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 鉛を焼きかしたようにひっそりたたえた音ごと暗い。
 ひらけた草むらに死骸が二体、転がっている。うち大型な方はどうと倒れ、呻き声ひとつあげず、伸びきった五本の脚を硬直させていた。いまなお大穴を空けた胴部から血煙を上げるのは、理不尽なまでの猛威を振るった原生生物である。
 ひるがえって小型の方は、遺物と生物由来の繊維を組んであつらえられた、極めて頑丈であるはずの全身鎧の上からでもそれと分かるほど肋骨がひしゃげ、波打ち、ヒトとしてのていをなしていなかった。肩からよじれ、切断された両腕に至っては、さてどこへ吹っ飛んだものか皆目見当たらない。今し方、溺れるようにバタバタと跳ねていた失血性の痙攣も止み、こちらも静かなものだった。彼は泥に深くうがたれた窪溜くぼたまりに顔を突っ込んでおり、ぱっくり後頭部が割れ、頭蓋の中身を惜しげもなく露わにしていた。失血死が免れないだろう容体に、念の入ったとどめの一撃だ。げに恐ろしきは猫を噛む窮鼠、噛んだのはねずみどころか凶暴な大型原生生物だったわけだが。
 深々たる常夜の遺構。ここにはわたし以外、生きているものはいないようだった。
 男の傍らに膝を着き、仮面を持ち上げると、血潮と肉片がぼたぼた垂れた。わずかに引っかかるような手応えはあったものの、剥落した頭蓋はゆるやかに流れ落ち、仮面だけ持ち上げるのにさして苦はなかった。えた果実じみて熟れ崩れる神経系の中枢は、地面やわたしの半長靴ハーフブーツを汚した。ぬめるタンパク質や脂肪分が草むらを濡らし動き出しそうだった。
 さてこれほど重篤な損壊にもかかわらず、些細な傷や欠けを別にすれば、仮面が無事だったのは幸運というべきか。探窟家をはじめ、建築や工事の作業員、飛行船の操縦士といった者たちにとって、防護帽、ヘルメットは本来、頭部を保護するためのもののはずだが、中途半端にねじ切れた喉頸のどくびまではその範疇に含まれなかったらしい。急所のひとつである頚部けいぶは、伸縮性、耐久性に優れた特殊装甲によって口元まですっかり覆われていたものの、大型原生生物の生命を賭した荷重にはさすがに耐えがたかったとみえる。おのが頭蓋より意匠の方が健在なのは、皮肉というにも笑えない。すこしばかり苦笑が漏れた。
 さすがにこのまま頂いては、不快感は言わずもがな、嗅覚をはじめ五感に支障をきたすに違いない。幸い、近くに細い支流があったため、死体のそばに獣避けだけ設置して何度か往復した。水を汲み、死体の装備を洗った。
 仮面の中央を上下に彩る溝、そこに見慣れた紫色の燐光はない。足元の死体は、先程まで「ボンドルド」だったヒトだ。胸元には白い笛が横たわっている。持ち主が然許しかばかり惨憺たる有り様にもかかわらず、「命を響く石」からつくり出された楽器は一片氷心のうつくしさで鎮座しており、わたしが取り上げるのはなぜだかためらわれた。もしも仮面と同様、著しく血潮にまみれていたなら、洗浄するという名目でふれられたかもしれないのに、そんなわたしの貪婪どんらんな腹積もりをせせら笑うかの如く、編んだ指はただ的礫てきれきと目にさやかだった。
 指一本ふれることなく、祈る手をめつけ、仮面をすすぐのに専念した。

 たとえ話をしよう。仮に、脳における視覚を司る領域を損傷し、目が見えなくなってしまった男がいるとする。視界を暗闇に閉ざされた彼は、しかし眼前に迫った障害物を、ひょいと反射的に避けることがある。しかし当人は盲目だと主張する。
 なぜこのようなことが起こるのか。それは「見る」ことと「認識する」ことは、脳の異なる部位で処理されているためだ。障害物を避けた彼の視神経は傷付いていない。目で見たまま、見たものを処理している。しかし見たものを認識する脳の部位が損傷しているために、彼は「見た」ことを自認できない。
 「見る」という行為ひとつでふたつの処理が脳で行われているのだ。更に見た結果どう動くかという判断も、別の部位にて行われている。平素から脳がどれほどの処理を行っているのか想像もつかない。ある機能は活発に働き、ある機能は停止しているかもしれない。脳がその力を百パーセント発揮することはないという事実も既に判明している。
 どれだけの数の意識が働いていたら、それはその人物の意識だと、当人の脳だといえるのだろう。
