(※「拍動のスプーン」の続き)




「……どうしたどうした、そんなアンニュイな溜め息ついちゃって」
「言うに事欠いてアンニュイって」
「じゃあなんだ、うーん……ちょっと色っぽい?」
「……黎明卿に相談する? グェイラにもうちょっとお休みをあげてくださいって」
「……寝言は寝て言えってことか?」
「おお、伝わった」
「おお伝わった、じゃねーんだよなぁ」

軽口の合間も、お互い手は止めない。
持っていた膿盆を手渡すと、グェイラは慣れた手付きで処理した。
わたしが指示しなくても、次いで「あいよ」と縫合糸を切るのためのハサミを渡してくれる。

相変わらずひとをよく見ている。
お互い集中はしているし、軽口を叩けるくらい慣れた作業だったから、次になにが必要かは把握しているだろう。
とはいえ必要なものを必要なタイミングでやり取りするグェイラの器用さは、相手をよくよく観察しているからこそのものだ。
黎明卿の臨席が必要じゃない、小規模な実験や手術で他の祈手とツーマンセルを組むことはたまにあるけれど、それがグェイラ相手だととてもやりやすいものだった。
戦闘向きだろう恵まれた体格なのに基地内での勤務が多いのは、こういう気が利くところを重宝がられているからかもしれない。
それでいて観察されているという不快感をちっとも与えてこないし、なんなら言動は、こちらが身構えているのが馬鹿らしくなる軽薄っぷりだ。
地上だろうと、ここ「前線基地」だろうと変わらない気取らなさは、わたしだけじゃなくて、きっと他の者にとっても親しみやすいものに違いない。
だからこそ黎明卿も大切な子どもの世話をお任せになったんだろう。
巨体といっていい体躯はぱっと見て威圧感を与えかねないのに、彼はその面倒見の良い気質や気さくな物腰でよく懐かれているみたいだった。

「お疲れさん。さーて、片付けすっか」
「グェイラこそお疲れ。作業台の高さ、わたしに合わせなくても良かったのに。屈むの大変でしょ」
「あー、腰にすっげぇ来るのはそうなんだけどさ。なまえだけじゃなくて、正直、ほとんどのやつとは合わねぇから。慣れたよ」

飄々と嘯きながら、グェイラがぐっと伸びをする。
一応「片付け、わたしだけで大丈夫だよ」と申し出たけれど、さらっと却下されてしまった。
作業を無事終えて、汚れた医療用手袋を廃棄する。
結局、ふたりで手術台や室内の清掃を済ませた。
このあとは「絶界の祭壇」を中心としてぐるりと回った反対側、保管庫へ、使用した備品やら薬品類やらを戻さなきゃならない。
少々面倒ではある。
だけど、まかり間違っても子どもたちがふれちゃダメなものも多数含まれているとなれば、彼らの生育区域に放置はできなかった。
ふたり分の靴音が、狭い通路に反響した。

「そういやそろそろだろうな」
「そろそろ? なにが?」
「またまた。なまえさんてば、今更カマトトぶるもんでもなし」
「……なにが言いたいのかはっきりして」

突然の呟きが妙に持って回った言い草だったから、わたしは首をひねった。
精一杯見上げていたせいで首が痛む。
グェイラほど上背があるひとに出会って初めて知ったことだったけれど、身長が大きく異なると、ものすごく声が聞き取りづらい。
音源から発生した音は、空気を振動させて真っ直ぐ進む。
声も音の一種だ。
発声すると、声は口の向き――つまり顔が向いているへ真っ直ぐ進む。
向かい合っているときは問題ない。
けれどこんなふうに並んで歩きながら会話していると、正面方向へ発された声はアンテナの指向性に似て、下方のわたしへは届きづらいものだった。
特別わたしの背が低いわけではないものの、ただでさえ仮面でくぐもった声は、真横にいるのにとにかく聞き取りにくい。
それもこれもグェイラの人並み外れた長身のせいだ。
「グェイラに肩車されたら上昇負荷がかかりそう」とは、祈手ジョークのひとつである。
本人の前で言おうものなら「試してみるか?」と追いかけられかねないけれど。
あれは見た目と相まってすっごく怖い。

