ごつ、と陳列棚に額をぶつける。
使用頻度は高くないけれど、破棄しちゃダメな備品や資材が収められた棚は、わたしの頭突き程度じゃあびくともしない。
円柱形の瓶詰が整然と並んでいる頑丈な金属棚は、抱え込んだガラス瓶を揺らして非難することもなく、わたしの奇行を甘んじて受け入れた。

ダメージを受けたのはむしろわたしの方。
硬い仮面の内部で、ぶつけた眉間がじくじく痛む。
自傷というにもあんまり馬鹿馬鹿しい痛みに、「なにやってるんだろ」と自嘲の念が増してしまう。
漏れた溜め息は、腹の底から湧き出るみたいに深く、長く、重かった。
仮面のなかに溜まる、自分の吐息で窒息してしまいそうだ。

「……はあ、」

そうやってどれくらい時間を無駄にしていたんだろう。
自室で仮眠を取るなり、個人の裁量で許される範囲の実験や研究をするなり、わたしたち祈手の休憩時間はおおむね自由だ。
それにしても、これほど無意味な使い方もそうそうなかった。
見かねた彼が声をかけてくださらなかったら、性懲りもなくなんの変哲もない陳列棚にわたしが向き合い続けていたのは確かだ。

「どうしました、なまえ」

いまここで聞こえるはずのない声がした。
息を呑むのと、弾かれたように振り返ったのは、ほぼ同時だったと思う。
中途半端に開いた扉から、声の主が仮面を覗かせていた。
庫内よりも廊下の照明の方が明るいせいか、逆光を受けて、頭部の紫色の光が普段より強く見えた。

「れ、黎明卿!」

金属扉からひょっこりと現れ出ていたのは「黎明卿」新しきボンドルド。
わたしたち祈手を束ねるお方である。

様子を探るように卿がこちらを覗き込んでいらっしゃった。
わたしは慌てて陳列棚から離れた。
勢い余ってその場で空足を踏む。
項垂れるように陳列棚へ上体を預けていたらしいと、そこでやっと自覚した。
仮にも黒笛だというのにこのていたらく。
黎明卿にこんなところを見られるなんて、恥ずかしいやら情けないやらでじっとりと冷や汗が浮いた。
できれば放置してくださるとものすごく嬉しかったけれど、余程わたしの狼狽っぷりが物珍しかったんだろうか。
卿は律儀に「これは失礼、驚かせてしまいましたか」とびつつ、保管庫へ足を踏み入れてしまった。

「探し物かと思い、しばらく静観していましたが……君があまりに微動だにしないものですから。心配になって声をかけてしまいました。なまえ、体調や意識に不具合でも?」

見られていた!
それも割としっかり!
奇行の理由を穏やかに問われて、卒倒しそうになる。
内心の動揺をなんとか堪え、失礼にならない程度に早口に「とんでもないです、不調も不具合もありません」と言い捨てた。
迅速に庫内から脱出しようと、ダッシュの構えを取ったところで、――しかし逃走は始まる前に失敗した。
他でもない卿に「なまえ、待ってください」とやんわり呼び止められてしまったからだ。
精神に作用する遺物も、引き留める生身の腕も、必要ない。
上げかけたわたしの足が、わたしの意思を無視して大人しくその場へ戻ったのを責められはしなかった。
なにしろ彼の声はただそれだけで、わたしの体の所有権を明け渡してしまう力を持っていらっしゃるもので。

「見逃してくださらないんですか……」
「おや、見ないふりをお望みでしたか。ご希望に沿えず申し訳ない。ですがなまえ、君がそこまで思い悩んでいるところを見るのは初めてです。抱えているのは、きっと並大抵の問題ではないのでしょう。相談ならお受けしますよ。特に女性の祈手は数すくないですからね。遺憾ながら、目が行き届いていないところもあります。不都合や支障……そういったものがあれば、積極的に教えていただきたいのです」

平坦ながら誠実そのものといった口調で請われて、果たして陥落しない奴がいるだろうか。
いやいない。
すくなくともわたしは抗えそうにない。
どんな他愛ない要望、はたまた愚痴だろうと受け入れようとばかりに両手を広げられて、しかしますます申し訳ない気持ちが募る。

なにしろわたしがあんな奇行にはしってしまった理由は、卿がおっしゃるような、祈手としての問題だとか不都合だとか、そういった真っ当かつパブリックなものでは断じてないからだ。
本当に。
ただひたすらしようもない「衝動」に、うだうだ悶えていただけなんだから。
額に滲んだ冷や汗が鬱陶しくて、わたしは顔を背けた。

