気分が悪くてうずくまった。
辺りにひとの気配はない。
常に低く響いている特有の稼働音以外、物音もしない。
だから人目を気にすることなく存分に、僕は吐き気に襲われることができた。

この場でなにもかも忘れて嘔吐するのをためらったのは、ここがアビスのなかとはいえ、「前線基地」という施設の内部だからだ。
子どもたちだって通る共用の通路に、吐瀉物をまき散らすのはいくらなんでもためらわれる。
アビスでの探窟中なら、嘔吐だろうと排泄だろうと、どこでだってできる。
生理現象のために場所やタイミングを選り好みするのが心底無駄だと、赤笛を卒業する頃には誰だって学んでいるだろう。
なのに、ここがたくさんのひとがルールを守って生活している建造物のなかだと思うと、途端に生理現象をそこらで満たすのを躊躇する。
場所を弁えようという意識が芽生える。
おかしなもんだ。
周囲の環境で、人間は自分の行動を変えるんだから。
体のなかのものを外に出すという行為自体はなにも変わらないのに。

もし仮にいま、ここを拠点にする探窟家たち――「黎明卿」新しきボンドルドに従う「祈手」の誰かが偶然通りがかったら……なんて、想像したくもなかった。
仮面も持たない余所の探窟家がまた吐いてるよ、と笑われるかもしれない。
まだ慣れていないんだよ五層ここに、と。
僕だって黒笛だ。
ちっぽけなプライドはある。

――だから背後からためらいがちに声をかけられたときには、本気で驚いた。
それが女性のものだったから、余計に。

「あの、大丈夫……ではないですよね。ええと、歩けそうですか? いまなら仮眠室、空いているはずですよ。それとも、医療担当を呼んできた方がいいかな……」

やさしく降ってきたのは、僕を気遣う声だった。
いまにも吐いてしまいそうなのも忘れて、ぽかんと口を開けたまま顔を上げた。
きっとそのときの僕は、ひどく間抜けな表情をしていたに違いない。

「黎明卿の探窟隊には、女性もいたんですね……」

まさか開口一番にそんなセリフを向けられるとは思っていなかったんだろう。
背の低い祈手は、ちょっとだけ首を傾げたみたいだった。
他の祈手と同じようにフルフェイスのヘルメットで覆われているため、表情を確認することはできないけれど、もしかしたら目を丸くしていたのかもしれない。

「もしかして、女性の祈手に会うのは初めて? わたしを含めて何人かいるんですよ。……確かにこの外套、ぱっと見じゃ女だなんて分からないですよね。生地が硬いし分厚いし……。でも一般的な探窟着よりずっと丈夫なんですよ」
「あっ、いえ、そんなつもりじゃ、」

遠回しに失礼なことを言ってしまった。
そう自覚した瞬間、吐き気もどころか血の気も引いて、勢いよく頭を下げた。
男性だろうが女性だろうが、よりにもよって「祈手」相手に言うことじゃなかった。

僕の慌てっぷりが余程面白かったんだろうか。
仮面の奥からくすくすと軽やかな笑い声が聞こえてきた。
聴覚が、屈託のない他人の笑い声を拾ったのは久しぶりだった。
――それまで溜まっていた疲労や、精神的に参ってしまっていたせいだろうか?
どうしてだろう、僕は彼女の笑い声を聞いて、途方もない安堵のあまり膝が崩れそうになったのだ。

「どうしたんですか? 顔色も悪いし、やっぱり医療担当を呼んで……」
「いや、大丈夫です……。ちょっと、驚いて。あなたは、他の祈手とは……違う感じがしたので」
「“違う”……?」

僕の言葉を繰り返して、不思議そうに仮面が傾いた。
そうやって感情を露わにするところも、他の祈手と接しているときには見られなかった仕草だ。

深界五層の最下部「前線基地」に詰めるようになって、まだ二週間――地上ではどれくらいの時間が経ったのか見当も付かないけれど、日ごとに、僕は気がおかしくなっていくようだった。
首にさげる笛が何色だろうと、一度でもアビスにもぐったことのある探窟家なら、きっと「黎明卿」に尊敬や感謝の念を抱かないやつはいない。
必須の探窟道具や携帯食料の改良は言うまでもなく、人足の多い登攀路とうはんろの確保だったり、様々な毒に対する解毒剤や免疫付与ワクチンの開発だったり――地上でもアビスでも、彼の功績を挙げればキリがない。
彼がいなければ命を落としていたひとの数は、きっと僕が考えているよりずっとずっと多い。
だから「前線基地」で勤めることができると、尊敬する「黎明卿」のところでその手伝いができると、僕は意気込んでいた。
もしかしたら浮かれてもいた。

