(※白笛前オリジナルボンドルドとゾアホリック使用ボンドルドが同時に存在する時期の幻覚)




断崖絶壁とはまさしくこのこと。
積乱点には巻層雲めいた雲が幾重にも満ち、覗き込んでいるとめしいになってしまったかのように遠近感に狂いが生じる。
底どころかいままで登ってきた道筋すら見えない。
深界三層、大断層。
縦穴の崖壁は、指の一本や二本を失うのも余儀ないほど荒く、直接昇降してみる気には到底なれない。
それでなくとも縦穴を支配する翼竜類のような原生生物たちが、悠々と羽ばたいているのだ。
気まぐれにでも鋭い鉤爪に引っ掻かれようものなら、いかに探窟用の丈夫な上着といえど、容易くその下の皮膚まで裂けるだろう。
なにより危惧すべきは、湾曲した爪に引っかけられたまま空中へ放り投げられ、縦穴を落下してしまうことだった。
光源を求めて、縦穴に無数にあるうろの出口付近に腰を据えれば、膜構造の翼を持つ原生生物――マドカジャクたちの餌食になるのは必至。
さりとて手元すら覚束ない暗い洞窟の奥深くへ進めば、イワアルキやヤママワシといった、一体一体の殺傷力はごく低いとはいえ、上層とは比べものにならないほど獰猛な原生生物が大量にはびこっている。

結果、おのずと、たいまつや遺物などの消費物資を要しない程度に明るく、しかしとば口からの危害がぎりぎり届かない洞穴どうけつのひとつに陣取ることになる。
傍らで不安定な呼吸を見せているなまえを見下ろし、ボンドルドは彼女の手からグローブを取り外した。
山岨やまそわで万が一にもずれることのないようしっかり着用している探窟用のグローブやフルハーネスは、血流という点においては妨げ以外の何物でもない。
呼吸を促すため、首元や胸部の装甲も外す。
彼女の上着を敷いて仰向けに寝かされたなまえは、それでもなお目覚める気配はなかった。
随伴する隊員が呼吸に難儀し、うなされているのを、ボンドルドは静かに見下ろした。
原生生物への対処、容態が急変した際のため、彼はひとりなまえの横で見守っていた。

命に別条はない。
しかし彼女は意識障害を起こしていた。
深界三層の上昇負荷は、平衡感覚の異常、幻覚、幻聴。
昏倒していたなまえを発見したのは彼だ。
場所は切り岸の真下、おそらく入り組んだ洞窟内部に数え切れないほど連なる、十数メートル程度の崖から滑落したものと窺えた。
アビスの探窟を難渋せしめる要因は、特有の上昇負荷や獰猛な原生生物ばかりではない。
――高いところから落ちれば怪我をする。
アビスでも地上でも変わらない理の当然。
しかしなかなかどうして滑落による死傷者は毎年必ず出るものだ。
たとい数メートル程度いえど、対策もなく落下しようものならヒトの身は無事では済まない。
今更、優れた黒笛相手に指摘すべくもなかったが。
なまえの全身をチェックしたところ外傷はない。
脳震盪や挫傷の危険性も排除しきれないとはいえ、骨や筋にも異常がなかったのは幸いといえた。

「いや……」
「なまえ?」

か細い呻き声があがる。
ようやく意識が戻ったらしい。
ボンドルドは「なまえ、目が覚めましたか?」と顔を覗き込んだ。
返事はなく、横たえられた姿勢のまま、なまえはぐらぐらと視線をさまよわせている。
言い含めるように「大きな外傷はないとはいえ、自覚症状があれば申告をお願いしたいのですが」と根気よく続けるものの、彼女の口が吐くのは苦しげな喘ぎばかりである。

意思の疎通は一旦留保し、汗の浮いた額をぬぐってやろうと、手を伸ばす。
しかし気遣わしげなてのひらは、意想外の衝撃でもって報いられた。
高熱にうなされる幼な子のように「ちがう、いや」と繰り返すなまえが、ボンドルドの手を乱雑に振り払ったのだ。
叩かれた力加減は弱々しく、大した痛みも動揺もない。
とはいえ彼女のそんな姿を目の当たりにするのは初めてで、端的にいって――ボンドルドは困ってしまった。
なにが違うのか、なにが嫌なのか。
尋ねたとしてもいまのなまえにまともな返答は期待できまい。

「なまえ、なまえ」

呼び戻すように何度も名を呼ぶ。
ボンドルドの声に導かれてなまえはうっすら目蓋を開くものの、ふれようとすると、つたなく「いや」と拒否するばかり。
ことしもあれ、彼に怯えているのは明白だった。

