わたしの願いやのぞみは、どこから来てどこへ至るのでしょう。

六層から浮上するたび「絶界の祭壇」は血潮や肉塊にまみれておりまして、片付けと一口に言っても、さてどこから手を付けたものかと考えあぐねるほどの有り様です。
とはいえ物々しい外観とは裏腹に昇降機ポッドの内部は思いのほか簡素ですので、まずは装備品などを球体の外へ出していますと、汚れた仮面と白笛を発見しました。

終わった・・・・祈手たちは――死んだ者も、ヒトとしての形状を保っていない成れ果ても、必要なものを回収しましたのち、例外なく六層の箱庭に落とすことになります。
六層から五層へ上がってきて、また六層の袋小路へ。
目まぐるしい昇降に、生きながらえるモノはそうそうおりません。
深界五層の最下部である「前線基地」からすぐ下の六層へ、「絶界の祭壇」以外に行く手立てはないといえば嘘になります。
しかしながら更に下層、奈落の底を目指すのならば、六層「箱庭」へ足を踏み入れるべきではないでしょう。
黎明卿というひとは本当に済度し難い方だとかつて嘆息したものでした。
昔、この祭祀場跡を拠点とするにあたり、本当に行き止まりなのか否か、自ら下りて確かめたとお聞きしたのですから。

あらかた清掃を終えますと、丁度ひとりの祈手の姿が見えました。
外周たる基地とを繋ぐ細い通路をこちらへゆっくり歩いてくる動作から、それが黎明卿であることはすぐに見て取れました。
今し方「祭壇」内で死んだばかりの彼は、どうやら無事に六層での記憶や経験をゾアホリックを介して蓄積、共有できたようです。

祈る手をかたどった白い笛を首にかけ、祭祀場跡と砦水とを繋ぐ光の柱に酷似した紫色の光を放つ仮面を装着なさいますと、「黎明卿」としてのお姿は間然するところがございません。

「なまえ、今回も“祭壇”の掃除、ありがとうございます。仮面や白笛も無事ですね」
「はい。ごゆっくりなさっていたらお持ちしましたのに」
「おやおや。そういうわけにもいきません。それに、こちらに用がありますからね」

卿は腕にトコシエコウの花を抱えていらっしゃいました。
「絶界の祭壇」でべるためです。
不屈という名にたがわず、地上でもここ五層でも――わたしはまだ至ったことはありませんが、六層においても香り高い白花は変わらず咲くと聞き及んでいます。

「六層での探窟、お疲れさまでした。黎明卿」

こうべを垂れると、卿も満足げに頷きました。

「本当に、今回の探窟も素晴らしいものでした。六層の“村”の住人たちとの交流は、やはり興味が尽きません。彼らの数人でも基地までお連れできれば、もっと研究を深められるのですが。はてさて、そう上手くはいかないものですね。なにしろ村で生まれたものは村から出られないと……。そうそう、なまえ、君にも意見を求めたいことがあるのです。後程、お時間をいただいても?」
「かしこまりました」

以前、嗅いだ覚えのある異香いきょうが彼から立ち上るのを不思議に思って尋ねたことがありました。
かぐわしいこのにおいはなんだったかと問うた節、黎明卿は小首を傾げ「ああ、トコシエコウのいぶし香でしょう。先程、祭壇で焚いてきましたからね」とさらりとお告げになったのです。
消費した祈手のため、折々そうして祈るのだと。
原初である「ボンドルド」が白笛にかたちをお変えになる前から続く習わしと知り、ふるえるほど胸を打たれたのを覚えています。
理解できたからでございます。
いつかわたしが終わったときにも、卿はこうして手を編んでくださるのだと。

以来、わたしの番はまだかまだかと心待ちにするようになりました。
まあひとつ想像してご覧なさい。
「黎明卿」新しきボンドルドがその手を組んでいたんでくださるのです。
昂揚を覚えたとしても致し方ないでしょう、祈手の例に漏れず、この身も彼に憧れを託したひとりだったのですから。
わたしが五層でお会いしたときには既に、彼は白笛を首にかけた「黎明卿」でいらっしゃいました。
探窟の道すがら、くみするつもりも害する意図もなく「前線基地」に立ち寄った節、アビスのみならず、次の二千年、いずれ迎える夜明けについて志あつく語るこの方にわたしは感化され、得心尽くで祈手に加わりました。

