(※『メイドインアビス 闇を目指した連星』黒笛クエスト「毒サンプルの収集」ネタバレ、捏造を含みます)






赤紗草の毒の抽出を終え、三角フラスコにしっかりと封をする。
光に透かすようにガラス瓶を傾ければ、赤い粘液が重力に従ってゆっくりと片側に溜まる。
あとは調合する薬剤ごとにバイアルに分け、それぞれの担当へ引き継がなければならない。
慣れた作業とはいえ、ひとつ間違えれば毒に冒されかねないとあって、なまえの手付きは慎重そのものだった。

道を同じくするからこそ、その手際がうつくしいと称するレベルのものだと身に沁みて理解できる。
清潔な実験室、周囲では彼らと同じく白衣を着た職員たちが、忙しなく研究に勤しんでいる。
彼女の手元を真向かいから注視していた研究員は、なまえを見上げて呟いた。

「所長は全然、変わりないですねえ……」

ぼやく彼の顔は、端的にいってやつれていた。
恨みがましいとまではいかないが、声音にはどこかしみじみとしたものが漂っているのは気のせいではないだろう。
昨日、とうとう見かねたなまえから休日を取るようめいじられたものの、さすがにたった一日程度の休養では万事回復とはいかなかったらしい。

「あなたはまだちょっとお疲れみたいね。出てきてくれたばかりだけれど、もうすこし休んでみたら?」
「ありがたいお言葉ですが、休日を頂戴したって、どうせ進捗が気になって休まりませんよ。ここがワーカーホリック共の巣窟なのはご存知でしょうに。飛び抜けて所長が重症ですけど」
「言うほどかしら」
「言うほどです。最後に帰宅したのっていつですか? 所長が退勤するところを、僕、見たことないんですが」
「帰宅……?」
「……待ってください。すみません、オースからこっちに越してきて、まさか自宅も用意してないなんてことないですよね」
「だって、仮眠室は研究所ここにもあるし」
「仮眠室は仮眠するための部屋であって、生活する場じゃないです」
「あらあら、手厳しいのね」

肩をすくめて微笑んだなまえは肯定も否定もしない。
なんぞ図らん、ほとんど冗談で口にしたというのに、まさか南海ベオルスカからこの研究所へ赴任してきて以来、「自宅」という生活の基盤すら構えていないらしいと発覚し、部下は特大の溜め息を吐いた。
呆れ返るのも無理はない。
所長として心から尊敬していることに違いはないものの、いくらなんでもワーカーホリックと呼べる範疇ではないだろう。

「僕が言えたことじゃないですが、もっと体を大事にしてください。責任者なんですから」
「あら、あなた含め、優秀な研究員がこれだけたくさんいるもの。その点はあんまり心配していないけれど」
「馬鹿言わないでください。もし所長が倒れでもしたら、ここは終わりですよ」

軽い口調ではあるものの、まぎれもない事実だ。
当人の知識や技術は言わずもがな、既に巨額の資金を投入されているこの研究所が、未だ豊かな財源に恵まれているのは、所属している機関のみならず、国のお偉方にまで費用の捻出を求めて所長が奔走しているおかげ――ということは、職員たちの間では周知の事実である。
ただでさえ夜の目も寝ずに研究に打ち込んでいるはずの彼女に、忠告のひとつも献上したくなる。

とはいえ口をとがらせてなまえをいさめる彼も、内心「所長相手じゃな」と自嘲していた。
あまりに説得力がないのだ。
なにせ彼や周囲の研究員たちより、当の上司の方がずっと健康状態は万全なのだから。
顔色も良く、見るからに健康そのもの。
うつくしいまでの手ぶりで毒物を渡してくるさまも、非の打ち所がない。
研究所に籍を置く職員たちのほとんどは、海を越えて奈落へ足を踏み入れたことはなく、まことしやかに囁かれるのも仕方ない。
オースに居住する者は、ある程度アビスのものに耐性でも有しているのだろうか、と。