あるいは層をまたいだことにより、精神隷属機による影響が生じているのか。
密かに深界五層、祭祀場の遺跡を拠点として利用しはじめてまだ間もないため、未だ不分明な部分は大いに残されていた。
とはいえ「待ち人を殺したくなければ深層には留まるな」とまで謳われる地上一般の時間の概念を差し置けば、五層深部、祭祀場跡の都合の良さは群を抜いている。
果てなく広がる「なきがらの海」も、いくら損傷しようと形状を回復する特性を持つ構造物も、種々の実験や研究を行う場として大変あらまほしい。
なにより「絶界行」のための「祭壇」を手中に収められるとあっては、理が非でも名実共に手に入れたい。
暗々裏に入手、運用していたゾアホリックを据えるにも保安の面で間然するところがなく、探窟家組合へ働きかけていずれ五層立ち入り許可の範囲を黒笛にまで広げれば、大手を振って研究に没頭できよう。
加えて、遺物や研究成果目当ての刺客、破格の報奨金に釣られた賞金稼ぎたちの相手をするにも打って付け。
腰を据える本拠地へ容易くたどり着けてしまっては、来客の対応に手がかかりすぎてしまう。
その点、深度一万三千メートルまで到達できる時点で手練には違いなく、真摯にコミュニケーションを取るうちに志を同じくする探窟隊の一員となってくれる者もおり、無下にできない相手を――有象無象をふるいにかけるには最適といえた。

事程左様に拠点とするのにあつらえ向きの深界五層だが、一方で、資材、食材をはじめとする材種調達の面では難があると言わざるをえなかった。
等級の高い遺物や、技術的に採掘、加工が可能な鉱物種には事欠かないものの、元来、ヒトが逗留するのに適していないのだ。
近々生活における生産、消費すべてをまかなえるようにする算段だが、当面は必要物資を上層へ採掘しなければならなかった。
精神隷属機を五層に置き、数名の隊員を相伴って上層まで登ってきた折のことである。
遺物によりあまねく感じ取れる、隊員たちの――なまえの意識の連続性が、途切れたのは。
ここは三層、気軽に祭祀場跡へ帰投できる地点でもない。

なまえは未だ、のたうつような不明瞭なうなりを漏らしている。
どちらかというと感情の起伏のちいさい、すくなくとも常々抑制の効いた声音で受け答えする彼女が、意思の疎通が不可能なほど錯乱しているのは珍しかった。
同じ黒笛にもかかわらず己れに付き従い、ゾアホリックによる意識の植え付けをも受け入れた、文字通り自分の・・・隊員が、こんなところでついえてしまうのはボンドルドとしても避けたかった。
いずれにせよ、これでは脈拍を測るのも容易にはいかない。
本意ではないが、必要ならば無理やり押さえ付けてでも行動を制御するつもりだったが――。

「なまえの様子はいかがですか」

さてどうしたものかと首を傾げていると、端無くも同じ声が響いた。
うろの奥からゆるやかな坂道を登ってきたのは、「ボンドルド」――精神のみならず肉体も一致した、オリジナルの彼だった。
遺物使用者への意識の共有により、この場所も、なまえが負傷したことも既に伝えていた。
丁度、頃合いとあって、ここ一帯を本日の野営地に選んだらしい。
ボンドルドの後ろに追随する隊員たちも、食用に適した原生生物や木々、近辺で採取した水や食料を各々背負っていた。

野営地の設営は彼らに任せ、なまえの横へ「自分」が同じように膝を着いた。
一目見るなり「三層の上昇負荷ですね」と頷いた。

「どうやら今日はイワアルキの活動が活性化しています。数も多い……近辺でなにかあったのでしょうか。四層ではこのような兆候は見られませんでした。彼女は大量発生したイワアルキを避けるため、多少無理にでも崖を登ったようですね」
「おや。意外ですね。あれらの走光性を知らなかったわけでもないでしょうに」
「装備品のなかで、たいまつのたぐいは底を突いていたのでしょう? 幻聴や幻覚にさいなまれているとも考えにくい。なまえも呪い慣れしているはずですからね。軽い平衡感覚の異常のせいで、崖から転落して頭部を強打したことによる昏倒かと」
「ええ、直接の原因は落下によるものでしょう。ですがこの容態……ゾアホリックによる不調とも考えられませんか? 以前、四層においても似たようなことがありました。物理的な距離、あるいは力場の変化……層をまたぐとどうやら不具合が出やすいようです」
「可能性は否定できませんが、低いでしょうね。いまのところ“私たち”に影響はありませんので」

まったく同じ声で交わされる会話。
意識を現して「ボンドルド」として行動している者だけではなく、隊員たちがふつくに併存へいぞんする「自分」なのだから、オリジナルとそうではないものとを区別する必要を、彼自身は感じていなかった。
しかし、どうやら他者にとってはその限りではないらしい。
「隊長の顔を忘れてしまいそうで」と苦笑するボンドルド麾下きかの隊員たちの意見により、ゾアホリックによって複製されたものではない――オリジナルのボンドルドは、仮面を装着していなかった。

