「そういえばグェイラ、カツ丼って知ってる?」
「……なまえサン、それいまじゃなきゃダメな話か?」
「だっていま思い出したんだもの」
「シュミ悪ぃなぁ……。なにもいまじゃなくても」
「それで、知ってる?」
「知らね。“丼”って付いてるくらいだからなー、丼ものだよな。いいなぁ、久しぶりに食いてぇ。そういやなまえ、この前、オースに上がってたもんな。そんときに食ったの?」
「いや食べてはないんだけど」
「食べてねぇのかよ」
「だって見かけただけだもん。揚げた肉を出汁で煮込んでね、卵とじにしたやつを米に乗っけてて、」
「あーやめろやめろ聞きたくねぇ。ハラ減る」
「よくこの状況でお腹減れるねぇ」
「それなまえが言う?」

正面で同じく作業に励んでいるなまえを、グェイラは半眼で見下ろした。
呆れた目をしてしまうのも仕方ない。
仮面のせいで伝わらないのが残念だ。

話題が話題だけに、タイミングがタイミングなだけに、普段だったら雑にスルーしていたかもしれない。
しかし脈絡のないなまえの与太話を無視するでもなく、彼は調子を合わせることにした。
なにしろ長時間ぶっ続けで作業していて、ともするとふたりしてだんまりに陥りがちだったものだから。
気が滅入ってお互い黙り込むより、他愛もない無駄話で口も動かしていた方がいくらかマシだ。
惰性かもしれないけれども。

なまえも同じ気持ちらしい。
仮面の青い光を手元に落としたまま「米も出汁も貴重だもんね……」と呟いた。

「オースと違って土地だけはあるんだからさ、どうにか五層で米とかの作物、育てらんないかな」
「できりゃ万々歳だけどな。“なきがらの海”じゃあ、さすがに育たねぇだろ。ヒトの手でどうこうできんなら、適応した植物がとっくになんかしら茂ってるって」
「それもそっかぁ」
「あー……最近、味覚使ってねぇな」
「味覚使ってないって基地ここ以外で聞いたことないな」
「行動食以外、食った記憶がぱっと出てこねぇの。どうせなまえも似たようなもんだろ?」
「まあ。たまにお酒飲むと、味がする液体にびっくりしちゃうよね」
「びっくりしちゃうなよ……。これ終わったらメシ食いに調理場行く? 聞いてたらまともなもん食いたくなってきた。俺作るし」
「行く! ありがとうママ!」
「ママはやめろママは」

ぱっと周囲に花でも飛ばしそうなほど嬉しそうになまえが頷いた。
長丁場の作業で退屈しかけていたようだが、モチベーションがいくらか回復したらしくなによりである。
気持ちは分かる。
なにしろ彼も、昨夜の晩飯どころか「最後に食ったメシって、なんだったっけ」と首をひねるレベルだった。
生命維持はもとより、探窟という全身を駆使するハードワークにおいても有用な、行動食四号という完璧な栄養食があるため、長く「前線基地」にいるとわざわざ料理を作ろうという気も失せる。
栄養補給の重要性は重々承知ではある。
が、なにせトップが睡眠や食事といった人間として普通に必要なはずの行為を、数多の体を使うことによって回避している人物なもので。
ある程度手間のかかる料理となると、もはや娯楽か酔狂の域の扱いだ。

「あ、グェイラ、テープちょうだい。こっちのガーゼ押さえとくから」
「あいよ。ついでに要るだろ、留置針。さっきから点滴してるやつの兼ね合いも忘れるなよ」
「覚えてるよー。さすがよくわかってるねぇ、グェイラ」
「褒めんなよ照れちゃうだろ」
「照れ顔見せてよ。最中だってあんまり見せてくれないじゃない」
「いま両手塞がってるからムリ」

いじわる、と拗ねた声音でなまえが非難してくる。
合意のもとで時折なまえとは性行為を重ねているが、隙あらば弱みのひとつでも握ってやろうと虎視眈々、狙っているのはグェイラも知っていた。
とはいえ特段、彼に害をなしたいわけでもないらしい。
ただ単に泣きヅラをかかせたいだけとのことだった。
いわく「グェイラのかわいいところ見たいんだもん」。
まったくもってシュミが悪いとしかいいようがない。
こんなデカい男をどうこうしようって意気込みだけは買うけどさ、とグェイラは新たな注射針を取り出しながら首を傾げた。