グェイラもグェイラで横のわたしの発話が掴みづらいらしく、すこし背を屈めていた。
その姿に見覚えがあって苦笑する。
丸まった背のフォルムは、深界二層「 監視基地 シーカーキャンプ」に居を構える不動卿を思い起こさせる。
猫背というにも度を過ぎている、彼女のように癖にならないと良いけれど。

せめてもと懸命に顔を上げていたのに、そんな気遣いなんてどこ吹く風。
積極的に聞こうとするこちらの姿勢を、グェイラはあっけらかんとぶち壊してくれた。
疑問符を浮かべているわたしを見下ろし、彼はにんまり笑っているのが窺い知れる声色で頷いたのだ。

「なにがって、なまえが旦那に呼ばれんの。抱かれる頻度、だいたい月に一回くらいだったろ?」
「だッ!? だかれ、って、」
「にしても旦那も、月一でどうにかなるもんかねぇ。燃費いいな。俺なら絶対ムリ」
「ッ、グェイラ!」
「あーあー俺が悪かったから、ほら、そんな暴れなさんな。落とすぜ」

声にならない悲鳴をあげる。
殴りかかってやろうかとも思ったけれど、手にしているものの存在が暴挙を引き止めた。
トレイには、試験管立てに並んだ、円筒状のガラス瓶が複数。
手間でも保管庫へ運ぶくらいには重要度の高いものだった。

それでなくとも、長身を活かしてあっさりなされてしまう。
面倒がらず健気に見上げていたわたしの配慮を返せ。
いや、返そうと思って返ってくるものでもないけれど。
ひょいと首根っこを掴まれて、些細な抵抗を抑え込まれてしまう。

「もう、離して! ていうか黎明卿とはなんでもないって前にも言ったでしょ!」
「まあまあ、んな恥ずかしがらんでも。最初聞いたときゃあそりゃ驚いたけどさ。いいんじゃねぇの? なんつうか正直、安心したとこもあったんだよ。旦那も人間らしいとこあんだなぁって」

砕けきった口調とは裏腹に、どこか感慨深そうに見下ろしてくるものだから、仮面の内側で頬が熱を持つのを止められない。
――グェイラは、わたしが黎明卿に抱き締めていただいているのを知る数すくない者のひとりだった。

きっかけを思い返すだけで、壁に仮面ごと頭を打ち付けたくなる。
五層ここの時間で半年くらい前、いつも通り――というには一向に慣れる気配のない抱擁を終えて、雑に衣類を着込んだわたしは、卿のお部屋からよろよろと這い出た。
ただでさえお手間を取らせているんだから、せめて長居のご迷惑までかけちゃうわけには……なんて慌てていたのが良くなかった。
誰が想像できただろう。
金属扉を閉めたわたしの目の前に、なんの因果か、グェイラが立っていた。
いや、通路という共有スペースを偶然彼が通りがかったとして、非難される筋合いはない。
悪いのは、外套の留め金どころかその下のシャツのボタンまでかけ間違えるくらい頭が煮えていたわたしだ。

鉢合わせたグェイラとは、仮面越しなのに、なぜかしっかりと視線がかち合った実感があった。
わたしの乱れた衣服を見て、出てきた部屋を確認して、またわたしを見て。
一瞬の硬直ののち、グェイラは一言、言い放った。
――「え、事後?」と。
通路にいた彼も悪くないけれど、考えなしに「違う!」と絶叫したわたしも悪くない。
たぶん。きっと。
その場が通路であるのも、卿のお部屋の前ということもすっかり頭から抜けていた。
「前線基地」に詰めるようになって短くはない月日が経つけれど、あんなに大声を出した覚えは他にない。

結果、黎明卿に引き続いて二度目。
またも説明を繰り返すハメになった。
抱擁を欲しているという、口にするだけで羞恥のあまり逃げたくなるような説明を。
以来、グェイラは事あるごとに、卿とわたしの進展とやらを聞きたがった。
なんだ。
そんなに面白いのか。
――面白いだろうな。
なんせわたしだって、もしもあの・・黎明卿が祈手の誰かと特別な関係にあると耳にしようものなら、興味を引かれずにいられる自信はない。