いつのことだったでしょうか、さながら熱に浮かされたように「はやく卿のお役に立ちたいのです」と吐いたわたしを、戦闘用に特化した白服のひとり――ギャリケーは笑いもせず、さげすみもせず、ただ淡々と見つめました。
かすかに溜め息めいたものをこぼしながら、鉄錆びたような声で「だったらいまのうちに喜んでおくといい。お前のような者からさっさと死ぬものだ。――信者じみた奴らほどすぐ死ぬ」と。
驚いてつい不躾に「ギャリケー、あなたはそうではないの?」と尋ねましたけれど、彼は言を左右することなく肩をすくめただけでした。
他の探窟隊からも一目置かれる名高い「死装束」に忠告めいたものを授けられたのは、後にも先にもそのただ一度きりです。
比較的新参者だったわたしにそうして言葉をかけてくれた彼の真意は未だに定かではありません。
しかしやさしいひとなのだといまなら分かります。
最初の「ボンドルド」をわたしは存じ上げませんが、ヒトだった頃の記憶や立ち居振る舞いを体系化し、細分化し、模倣し、創出し、「ボンドルド」であろうとしているバケモノは、そのすべてを受け入れ、わたしたちをあまねく慈しんでいます。

「信者じみた奴らほどすぐ死ぬ」。
至言でございます。
実際、卿のためにと身の丈に合わぬ実験や探窟に候補として名乗りを上げるのは、愚かな蛮勇と呼ぶものに他なりません。
元より、我々は生にしがみついているのではありません。
夜明けに、黎明卿に、しがみついているのです。
――その感情は、そもそも奈落へ向けていたはずのものでした。

探窟家は、生きたいというプリミティブな欲求より、程度の差こそあれ、皆等しくアビスに強い「憧れ」を抱いた者たちです。
ひとりひとり直截に尋ねたことはございませんが、そのなかでもおそらく我々祈手は、大なり小なりその「憧れ」を卿へ向けている存在でした。
憧れをもってアビスを見ていたはずが、いつしかその憧れが「黎明卿」と結び付いておりました。
いいえ、結び付くどころではございません。
卿を通してアビスを見て――卿に憧れた結果、アビスは同一のものとなっていたのです。
命も顧みず憧れ続けたはずのアビスの底よりも、深淵の闇を切り拓く「奈落の星ネザースター」の方をまばゆく感じてしまった時点で、前者から願い下げのレッテルを貼られてしまったのかもしれません。
わたしにとって黎明卿は「憧れ」――奈落そのもの・・・・でした。

「なまえ、よろしければ君もご一緒に」
「お邪魔してよろしいのですか?」
「ええ、無論ですとも。お邪魔なんてとんでもない。共に彼らに感謝し、見送りましょう」

ごうごうと吹きすさぶ風の音、ぶつかり合って砕ける波の音、砦水から数条流れる崩落の音。
基地周辺の水面は力場がたわんで立てる些細な波以外、釣りができるほど凪いでいますが、しかし「祭壇」を囲む渦は、明暮あけくれ、耳を弄さんばかりのさざめきに満ち満ちています。
地鳴りじみた振動が常であるため、ここで寝食する者は誰しも、基地が稼働する周期的なきしみと共に慣れておりました。
しかし昇降機ポッドがその真価を発揮するとき、白い笛を腹に抱え込んで沈みゆくときばかりは、都度、音の奔流に驚かされるものでした。
方舟めいた球体の前に立っているだけで、あたかも自分の体が一個の楽器になったかの錯覚に陥ります。
大きな音が振動となって腹の内で反響して、かすかに細かく揺れるのです。
あるいは胴ぶるいとはこういうことをいうのでしょう。
「祭壇」内にいたなら尚のこと。
歴代の「絶界行」を果たした者たちは皆、このうねりや鳴動に、並々ならぬ昂揚を覚えたに相違ございません。

そういうわけで、しぶきをあげて渦を巻く水面に比べれば卿の低いお声は大層静かでした。
囁きといってもいいでしょう。
しかし耳を奪われるには十分でしたし、わたしに否やはありますでしょうか。
「お供します」と首肯しますと、卿は首にさげた白笛と同じく、祈りのかたちに指を組み合わせました。
やや顎を引き、うつむきます。

そのお姿にならって手を合わせ、目を伏せました。
まだ血肉のにおいはすっかり消えたとはいいがたいものの、きれいになった「祭壇」内部をトコシエコウの薫香が満たします。
傍らには六層探窟に随伴した祈手たちの仮面が転がっています。
いままで数限りない祈手がそうしていたまれてきました。
しかしわたしの知ります限り、誰ひとりとして白笛を残した者はおりませんでした。
これだけ卿に奈落を見て、生きて、終わるというのに――おそらくわたしも、「命を響く石」にはなれないでしょう。
なにしろそれはそれは憎らしいことに、アビスはわたしたちの精神性を生物ではないと断じます。