「いえ、……あの、個人的な悩みのようなもので、卿にお話するようなことでは……。お気遣いくださってありがとうございます。みっともないところをお見せしてしまってすみません、急いで作業に戻ります」
「個人的な悩み……なるほど、それは不躾に立ち入るべきではありませんね」
「ありがとうございます、ではわたしはこれで、」
「ですが、なまえ、あなたも私です。問題があるならば、共に解決したい」

堂々巡り!
見付かったのがよりにもよって卿であることに、今更ながら舌を噛みたい心地だった。
もしこれが他の祈手だったら、非常に申し訳ないけれど「関係ないでしょ」と突っぱねていたかもしれないし、いざとなったら叱られるのを覚悟で無理にでも逃走していたかもしれない。
しかし目の前の彼相手にそんな真似をできるはずもなかった。

卿が本気でわたしに口を割らせようと考えた場合、わざわざ同期しなくたって、意識や記憶を共有すれば事足りる。
強制的に肉体と精神の支配権を奪うのは、彼にとって、いまのわたしが脱兎の如く逃げ出すよりも遥かにお手軽だろう。
つまるところ堂々巡りの問答を彼が根気よく続けているのは、ひとえに祈手わたしのパーソナリティや主体性といった、ないがしろにするのは非常に容易いちっぽけな矜持のようなものを、尊重してくださっているからに他ならない。

ありがたいお気遣いが、いまばかりは恨めしい。
逃避にもならない思考がぐるぐると渦巻く。
硬直したまま冷や汗を流している間にも、黎明卿はじっとわたしを注視していた。
無言に耐えかねてスルーする、といったノンバーバル・コミュニケーションとは無縁のお方だ。
どうやら諦めてくださるつもりはちっともないらしい。

ただでさえ多忙な卿をいつまでもお待たせしているわけにもいかないだろう。
意を決して地上からアビスへ飛び下りる覚悟で、生半可なごまかしや言い訳が通用しない、というかできないひとを真正面から見上げた。

「……実はっ、その、……誰かに、だッ、だきしめられたい、なんて……考えてしまいまして……」

声が引っ繰り返った。
つらい。

「“だきしめられたい”? それが君の悩みですか?」
「……は、はい」

言わずもがな、卿にとっても想像の斜め上の回答だったらしい。
首を傾げるのに合わせて、カキ、とわずかに金属音が鳴った。

「ふむ。研究や探窟に加えて、君には子どもたちの世話もお願いしていますが……ああ、ありがとうございます。いつも感謝しているのですよ。子どもたちを抱き上げているところをよく見かけます。あの子たちもよく懐いていますね。なまえ、君の愛情がきちんと伝わっているのでしょう」
「そうなら嬉しい、です……」
「それにしても“抱き締められたい”のが悩みとは……。ふふ、共に夜明けを迎えようと、あなたたちと研究に励み、多くを分かち合い……どれくらい経ったでしょう。いやはや、ひとの数と等しく考え方や感じ方があることに、未だに驚かされます。その違いは、個人を個人たらしめるもの。ひとりひとりの差異を、私は尊いものと考えています。そうでしょう? 君たちがいてくださらなければ、いまの私はここに至ることなく、そしてこの先を歩むこともできないのですから……。――おっと、話が逸れてしまいました。なまえ、子どもたちとのふれあいが足りませんか? 希望するなら、生育担当に力を入れても構いませんよ。あるいは子どもたちで不足なら、君の言う“抱き締められる”対象には、自分より年長、または大柄な個体が望ましいのでしょうか」
「ええ、まあ……いえ、あの、そういうわけでは……」

わたしの煮え切らない返答がお気に召さなかったらしい。
卿は無言だった。
あ、これ、ご自分が納得しない限り解放してくださらないな、と察して、わたしは泣きたくなった。
どうしよう、これはたぶん、というか間違いなく、補足説明を求められている。
めちゃくちゃ良いことをおっしゃっている黎明卿にうっとり感動している場合じゃなかった。
表情なんてこれっぽっちも窺えない仮面を互いに着けているというのに、発光する紫色が、なぜか続きを催促しているように感じられて仕方がない。