「にしても旦那が女を抱いてるとこ、全然想像できねぇな。いや別にしたかないけど」

へらへら笑いながら「ゾアホリックっていう例があるせいかな。生殖は必要なさそうだし、そのまま増えそうっていうか」と、聞く祈手によっては殴られそうな不敬発言をしているグェイラの横で、わたしは肯定も否定もせずひたすら足を早めた。
彼の言わんとするところをなんとなく理解できてしまったなんて、口が裂けても言えない。

「セクハラで出るとこ出ても良いんだよ、グェイラ」
「出るってどこに」
「黎明卿のところ。もしくはギャリケーさん」
「いやいや、旦那か白外套って選択肢、脅しにしてもえげつなすぎるわ。旦那はともかく、後者は“くだらん”って一蹴されんじゃねぇの」
「そう? ギャリケーさん、やさしいよ」
「天下の死装束サマにやさしいて。そういや仲良かったんだっけ? 俺よく“図体ばかりデカくなりおって”ってどつかれんだけど」
「それはグェイラがどつかれるようなことするからじゃないの」
「お、言うねえ」
「このままではわたしだけじゃなくて数すくない女性祈手全体の士気や意識に関わりますって告げ口する」
「そりゃさすがに過言ってもんすよぉ、なまえさん」

背後でふざけた非難の声をあげているグェイラは、さしていた様子もなくのんびり着いてくる。
仮にわたしが全力で走ろうと悠々追いつけると分かっているから、こちらの反応で遊んでいるんだろう。
なにしろ身長だけじゃなくて、足の長さも持久力も大いに違うものだから。
それがまた癪である。

――そもそもグェイラはとんでもない勘違いをしている。
「旦那が女を抱いてる」発言から察するに、十中八九、卿と性的な関わりがあると誤解している。
けれど黎明卿とわたしとの間には、そんな事実はなかった。
色っぽいことも、熱っぽいことも、まったくない。
皆無。
深界四層「剣山カズラ」に生息するタマウガチと仲良く同衾するレベルでありえない。

初回は上半身と上半身をくっつけるだけだった抱擁も、折る指が両手でも足りないくらい回数を重ねる頃には、なぜかお互い一糸纏わぬ姿で行われるようになっていた。
なぜか?
わたしも分からない。
どうしてこうなったのかわたしも知りたい。
いや本当になんで?
目的、到達すべき結果のためなら一切の手段を選ばない黎明卿のことだから、効率を重視していらっしゃるのだけは分かる。
だからといってどうしてこうなったのかは理解できないけれど。
一糸纏わぬとはいえ、仮面は着けたままなのだから、傍目にはめちゃくちゃシュールに違いない。
ともあれ卿の「他の祈手たちと共有することもないとお約束します」というお言葉に嘘偽りはなく、グェイラのアクシデントを別として、儀式めいた皮膚と皮膚の接触はずっと続いていた。

ちなみに慣れる兆しは一向にない。
ひとの心臓が、一生に拍動する回数はだいたい決まっている。
黎明卿から抱き締めていただく間、毎度毎度わたしの心臓はここですべて打ち尽くす気かと怖くなるほど、尋常じゃなく早鐘を打っていた。
卿からも逐一「おやおや。心拍数が著しく多くなっています。なまえ、体調に異常はありませんか?」と問われるレベルで。
わたしもいい加減慣れたい。
いや素肌の卿に抱き締めていただいていて、それに慣れる日が来ると思うか?
無理だ。
絶対に無理。
動悸で息の根を止められるのが先に違いない。

最早、面目もなにもないけれど、黎明卿の名誉のために何度目かの釈明を試みる。
性的な欲求をわたしに向けているなんて誤解、なにより卿に対してあまりにも申し訳ない。
白笛である我らが上司にとって、抱擁はわたしの医療行為くらいの認識に違いないのだ。

「だからね、前にも言ったけど、黎明卿とはなんにもないの。抱き着くだけ!」
「でも脱いでんだろ? お互い」
「そ、そうだけど……」
「いやいや、それでなんにもないってのはさすがに無理があるだろ。せめてキスのひとつやふたつ……」
「ない。脱いでいても、仮面を外したことはない。会話もしない。抱き着く以外のこと、したことない」