なのに、朝と夜、一日と一日の区切りがなく、常に薄暗い「前線基地ここ」で過ごすうち、いつの間にか僕のなかになにかが芽生えていた。
はじめは気にならない程度の違和感。
ちょっとした違和感は、日に日に育っていった。
それはアビスでの探窟中、いつどんな原生生物に襲われるか予測できない、綱渡りのような状況で寝起きするのとは、また違った感覚だった。
なにしろ僕が違和感を覚えているものたちは、ルールを守って生活している構造物のなかで、寝食を共にして、会話して、意思の疎通が可能なのだ。
それがなおさら気味が悪かった。

なにを考えているのかちっとも明らかでない仮面の集団のただなかに四六時中いると、馬鹿らしい錯覚に陥った。
彼らに呑み込まれ、溶かされ、自分自身の存在すらあやふやになってしまいそうな錯覚。
自分がなくなってしまいそうな――それはひどく恐ろしい感覚だった。

――そうだ。
僕は怖かったのだ。
デザインに些細な違いはあるけれど、お揃いの黒い装備、なによりコミュニケーションに最低限必要なはずの、表情ってものを隠すフルフェイスのヘルメットのせいで、「祈手」と呼ばれる彼らはまるで、ひとのかたちをした群体――黎明卿を脳とするひとつの生命体みたいだった。
実際、更に下層にはそういう原生生物もいると聞く。

だから彼女に――「“あなた”じゃなくて、なまえって呼んでくださいね」と朗らかに笑ったなまえに、親しみを覚えたのは必然といって良かった。
生まれて初めてというほどの強い好意を抱いたのも、脇目も振らず一心にのめり込んでいったのも。

なまえはやさしかった。
僕の話をよく聞き、頷き、笑い、そして自分のことも語ってくれた。
僕らは暇を見付けては、いろんなことを話した。
お互いの故郷の話、残してきた家族の話。
好きな食べ物や苦手な原生生物といった当たり障りのないものから、いままで探窟中に発見した遺物や、はたまた死すら覚悟したアクシデントまで。
それからアビスでは採れない植物を使った料理についても。
「前線基地」で彼女が食事を用意しているところを僕は一度も見たことがなかったけれど、実は料理が得意なのだということもそこで初めて知った。
話題は多岐に渡り、いくら話しても尽きなかった。
どれも他愛ない話だったけれど、だからこそ沈んだように常に薄暗い、稼働する鈍い音が付き纏う「前線基地」では、まるでなまえの口からつむがれる言葉や情景が、遠い光、地上を照らす太陽のように感じられた。

――「あなたとは、ちゃんと、向き合いたかったの」。
初めて僕の前でなまえが仮面を外したときのセリフだ。
その下に目や口、人間のパーツがあることがどうにも不思議で、それだけ彼らの仮面を見慣れていたことに驚いた。
隔てもなく他人と接することが滅多にないからか、彼女も彼女で、なんとなく気恥ずかしかったらしい。
視線をうろうろさせながら「……そんなに、じっと見ないで」と顔を赤らめるなまえを、僕はたまらず強く抱きすくめた。

仮面どころか、いわく「生地が硬いし分厚い」外套の下まで彼女を暴いたとき、情けないことに僕は泣きそうになってしまった。
そっとふれた素肌は、この世のになによりやわかく、あたたかだったから。
頭の奥が溶けそうな、骨身が焼け焦げそうな、細胞のひとつひとつまで塗り替え埋め尽くされてしまいそうな喜びといとおしさ。
性行為そのものより、なまえのヒトらしい熱や感触を持った肌に、僕は目の奥が痛むくらい心を揺り動かされたのだ。