カートリッジの研究でも、いまでこそ子どもたちを用いるのが最適だと行き着きましたが、しかしはじめから想定したものではありませんでした。
当初の実験は、持ち運びやすさや重量等、利便性を度外視し、祈手たちによって行われておりました。
最初の被験者は他ならぬ卿ご自身です。
他者を犠牲にするより、まずはご自分でと身を投じるたっとい精神を徳とするには、百聞も百見も一度の実体験には勝らぬというプラグマティズムによるのが最たる理由と、さすがのわたしも噛み分けておりましたが。
しかしながら深淵は詰められた卿をきちんと弁別しました。
ああ、いま思い返しても苦々しい。
――カートリッジを装着した体に、アビスは定常にひとひとり分の呪いだけを寄越してみせたのです。

原因は、呪いを他者へ転嫁する装置の小型化に伴う欠陥か。
はたまた頭蓋や臓腑など切除する部位によるものか。
顔面の一部か、脳か、心臓か、神経か、脊椎か、どの臓器か、人体のパーツをどこまで残せば・・・・・・・、ヒトとしてカウントされるのか。
どれがヒトで、なにがヒトではないのか。
未知や困難に遭遇した折節、粘り強くトライアル・アンド・エラーを重ねて克服する力は、人間の持ちうる強さのなかでも骨頂でありましょう。
黎明卿はその強さを持ち合わせていらっしゃいました。
それも比類なく。

あるとき、五層に逗留していた仮面を持たぬ――祈手ではない黒笛のひとりに施した結果、実験は成功しました。
成功してしまったのです。
まだまだ完成には程遠いものの、試行錯誤の結果明らかになったのは、我々黎明卿の身ではカートリッジを製作できないということ。
ヒトとそれ以外では上手くいかず、とりわけ見知る世界や視野が狭く、混じりけのない意思を保ちやすい幼体が最適であるということでした。
研究に用いる彼らを募りに、卿自ら今度は極北のセレニへ赴くご予定です。
きっとまたたくさんの子どもたちがここ「前線基地」へやって来ます。

被検体が卿や祈手では上手くいかなかったのは、やはり我々がアビスにヒトではないと判断されているせいなのでしょう。
すべてを呑み込む深淵にさえわたしたちは生物の――ヒトの範疇を外れたモノとして遇されています。
ならばこの心臓の鼓動は、意識は、精神は、憧れは、祈りは、魂は、なんなのか。

自明です。
わたしたちは黎明卿、新しきボンドルド。
天体の本影までヒトだと判定されていましたなら、果ての見えぬ「なきがらの海」は今頃、積もる白い笛で水深を浅くしていたに違いないのです。

悲観もしていません。
達観もしていません。
笑い、泣き、無邪気にまとわり付いてくる子どもたちとの早い別れはいつもとても悲しく、わたしが未熟なばかりに、つい抱き締める腕に力が入ってしまい、いとけない瞳に不思議そうに見上げられることもあります。
しかし、だからといって実験に反感を抱いたり、あの子たちを連れて逃げたりしようなどと思うことは、ついぞございませんでした。
限りある命をどのように使うか。
それはおおよそ持ち主が決めるものでしょう。
とはいえこの世は道理にかなう人倫だけでは成り立っていません。
あの子たちも、わたしも、永遠に生きるヒトはおりません。
もしかしたら精神隷属機によって増えた「ボンドルド」は、それにごく近いモノかもしれませんが。
ですから詮ずれば、彼もやはりヒトではないとみえます。

永遠に生きられないからこそ、ヒトは足掻き、誤り、苦しみ、学び、成長して、より良くあろうと努め、挑み、他者と繋がり、楽しみ、競い、許し、敬い、愛し、なにかを得て、なにかを失い、それでもなおなにかを求め、願って、ひとひとり分の命を生きていく。
期待も失望もなくただそうある彼へ、ただそうあるわたしは、黒笛としての自負を、ヒトとしての矜持を捨てず、着いてまいります。
いわんやこの方ならば、わたしが思い付くよりも遥かに有意義に、わたしを消費してくれるのは間違いないのです。
その果てに卿がなにをお見付けになるのか、手になさるのか。
意義、価値のあるわたしの畢生ひっせいを喜びこそすれ、惜しむ余地はまったくありません。

奈落にすらヒトではないと見放されたわたしの願いは、従前より変わらずひとつだけです。
かすかにうつむき熱心に祈りの姿を取っていらっしゃる黎明卿を、手をつかねたままそっと見上げました。
――彼が迎える夜明けの礎、どうかそのきざはしとなれますように。

そこでわたしは、祈手となったその日にのぞみが叶えられておりましたことにようやく気が付いたのです。


(2022.09.27)
- ナノ -