 あまり想像したくはないが、たとえば深界二層「誘いの森」に生息するナキカバネが百体いたら、わたしたちは彼らを「ナキカバネの群れ」と呼称するだろう。五十体いても「群れ」だ。十体はどうだろうか――まだ群れだ。それでは五体では。二体では。どの数量から彼らは「群れ」になるのか。
 定義だ。
 あるいは主観。事実はいくらでも移ろう。それを認識し、判断するわたしたちこそが唯一確かなもの。
 かくいうわたしも探窟中に左腕を欠損して以来、遺物と原生生物由来の加工物とを組み合わせた義手で補っている。破棄された左腕は今頃、原生生物たちの栄養分として吸収され、どこかで糞になっているかもしれない。あるいはお口に合わず、土に還ったか。上肢をアビスにくれてやって尚以なおもって、魂は未だわたしの掌中にある。たとい左腕を失おうと、右腕を失おうと、左足を、右足を、眼球を、舌を、臓腑を、脳を、感覚を、思考を逸失いっしつしようと、このわたしはわたしだった。
 直接見たことはない、しかし必ず存在し、いまも働いているだろうわたしの脳は、どこまでわたしのものなのか。祈手として短くはない時間を経てきて、常にあの方がわたしの一部に存することに慣れてはいても、所有を明け渡す――お体として使用されたことは未だ一度たりとてなかった。彼だった死体を前にして、最もそば近くにいたにもかかわらず「次」がこの身ではなかったことに、わたしはおそらくぼんやりと落胆していた。
 どこからがわたしで、どこからが「黎明卿」新しきボンドルドなのか。考えるまでもない。その問いには彼自身がごく自然に答えを示している。
 曰く、「祈手はすべて私ですよ」と。
 理路整然とした舌端ぜったんや立ち居振る舞いのためか、社会通念上、外聞をはばかる所業の数々のせいか、行動や結果に重きを置くプラグマティストかと思いきや、あの方はあれでなかなか情緒的なところがある。なにしろ奈落に来し方行く末、文字通り己れのすべて・・・を捧げたお方なのだから、いわんやそれに付随するわたしたちも、また等しく。
 白い笛は死体の胸元で静かに持ち主を待っている。
 そうしてとつおいつ物思いにふける折も折、複数の足音が静寂を破った。
 黒い装束は、常夜の闇からしたたり落ちるかのよう。ゆるく後ろ手を組んだ黎明卿が歩み寄ってくるところだった。
 最下部とはいえここは「遺構の深樹」、深界四層。層が異なるにもかかわらず、幸い、卿の意識の発現に不具合はなかったらしい。死んだ彼の他に損耗はなかったとみえ、卿の背後には祈手が三名随従していた。二人一組となって散開していた祈手たちがすべてここに集ったことになる。仮面を外しながら歩み寄ってくる卿の首元では、未だ黒い笛が揺れていた。
「ああ、仮面や白笛の保護だけではなく、洗浄までしてくれたのですね。お気遣いありがとうございます、なまえ」
 舌の鼓索こさく神経から届けられた信号により、脳は味を認識する。舌や耳そのものは味を覚えられないというのに、それが卿ご本人のお声ではなく肉体の声帯を用いたものだというのに、わたしは卿がお話しになるのを聞くと常々「甘い」と感じた。
 労いのお言葉と共に、卿は小首を傾げた。死体の傍らで膝を屈めて押し黙るわたしを見つめ、なにをお考えになったのか、わたしを見て、死体を見て、わたしを見て、やさしく「彼と親しかったのですか」と問うた。
 ――あなただったものを前に、あなたのことを考えていました。そう告白するには、いささかタイミングを逃してしまった。死体の男とは、仮面という隔てもなく会話を交わすくらいには親しかった。機会があれば、行動食以外のまともな「食事」を向かい合って摂ることもあった。冗談を言って、笑い、研究について語り明かした夜もあった。他の祈手、同僚たちと比べれば、なるほど確かに滅多になく親しい間柄といえるだろう。
 しかしそのときわたしの胸を占めていたのは、意外なこともあるものだという驚きだった。怜悧かつ思慮深い黎明卿も、ときには間違うのだ、と。
 ややもすれば祈手わたしたちよりそれぞれの精神をつまびらかにできるはずの領袖りょうしゅうがのたまう、的外れの口舌くぜつこそが、余程滅多にないことに思われた。
 卿は、わたしが死んだ彼と親しかったがために、弔うような行為をしていると思ったのだろうか。わたしは彼と親しかったのだろうか。それが黎明卿の死体だったから、わたしは膝を折り、視一視していたのではないか。
 消費された彼にとってはひどく失礼な話だったかもしれないが。
「……いえ。卿、これも持ち帰りますか」
 わたしが睨んでいた白い笛を、卿は事もなげにひょいと拾い上げた。死体の首からおのが首へ着け替えているのを仰ぎ見、わたしは未だ蒸気を立ち上らせる遺物を掲げて示した。先程から洗っていたのは仮面ばかりではなかった。