考えていることを音声として発する遺物を仮面にしつらえているため、いくら体が異なろうと、複製された方のボンドルドも精神のみならず声すらオリジナルと寸分たがわず同じである。
肉体が生得している声帯を使わず、声として音を発しているだけだ。
「考える石」を利用した三級遺物「万能の鍵開け」のように、使用者の意のままに機能する遺物。
使い道といえば失声を患った者に限られ、探窟において利用価値は低いとされてきた三級遺物だったが、まさかボンドルドのように体を変えようと同一性を保つ者にも役立つなど、たとい遺物をつくり出した者たちといえど予想だにしなかったに違いない。
慣れるまでは発話に著しいタイムラグが生じたり、はたまた語るつもりのなかった思考までだだ漏れになってしまったりと苦労はしたものの、思考と感覚の取捨選択のコツさえ掴めば、素晴らしいものだった。
なにしろ急所のひとつである頸部けいぶを保護するため、顔面は中程まで装備で覆われている。
インナーマスクでカバーした口元は、発声にはとかく向いていない。

発声だけではなく、栄養補給も経口以外の方法で済めばより楽なのですが、と発語するものとは別にボンドルドが考えていると、彼、あるいは彼らの会話を、やにわに第三者の――この場合は第二者というべきなのか――声が遮った。
かすれた声で、なまえが「隊長……」と呻いたのだ。

先程、グローブを外してやったなまえの手が、痙攣しながら持ち上がっていた。
長年、登攀具や武器を握り、ロープやハーケンを駆使してきた手は分厚く、硬く、節くれ立っているものの、ボンドルドたちに比べるとやはりちいさい。
生爪もいくらか欠けた手が、なにかを求めるようにゆらゆらと空を掻いている。

「先程からずっとご覧の調子です。このまま意識の混濁が続けば、五層レベルの自傷行為に至らないとも限りません。麻酔薬を投与することも考えなければなりませんね」
「ふむ……対人用の催眠剤は温存しておきたかったのですが。三層ここで新たに調薬するのも難しいですし」
「ええ。ですがなまえがこの状態です。出し惜しむ必要が?」
「無論、ありませんとも。それにしても、いやはや、珍しい。以前、四層の負荷を受けたときですら、これほどなまえが取り乱す……錯乱状態に陥ることはありませんでした」

生来からのボンドルドである方が、どこか感慨深そうな表情で呟いた。
オリジナルと、精神隷属機を用いて複製したボンドルドは、揃ってなまえを見下ろした。

「私が同期して、強制的になまえの意識レベルを低下させても構いませんが」
「それは興味深い。ゾアホリックとは異なる層での精神の過渡……同時に二人以上の意識の発現……まだ試していなかったですよね」
「とはいえ、懸念事項が多いのも事実です」
「ええ、そうですね。それはいずれまた。上層ここでは支障が出ないとも限りません」
「私が意識を保ったまま“私”を発現するには、不確定な要素があまりに多い。追試も困難ですからね」

仮象かしょうとの会話は、自問自答と同義だろう。
己れにはない発想や思考の展開にふれる他者との対話くちまじえをボンドルドは一方ならず好んでいたものの、しかしこうして同等の知識、判断、関心、センシビリティを有する相手と言葉を交わすのは、対人では久しく感じられなかった昂揚を覚える経験だった。
いくらディスカッションを重ねようと内観の域を出はしまい。
とはいえ思考の整理だけではない、同時に別の作業を行える「自分」の存在は、至便というにも足りなかった。

「あ、あ……いや……」

ひゅ、ぐ、とくぐもった音を立てて荒い呼吸を繰り返すなまえが、途切れ途切れに呻く。

「どうせなら良い夢を見てほしいものです」

なまえのうわ言に応じたのはオリジナルのボンドルドだ。
仮面に覆われていない男の横顔が苦笑を形づくった。
呆れたような物言いに反し、自身に随伴する隊員たちに精神隷属機を使用した男の声は、存外暖かかった。
なまえを見下ろす眼差しはやわらかい。
さらされた相形そうぎょうは同じ精神である「ボンドルド」の目からみてもやさしく、慈しむような眼差しをしていた。
私はこんな目をしていましたか、と精神体の彼がやや喫驚する程度には穏やかだった。
自らの体液をはじめ、塵埃や土泥どでい、効果も副作用も定かではない原生生物の分泌物など、種々様々の汚れを気にしていられないアビスでの探窟中ならばともかく、遠い地上や設備を整えつつある五層では、往々身をつくろうため鏡を見ることはある。
しかし「他人を眺めている自分の顔」をリアルタイムで直視する機会など、生まれてこの方遭遇すべくもなかった。