別にわたしだって、もったいぶるつもりなんて更々ない。
とはいえ、どうしてこんな「悩み」――というか「衝動」を抱くようになったのか、わたし自身、きっかけも原因も分からないものだから。
自分が理解できていないことを他人に説明するのが、こんなに難しいものだとは思わなかった。
苦もなく判明していたら、きっとこれほど悩まずに済んだに違いない。
見苦しく「あー」とか「うー」と呻いている間も、小首を傾げた卿は傾聴する構えを崩さずにいて、わたしはうろうろと視線をさまよわせた。

「対象……というか相手に、条件はないんですが、……あの、率直にいいますと……すはだが、」
「素肌?」

鸚鵡返しに口にした黎明卿を、正面から見ることができなかった。
それはもう心底情けないけれど、これほど仮面をしていて助かったと思ったことはない。
どんな表情をすれば良いのか分からない。
そもそもいま自分がどんな面構えをしているのかすらあやふやだ。
口のなかがカラカラに乾いて、発声するために呼吸を整える必要があった。

「……ッ、ただ抱きしめるだけでは、たりなくて……。はずかしながら、ええと、肌と肌の……せ、接触を、欲しておりまして……」

なにを言っているんだわたしは。
誰か口を塞いでくれと願いながら、「あの子たち相手に、服を抜いで抱き締めたいとは思わなくて。ええと、心苦しいといいますか、倫理的に気が咎めるところがあって……」ともごもご呟いた。
途中、余計なことも口走ってしまったかもしれない。
種々の実験をはじめ、どのツラを下げて「倫理的に」なんて口にするのか我ながら正気を疑う所業の数々が脳裏をよぎるけれど、とにかくいまは「卿へ説明しなければ」という思いでいっぱいいっぱいだった。
目眩すら覚え始めたわたしの前で、卿は気にした素振りもなく「なるほど」と頷いた。

「確かに、私欲のため子どもたちに脱衣を強いるなど言語道断です。長く基地に勤務している祈手のなかには、時折、精神や倫理観が変質してしまう者もいますが……。素晴らしい。なまえ、君の道義心やモラルは、ここ深界五層でもしっかりと保たれているのですね」
「……ありがとう、ございます……」

逃げたい。
可能なら全力で走り出したい。
もしくはいますぐ自室のベッドに飛び込んで、分厚い布団類へ顔をうずめて絶叫したい。
憧れも尊敬もしている白笛、いうなれば上司に当たるひとへ「服を脱いで誰かと密着したい」とぶちまけるのは、果たして「道義心やモラルが保たれている」といえるのだろうか。
いえるんだろうな、なにしろ卿直々のお言葉なんだから。

いますぐにでも正気を手放したいわたしとは正反対に、さすが我らが黎明卿は動揺のどの字も見せなかった。
慈悲深そうとしか形容できない仕草で、ゆったりと両腕を広げた。

「それではなまえ、二、三ほど質問をよろしいですか」
「もう許してくださいぃ……」
「おや、大事なことですよ。まず前提の確認ですが、君が所望しているのは生体との接触。そうですね?」
「はい……」
「接触はあくまで皮膚、表皮同士に限定し、生殖を目的とした交合ではなく“抱き締められる”こと。つまり他者との抱擁のみ……ここまでで訂正は?」
「ぐッ……ありません……」
「その様子では、長期間ひとりで悩んでいたのでしょう? 他の祈手へ協力を求めなかったのはなぜですか」
「……そんな、協力なんて……。わざわざ誰かをわずらわせるほどのことではないです。あと、同僚を信用していないわけじゃないんですけれども、その……万が一、せ、性的興奮を向けられた場合、対応に困るのではないかなー、と……。そもそもの原因はわたしですし、反論しにくいというか」
「ええ、賢明な判断です。性衝動は生物にとって根源的なものですからね。いくら祈手とはいえ、間違いが起こらないとも言い切れません」
「はい……」

さながらカルテに記入する医師みたいな発言に、保管庫が診察室の様相を呈してきた。
一から十まで自業自得とはいえ、羞恥プレイまがいの質問責めに、項垂れつつも首肯する。
もうどうにでもなれ! って境地だった。
達観もしくは解脱したような心持ちで、卿の診察もとい質問に答える。
ああもう、はやく自室に帰って寝たい。
なにもかも忘れて泥のように眠りたい。
それ以外になにか考えることがあるというのか。

しかしながら卿はちっとも追求の手をゆるめてくださらなかった。
それどこか、地上のものさしに則って自分の欲を満たすのを躊躇していたわたしに、なぜか感銘を受けるところがあったのか。
ヒアリングを終えて満足げにひとつ頷くと、実験概要を述べるようにすらすらと語り始めた。