「で、なんでまた突然、カツ丼とやらのネタ振ってきたの」

数秒の沈黙のあと、なまえは「ああ、」と頷いた。
もしかしたら仮面の下でぱちぱちとまばたきをしていたのかもしれない。
見て確かめることはできないが。
ひとに話題を振っといて一瞬忘れてたんだろうな、とグェイラは内心ぼやいた。
記憶力があるのかないのか――とまれすくなくとも作業の手際だけは文句を付けようがないのだから、閉口するしかない。

「この前、地上に出たでしょう? そのときに、巡回中の劇団がオースに来ててね。海外じゃ結構有名っぽいよ。ちらっと劇を見かけたの。……通り過ぎただけだから、どういうストーリーかは全然わかんないんだけど。その途中でねえ、警官役が捕まえた犯人に口を割らせようとするシーンがあって」
「なんだその劇。サスペンス?」
「さあ? まあ、最後まで聞いてよ。たぶん別に重要なシーンじゃなかったっぽいし。それでね、捕まえた犯人に、カツ丼を食べさせるシーンがあったのよ。すごく美味しそうだった……。あれ隣で実物を販売してるの、めちゃくちゃ頭いいと思うんだよね。どんなにお値段高くても絶対に買っちゃうじゃん。……ええと、じゃなくて、警吏側は、犯人に自白か証言をさせたいっぽくて。犯人ひとりに対して、警官側はふたりね。怖い性格の警官と優しい性格の警官がペアを組んでたの。そのとき知ったんだけど、尋問する際って、厳しくするムチ役と、やさしくするアメ役に分かれると、相手に口を割らせやすいらしいよ。怖い警官にきつい目に遭わされたあと、やさしい警官からカツ丼みたいに美味しいもの食べさせたりって甘くされちゃうと、自供しやすくなるんだって」
「……なるほど?」

一見、接点のない料理の話題を、どうして突然なまえが明後日の方向から投げかけてきたのか。
どうせただの暇潰しのネタだろうと高をくくっていたものの、どうやらまるっきり現状と無関係というわけではなかったらしい。
大きな手に不釣り合いな注射器――通常サイズのはずなのに、彼が持つとおもちゃのようにちいさく見える注射器を持ったまま、グェイラは首を傾げた。

「どっちかがアメかムチって、俺らも役割分担しようってことか?」
「そう! なんていうか……いま、ふたりともアメっていうか、やさしい感じでしょ? このままだとらちが明かないし、どっちかが厳しくした方がいいのかなあって思って」

その瞬間、第三者の絶叫が響き渡った。
死んだように静かに横たわっていたはずの男が、なにか注入されたかの如く突如暴れはじめたのだ。
死体と大差ない風体だったにもかかわらず、なにがトリガーになったのやら。
四肢を封じられていなければ、めちゃくちゃに暴れていたに違いない。

薄暗い処置室で、手術台に拘束されているのが余程お気に召さないらしい。
耳をつんざくような絶叫をあげ続けている。
男を挟んで両脇からそれぞれ見下ろしていた祈手ふたりは溜め息をついた。
うんざりした声音で、グェイラが「元気そうでなにより」と呟いた。

「呆れるくらい活きがいいな。まあ五層ここまで来れたんだ。そりゃある程度の修羅場はくぐってんだろうし、口は堅ぇよな。……でもなぁ、早めにゲロっちまった方がいいと思うけどなぁ」
「そうそう。いま吐いちゃえばそれで済むんだもの。なにも好き好んで苦しいこと選ぶものじゃないよ。どうせぶちまけちゃうんだから」
「どこのどいつに雇われたかってのと……あとは侵入ルートだな。そんなほいほい侵入されちゃまずいんだよ。お宅らなみたいな刺客だとか、原生生物とかな。入り込んじまうと危ねぇだろ? 知ってる? 結構たくさん生活してるやついるんだよ、ここ」
「最近はめっきり減ってたけどねぇ。賞金稼ぎとか、どこかで買っちゃった恨みで雇われた殺し屋とか」