――だから、彼女を連れて、この深界五層を脱しようと決意したのを、後悔はしていない。
子どもたちを使った実験に耐えられず、日々嘔吐を繰り返していた僕は、吐くことにも、ひとのかたちを保っていない死体を片付けるのにも、だんだんと慣れていった。
けれど――けれど僕は、なまえと出会ってしまった。
なまえは死にかけていた僕の心をよみがえらせてしまった。
ひとを大切にする気持ちを思い出させてしまった。
なまえとふれ合うことによって持ち直した僕の心が、もうここにはいられないと、こんなことを続けられないと叫んでいた。

逃亡の決意を伝えたとき、なまえは「どうしてそんなことを……」と顔色をなくしていた。
けれどいつもみたいに僕の話をじっくりと聞き、しまいには「あなたは間違っていないわ」とふるえる声で頷いてくれた。
僕は彼女の手をしっかりと握り締めた。

「なまえ、君も一緒に来てほしいんだ」
「わ、わたしも……?」
「ああ。僕は君と生きていきたい。これからもずっと。明るい日の下で。……君をこんなところに残してはいけないよ」

この誘いは、僕にとっても賭けだった。
もしもなまえが黎明卿へ告げ口したら、即座に僕は廃棄槽から真っ逆さまに落ちるだろう。
けれど、僕には確信があった。
断られることはあっても、彼女はそんなことしないって。

なまえはずっと悩んでいるみたいだった。
当然だ。
装束も仮面もお仕着せのものに身を包んだ「祈手」と呼ばれる黎明卿の探窟隊は、余所者の僕が「一個の生命体」と感じるくらい、強固に繋がり合っている。
その一部である彼女に、どれだけ酷なことを要求したのだろう。
どれだけの覚悟が必要だっただろう。
けれどやっぱり最後には、なまえは「あなたと一緒なら」と頷いてくれた。

――どうして彼女みたいにやさしいひとが、ここに居られるのか、研究に携わることができるのか。
そう疑問を抱いたのは、なまえと親しくなってすぐのことだ。
さすがに正面から尋ねることはなかったけれど。
彼女がどうして黎明卿の探窟隊に所属しているのか理解できなくても、探窟家にとってこれほど侮辱的な問いはないということは、僕にも理解できたからだ。

僕個人の事情や考えになまえを付き合わせてしまうことを、心から申し訳なく思ったのは嘘じゃない。
――でも、心のどこかで、なまえの覚悟を喜んでいたのも事実だった。
探窟隊にとって、隊長はなにより大きな存在だ。
隊を導くひと、隊のあり方を示すひと、自分の命を賭しても、預けてもいいと思えるひと。
ある意味、自分自身より大切な存在だ。
探窟中、もし自分ひとりが犠牲になることによって隊が存続するのなら、命を断つことだっていとわない。
同時に、共に歩み、共に食べ、共に眠り、共に死線をくぐり抜けてきた探窟隊の隊員たちもまた、それに等しい。
生半可な困難も逆境も揺らぐ理由にならない、血より濃い絆で結ばれた一枚岩の集団――それが「探窟隊」というものだ。
ただでさえ更に過酷な層へ下りる白笛の隊の結束は、今更僕なんかが言うまでもない。

――けれどなまえは、そんな隊長より、隊員たちより、僕ひとりを選んでくれた。
ひととして許されない行為に手を染めながら、それでもひととしてのプライドを捨てられず、「前線基地」の通路でうずくまり、嘔吐もできずにいた僕を。
その喜びは、到底言葉では言い尽くせない。
なまえに報いたいという思いが、ますます僕を駆り立てた。

逃亡が露見して追手がかかるのをすこしでも遅らせるため、僕たちは別々に「前線基地」を出て落ち合うことにした。
地上へ出たら、僕は黎明卿が行っている実験や研究、すべてを暴露するつもりだ。
はじめは知らずにとはいえ、非人道的な行いに加担していたと発覚すれば、僕だって非難やそしりを受けるかもしれない。
それでも構わなかった。
いくら人類の発展のためとはいえ、あんなことが許されて――これからもずっと続けられていくなんて、許されるはずがない。

時間にして二時間くらいだろうか。
なにもない殺風景な砂氷地帯でなまえを待っていた僕は、思わず目を丸くした。
やっと現れたなまえは、大きなリュックを背負っていた。
地上への道のりを鑑みても、不釣り合いなほど大きなリュックだった。