――一度でもリュックを背負ってアビスにもぐった者ならば、重量制限に苦しまなかった経験はないだろう。
ひとが持つことのできる重さには、年齢や体格などの程度の差こそあれ、限界がある。
無論、重いものを持てば疲れる。
走行したり、崖を昇降したり、体力を消費すれば尚更だ。
困難な道のりや上昇負荷だけではない、探窟においていかに持ち物を軽くできるかは、常に探窟家にとって重要な問題だった。

必要なものを詰め込み、重量を超過した結果、崖の昇降中に滑落しては元も子もない。
あれもこれもと準備段階で詰め込みすぎて、遺物のひとつも持ち帰ることができなければ、ただいたずらに資材を消費するだけの愚行である。
研鑽を積むのが目的なら、それも悪くはないだろう。
しかしそのレベルでのんびりとアビスに挑む探窟家は皆無に等しい。
なにしろそれほど悠長な展望を持つ者は、そもそも探窟家などという死と隣合わせの道を選びはしない。
背負う荷がより軽くなれば、それだけ引き上げられる遺物も増えるのは言うまでもない。

探窟において決して欠くことのできないロープやハーケンといった道具は、着実に軽量化が進められている。
ハーケンも、黒笛が用いるのは、蒼笛までの探窟家たちが使う通常ハーケンより三分の一以下の重量のもの。
武器も道具も、自分の力量に合ったものを持たないという選択肢は、過酷なアビスにおいて自殺行為に等しい。
しかしながら薬ばかりは長年、赤笛も黒笛も、おそらく白笛も、使用するのはみな同じだった。
アビスでの探窟中、薬はいつでもどこでも現地調達できるわけではない。
焼青草がなければ青解毒薬をつくれないし、痺れ草が分布していない一層では痺れ治療薬をつくれない。

そもそも毒と薬の区別など、薬理作用を持つ物質の呼び名の違いでしかないのだ。
焼青草から採取される毒を受けた場合、癒やすための解毒薬は、焼青草と薬草の葉によってつくられる。
赤紗草の毒も痺れ毒も、右に同じ。
人体においても、ミネラルの一種であるカルシウムは骨の形成に欠かせないが、多量に摂取すると腎臓を痛める。
ひとにとって有用なものを薬、かんばしくない影響を与えるものを毒と呼び分けているだけで、本来は価値中立的なものである。

しかし、もし完全な「薬」――どんな毒にも対応できる解毒薬を開発しえたならば、人類にとって有益どころの話ではない。
間違いなく歴史に記される、世紀の偉業になる。
アビスにもぐる探窟家たちが背負う荷物に、常備される薬になるだろう。
そして、莫大な利権を生む――だからこそ上位機構である機関も、難色を示しつつも研究所へ予算を割き続けているのだ。

しかりしこうしてなまえを所長とする研究所は「あらゆる毒に効く解毒剤」の開発に取り組んでいた。
彼らは、赤紗草、焼青草、痺れ草それぞれから採れる毒の研究から始めた。
どれもアビスではあまねく分布している植物だが、海を超えれば途端に貴重な試料となる。
独自の生態系を築き上げている原生生物は、アビスを満たす「力場」に適応しているため、外には出ない。
遺物を狙った海賊たちの襲撃も頻繁に起こるため、輸送船には護衛が欠かせない。
かかる費用が跳ね上がるのは致し方ないことだった。

本来ならば、薬の開発には非臨床試験が必要不可欠だ。
はじめは小型の動物に投与して、段階的にヒトに近い生物を用いて有効性と安全性を調べるという重要なプロセスである。
非臨床試験を経て、最終的に人間で治験を行い、薬として完成する。
それが製薬、創薬だ。
しかし資材は限られている。
当初難航した毒サンプルの収集も、オースの探窟組合を通して達成したが、悠長に試験を挟んでいる余裕はない。

――研究所は、既に二名の死者を出していた。
いまも何名かの職員が不調をきたして医務室に缶詰になっている。
医療用手袋や防毒マスクをしっかり着用しているにもかかわらず、常に毒物を扱う研究員たちは、日に日にその影響を受けているようだった。
「もっと体を大事にしてください」となまえをいさめた部下も、わずかとはいえ耳元や首に湿疹が現れはじめていた。
唇もうっすらびらんが見られる。
皮膚の薄いところが炎症を起こしており、本来であれば一日といわず、せめて症状が治まるまでは出勤すべきではない。
ただひとりなんの変化も呈さないなまえを、冗談とはいえ部下がなじりたくなるのは道理だった。
顔をしかめている彼へ、なまえは「毒の耐性があるんでしょうね」と苦笑を返すに留めた。

