理無わりな

夢寐むびの女の化粧っ気のない寝顔は、実際の年齢より歳浅く見えた。
黒髪に縁取られた白いかんばせは夜目にもさやかだった。
敬慕する男と共寝しているためだろうか、眠りの淵にあれど唇はうっすら弧を描いていた。

青みわたった夏の夜、囁きと酒と紫煙に包まれながら、男女の群れが蛾のように行き交う招来されたパーティに相応しく着飾り、淡粧濃抹たんしょうのうまつを施した艶姿を隣にはべらせた折節、晴れがましい心地は皆無と断言はしかねた。
つまらない卑俗な性質たちを真正面から自認するのは気疎けうといものがあるとはいえ、可惜夜あたらよよそおわぬ唇はそれでもなお愛らしい。

とばりの下りた寝台で、なまえが安心しきったあどけない寝顔をさらすのは今生ただひとり、張維新チャンウァイサンをおいて他にいない。
頬を撫でると極上のさわり心地が男の指を喜ばせた。
髪を耳にかけてやり、そのまま後頭部へ回した手で香る白百合をやさしく抱き寄せた。
なまえは深く寝入っているらしく、いくら不埒な男の手がその身を侵そうと非難の吐息ひとつこぼさなかった。

腕のなかで眠る女はそのすべてを呈していた。
主体性のないやわらかい肢体は、充足と安堵とを抱く男にもたらした。
よく眠れ、と思った。
しかし同時に、一心に見上げてくる輝く目も、こちらを呼ぶ朗らかな囀りも欲しているのだから、方図がない自己矛盾に苦笑した。
日毎の夜がそうであるように、この夜もまた、明日の朝は生きて目覚めるものとして目をつぶった。

鳥語花香、我が世の春。
もしも済度しがたい濁世に幸福などという蒙昧なものが存在するなら、こんな形をしているに違いなかった。


条件付け

「っ……!」
「なんだなんだ、突然どうした」

なんの前触れもなく息を詰めた飼い鳥に、張維新チャンウァイサンは何事やらと首を傾げた。

街を見晴みはるかす熱河電影公司イツホウディンインゴンシビル最上階からの眺望は、日が没した後、人工光源による夜景がとりわけ見事なものだったが、晴天の下午かご方今ほうこんのきらめく紺碧の海もまた、目もくらむ佳景だった。
とはいえ折角のパノラマも袖にされては堪らないだろう。
残念ながら主人たちは頓着することなく戯れに興じていたけれども。

張は身を固くしているなまえを見下ろした。
ほんの数瞬前まではいつものように底抜けに幸せそうな表情で飼い主の隣を甘受していたにもかかわらず、なんぞ図らん、いまや真っ赤な顔でうろうろと視線をさまよわせているのだから、彼が疑問に思うのも当然だった。

思い当たる節といえば、会話の最中にふと頭を撫でてやったことくらいだった。
豊かな黒髪は無論、形良い頭は、張の大きなてのひらでつかめそうなほどちいさく、収まりもさわり心地も大層良い。
どうやら撫でられたことに端を発するとは思い至ったものの、とはいえ他愛ないこの程度――否、それ以上・・・・の接触なんぞ、今更数えるだけ愚かなほど重ねてきたというのにこの醜態は一体どうしたことか。
昨夜も寝室で披露した淫猥なとこあしらいを忘れたわけでもないだろうに。

「すみません、あの、すこし失礼いたします、旦那さま――っ、」

逃亡するつもりらしく立ち上がったなまえを、しかしそのまま見送ってやるほど飼い主は悠長ではなかった。
目の前を横切りかけた細腕をさっさと捕まえた。
今更、世慣れぬ処女じみた反応を見せるなまえのありさまがすこしく愉快だったのは否めなかった。

「そんな顔した小鳥を、はいそうですかって大人しく逃がすと思うか」
「そ、そんな顔ってどんな顔ですか!」

なまえはきっとめつけてきたが、依然として頬は紅潮したままだ。
一向に口を割る気配のない彼女に、張はおのれの口角が上機嫌に吊り上がるのを自覚した。
立ち去りかけた女とその腕にすがる男というシチュエーションは、あたかも後者が懇願しているようだが、心情的にはまるっきり反対である。

「……あ、あの……やっぱり、白状しなきゃだめですか……」
「心外だな。こうして握られてるのがお望みなら、付き合ってやってもいいってだけさ。素直に吐くか、振りほどくか、どちらか選ばせてやる」
「他に解決策があるとお思いになりません?」