「意識や肉体を強制的に弛緩させるため、薬剤の研究を優先してきた結果ですね。弊害と言ってもいいでしょう。なにしろカートリッジの加工に用いる、麻酔薬の開発が急務でしたから。意識や人格を排さずに恐怖や苦痛を和らげるとなると、薬剤による方法が最も安定的です」
「そう、ですね……?」
「抱擁は、親愛の情を伝えるだけではありません。ご存知でしょうか。他者との抱擁は心理的な効果も見込めるそうです。緊張状態やフラストレーションを緩和するといった効果をです。一考に値する例ですよね。自分以外の鼓動や温もりを感じることで、精神や意識が安定するのは子どもに限ったことではありません。直接投与する薬剤と比べると安定性や再現性が劣る点……これを改善したい」
「ええと、あの、卿。それがわたしの件となにか関係が……?」
「そう焦らないで。順を追って説明いたします。なまえ、君が求めているのは抱擁……それだけなのでしょうか。意識的ではないにせよ、君は抱擁による効果、つまり蓄積したストレスの軽減を求めていると、そうは考えられませんか? 抱擁だけではありません。自分以外の筋組織の脈動や体温……他者の存在を感知したいという欲求も増していたとしても、なにもおかしいことではないでしょう。ただでさえ我々は、日頃から仮面や“暁に至る天蓋”などの装備で全身を覆っていますしね」
「はあ、なるほど……?」
「さて、仮にそうだとして、これは私と同期したところで解決するものではありませんね」
「すみません……」

間の抜けた相槌しか打てず、大変申し訳ない。
なんたってまともに頭が働いていないものだから。
順序立てて説いてくださる間、わたしは「卿の声をたくさん聞けて嬉しいな」くらいしか考えられていなかった。
原生生物と会話を試みる方がまだ建設的に違いない。

とっくに限界なんて越えている羞恥と申し訳なさと居た堪れなさで、もう後先考えず逃げ出してしまおうか、と本気で検討しはじめたところだった。
――本日一番のとんでもない爆弾がされたのは。
黎明卿はごく自然に「分かりました」と頷いた。

「それではなまえ、私がお相手を」
「はぇ」

声帯が音を出すのを想定していない、空気が抜けるような感嘆詞がまろび出た。
至ったと思っていた達観も解脱の境地も、実際は恐ろしく程遠いものだったらしい。

なんて? と聞き返すこともできずに硬直するわたしの前で、黎明卿はまず外套の袖口ごと被覆している、大きなグローブを外した。
手甲に中頃まで覆われた腕は、「枢機へ還す光」や「呪い針」といった戦闘用の装備品を着けていない。
誰が持ち込んだのやら、庫内に置き去りになっていた簡易スツールへ丁寧にグローブを置くと、卿は次に纏っていた全身鎧を脱いだ。
内部に様々な武装を内蔵した卿の「暁に至る天蓋」は、わたし用のものより重量がある。
それも手套と同じ道を辿った。

そうして始まった脱衣を咄嗟に制止できなかったのは、指先にまで満ちた品のある所作が目を奪ってしまったからだ。
きっとわたしを責められる者はいないだろう。
――間抜けに口を開けて立ち尽くして、最前列でストリップショーに釘付けになっていたとしても。
誰だってわたしとどっこいどっこいの醜態をさらしたに違いない。

魂を抜かれたわたしが現実世界へ帰還したのは、たっぷり数分後。
首元を禁欲的に飾るクラバットどころか、ウェストコート、遺物を加工した装甲、上衣まで次々に取り払い、更にその下――肌にぴったり密着し、肉の筋の陰影まで描くインナーウェアをもくつろげてからだった。
口元まで覆うそれを、卿は首までめくり、惜しげもなく胴部をさらした。

仮面は手付かずだから、これがの身体かは知る由もない。
しかしすくなくとも「黎明卿」の素肌を目の当たりにするのは、この仮面を与えられて決して短くはない年月が経つというのに、まるきり初めてだった。
亡くなったあと・・・・・・・の姿を見たことはあっても、素肌を拝んだ経験は皆無というのは、笑い話にもならないけれど。
なにしろ卿ほどの方が負傷、死亡するレベルの外敵との戦闘、または実験の失敗だ。
遺体は、素肌どころか原型を留めていないことの方が多かった。