「まさかこんなところで……海を超えて研究するのに、役に立つとは思わなかったけれど」
「耐性ですか?」
「ええ。アビスの毒物に対してだけじゃないの。免疫系が発達しているのね。この研究所を任された理由のひとつだと思う」
「機能は先天的なものですか。それとも、後天的に獲得した……?」

踏み込んだ質問だと、彼も自覚していた。
緊張でかすかに表情が強張る。
突然、海外からやってきて所長の座に就いたなまえに、はじめこそ礼儀正しくはあれど余所余所しい距離を保っていた職員たちも、相手が誰だろうと学ぶ姿勢をおこたらず、良いところは良いと手放しに褒め、悪いところは共に改善しようと我が身のことのように寄り添う彼女と接するうち、いつしか出自や立場という垣根を越えた交流を築くほどになっていた。
それでも過去のことをあまり語ろうとしないなまえへ、この国に来るまでのことを問うのは、暗黙裡あんもくりに一種のタブーのようになっていた。
研究員のなかでも特に軽口を交わすほど親しく付き合うようになっていた彼だからこそ、できた質問だ。
逡巡するようになまえが目を伏せた。

「……わたしが孤児だと話したことはあった?」
「いいえ……初耳です」

彼は思わず言葉を呑んだ。
オースの探窟組合本部や協会の推薦とはいえ、まさか研究所の責任者が孤児だったなどとは予想だにしていなかったのだ。
医療に限ったことではないが、この国では裕福な家の出でなければ、研究者という専門職には就けない。

以前ならば階級や家柄といったつまらないものにとらわれ、反感を抱いていたかもしれない。
しかし質の高い教育機関で学んだ彼らですら、目をみはるほどの才幹ある所長を、今更疎ましく思うはずがなかった。
表情からそれを読み取ったのだろう、なまえは「あなたたちに聞かせる話ではないかもしれないけれど」と前置いた。

「親の記憶はないの。物心ついたときから、下水処理の管渠かんきょに住み着いていた。ひどいにおいだったわ。いつも暗くて、じめじめして。子どもに付く区別なんて、口に入るか入らないかくらいでね。食べられるものと食べられないものの見分けなんて、なかったの。生育環境もだけれど、きっといろんなものを摂取したんでしょうね。そういう場所って、似た境遇の子たちが集まるものだけれど……同じものを食べて、同じところで眠った子が、翌朝には隣で亡くなっていたこともあった。わたしも無事とはいかなくて、だいぶ寝込んじゃった。そのせいで未だに下肢に後遺症があるの。だから探窟家じゃなくてこうして研究者を目指したんだけれど」
「……そんなことが……。すみません」

どこかとらえどころがないと感じていた所長の過去を垣間見て、軽口を叩いていた彼はわずかにうつむいた。
やたらと湿っぽくならぬよう、さらりと語る口調が尚更いたましい。
しかし部下の自責の念もものかは、なまえは採取したばかりの赤くぬめる毒液を注意深く見守りながら、問わず語りめいた懐旧談を続けた。

「いいのよ。これはね、そう悲しい話じゃないわ。――そうやって、まだ死んでいないから生きているって状況のときにね、偶然、汚い子どもを拾い上げた奇特な方がいらっしゃったの。アビスにもぐる探窟家だった。お手伝いがしたくて、必死に学んだわ。そのひとのおかげでいまのわたしがあるの。もしかしたら下水道で死んでいたのはわたしだったかもしれないし、拾われたのは亡くなったあの子だったかもしれない。でも、いまわたしはここにいて、あなたたちと一緒に薬の研究をしている。――結果論よ。すべて。研究者は結果にこだわらなきゃいけない。わたしはそう思っているわ。……犠牲になった彼らのためにも、わたしたちが薬を完成させて……いろんなひとを救うことが、唯一の手向けになる。彼らの努力も、苦しみも、無駄じゃなかったって“結果”を示すのが……生き残ったわたしたちが果たすべき責任じゃないかしら?」