ふたり揃って「あんたのためを思って」とでも言いたげなお節介な口ぶりに、男はますます半狂乱になって荒れ狂った。
ほとんど聞き取れないが、どの口が、と喚いているようだ。
血走った眼球はぐるりとあらぬ方へ向き、血のあぶくと憎悪の言葉を口から辺り構わずまき散らす様相は、既に正気を失っているのではと心配になるほどだった。

男の怒気ももっともだった。
なにせ、なんの効用かも定かでない薬剤を両脇から代わる代わる打たれて、なおご機嫌な者がいるというならそれこそ気がふれている。
――首領を殺すため、深界五層「前線基地」へ侵入を果たしたまでは良かったものの、そこで不気味な仮面をかぶった悪名高い「黎明卿」の探窟隊に捕縛されてしまった。
その場ですぐ自殺しなかったのは、なんとか逃げ出す隙を探っていたからだ。
殺害は失敗したとしても、チャンスは一度ではない。
逃亡しさえすれば、再戦の機会は残されている。
執念しゅうねく機を窺っていた男は、しかし拷問器具じみた処置台に拘束され、その判断が致命的なミスだったのを悟った。

間違っても失血死やショック死しないよう、祈手たちは絶妙なバランスで薬剤を投与していた。
生かすため・・・・・の彼らの手腕は、いっそ見事といって良かった。
前線基地に詰める祈手なら、同僚ふたりの言葉が完全に正しく、むしろ好意的だったと理解してくれただろう。

しかしそんなことは手術台にくくり付けられた男には関係ない。
錯乱した怒鳴り声はなおも続いている。
理も非もない異常性をなじる呪詛の羅列を歯牙にもかけず、小柄な方の祈手が飽き飽きした様子で溜め息をついた。

「もう、粘るなぁ。普通ならこれだけ自白剤打たれたら、大人しくなるものだけど。昇圧剤だって無限にあるわけじゃないのに。これだけ使ってなんにも吐かせらんないなんて、自信なくしちゃう」
「近年稀に見る諦めの悪さだな。でもな、俺たちなんかじゃ比べものになんねぇくらいおっかないヒトが来るんだぜ」

声音は、言うことを聞かない子どもを「おばけが来るぞ」とおどかすよう。
その間も薬剤をミリ単位ではかったり、点滴用のバッグを確認したり、なめらかに動くふたりの手は止まらない。
そうして祈手たちが口々に説得・・していると。

――かつん。
聞き分けの悪い子をなだめすかす彼らの鼓膜が、ほぼ同時に音をとらえた。
――かつん、かつん。
メトロノームじみた律動的な音が、ゆっくりと、しかし着実に、こちらへ近付いて来る。
――かつん、かつん。
靴音だった。
誰の?
――かつん、かつん。
「俺たちなんかじゃ比べものになんねぇくらいおっかないヒト」の。

平坦な足音は、終焉を告げるアポカリプティックサウンドとどんな違いがあるだろう。
ヒトならざるモノが徐々に近付いてくる。
歩調は決して荒くなかった。
足音の主は、仰々しく鳴らすつもりも皆無だったに違いない。
にもかかわらず、なぜか靴の音は反響しているかのように重く暗く響いてきた。
ひと足ごとに、耳の奥へ圧がかかる。
痛みは、気圧によって内耳が圧迫されるのに似ている。

どうして扉の向こう側の音がよく聞こえるのか。
音がひとつ減ったからだった。
怒号をあげていた男が静かになっている。
依然として叫ぶ真っ最中かのように口も目も大きく開けているが、そこからなにも放っていなかった。
さながらかたどったデスマスク、もしくは悪趣味な蝋人形のよう。
裂けんばかりに開きっぱなしの口からは、呼吸音すら聞こえない。
もしかしたら本当に息をしていないのかもしれない。

――かつん、かつん。
その場の誰もが、近付いてくる存在に耳の奥を圧迫されていた。
靴音が、頑丈な金属扉の前で止まった。
――かつん。
来る。

生育区域から離れているとはいえ、間違っても子どもが入り込まないよう、実験棟の扉の回転ハンドルは固い。
ギ、ギィ、と重苦しい音を立てて、処置室の扉が開いた。
ゆっくり開く鉄扉から、黒々とした影が入り込む。
それは男のかたちをしていた。
頭部中央を上下にはしる紫色の光を見て、グェイラとなまえは声を揃えて呟いた。