つまらない思い違いを正すべく、力強く断言する。
一瞬、グェイラは毒気を抜かれたように口をつぐんだ。
が、一転、突然「はあ!?」と素っ頓狂な声をあげた。
うるさい。
あまりの騒々しさに耳を塞ぎたかったものの、依然、両手は塞がっている。
視認が無理なのは重々承知で、せめてもの抗議にしかめた顔をぷいと背けた。
けれどグェイラはいっかな意に介した様子もなく、「マジで?」とずいっと長身を屈めてくる。
圧迫するのはやめてほしい。
視界が彼で埋まって負荷が尋常じゃない。

「いくら相手が旦那とはいえ、服脱いだ男女がふたりっきりで密着して? なんにもありませんって? えー……」
「えーってなに」
「いやぁだって、そんなことある? マジかぁ……。旦那、インポの祈手の体とか使ってんのかな。あ、それともなんか抱けないレベルの身体的特徴とかあんの? なまえ」
「やっぱり訴えるね。一回本気でどつかれてほしい」
「や、割と真剣に尋ねてるつもりだよ、これでも」

理解が及ばないものを理解しようとする探究心ってやつ? といけしゃあしゃあ首を傾げられ、思いっきり口を曲げた。
詭弁じゃないかとは思うけれど、探究心というワードを出されると、どうにも弱い。
彼もそれを呑み込んでのセリフに違いない。
ああもう、本当に癪だ。

「……別に。グェイラがどんな下世話なこと考えてるか知らないけど、なにか起こるはずないでしょう。よりにもよって、わたしなんか相手に。卿はお時間を割いて付き合ってくださってるだけだもの。お手を煩わせて申し訳ないから、本当は、はやくやめなきゃって思っているんだけど……」

言葉を探しながらへどもど答えると、グェイラは「ふぅん」と呟いた。
自分から聞いたっていうのに気のない返答だ。
なんのつもりだろう。
ふと落ちた沈黙になんとなく居心地の悪さを感じていると、見上げるほどの長身が、いつの間にか距離を詰めて目の前に立っていた。

「なまえはさぁ。ハグしたいって悩んでたとこを偶然、旦那に見付かっちまって、そのまま相手してもらってんだよな?」
「……そうだよ」
「じゃあ、別に相手は旦那じゃなくても……例えばそうだな、俺とかでもオッケーってこと?」

祈手の象徴のひとつである仮面を、長年――それこそ装着したまま寝落ちしちゃうのに不便を感じなくなるくらい長く着けていると、顎を引いたり肩をすくめたりといった些細な仕草で、なんとなく大まかな感情は察せるものだった。
なにしろ周りにいるのは同じ境遇の同僚たちばかり。
顔面に表れる情報に頼らず、機微を読み取るのも、読み取らせるのも、必要なコミュニケーションの一部だった。
――なのに、さっぱり分からなかった。
短くない付き合いのグェイラが、いまなにを考えているのか。

「……なまえさ、考え込むと動作が一旦停止する癖、基地ここならともかく、そんなんで探窟作業に支障ねぇの?」
「誰のせいだと」
「俺のせいってことにしといていいよ。で、どうだ? 代わりっちゃなんだけど、俺が欲求不満の解消に付き合うってのは。旦那に手間取らせんのが気になるんだろ? 解決策としちゃそんなに悪かねぇと思うんだけど」
「欲求不満って言うのやめて。違わないけど」
「へいへい」

軽薄そのものの肯定に、治まったはずのぶん殴りたい気持ちがぶり返してくる。
グェイラはわたしの両手がトレイで塞がっていることに感謝すべきだ。

「……うーん、グェイラか……」
「え、まさか気がかりなの俺自体だったりする? これでも良物件って自負はあるんですけど」
「知らないよ。だいたい、意味分からなくない? “抱き着きたい”って。自分で言うのもなんだけど。面倒見がいいのは知っているけど、そこまで付き合う必要はないよ。グェイラにもメリットなんてないでしょ」
「んー……メリットってか、ある程度納得できる理由があるから旦那も付き合ってるんだろ。それに、なんかこう……たまにふわふわしたもんさわりたくなる気持ちは分かるよ」
「ふわふわ……?」