問いかけは、あるいは自らへこそ向けられていたのだろうか。
抑揚の豊かな声色とは裏腹に、かすかに顎を引いたなまえの横顔には、堪えきれない憂いが滲んでいた。

一抹の後悔、止めることのできないスキームへの恐れ。
統括している機関からも、早急に結果を出すよう再三、催促されていた。
いくら人的被害を出そうと、湯水の如く資金を消耗しようと、かかった人員も費用も資材も、なかったことにしましょうと投げ出すには、もはや条理が立たぬところまでなまえたちは来てしまっていた。
しかし「諦めたくない」「大成させたい」という研究者として当然の矜持、そして死んでしまった部下たちへの責任――それらを宿したなまえの眼差しには、怯えや躊躇は露いささかも見受けられなかった。

彼女に応えたのは、力強い声だった。
会話していた部下ばかりではない。
いつの間にか、周囲で各々作業をしていたはずの研究員たちも長口上に聞き入っていたらしい。
手を止めて、じっとなまえを見つめていた彼らは「はい!」と声を揃えた。

独り言めいた長話に、数多の声が返ってくるとは思ってもみなかったのだろう。
丸く見開いた目を、なまえは次いで照れくさそうに逸らした。
また慌ただしく、しかし慎重に立ち回りはじめた白衣たちをあたたかく見やり、研究所を預かる責任者はそっと微笑んだ。






死屍累々。
ある者は喉を掻きむしり、ある者は吐瀉物に溺れ、ある者はを垂れ流し、ある者は弛緩しきった筋肉と靭帯により身長を伸ばしていた。
些細な違いはあれど、みな等しく絶命している。

地獄もかくやあらん。
最後に残ったひとりも不規則にびくびくと痙攣しているが、それもすぐに止むだろう。
もう彼の軽口も聞けないのかと思うと、静かな実験室がますます沈んで見えた。
治療を拒否し、「所長ならできるはずです。どうか僕の症例も役立ててください」と言い残した部下の眼光は、目標のために邁進する研究者というより、追い詰められた原生生物のものによく似ていた。
とはいえ病院や医務室ではなく、実験室で終えることを選んだ彼は、まさしく研究者だったのだろう。

と、ばたばたと跳ねて余喘よぜんを保っていた彼も、とうとう息絶えてしまったらしい。
脈拍や呼吸を確かめるまでもなく、苦悶に歪んだ口角から、黄色く変色した舌がだらりと垂れている。

そして、本当の静寂が訪れた。

「――ひとりきり・・・・・って、こんなに寂しいものだったかしら……」

死体に囲まれてひとり佇んだ研究所の責任者は、夢見るようにぽつりと呟いた。
血なまぐさい地獄のただなか、能事足れりと瞳は遠いところを見晴みはるかすようにどこまでも澄んでいる。

臓腑を切り分けていたために汚れ切ったガウンを、乱雑に脱ぎ捨てる。
大層行儀の悪い振る舞いだったが、この場に指摘する者はなく、後から踏み込んだ者は、誰がどの防護服を着用していたかなど気にはしまい。
すさまじい形相で事切れた人間たちが入り乱れた、地獄の釜の底が如き様相を呈したこの研究室で、どれが誰の持ち物か、頓着するだけ無駄だろう。

綿密、かつ丁寧に統括機関へ上げていた報告は、遅々ではあるものの、歩みは着実に進んでいると受け取れるものばかりだった。
この崩壊は寝耳に水に違いない。
音信不通となったここへ勇んで踏み込んだ先陣が、惨状を目の当たりして具合を悪くしないかだけ心配だ。

機関や国へ宛て、不首尾を謝罪する手紙を残す。
研究員たちのことを思う、遺書じみた文面の簡素な書き置きだ。
荷物をまとめる。
その足で南海ベオルスカ行きの船舶に乗り込んだ。
久しぶりの海原の揺れ、久しぶりの磯のにおい、久しぶりのねばつくような潮風。
大きく呼吸すれば、鼻腔の奥にこごった下水道の悪臭も薄れるよう。