「……大荷物だね」
「ごめんなさい。もうあそこにはいられないけど、やっぱり研究は諦められなくて……。どんな内容であっても、わたしが生きてきた軌跡だもの。研究に必要なものを置いていけなかった」

きっと貴重な機材やデータが詰まっているんだろう。
リュックのショルダーハーネスをぎゅっと握って、なまえは申し訳なさそうにうつむいた。
彼女だって黒笛だ。
僕がわざわざ指摘しなくたって、途中でトラブルに見舞われて、大事な荷物を手放してしまわなければならない事態に陥る可能性は、十分に理解しているだろう。
彼女の大荷物がもう「前線基地」へ戻ることはない決別の証だと思えば、それもまたいとおしかった。
ハーネスを握っていたこぶしをほどかせ、勇気づけるように手を握る。

「行こう、なまえ。僕たちならきっと無事に地上まで辿り着ける。そうしたら、一緒に暮らそう。君の研究も手伝うよ。ああ、それにほら、前に教えてくれた料理があっただろう? アビスじゃ食べられないって言ってた。あれも食べてみたいな」
「ええ、ええ……勿論よ。ありがとう。あなたと一緒だもの。わたし、怖くないわ」

祈手の象徴である仮面は置いてきたんだろう。
緊張で声はふるえていたけれど、真っ正面からしっかりと僕を見据えたなまえの瞳は、強い意思に輝いていた。

とはいえ、手に手を取っての逃避行は、熾烈を極めた。
深界五層は垂直方向に短い反面、アビスの他の層より比べ物にならないほど広い。
五層の端の方にある「前線基地」から、そもそも穴の中央へまでが遠い。
代わり映えしない白い景色がどこまでも続いている。
いくら歩いても果てがないんじゃないか。
僕らはどこにもたどり着けないんじゃないか――虚無感と、恐怖に襲われる。
視界がひらけているのは、敵を見付けやすいのと同時に、こちらが見付かりやすいということでもある。
いつ追手が来るかと全方向へ神経をとがらせながら必死に足を動かし続けているのに、まったく進んだ気がしない。
たまに深度計を確かめるけれど、さっきまでより上がっていたり下っていたりと、わずかな昇降を示す以外、なんの役にも立たない。
もしもなまえがいなければ、情けないけれど恐怖に駆られてがむしゃらに走り出してしまっていたかもしれない。
踏み締めるたび、ぎゅ、とわずかに沈む砂のような地面も、体力、気力を奪う一因だった。

――先に膝を着いたのは、僕だった。

「いや、おねがい、わたしを置いていかないで……!」

なにか聞こえると思ったら、大切なひとの声だった。
なまえが叫んでいるのを耳が捉えた。
何十にも重ねた布の向こうから漏れ聞こえるように、もやもやと聞き取りにくい声だった。

五層の上昇負荷は、全感覚の喪失と、それに伴う意識混濁、自傷行為。
呪い慣れしているなまえが異変に気付いて、即座に足を止めたおかげで、感覚のすべてを失うことはなかった。
だけど僕は立っていることができず――というより立っているのか横になっているのか、そもそもどこが上で下なのか、はっきりしなかった。
自分を中心としてひとは前だの後ろだの判断しているんだということを、今更ながらに痛感した。
失神する直前、一瞬だけ感じるはずの気持ち悪い浮遊感が、何十倍、何百倍にも引き伸ばされる心地だった。
全身が痙攣しているのを他人事のように感じる。

どうやら僕は倒れ込み、なまえに抱き締められているらしかった。
黒い手袋を取り払ったなまえの手が僕の素手をぎゅっと握る。
火傷痕や縫合痕の残る。傷だらけの手だ。
探窟家の手だ。
僕と同じ。

「なまえ……」
「なに、どうしたの、」

僕は自分が、いま大声を出しているのか、それとも吐息だけしかこぼせていないのかすら判然としなかった。
この言葉が彼女に伝わればいい、ただそれだけを願って必死に口を動かす。

「ッ、僕ね、いま……すこし、安心してるんだ……。どうしてだか、わかるかい?」
「いや、分からないわ、どうして、」
「ぼくが、ここで死んでも……きみなら、れいめいきょうも悪いようにはしないだろうから。きっと、戻ってもだいじょうぶ……。なまえ、もどって。こんなところで死んじゃだめだ」
「でも、でも……いやよ、一緒に暮らそうって言ったじゃない。一緒に……美味しいものだって食べて、ねえ、わたし、料理をするわ。あなたのために」