「なまえ、私はここにいますよ」

空を掻く手を、おもむろに生来のボンドルドが掬い上げる。
手袋を外した男の素手が、なまえの手をしっかりと握った。
岩戸から射し込む光線に輝きを帯びた瞳は、まるでいとおしむかのような光を病相のかんばせへ注いでいる。

仮面の下で、ボンドルドはほんのわずかに眉をひそめた。
表情の変化といっても微々たるもの、仮にフルフェイスのヘルメットがなくとも他人には気取られぬ程度にはごく薄い変化だった。
懸念が顔を陰らせた。
またしても「いや」と拒否されるのでは、と。
なにしろ既に彼女が限界なのは明らかで、これ以上のストレスを与えたくないと思うのは当然だろう。

しかし彼の懸念はまったくの無駄に終わった。
あに図らんや、なまえは大きな手に包まれた手指を一度だけふるわせると、す、と全身から力を脱いたからだ。
再び意識を失ってしまったらしい。
依然、顔色こそ悪いものの、その表情はいっそ安らかといっても良い。
昏睡状態に変わりはないが、先程までの錯乱、呼吸の乱れが嘘のように静かに失神しているなまえを見下ろし、ボンドルドが――生来の肉の身を持つボンドルドが、目を細めて微笑んだ。

「ふふ。こうすると、君はいつも大人しく眠ってしまいますね」

知っている。
上昇負荷のみならず、ゾアホリックをなまえに初めて使用した折も、錯乱、恐慌状態に陥った彼女を引き戻したのは、オリジナルのボンドルドだった。
ヒトとしての自我や精神が損壊し、なり損なってしまうかと一時は危ぶまれたなまえの手を握り、導くように声をかけ続けたのは、彼だった。
可能な限りの物理的な処置は言わずもがな、並々ならぬ献身の結果、なまえの心拍や呼吸は落ち着き、脳や肉体の状態を示すパラメータも正常値を満たした。
――常日頃、隊員たちの精神という、ヒトの身では到底耐えきれぬ膨大な情報量を蓄積するゾアホリックと共有されているは、そのすべてを記憶していた。

だからこそ以前のように・・・・・・ふれることになんの躊躇も疑義も抱かなかったし、振り払われたときには困りもした。
なぜなら彼もまたボンドルドだからだ。
平明なトートロジー。
遺物によって複製された、露いささかも疑う余地がない同一の精神。
しかしなまえにとっては自分は実以じつもって「ボンドルド」ではないということか。

「……これはこれは」

我知らず感嘆の吐息がこぼれる。
脈絡のない溜め息に、「私」が小首を傾げた。
不思議そうな自分の素顔を眺め、ボンドルドはやおら仮面の下で微笑んだ。

「精神隷属機に、このような副産物……いえ、これは実験の産物ではありませんね。私自身の内面の変化というべきでしょうか。やはりゾアホリックは興味深い。このような心地を得られるとは思いもよらず、つい。新たな発見というものは、どんなものであれ嬉しいものですね」
「おや、聞き捨てならないですね。精神隷属機に関することは、すべて“私”に共有していただかなくては」

片眉を上げて不満を示す男に、ひるがえってボンドルドは両腕を広げ、肩をすくめることによって応じた。
顔面の筋肉を用いて可否や心情を伝えられないためか、このところ挙動がやや大仰になりつつある。
ごく些細なことだが、これもゾアホリックを――仮面を使用するようになってからの変化のひとつといえなくもなかった。

「お気になさらず。大したことではございません」
「おやおや。ゾアホリックが数多の人々の手を介してきた理由を忘れたわけではないでしょう。使用者への裏切りや隠し事は、さすがに看過できませんよ」
「ええ、ええ、存じておりますとも。裏切りなんてとんでもない。そんなに大層なものではないのです。しかし詳細に説明したところで、あなたに・・・・理解していただけるかどうか……はなはだ悩ましいもので」

方図がない同じ声の問答を中断させたのは、今度は空を跋扈ばっこする原生生物の鳴き声だった。
ギャア、と耳をつんざく音が反響し、不気味さを増してうろを走り抜けていった。
次いで、首尾よく設営を終えた隊員たちから「隊長、動かして大丈夫なら、そいつを火のそばに移動させましょうか」となまえを気遣う声を投げられる。
起こした焚き火がぱちぱちと小気味の良い音を立てて燃え上がり、細かい火の粉を振りまいている。

――ぞっとしないこの心地を、さてなんと説明したものか。
ボンドルドは、仮面の下でゆっくりと思考を編みはじめた。


(※タイトルは『エレミヤ書』第二三章九節より)
(2022.09.18)
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