ぬるい海風に頬を打たれ、なまえは微笑んだ。
さあ、帰ろう。
アビスへ――深界五層「前線基地イドフロント」へ。

研究所では様々な知識や技能を惜しみなく分け与え、指導したが、しかし第一に、研究者は「結果」を出さねば意味がない――そのことを学ぶ機会に恵まれなかった彼らを、不運と表するのは傲慢というものだろうか。






「おかえりなさい。なまえ、君の元気そうな顔を見られて嬉しいですよ」
「ただいま戻りました、黎明卿」

過酷な奈落を踏破する探窟隊の一員というより、学者然とした折り目正しい所作で、祈手は頭を下げた。

「元々あった資料やサンプル、めぼしいものはあらかた頂戴してきました。報告書はこちらに。残念ながら目新しい発見や成果はありませんが、当初の目的は達成したかと」

装束こそ「暁に至る天蓋」を着用していたものの、なまえは精神隷属機に接続したばかりで仮面も装着していない。
その素顔へ、指揮卓じみたコンソールに陣取った「黎明卿」――新しきボンドルドは、深界五層最奥「絶界の祭壇」と真上の砦水を繋ぐ光芒こうぼうに酷似した紫の光を、惜しみなく注いだ。

「なまえ。今回、君には負担をかけましたね。祈手がこれほど長期間、物理的にも精神隷属機から離れるのは、滅多にないことです。体調や精神に異変はありませんでしたか」
「幸か不幸か、問題ありませんでした。あればまたゾアホリックに関する事例になったんでしょうが……」
「おやおや。君に異常がなかったのです。なによりではないですか。目的の達成と合わせて、喜びましょう」

薄暗い内陣で、あたかもそれ自体が発光しているかのように、巨大な形体が毒々しい陰影を描き出す。
人間のみならず、命あるものをあまねく惑わす特級遺物。
「精神隷属機」がぬめる肉ひだを開く姿は、さながら愚鈍な獲物を丸呑みにするかのよう。
表面を無数にはしる筋は葉脈にも見えるが、脈打つかの如く蠕動するさまは、脳表面に刻まれたシワ――脳溝のうこうを彷彿とさせる。
生々しい肉感は、一見して嫌悪を抱かざるをえない。
しかし生身の腕を引っ張られるように、精神が吸い寄せられてしまうのを実感・・する。
精神に直接作用する得も言われぬ感覚は、尋常一様、抗えるものではない。
名高い「前線基地イドフロント」でもなかんずく厳重に秘匿された「黎明卿」の生命線。
ゾアホリックを管理、維持するコンソールから離れ、ボンドルドがなまえを覗き込んだ。

「事後の処理や後任はどうなりましたか」
「研究所はそのまま閉鎖になると思います。研究員がゼロになっては、また一から集めるのも難しいのではないかと。研究所の規模的に、隠蔽も無理でしょうし。挙げ句“ひとり生き残った所長が失踪した”となれば、悪評も高まったでしょう。研究費用として無駄金を吐かせきるか、職員が全滅するか……どちらか先か読めなかったものの、後者でした。もうすこし財政を逼迫させられたらと思っていたんですけれど……そう上手くはいきませんでした。遺書のようなものも残してきたので、死んだと思ってくれると助かるんですが。あの国ではわたしは極悪人扱いでしょうし」

素顔をさらしたまま、臆面もなく祈手は肩をすくめた。
浪費した暦日やコストに対して、なまえが残してきた研究報告は到底釣り合っていない。
おそらくはじめは現場の凄惨さに目を奪われていた機関も、成果という成果、記録という記録がまったく残っていないことに気付いて、驚愕や憤激のため卒倒しているに相違ない。
ボンドルドも、穏やかに「生きていると分かれば、懸賞金がかけられるでしょうね」と答えた。