聞き分けの悪い子どもみたいになまえが取り乱すところを、僕は初めて見た。
頬に落ちてくるしずくの感触で、彼女が泣いていることが伝わってきた。
腕を持ち上げて「泣かないで」とぬぐってあげたかった。
頬にふれて、髪を撫でたかった。
なまえが無機質な仮面を外して、押し込められていた髪が流れ落ちる様子も、すこし癖のついた髪をすくのも、僕は大好きだった。
最後にもう一度、なまえの素顔を見たかった。
自分の目が開いているのか閉じているのかさえ、もう僕は分からない。

「なまえ……きみに会えてよかった……」
「わたしも……わたしもよ」

ぽたぽたと落ちてくるしずくはあたたかいけれど、僕の頬を伝い落ちる頃には冷えているのが惜しかった。
ああ、もしかしたらあの「前線基地」で僕と同じ「人間」は彼女だけだったのかもしれないな、なんて。

僕の手を泣きながら握り締めるなまえを、やわらかくてあたたかいひとを、あんなバケモノ共がうごめく奈落に、ひとりきりで残していくことだけが、心残りだ。

・・・


かつて赴いた極北の地で初めて目の当たりにした雪景色は、否応なしに深界五層の凍原や砂氷地帯を連想させた。
しかし物珍しさに凝視しようものなら、日光の照り返しにより刺された目が痛んだ。
似て非なる雪景を前にして、遠い奈落の五層へしみじみ思いを馳せたのは、おそらく随伴した祈手ばかりではあるまい。

渺々びょうびょうたる深界五層「なきがらの海」。
視界を遮るものは波めいたラインを描く小高い丘くらいとあって皆無だが、なにしろ果ては視認することが敵わず、見通しは著しく悪い。
単調な白い景色はどれだけ歩を進めようと代わり映えせず、目も耳も鼻もさして役に立たない。

力場のせいで気圧計を使用できぬアビスでは、唯一、深度計だけが杖とも柱とも頼むべきしるべだ。
とりわけ「なきがらの海」において視覚ほど頼りにならないものはない。
人間は見えているものの前後関係や自分との距離を、奥行き――遠近感によって把握している。
目から入った空間情報を、これは大きいため近くにある、あれはちいさいため遠くにある、と大きさの「差」を脳で解釈することにより、遠近や位置関係を認識しているのだ。
パースペクティブは先天的ではない。
幼い頃からの経験や訓練により習得していくものであり、そうしてそなわった感覚は生半可な習慣や意識では到底覆られはしない。
しかしながら「なきがらの海」ではその遠近感をいっしやすいものだった。
なにしろ遠近感を測る手立ては、一面の白い景色には皆無。
肉体的な疲労の蓄積しにくいゆるやかな斜面を深度計もなくただ歩くだけで、己れがどれほど上へ移動したか自覚できぬまま、皆一様に気付いたときには上昇負荷により膝を着く。

おのが状態すら曖昧にせしめる一因、白くけぶる原因は雪ではない。
砂岩をはじめ、微細な骨片や生物の欠片が、うず高く堆積しているためだった。
対策をおこたって長時間吸引していると咽喉や肺臓が傷付くおそれがある。
雪明かりに輝く髪を掻き上げると、なまえは手早く装備で口元を覆った。
リュックから取り出した仮面を再び着用する。

刻一刻と冷たくなりつつある死体を見下ろす。
それはただの死体だった。

「……なにがダメだったんだろう?」
「君は研究熱心ですね」

舌打ちせんばかりに顔をしかめた祈手に答えたのは、冬野を吹きすさぶ力場のたわみではなかった。
ぎゅ、と粒子の荒い欠片を踏み締める音が、なまえの鼓膜を叩いたのだ。
いつの間にこれほど接近を許していたのか?
やおらなまえが振り向くと、果たしてなだらかな谷をゆく風を裂くように黒い影が近付いてきた。
「なきがらの海」を黒々と刻む装束は、さながら覗き込む奈落じみて不可逆。
なまえへ歩み寄った男は、感に堪えないとばかりに「これはこれは……」とこぼした。
揺れる語尾は恍惚を孕んですらいた。