「あーあ、」
だから言ったのに

「おやおや。仲良しですね」
「旦那ァ、すいません。口割らせらんなかったっすわ。やっぱり俺、向かねーなこういうの」
「お手間をおかけして申し訳ございません、卿」
「構いませんよ。誰しも向き不向きはあります。むしろ、こと救命や延命に関して、君たちの技術には驚かされるばかりです。既に投与した薬剤のメモだけ残しておいてください」
「はい。こちらに」
「さすがなまえ、準備がいいですね」
「投与したのは自白剤が中心ですが、どんな影響が出るか、他のものとの相互作用を試していました」
「――ああ、素晴らしい……。これだけの薬剤を組み合わせて、ギリギリ被験者の意識を保つことができるとは……。薬物動態では、君たちから学ぶところが大いにありますね。このあとは私が引き継ぎましょう」
「卿おひとりでなさいますの?」
「いえいえ、記録係のためもうひとり祈手は呼んでいます。他に試してみたいこともありますからね。グェイラ、なまえ、君たちはもう四時間もこれ・・にかかりっきりです。ただでさえ注意を要する作業を行っているのです。集中力を保つためにも、適宜、休息は大事ですよ」
「……そういう卿は、何時間稼働していらっしゃいます?」
「ふふ、ご心配なく。この体は先程、休息を終えたばかりですからね」
「そんじゃお言葉に甘えてここは頼みます。旦那もあんまりはしゃぎすぎんでくださいよ。こいつ思ったより頑丈なんで」
「ええ、ご助言どうもありがとうございます。グェイラ、なまえ」

ガチャン、と重量のある音を立て、鉄扉が閉まる。
ドアシルが噛み合う直前まで、室内からは耳馴染みの良い低い囁き声がひたひたと忍び寄ってきていたが、それもすぐに聞こえなくなった。
そのうち同僚か、もしくはそのなり損ないがひとり増えているかもしれない。
連れ立って処置室から出た彼らには関係のないことだったが。

長い間、屈んでいたせいで背が痛む。
ぐっと伸びをしながら、グェイラが笑った。

「いやー何度見てもなまえの対旦那用猫かぶり慣れねーなぁ。わかる? トリハダ浮いてんの」
「わかんないし、グェイラが不敬すぎるだけでしょ」
「でも旦那からは注意されたことねぇもん」
「それ最強カードだから出しちゃダメでしょ。……アメかムチでいうなら、卿はアメだなぁ。あれ? アメしかいないかも、ここ」
「ムチではあるだろ。全員」
「ん? うーん……? グェイラも?」
「俺はやさしいからなー」
「でしょ」
「なまえは違うけど」
「は?」
「そんなご機嫌損ねなさんな。にしても役割分担するってのはいい案だよな。次やってみるか? まあ、次ねぇのが一番だけど」
「アメみたいなひとがムチもくれるんだから、最初っから卿おひとりで十分だったんじゃない? あれだけ薬剤消費しといて、まともにお役に立てなかったのはすっごい反省してるけど」
「分担できてねぇだろそれ」

「……ね、グェイラ、卿じきじきに休憩もらったしセックスしたくない?」
「え、お前、尋問アレで興奮したの? さすがに引くぞ……」
「違う違う、卿がおっしゃったでしょ。“仲良しですね”って。なんだか嬉しくなっちゃった。……仲良ししよ?」
「仲良ししよて……なによなまえサン、めちゃくちゃぐっと来たわ」
「んふふ。……あ、でもご飯も食べたいしなあ」
「メシ食ったあとに運動すりゃいいじゃん」
「セックスを腹ごなし扱いするのムードなさすぎでしょ。モテなさそう」
「ご心配なく。地上じゃ結構モテてたんで」
「へえ」
「へえて。興味ないにも程があるだろ」
「いやあだってモテ自慢、基地ここでほどムダなものないよね」
「そりゃそうだ。くっつこうが別れようが、ぜんぶ旦那だし」

「うーん、グェイラのおっきいから食後だと気分が悪くなりそう。ゲロ吐くの嫌だし、やっぱり先にえっちしてからご飯ね」
「セックスでゲロ吐きそうって心配する方がムードねぇだろ。絶対。気分が悪くなる扱いされる俺の身にもなってくんない?」
「でも事実でしょ」
「はいはい。デカくてごめんなー」


(2022.11.05)
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