「あの研究所は元々、薬ではなく、毒物をつくり出していたのですよ。肉体ではなく、精神に影響を及ぼすたぐいのものを。体は健康そのもの、しかし意のままに操れる兵士たち……争いごとを好む為政者には、なにかと使い勝手が良いのでしょう。いやはや、恐ろしい。同意もなくたくさんのひとの精神を操るなど、粗暴なことです。祈手が責任者に就いて、手綱を握ることができればまだ使い道はあったかもしれません。ですが、力場もないところで、ゾアホリックによる植え付けを受けた者にどんな影響が出るのか……。興味は尽きませんが、高い確率で、私が同期を取ることは敵わないでしょう。意識も視界も共有できないのです。そんなところへ祈手を割くのは見合わないですよね。――本当に、君が無事だったのは幸いでした」

毒と薬は不可分。
毒物に長けた研究所で「解毒剤」の開発に取り組んでいたのを、皮肉とはいうまい。

なまえは、研究所や働いていた職員たちのことを眼裏まなうらに描いた。
時間が経つにつれいずれ忘れてしまうだろうが、いまのところ彼らのことはひとりひとりきちんと覚えている。
あの国では身分制度が職業選択にいたるまで強く支配しており、研究所でも家柄のしっかりした者たちが勤務していた。
長子相続が原則であるため、家を継ぐことができない支配階級の次男、三男坊や女性が多く在籍していたはずだ。
――それらが大勢死んだ。
嗣子ししではないとはいえ、大事な子息が見るも無惨な死体となって――あるいは死体すら返還されないとくれば、遺族が国に対して事実の糾明を求めるのはもっともなことだ。
その点でもあの国は荒れるに違いなかった。
日ならず「莫大な税金を投入した研究所は、おぞましい人体実験の巣窟だった!」云々、センセーショナルかつ俚耳りじに入り易い文言が新聞の紙面を飾ること請け合い。
諸悪の根源、行方をくらませた「所長」からの接待を受け、便宜を図っていたとして、お偉方も追求を免れないだろう。
総入れ替えにでもなれば御の字だが――さすがにそこまで来ればなまえのあずかり知らぬ向背こうはいというもの。
推薦を受けての着任とあって、オースの探窟組合へ非難が向くのは容易に想像できるものの、内憂外患、国家間の問題に発展しかねないため、さして大きくは取り上げられまい。

――研究所だけならともかくまさか国まで相手取るなんて、となまえは眼前の白笛を掲げた男に、改めて畏怖の念を抱いた。

「卿のお考えを聞いたときは、驚いてしまいました」
「そうでしょうか。探窟でも、起こりうる問題があらかじめ分かっていたら、対策を講じるでしょう? 二層“監視基地”へ向かう際はロープを多めに準備したり、五層で希少種のヤドカカエが活発化しているのを見付けたら、四層では巣を迂回したり……。今回もそれと同じです。対策が必要だったのですよ。……薬ばかりではありません。なにより危惧すべきだったのは、研究所や関連施設を配下に置く、行政組織……あの国では“機関”と呼ばれていましたね。あれらには考えを改めていただきたかったもので。驚くべきことに、彼らはこの五層に“前線基地イドフロント”以外の拠点を置こうと考えているようでした。かの国は、私たちほどアビスを知らないのです。奈落の枢機がどれほど奥深く、そして、この“祭祀場”跡がいかに特異な構造物なのか……。実現可能かどうかはともかく、遅かれ早かれ我々とぶつかったでしょう。今回の件は、機関にとって手痛い損害です。おそらく存続が危ぶまれるほどに。大きな組織が瓦解するとき、必ずその国のパワーバランスは崩れます。以前よりは柔軟に、あちらとお話する余地が生まれますよ。
――素晴らしい・・・・・すべて君のおかげです・・・・・・・・・・。なまえ、君には心からの感謝を」

不気味に輝くゾアホリックを背景に、ボンドルドがやさしく両腕を広げた。
よみするように、あるいはすべてを受け入れ抱き留めるように。
さながら宗教画めいた光景に、我知らずなまえは溜め息をこぼした。