卿のお体はふわふわはしていなかったけれど、とこぼしそうになって慌てて口をつぐんだ。
おそらくグェイラもふわふわはしていないだろう。
見れば分かる。
わたしが求めているのはふわふわやらもふもふやらといった感触ではなくて「他人の素肌」なんだけれど、ひとによってその辺りは違うんだろうか。

グェイラか、とまた胸の内で呟く。
別に彼にさわるのも、さわられるのも、嫌なわけじゃない。
強いて難点を挙げるなら、あまりにも恵まれた体躯だから、なにか・・・あった場合、抵抗らしい抵抗が不可能なことくらいだろうか。
背丈だけなら戦闘用の祈手に引けを取らない彼を相手にするとなると、千人楔のひとつくらい欲しくもなる。
勿論、こんなくだらないことのために一級遺物をどうこうできるはずもないけれど。

「……変な気、起こさない?」
「いやぁ、そこはね。確約しかねるっていうか。旦那が特異なだけで普通はね、ほら」
「そういうとこだよ。ていうかグェイラはわたしで興奮できるの」
「できるできる。余裕でできる。働き詰めの男所帯の哀れっぷり、ナメてもらっちゃ困るぜ。用があるならともかく、細切れのオフに、わざわざ女抱きに上層まで行くヤツなんて、……いやまぁゼロじゃねぇけど……。部屋いっぱいに姫乳房コレクションしてるヤツもいるくらいだぞ。女体ってだけで拝むヤツもいるだろ」
「うわあ、聞きたくなかった……」

げんなりと肩を落とす。
なにが悲しくて男性諸君の飢えっぷりを知らなきゃいけないんだ。

グェイラは屈託なく笑いながら「生活区域も違うし、女性陣とはあんまり関わりねぇもんな。不便なこととかないか?」と尋ねてくる。
さらっとそんな気遣いができるところは好ましい。
彼に、男性というよりひととして好意を抱いているのも事実だ。
抱き締めてほしいなんて妙な欲求を知った上で、引くどころかその相手に立候補してくれるのもありがたい。
まあ下心くらいはあるかもしれないけれど。
下心云々、とがめられる立場でもない――他でもないわたしが。
まともに働いた試しのない理性が、誘惑にぐらぐら揺れる。
実際のところはともかく、グェイラの本気で拒んだら身を引いてくれそうな雰囲気が揺れに拍車をかけてくる。
黎明卿へストレートに「いままでありがとうございました、グェイラに鞍替えします」と挨拶するのはなんとなく気が引けるものの、「そうですか、分かりました」の一言で済むだろう。
あの方のことだから。

ともあれ、男性陣あるあるのネタで盛り上がってしまっていた折だった。
オースでの連れ込み宿がどうのこうのという話から、果ては馴染みの娼婦に久しぶりに会ったら歳を重ねていたときほど、下層での時間の違いを感じたことはないエトセトラ。
話題がわたしのしようもない欲求――ハグ依存から逸れたことを幸いに、あれやこれやと下世話な与太話に興じていたわたしたちの耳朶を打ったのは、あまりにも聞き覚えのある声だった。
いまここで聞こえるはずがない声に、文字通り飛び上がった。
デジャブだ。
前にもこんなことがあった気がする。
たぶん気のせいじゃない。

「おや、こんなところでどうしました、なまえ、グェイラ。君たちは処置室を利用していましたよね」

後ろから聞こえてきたのは、耳馴染みの良い穏やかな声。
肩どころか全身がびくっと跳ねたのに、運んでいたトレイを引っ繰り返さずに済んだのは奇跡という他ない。

振り返ると、果たして黎明卿がおひとりで立っていた。
――どうしてこう、いつもいつもわたしは彼の接近に気付けないんだろうか。
一応これでも黒笛のはずなんだけれど、このところ自信がぐらついて仕方がない。

「どうしたんすか。珍しいっすねぇ、旦那がここら辺まで来るの。俺らは作業が終わったんで、片付けの途中っす」

過剰に反応してしまったわたしとは正反対に、グェイラはごく自然に手にしたトレイを示してみせた。

「そうでしたか。お疲れさまです。報告書を楽しみにしていますよ。私もこちらの区画に用がありまして。保管庫に、いくつか試薬を取りに行くところです」
「んじゃ、俺がやっときますよ。実験棟に持ってけばいいですか?」
「おや、良いのですか? 助かります。お願いしますね、グェイラ」
「いーえ。これ片付けるついでなんで」