「なにか企んでいるようだとは思っていましたが、驚きました。――ああ、まさかなまえ、君が白笛・・
……“命を響く石ユアワースをつくり出そうとしていたとは・・・・・・・・・・・・・・

永劫ほどけることのない、祈る手をかたどった楽器を首にさげるのは、「黎明卿」新しきボンドルド。
両の前腕ぜんわんに「呪い針」や「枢機へ還す光」を装備した彼は、謳うようによどみない足運びでなまえの脇に佇立した。
平生から穏やかな語調が崩れることは決してないとはいえ、いつになく昂揚に弾んだ声でボンドルドは「驚きました」と繰り返した。

「祈手個人の研究はそれぞれの自主性に任せています。ですが、いえ……だからこそ、なまえ、君の着眼点にはいつも驚かされます。――祈手による“絶界行”……私が完全に同期していない状態でも、可能になれば便利ですよね。探窟の幅も広がります。とはいえ一度、“命を響く石ユアワース”を生成する研究は頓挫してしまいました。四名もの祈手が協力してくれましたが、残念ながら、我々から白笛をつくり出すことはできないのです。同時期に、カートリッジの開発に専念しはじめたという理由もありますが……。一旦凍結させたのを諦めず、こつこつ続けるのは大切なことです。そこからもたらされる新たな発見や糸口もあるでしょう。――素晴らしい。なまえ、君の自主性に謝意を」

奈落の闇を切り拓く「夜明けの星ネザースター」はゆったりと両腕を広げた。
差し伸ばした手は、自分の隊員の行為すべてを受け入れるかのよう。
勝手な行動を叱責されるどころか、拍手でもせんばかりに賞讃を浴びせられ、なまえは年端もゆかぬ幼な子めいて素直に口を曲げた。

「失敗してしまいましたが。……折角、抱かれまでしたのに。いい思いだけして死ぬなんて業腹です」
「おやおやおや……実験は構いませんよ。ですが、どうか体を大事にすること。……守れますね、なまえ? 目標を達成するために努力を惜しまない、君の姿勢や熱意は素晴らしいものです。とはいえそれで君を損なっては元も子もありません」
「勿論です。この身は、卿、あなたのものですから」

自信と矜持に満ちた、おごそこかさすら感じられるなまえの声音。
優秀な生徒の研究発表を愛でるようにボンドルドは頷いた。
さながら宣誓じみたなまえの物言いは、精神、思念のみの存在となった彼の意識をも満足させるに足る響きだったのだ。

――結果的に至ることはあろうが、五層の上昇負荷ではヒトは死なない。
気取られぬよう細心の注意を払ったとはいえ、意識も感覚も鈍っていたため死人本人は気付かなかっただろう。
直接の死因は、なまえがその頸椎を砕いたことによるものだとは。
あたら徒労に帰した黒笛の死体を視一視すると、ボンドルドは小首を傾げた。

「それで、彼は石を遺さなかったのですね」
「はい。なにか条件があるんでしょうか。つくるのは“祭祀場”内でなければいけない、とか。それとも、異性間――同性でも構いませんが……肉欲を伴った性愛では効果がないんでしょうか。手っ取り早いとはいえ、“愛情”には違いないと思ったんですが。あと考えられるのは……年齢を重ねると精神や意識が複雑化するから、ひとりだけに感情を向けにくいとか? 子どもたちと違って」

ひとつずつ考えをまとめるようになまえがぽつりぽつり呟く。
独特なラインを描く青い光が仮面をはしる。
結果を分析するおのが隊の隊員に、ボンドルドも顎へ手を当て、鷹揚に「そうですね」と応じた。

「ヒトとヒトとの関係は複雑です。他者の意思を知るためには、その言葉が必要でしょう。ですが、口から出るものが必ずしも本心とは限りません。違う考え、価値観、思惑……それらが常に重なり合っているからです。自らを取り巻く環境や立場から、ヒトは簡単には離れられません。だからこそ話し合い、ぶつかり合い、相互に理解し、受け入れて許し、あるいは妥協を積み重ねます。そうしてヒトとヒトは関係を築いていくのです。それが、“社会性”。ヒトとヒトとの営みというものです。子どもたちにはまだ希薄なのは事実ですね。見知る他者がすくないうちは、当然のことです。意識の複雑化に関しては、これからも研究を続けましょう。“命を響く石ユアワース”については、先行研究を参考にしたいところですが……なにしろ現存している白笛は数すくない。先例に当たるにも、笛となった人物について、その性質上、口が堅くなりがちです。……それでなくとも、白笛は一筋縄ではいかない方々ばかりですしね」