潤んだ瞳で見下ろされて、我関せず焉、張は急かしもせず、しかし逃がす気も更々なくつかんだ細腕をゆらゆらと揺らした。
幼な子じみた児戯に、ついうっかりなまえが頬をゆるませてしまいそうになっているのを、悠々閑々ソファに座したまま見上げながらだ。

差し出された二者択一が、その実、前者以外選びようがないと知っているだろう。
飼い主の前で動揺を露わにしてしまった時点で、なまえが取れる選択肢はひとつしかないのだ。
ややあって観念したとみえ、桃色の唇がふるえながら開いた。

「くち、が……」
「口?」
「……っ、きのう、あなたに……抱いていただいたときのことを、思い出してしまって」

項垂れてぼそぼそと吐露する小鳥いわく――昨夜、口腔で奉仕している最中に頭にふれられたのがよっぽど嬉しかったらしい。
確かに、褒めるようにふれてやるとそれはそれは甘ったるく目をとろけさせるものだから、口淫フェラチオの最中、顔へかかる髪を除けてやるついでに何度も形良い頭を撫でた記憶はあった。
飼い鳥の痴態を涼しい顔で反芻する張とは裏腹に、当のなまえは目の端に涙さえ浮かべながらつっかえつっかえ打ち明けた。
先程、頭を撫でられた折に図らずも昨夜のことを、とりわけ口のなかの感触・・・・・・・を思い返してしまったのだと。

「まったく、とんだパブロフの犬もいたもんだな」
「だから言いたくなかったのに……!」
「涎は垂らしてくれるなよ」
「ご安心なさって。垂らしません」
「それにしても、なあ、なまえ。ベルを鳴らした程度で・・・・・・・・・・このザマじゃあ、日頃、影響が出やしないか」
「……ご心配には及びません。なまえにふれるのは、旦那さま、あなた以外いらっしゃらないので」

つんとおとがいを上げてなまえは答えた。
相変わらず、赤らんだ目元は隠せていなかったけれども。
素気ない彼女にならって、張もしかつめらしく肩をすくめてみせた。

「そんじゃあ以前にも増して、注意せにゃならんな。ただでさえ外ではお前をそう寄せつけないようにはしているが」
「っ……いじわるをおっしゃらないで、旦那さま」
「は、そうそう反芻しちゃあ保たねえだろうって、お前の身を慮ってのことだろ」
「ご高配には感謝します、けど……が、我慢しますから……」

駄々をこねるように今度はなまえ自身が腕を揺らした。
ひょうげた笑みを浮かべたまま、張はつかんだ白腕を握り引いた。


朝の雲、暮れの雨



事後、ベッドから下りようと床へ足を着けた途端に、男は動作を一旦ストップせざるをえなかった。
後ろからくっと引っ張られていたからだ。
とはいえ力加減は文字通り小鳥のついばみ程度のものであり、みするのは容易かった。
しかし犯人、あるいは行為を終えたばかりの女を差し置くほど、張維新チャンウァイサンは狭量でも澆薄ぎょうはくでもなかったので、おもむろにベッドへ半身を翻した。

「……あ、」

振り返ると、驚いたようにまじろいでいたのはぐったりとベッドに横たわるなまえの方だった。
深夜、的礫てきれきと白い指が、張のバスローブの端をつまんでいた。
息を呑んだなまえの表情からは、引き留めるつもりはなかったのにという悔いが如実に伝わってきた。

心底居心地が悪そうに身じろいだ小鳥は直截になじることこそなかったけれど、眼差しは雄弁に「どこいくの」と問うていた。
未だ快楽の余韻に潤んではいるものの、双眸を占めているのは焦燥、はたまた不安だろうか、黒い瞳が心細そうに揺れていた。
抑圧しきれなかった不安が彩るかんばせは、ベッドを共にする男の不実への恨みつらみというより、親に置いていかれるのを恐れる幼な子のようだ。
すぐさま引っ込めた繊手せんしゅには怯えすら滲んでいた。
行為を終え、自分を置いて張がどこかへ行ってしまうものと思ったらしい。

両の手指では足りないほどの烏兎うとを傍らで過ごし、キスもセックスも指折り数えるまでもなく、あまつさえ横で眠りに就く夜も累日に及ぶというのに、今更なにを心許こころもとなく思うことがあるだろうか。

内心呆れながら、しち面倒臭いことを考えているに違いない女を張はなだめてやった。
――いい加減、デカいツラして寝穢いぎたないところのひとつも見せりゃあいいのに。
心密かに呟くも、不安げな表情もかかる手間も、愚にも付かない僻心ひがごころも、それが今生、畢生ひっせいかけて自分の掌中にある所有物ものであれば、是々非々は瑣末であり、煩わしがるどころかいとおしく思うのだから、おそらくおのれも等しく救いようがない。
情交の名残の乱れ髪を撫ですきながら、年端もゆかない子にするように額へ唇を落としてやった。