軽薄な言動に変わりはないけれど、グェイラは本人を前にしていままでこんなこと話していました云々、面白おかしく暴露するようなタイプじゃない。
できるだけ存在を消していたいわたしの胸の内を察してか、不自然ではない程度に半歩前へ出てすらいる。
いままでのくだらないおしゃべりなんてまるでなかったみたいに卿と会話しているグェイラに、いつにも増して感謝してしまうのも当然だった。
どうしよう。
そのやさしさとかさりげなさに、ついうっかりほだされてしまいそう。
いつまでも定期的に卿の手を煩わせているのも申し訳ないし、抱き着くのはやっぱりグェイラにお願いしようか、なんて考えているのは――残念ながら、現実逃避だった。

グェイラとの一連の会話を聞かれていないか。
とにかくその一点が頭を占めていた。
聞かれて困る話じゃないかもしれない。
とはいえなんとなく居た堪れないし恥ずかしい。
けたたましいというほどの声量で話してはいなかったはず――、が、なにしろ身長差のせいで、いつもより声を張っていた。
加えて、音が反響しやすい通路でもある。
グェイラの巨体にひっそり隠れつつ「聞かれていませんように」と祈っているわたしの前で、卿は流れるような仕草で片手をご自分の胸に当てた。
アビスは、とりわけ我らが黎明卿は、いつだって無慈悲である。

「そうそう、なまえ。抱擁に関して、君がそこまで気にしていたとは知りませんでした。君の配慮や謙遜の心は得がたいものですが、必要以上に思いつめるところはいただけませんね。なにより、お忘れですか? “お相手を”と言い出したのは私ですよ。君が気に病むことではないはずです」

・・・


背後の随分と低い位置、具体的にはみぞおちの下辺りから、「ぐぅ……」と名状しがたい呻き声が漏れ聞こえ、グェイラは心の底からなまえに同情した。
前触れなく現れたボンドルドに彼も驚きはしたものの、なまえが受けているダメージに比べればまだマシだ。
残念ながら、先程までの会話はばっちり筒抜けだったらしい。
抱かれるだの抱かれてないだの、まあ本人には聞かれたくはないわな、と内心気の毒に思う。
――それも旦那相手に、と。

ボンドルドの口ぶりから察するに、随分と序盤の方から聞いていたらしい。
つまりなまえの欲求不満解消のお相手にグェイラが立候補した間も、声をかけず、泳がされていたということだ。
なんのために? と内々引っかかりを感じていると、なんのためらいもなくボンドルドが彼の背後を――ぐったりと項垂れているなまえを、ひょいと覗き込んだ。

「なまえ、その片付けを終えたら、私の部屋に来てくださいますか」
「ッ、す、すぐに、ですか」
「ええ。なにかご予定でも?」
「……いえ、ご予定も異存もないです……」

平素と変わらないゆったりとした語調で、いとも容易に、容易ならざる招きを寄越す黎明卿相手に、しかしイエス以外の返答が存在するだろうか。
魂を抜かれたようにひとりでふらふらと歩みを再開したなまえを、グェイラはなんとなく見送った。
先程までのように連れ立ってだらだらとよもやま話に興じられはしないだろうと考えてのことだったが、ゆらゆらと危なっかしい後ろ姿と、隣で姿勢良く佇立している上司とをこっそり見比べていると、揶揄じみたものがむくむくと湧き上がってきてしまった。

「旦那も男の子っすねぇ。んなヤキモチ焼かなくたって、こちとら同僚に手ぇ出すつもりなんて端からないってのに」
「ヤキモチ、ですか……。ふむ、そんな意図はなかったのですが」
「ですよねぇ」
「そういえばグェイラはご存知だったのですね。定期的になまえと接触しているのを」
「……あー、まあ。なんつうか、成り行きで」