――元来、他人よりほんのすこし抵抗力があっただけのひとりの子ども。
昔々、下水道から拾い上げられた子どもは、実験で様々な毒物を投与された。
生存を前提としていない実験の数々は苛烈を極めた。
そのうちのひとつは、いま現在、カートリッジを加工する際、恍惚と恐怖を調整する薬剤として利用されている。
死に体の子どもは奇跡としかいいようのない確率で生き残り、結果・・、なんと耐毒どころか血清療法に用いる抗体をも手に入れた。
実験の産物たる体からは、いくつかの感染症を予防する薬をつくり出すことができる。
抗毒素を持つ肉体そのものが、薬であり毒である。
そして子どもは祈手となった。

なまえの溜め息はふるえていた。
まぎれもない歓喜で。
めいじられた任務を完璧にクリアできた「結果」に、爪の先までびりびりとしびれるような幸福に満たされる。
どんな毒物を摂取しようと、これほどのしびれも喜びも感じない。
生きることは喜びだ。
結果を残すのは、その祈手にとって生きることだった。
生きているからこそ結果を出せる。
結果を出せるからこそ生きている。
喜びに満ちた生を謳歌せよ!

「ありがとうございます。卿が協会や組合に根回ししてくださらなかったら、ここまでスムーズには運ばなかったでしょうけれど。お役に立てたなら幸いです」
「勿論ですとも。毒の耐性だけではありません。今回の件、製薬技術にも秀でた君が適任という判断は正しかったのですね」

飽きもせずボンドルドから与えられる賛美で、飽和してしまいそうだ。
結果を出したあとの充足感は、己れの精神に己れ以外のものが混ざる瞬間と似ている。
自分の「暁に至る天蓋」に着替え、精神隷属機に接続しなおしたなまえが覚えたのは、なによりも安堵だった。
――なにせ、ひとりきりは寂しい・・・・・・・・・
自分の内界に自分ひとりしかいないのを「孤独」と感じるようになったのは、ひとりではなくなってからのことだ。
硬い頭蓋骨の中身へ、やわらかい脳髄へ、直接手を差し入れられるかの如き言語に絶する感覚が、地上にいる間、ずっと恋しくて堪らなかった。

「光栄です。卿も同僚もいないところで、素性を隠してフェローに徹していたのが報われるってものです。……体がなまっていないといいんですが」
「ふふ。そういえば君は久しぶりの地上滞在でしたね。ゆっくりできましたか」
「いえ……ずっと研究所で寝泊まりしていましたし、あまり五層ここと変わりませんでした。食事もたいてい、携帯食料で」
「おや、海外の料理は口に合いませんでしたか」
「うーん、独特の香辛料というか……強いにおい全般が、わたし、どうにも苦手で。酒は美味しかったんですが……。他の祈手たちにいくらか土産にみつくろってきたので、卿から回してあげてください」
「これはこれは。そんなところにまで君は心が行き届くのですね。なまえ、ありがとうございます。彼らもきっと喜びます」

やや堅苦しかった事後報告を離れ、お褒めの言葉という満点評価まで万事受け取り、ようやく肩の荷が下りたところでなまえは仮面を装着した。
独特の呼吸の塩梅に、やはり人心地が付くのを感じる。
外套も仮面もひどく懐かしく思われる。
が、深界五層ではさして時間は経過していないだろう。

なまえにとって喫緊の問題は、割り当てられた自室の掃除が必要かどうか、だった。
ゾアホリックによる影響が不透明だったこともあり、出立前に部屋をまっさら――私物をきれいさっぱり廃棄してすっからかんにしていた。
とはいえほこりくらいは溜まっているだろう。
一切合切すべて捨てることはできても、整理整頓やら掃除やらが、なまえは心底苦手だった。
研究所で仮眠室に住み着いていたのもそれが理由のひとつである。
「自宅」などというものを構えては、片付けたり痕跡を消したりするのが億劫だったのだ。
要る要らないの判断が面倒なのよね、となまえがこっそり悩んでいる最中、ふと思い出したことがあった。
ほんの些細なことだが、一応、上申しておいて損はあるまい。
世話に砕けたついでに、紫色の燐光を放つ仮面を「そういえば、卿、」と振り仰いだ。