 所持していたナイフで、わたしは死体の下肢を切り開いていた。死体から取り出した体内埋め込み型の遺物は、一級遺物「千人楔」に似て、持ち主の耐久性や機動性を著しく高める。原生生物の腹に大穴を空けて仕留められたのも、この遺物あってのことだ。
 四肢と股関節と背骨にバランス良く配置されていた遺物は、しかし両腕のものの回収は難しいだろう。支流の川から水を汲む最中にも一応辺りを探したが、肩から先、あるいは千々に損じた遺物を見付けることは敵わなかった。
 取り出し、すすいだばかりで、まるでまだ肉の温度を感じられそうな遺物を認め、卿は慈しむように目を細めた。
「ああ……彼の遺物ですね。とても大切に使ってくれました。勿論、持ち帰りますとも。もし希望するなら君に移植しましょう」
「わたしに、ですか?」
「ええ。君の左腕に使ってみてはどうかと思いまして。まずは君の体細胞を摘出して、適合性の検査を経てからになりますが。生着するかどうか分かりませんからね。なにしろこの遺物は選り好みが多い。宿主の筋組織や滑液かつえき……住心地が気に入らないと、そこから壊死させてしまうのです。なにが適合の条件か、はっきりするまで祈手を五名も消費してしまいました。彼は上手く適応してくれましたね」
「しかし、卿、戦闘向きではないわたしにこれを使うのは……分不相応ではないですか」
 白笛も仮面も装備した卿は、すっかり平生と変わらぬ佇まいでよみするように両腕を広げた。
「いいえ、とんでもない。分不相応というのは、身分や能力にふさわしくないことをいうのです。誰かを思う心、慕う心……アビスはひとの感情に敏感です。特に愛情という、得がたい精神の繋がりに。なまえ、彼を思うあなたの心は、他の誰にも真似できないものです。仮にいまは無理だとしても、諦めることはありません。君ならきっと、使いこなせる日が来ますよ」
 人間の将来性、可能性、可塑かそ性。まだ見ぬ夜明けのように不確かで、鮮烈で、ヒトが切り開く未来というものを尊び、慈しむ言葉はさながら福音。
 有象無象を受け入れるかの如く両腕を広げたポーズと相まって、従容しょうようたるその姿が連想させるのは夜明けをおいて他にあるまい。「枢機へ還す光スパラグモス」や「呪い針」といった遺物を加工した武装は、操作性や照準の合わせやすさから、その前腕ぜんわんに集中していた。種々の装備の妨げにならないためという実利的な理由も、あるいは頭部を覆う仮面と等しく、象徴、パフォーマンスとしてのポーズでもあったかもしれないが、果たして効果は最上のものと言わざるをえなかった。
 甘いと感じる「ボンドルド」の声が、脳髄をとろかす。しかしながらわたしは、卿がおっしゃるように死んだ彼を思っているのかどうか、どうにも判然としなかった。
 慕う心はあるのだろうか。愛情という、得がたい精神の繋がりとはなんなのだろうか。
 ――足元で頭蓋のなかをさらしてみせる彼の顔が、どういうわけだか、わたしは既に思い出せなかった。
「……いいえ、お言葉は嬉しいですが、やはりわたしには荷が重いかと。いまのお体か、他の祈手にお使いください」
「そうですか。では目的も達したことです。戻って施術の準備をしましょう」
「お手伝いします、黎明卿」
 祈手に墓を立ててやることはあまりない。貴重な遺物を所持、装備する者ならともかく、なにしろ遺体を回収したり弔ったりするのは困難な状況であることがほとんどだからだ。それほどの窮状でなければ、いやしくも黒笛、それも戦闘用、探窟用の装備を持つ者たちが、容易についえるべくもない。
 そのため傍らに咲く香り高いトコシエコウを野花かみばな代わりに、おおよそ我々の死骸は野ざらしで腐敗するに任せる。従前のボンドルドだった彼も、他の生物に食われ、腐り、朽ちていくだろう。
 そして出発した五名の隊の、わたしはしんがりを担った。ちらとこうべめぐらすと、下肢の関節まで切り開かれた死骸には、既に小型の原生生物共が群がり始めていた。
 彼の顔を思い出せなかった。なにが好きで、なにを嫌っていたか、どんな背丈をしていたのか、どんな声をしていたのかも。
 ――いくら考えようと詮無いことだった。
 なにしろわたしたちは皆、祈手。血の一滴、骨の一片、精神のかけらに至るまで、ふつくに奈落の星、いずれ迎える黎明のための存在だから。


(2022.09.02)
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