛みはじめるだろう。
ボンドルドとやり合う最中、脇腹を負傷した。
「千人楔」を体中に埋め込んだ「不動卿」動かざるオーゼンしかり、「無尽鎚」で数多の敵を叩きのめしてきた「殲滅卿」殲滅のライザしかり、奴が他の白笛たちと同じようになんらかの等級の高い遺物で武装しているのは予想の範囲だった。
白笛が持つ遺物は、情報が秘匿、規制されていることが多い。
そもそもわたしは探窟家ではないし、正規の手続きを踏んでいないため組合や協会の持ちうる情報にも当たれない。
殺し合いの最中つぶさに観察していたが、ボンドルドの装備している武器は、やはりその頭部にしつらえてあるらしかった。
印象的といえば聞こえが良すぎる、至極不気味な仮面から射出された光は、四方にぶつかったかと思えば一点に集束し、わたしの左の脇腹をえぐった。
損傷は肋骨の下だ。
重傷には違いないものの、場所が場所だけに腸に傷が付いていないのは幸運といえた。
内臓にダメージはなく、銃が貫通したような穴が脇腹に空いているだけだ。
とまれかくまれ手早く止血して「前線基地」から脱出しなければならない。

ボンドルドの死体を見下ろす。
喉をぐちゃぐちゃにされた死体は完全に力が抜け、出来の悪いゴム人形のようにぐんにゃりと転がっていた。
どうせなら気味の悪い仮面ごと弾け飛べば、きっともっと胸がすいただろうに。
そうだ、折角こんな地の底まで来たのだから、あの悪名高い「黎明卿」の素顔でも拝んでやろうか。
引っ繰り返った死体を足蹴にして、ヘルメットの上部、取手のように出っ張った一端へ手をかけた。
ああ、めまいがしそうだ。
いままで数限りない暗殺者たちができなかったことをわたしは成し遂げた。
白笛、「黎明卿」新しきボンドルドを殺すという、空前絶後の仕事を。
――わたしはやり遂げたんだ!

「素晴らしい腕ですね」

後ろから、ぽん、と肩を叩かれた。
呼吸が止まる。
おそらく心臓の脈動も。
全身の血管が凍る。
肩へ置かれた手は大きく、あたたかい。
手付きは荒くはなく、いっそやさしいと感じた。

なんで。
なんで。
聞き覚えのある、ありすぎる物言いだった。
独り言じみて状況を分析したり、わたしの動作を褒めたりと、殺し合いの真っ最中だというのに、いやにおしゃべりな奴だったから。
いいや、違う。
わたしは即座に否定した。
だって、そんなはずはない。
全身びっしょりと濡れた感触が気持ち悪い。
血かと思ったら汗だった。
ぬめる汗が目に入る。
痛い。
それでも目を閉じたりぬぐったりすることはできない。

だめだ。
そう聞こえた。
振り向いたらだめだ。
気安くふれられる距離にいるのは間違いないのに。
肩に置かれたものが手だとすぐに分かったのに。
存在を認めるわけにはいかなかった。
してはならない。
存在してはならない。
こんな。
なんで。

わたしはなにより、わたし自身を信じられなかった。
いままで自分だけを、殺す技能と殺す武器だけを、信じて生きてきた。
殺すことは生きることだ。
殺されることは死ぬことだ。
なのに。

まばたきを忘れたまま振り返る。
いま殺した男が立っていた・・・・・・・・・・・・

「いやはや、対人戦……原生生物や実験以外の原因による死亡はいつぶりでしょう。素晴らしい。大した腕をお持ちですね。――ご覧の通り、我々は全身を遺物を加工した装備で覆っています。ですが、喉という部位上、伸縮性、柔軟性には優れているものの、いささか強度が落ちるのが難点ですね。改良を重ねることにしましょう。頸部を破壊するのに使ったのは、四級遺物“分解する胞子”でしょうか? あれは空気にふれると、即座に劣化、壊死してしまいます。使用できる時間が短いうえ、使い道も大してありません。そのため利用価値の低い四級遺物とされていますが……。驚きました。こういった使い方もできるのですね。空気にふれないように弾頭に詰めて、銃弾として使うとは……。着弾した瞬間に、装備も皮膚も分解されては対抗手段がありません。なるほど、良い案です。これなら利用できる幅が広がるでしょう。素晴らしい。加工はご自分でなさったのですか?」

わたしは嘔吐した。
矢継ぎ早にぺらぺらとしゃべっていた男は、床に崩れ落ちるわたしの横に膝を着いた。
デザインこそわずかに異なるものの、無機質な仮面の奥から「おや、大丈夫ですか? はやく傷の手当てをしなければなりませんね」と気遣う素振りで声をかけた。
無我夢中で振り払わなければ、そのまま背をさすってくれさえしただろう。

死体と同じ黒い装束に身を包んだ男は、屈んだついでにわたしが殺した男からなにか拾い上げた。
今し方取り損ねたヘルメット。
祈る手をかたどった白笛。
剥落した血と肉片がぼたぼたっと垂れる。
湯気が立ち上っている。
まだあたたかいのだろう。
委細構わず仮面と白笛を身に着けた姿は、完璧に、――

「“枢機へ還す光”も装備していない体とはいえ、“私”を殺した君の技術……見事なものです。是非欲しい」

殺した男が、機嫌よく手を差し伸べてきた。
なんで。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。

差し出された手を、汗と吐瀉物にまみれたまま見上げる。
その手を取れば、このおぞましい悪夢は終わるのか。
誘いに乗れば、目の前の現実から開放されるのか。

いま、わたしはこの男を殺した。
いま、わたしはこの手で、ボンドルドを殺した。
それは間違いない。
じゃあ、わたしへ手を差し出すこの男はなんだ?
転がっているこの死体はなんだ?
きもち悪い。
わからない。
いやだ。
たすけて。
わたしは、わたしは、わたしは、――わたしはなんのためにここまで来たんだ?

奈落に巣くう怪物が、やさしく言う。
――「あなたも“私”になりませんか」。


(※タイトルは『めまい』(1958)より)
(2022.11.09)
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