「出すぎた進言かとは思いますが、ひとつ気になった点が……」
「おや。遠慮せず、なんでもおっしゃってくださいね。記憶や経験……詳細な知覚は、ゾアホリックに接続しても、十全には引き継げないものですから。私が完全に同期する必要があります」
「ああ、いえ、そんな大したことではないんです。同期も必要ないです。ただ、あちらにいる間、依頼内容に対して、条件や報酬金がアンバランスではないかと思って……」
「依頼内容? アビスでの探索依頼でしょうか」
「はい。研究所で必要だったので、今回、探窟組合を通して“毒サンプルの収集”の依頼をかけましたよね。しかし赤紗草も痺れ草も、二層以降に下りればすぐに採取できるものばかりです。毒草の分布的に、蒼笛でも可能です。報奨金が四〇〇〇オースというのは、高額すぎるんじゃないでしょうか」
「おやおや。この成果には、むしろ安すぎるくらいですよ。毒の収集に当たった探窟家にも影響が出かねないと考えて、黒笛と指定していましたが……」

ボンドルドの発言に、なまえは仮面の下で苦笑した。
彼にとって四〇〇〇オース程度の支出は、なんの差し障りにもならないのだろう。
目先の利益より遥かに深謀遠慮を巡らす、名実共に「前線基地イドフロント」を預かるに相応の白笛。
なまえ自身、地上では「所長の手際は、いつ見ても惚れ惚れします。どこで学んだんですか」と、研究員たちからの手放しの称賛に事欠かなかったが、それもこの一見柔和かつ慇懃な「黎明卿」に比べれば、児戯のようなものだ。
あらかじめ手回しがあったとはいえ研究所を預かる責任者をして、畏敬の念を持たざるをえないなにかが、白い笛を首からさげる男にはある。

毒性学にはいくらか造詣はあれど、ひとの上に立つ経験などまるきりなかったなまえが、研究所の所長などという大役を仰せ付かるにあたって参考にしたのは、他でもないボンドルドだった。
耳ざわりの良い言葉、落ち着いた抑揚、相手を尊重する態度、意思の疎通や理解を諦めない辛抱強さ。
おかげで、ひとり残らず死んだ研究員たちも、すくなからずなまえを慕っていたように思う。

とまれ、集団のリーダーとして手本にぴったりの「黎明卿」も、ひとの機微にいささか疎い傾向きらいがあるのは否めまい。
軽く握ったこぶしを顎に当て、なおも思案しているボンドルドに、なまえは「卿のお考えを伝えるわけにもいきませんから」となだめるように釈明した。

「組合の者といっても、直接、探窟家たちとやり取りする末端はなんの事情も聞かされていないでしょう。依頼内容と報酬が釣り合っていないと、不慣れな者ならともかく、熟練の黒笛は警戒してしまうと思います。おおやけには依頼主は組合になっていましたが、実際、なにかしら勘繰ったのか、依頼を受けてくれる黒笛がなかなか見付からなかったらしく……組合員も苦心していたみたいです。彼らはこちらの目的や思惑なんて知りませんもの」
「なるほど、確かにおっしゃる通りです。要らぬ警戒をさせてしまうのは、私も不本意です。なまえ、本当に君の配慮や洞察には、感謝しなければなりませんね。次からはその点も考慮しましょう」

目端が利くおのが探窟隊の隊員の進言を注意深く聞いていたボンドルドは、素直に非を認めてうべなった。
夜明けの異名を冠する「奈落の星ネザースター」は、相手が誰だろうと学ぶ姿勢をおこたらず、良いところは良いと手放しに褒め、悪いところは共に改善しようと我が身のことのように寄り添ってくれる。

今度こそ伝えるべきことをすべて伝え終えたなまえは、裾を払い、深々と腰を折った。
粘性を帯びた毒液じみてぬめる遺物を背に、姿勢良く立つ男――まがまがしい紫色の燐光、掲げた白い祈る手へ、恭しくこうべを垂れる。
邪魔な研究所、ひいては国ひとつに一撃を与えるという結果を残した祈手は、誇らしげに辞去を告げた。

「それでは、末席をけがさせていただきます」
「ええ。なまえ、アビスでまた君と共に、研究に打ち込むことができて嬉しいですよ。私も励みになります」
「身に余るお言葉です、黎明卿」


(2022.10.23)
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