「絶界行」のための「前線基地」を預かる白笛は、長口上をやや居丈高に締めくくった。
前半はいかにも紳士然とした弁口だったが、途中から滲んでいたのは珍しくも非難の色である。
余程、並み居るお歴々に思うところがあるらしい。

どんな実験であれ、再現性のため、成功例を参考にするのがオーソドックスかつ不可欠な手順だ。
しかし彼の言う通り、他の白笛の面々へ尋ねたとしてもまともな回答は得られまい。
ひるがえって最も身近な「ボンドルド」という白笛の場合、他者との浅からぬ関係を欠くべからざる「命を響く石ユアワース」において、その実存を要さないときた。
人知の及ばぬ奈落の深淵も、よもや自分ひとりで完結する者が現れ出るとは予想だにしていなかったに違いない。
――手本とするにはいささか難があるだろう。

「とはいえ、どんな研究にも試行錯誤は欠かせません。なまえ、追試を行うのは重要ですよ」
「それでは、また試しても良いですか?」
「ええ、構いませんとも。ですが使用する素体については、前もって申請してください。別に使用目的を設定している場合があります。それに、実験中、私から助言を差し上げられるかもしれませんからね」

なまえは従順に「はい、黎明卿」と首肯した。
身をていした実験が失敗に終わろうと、モチベーションを欠いた様子は微塵もない。
研究熱心な祈手をボンドルドはやはり満足げに眺めると、紫色の光を「さて、」と足元の死体へ転じた。

「考察や議論は尽きませんね。ですが、なまえ、まずは腑分ふわけしましょう。彼の骨や臓器を無駄にしたくない。君もそう考えて、倉庫から搬送用のクーラーや保存液をこっそり持ち出して来たのでしょう?」
「……お見通しでした?」
「ええ。その大荷物では運ぶのが大変だったでしょうに」
「空容器だけなので、見た目ほど重くはないんです」
「ふふ。後でちゃんと資材保管担当に謝りましょうね」
「う、無断で拝借したのは確かに悪かったけど、やっぱり叱られますよね……」
「君の研究のためです。きっと大目に見てくれますよ。私も口添えしましょう」
「ありがとうございます、卿」

死体が背負っていた荷物はボンドルドが担ぐことになった。
探窟の必需品ばかりで大したものはなかったが、資源豊かとはいいがたいここ深層五層においては、何にまれ物資を無駄にはできない。
「卿のお手を煩わせるつもりは」と恐縮しきりのなまえを、ボンドルドは「ですが、ふたりならより効率的です」と正論で封じ、彼らは手早く解体処理を済ませた。
骨片も神経も余すことなく丁寧に採取する見事な手腕は、もしもこの場に局外者がいたなら感嘆と畏怖の溜め息を吐いていたに違いないほど。
切り分けられ、随分とちいさくなった死骸は、堆積する白い海に呑まれ、埋もれ、日ならず見分けが付かなくなるだろう。

ボンドルドとなまえは連れ立って五層最下部「前線基地」へ帰投した。
寒々とした「なきがらの海」に熱心に語り合う声が細く長く響く。
――「卿、我々祈手は、カートリッジに詰めても使用できなかったんですよね。“命を響く石ユアワース”も同じように、精神性によって成り立つ存在へ宛ててつくり出すのは難しいんでしょうか?」
「いえいえ。その点は“私”という成功例があります。それに、以前、ナナチたちが“絶界行”のために基地を訪れましたよね。あのとき私は、子どもたちのおかげで“祝福”の姿を得ることができました。“呪い”や“祝福”……アビスがもたらすものには、ヒトであると……生物であるという判定を、要さないのでしょう」
「ですよね。うーん、じゃあやっぱり、単にあの黒笛がわたしを大して思っていなかっただけってことか。……すみません、卿、男性の目に魅力的に映る所作や話法ってありますか?」
「おやおや。なまえ、君はそのままで十分、魅力的ですよ」――後略。


(2022.10.14)
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