――それがいま、無防備に眼前へさらけ出されている。
筋肉のおうとつをはっきりと描いた逞しい裸体には、大量の縫合痕や火傷痕が刻まれている。
わたしだって仮にも祈手、優先順位は低いとはいえ、卿のお体としていつ入り用になってもご不便だけはかけないように鍛えてはいる。
にもかかわらず、覆りようのないはっきりとした性差に、ひとの体はここまで磨くことができるのだと感動すら覚えた。
厚みのある身体は、ふれなくても高い体温を発しているのが感じられる。
比喩でも誇張でもなく目眩がした。
男性の肉体――それも、「黎明卿」の。

「ああ、上半身のみで構いませんか?」
「じょっ」

胴体をさらした卿が、真正面から「さあ、」と両腕を広げた。
目を閉じることも、逸らすことも、できなかった。
肌蹴た衣類と素肌との境目辺りで、白い遺物が揺れている。
胸元に鎮座するのは白笛。
最初のボンドルド。
熱を持った素肌と共に、祈る手がこちらを招いている。

――なんだこの状況。
まばたきをした次の瞬間、凶暴な原生生物が眼前にいて、「いままでのは走馬灯でした!」と宣告された方がまだ現実味がある。
あまりのことに、わたしが実際に取れた行動といえば、間抜けな呻きを連続してこぼしただけだ。

しかし壊れた音声再生装置にも劣るわたしに頓着することなく、卿はといえば「ああ、君も祈手とはいえ、女性の体を注視するのははばかられますね。ですが皮膚同士の接触ともなれば、動作上、難しいところもあるでしょう。可能な限りの配意はいたします」云々、明後日どころか再来月くらいの方向からなだめてくる。
平素となにも変わらない穏やかな声音のせいか、整然とした言葉選びのためだろうか、なぜかものすごく良識的、紳士的なことをおっしゃっているように聞こえる。
いや、気をしっかり持て。
言動の頓珍漢レベルでいくなら、わたしと良い勝負なのは確かだ。

「いッ、いえいえいえ、黎明卿のお手を煩わせることではないです! お気持ちだけで、というかここまでしてくださって本当にありがとうございます! わ、わたし、ものすごく疲れているみたいなので自室へ戻りま」
「なまえ。ですがあのように深く思い悩んでいるところを見て、放っておくことができるでしょうか。私は、君の力になりたいのです」
「そんな……そんなやさしいことおっしゃらないでください負けちゃうぅ……」
「ああ、ご安心ください。私が君に性衝動を向けることはないですからね。勿論、これを他の祈手たちと共有することもないとお約束します」
「安心できないのは自分に対してなんですが……」
「おやおや。そう自分を卑下するものではありませんよ。どんな欲求であれ、解消するのは恥ずかしいことではないのですから。幸い、いまは私も手が空いています。丁度、子どもたちの顔を見に行くところだったんですよ。すこしくらい遅れても許してくれるでしょう」

だから「月に触れる」もない軽装だったのか、と納得している場合じゃない。
絶対に会話が成り立っていない。
慈しむような口調で「なにしろいい子たちばかりですからね」と続ける彼に、しかし抗議することはできなかった。

「さあ、なまえ」と促す卿を前に立ち尽くすわたしは、なぜだか突然、ここ五層に分布する深海魚に似た水棲生物を思い出していた。
力場の運ぶ光すら満足にない五層では、自分の体に発光器をそなえる原生生物が多く繁殖している。
餌となる生物を照らし出すだけではない、発光そのものが餌を誘引するからだ。
光は、非捕食者を誘うのに有用。
卿の「力になりたい」というお言葉は、下心やら悪気やらなんてとんでもない、ひたすら文字通りの意味しか持っていないと理解している。
なのに心底不敬なことに、そのときのわたしには、仮面の中央から漏れる紫色の光が、被捕食者を誘う疑似餌じみて見えた。

――そろそろ現実逃避にも限界がある。
益体もない思考が、無駄だと認めなければいけない気がする。
ああ、どうしてわたしはこんなことを考えているのか。
どうしてこんなことになったのか。
どうして黎明卿は半裸で手を差し伸べていらっしゃるのか。
どうしてわたしは、自ら外套の留め金を外しているのか。

胸も腹も露わにして、仮面を付けたままふらふらと卿へ歩み寄るわたしは、深海の燐光に誘われる稚魚と大した違いはないだろう。
もし、もしもこのまま抱き留めてくださったなら――そのときは、きっとどろどろに溶かされてしまうのだ。


(2022.09.08)
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