接触て。
グェイラは仮面の下で、半笑いともいえないぬるい笑みを浮かべるのを堪えられなかった。
祈手とはいえ一応、肉体は異性のものとふれ合っておいて、この言い様である。
これほど色気のない言い回しもそうそうないだろう。
惚れた腫れた、他人の色恋沙汰を楽しむなど、底の見えないアビス、なかんずくこの「前線基地」においては、あまりに似付かわしくないネタなのは間違いない。
やはりなまえの「黎明卿とはなんでもない」という主張はまぎれもない事実なのだろう。
自分が口したこととはいえ、他でもない「ボンドルド」が嫉妬、それもまさか数多いる祈手相手に愛着であれ嫌悪であれ、他のものと一線を画す情動を向けるなど、誰かと性行為に興じるのと同様――あるいはそれより遥かに想像が付かなかった。

――まーそうそう面白いことはねぇよな、なんせ旦那だし。
胸中でぼやくグェイラを余所に、当のボンドルドは握り拳を自らの顎へ軽く当てた。
思案していますと言わんばかりのポーズを取ると、どこか他人事じみた声音で「ですが、」と続けた。

「確かに彼女が他の祈手と接触するのを想像してみると、あまり良い気はしません。不思議ですね」
「え」
「接する間、眠る直前の子どもに似て、なまえは意識がはっきりとしていません。ですが、ふふ、予期せず白笛にふれると、我に返ったように謝罪するのです。どうやらこの“私”にはふれてはならないと、かたくなに思い込んでいるようで。いじらしいですよね。肌の温度も心臓の拍動も、既に知り及んでいるというのにです」
「はあ……」
「というわけで、グェイラ。代わっていただく必要はありませんよ」

どういうわけで? と聞き返す前に、ボンドルドは涼しい顔で、自室に割り当てられている方へ向かってさっさと歩き出してしまった。
硬い仮面で覆われているため、涼しい顔でという表現が正しいかどうかグェイラには分からなかったが。

抑揚に乏しい声が今し方並べたセリフを彼が反芻する間にも、黒い背は遠ざかっていく。
ぽつんと通路に残されたグェイラは、ひとり首を傾げた。

「もしかして俺いまノロケられた?」



「それではなまえ、本日はキスもしてみましょう」
「……キッ、……えっ!?」
「おや。それほど驚くことでしょうか」
「お、おどろくなという方が無理です! どうしていきなり、きっ、キスなんて……。それに、そんな、実験を開始しますみたいな」
「ですがグェイラも言っていましたよね。“せめてキスのひとつくらい”だったでしょうか。男女が肌を合わせる際に口付けをするのは、ごく一般的なことのようです。いやはや、申し訳ない。私はそういった通俗的な機微にどうも疎いもので」
「あッ、あいつの言うことはお気になさらなくて結構です! っ、ええと、どこに興味をお持ちになったのかよく分かりませんが、……接触に、キスは必ずしも付属するものじゃありません! 廊下でお耳になさったことはお忘れくださいほんとお願いします」
「……ふむ」
「な、なにか、卿……?」
「なまえはグェイラと会話する際、随分と砕けた口調を用いますね」
「そ、そう、ですね……?」
「では、いま、彼のときのように話してみてください」
「えっ、そんな無茶な」
「なぜ無茶なのでしょう」
「なぜもなにも……黎明卿に向かって、礼を欠いた話し方なんてできません」
「おや。その私自身がお願いしているのにですか?」
「うぅ……たすけてグェイラぁ……」
「どうしてここで彼の名前を呼ぶのでしょう。なまえ、いまあなたと会話をしているのは私ですよ」
「……も、もしかして、ご機嫌があまりよろしくない感じだったり、します……?」
「おやおや。質問に質問を返すとは感心しませんね。君らしくもない」
「ほらなんかもう取り付く島がないもん逃げられそうにないもん」
「追いかけっこをご所望ですか? お逃げになりたいならどうぞ。最近はプルシュカも大きくなりましてね。ふふ、子どもの成長は喜ばしいものですが、追いかけっこが大変なんです。なまえ、あなたにも負けませんよ」
「……卿。あの、大変申し訳ないのですが、ひとつ質問をよろしいですか……」
「ええ。構いません」
「卿の貴重なお時間を、こんなことに割いている場合ではないのでは……?」
「“こんなこと”とは? 君との会話は楽しいですよ。ご心配なく。時間は有意義に使っていますからね」
「……どうしよう泣きそう……」


(2022.10.06)
- ナノ -