裾を引いてしまった瞬間、誰よりもなまえ自身が驚いた。
ほぼ同時に言葉にし尽くせない後悔が波のように去来した。
咄嗟に漏れたかすかな声は彼を呼び止めるためのものではなく、純粋に自責の呻きだった。

ぱっと離した手がふるえていないことだけを祈った。
どこにいくのと口にすることだけは辛うじて堪えたものの、なまえのただひとりの主、いまのいままで情痴にふけっていた男には、それと伝わってしまったようだった。

やおら振り向いた張は、男性らしい太い秀眉を片方だけ上げて「水がなくなってたろ」とナイトテーブルへ顎をしゃくった。
主の目線を追えば、言にたがわず水差しはあるものの中身は底をつきそうで、知らず知らずほっと力が抜けた。

わたしが、と身を起こそうとするも、堂にった挙止きょししとねに縫い留められる。
厚い唇をなまえの額へ落とすさまは、聞き分けの悪い子をあやすようだ。
そのまま目睫もくしょうの間で「寝てろ」と囁かれ――夜は静かに聞きいらん、肺腑にみるような偉丈夫の低い声に、たっぷり快楽漬けにされた肌がびりびりと甘く痺れる心地がした。
思わず息を漏らしつつも大人しく頷くと、どうやら飼い主はかすかに笑ったようだった。

――ひとりのベッドはきらい。
張を見送ったなまえは横たわったままちいさく呟いた。

寝室にするなまえ以外の誰も、この寝台の熱も香りも知らないだろう。
しかし理非も曲直も求めるだけ愚かであり、それがいつまで続くかはなまえにもわからない。
愚直な「他のひとのところに行かないで」との要求は金糸雀カナリアには許されていなかった。
惨めったらしく懇願のひとつでもしてみれば、いまは呆れを含んだやさしい眼差しが、いずれ辟易と嫌気に取って代わられるのは避けられないだろう。
すくなくとも同じベッドの上にいる間、主人とのキスもセックスも自分だけのものなのだから、せめてその間は離したくないと、独り占めしていたいと願ってしまう狭量な女を、どうか許してほしかった。


嬌羞きょうしゅう

「ん、んー……?」

ネクタイを結んでいたなまえがちいさく声をあげた。
困り顔で見下ろしているのは自分の首元だった。

なまえの服装は、いつもの尼僧服めいた白いワンピースドレスではなく黒いスーツであり、街でトレードマークと化して久しい、主人たちと揃いの喪服じみた黒服だった。
異なるのは、身に着けているのが元々ネクタイを要さないショート・ポイント・カラーのシャツという点くらいだ。
スーツを着る機会があり、一応所持しているレディースのネクタイを結んでみようと気まぐれにも思い立ったようだった。
戯れとはいえ主人の真似をしてみたいという魂胆は、当の飼い主にはすっかりお見通しだったけれども、張がそれについてわざわざ物申すことはなかった。
鏡の前で四苦八苦するなまえを、シャツを身に着けるところから一部始終ご覧じていた彼は、煙草を咥えたままひょいと覗き込んだ。

「お嬢さん、見たところ、そりゃスカーフでもリボンタイでもなさそうだが」
「……わたしも残念です。これがスカーフなら、きっと上手く巻いた姿をお見せできたのに。お恥ずかしい限りですが、あの、結び方がわからなくなってしまいまして……」

こちら側から・・・・・・ネクタイを扱うことがなくて、となまえは眉を下げた。
首に回した細いタイの両端を持ったまま、手はふらふらとさまよっていた。
平生の如才ない手付きはどこへやら、常住、主人のネクタイを任されているにもかかわらず、金糸雀カナリアはどうやら結び目を奉じるばかりで、反対側――というか自分の側からめかすのは不得手らしかった。
張は屈託ない笑い声を高くあげると、繊手せんしゅから黒いタイを攫った。

「はは、逆だと思うがね、普通」
「……ご存知でした? ネクタイを結んでさしあげるひと、いままでおひとりしかいませんでした」

なまえ自身ですらその範疇だ。
言い訳するように目をそばめるなまえに、張維新チャンウァイサンは笑いを引っ込めることなく、軽薄な口調で「ほら、こっち向け」と肩を抱き寄せた。

のんびり紫煙をくゆらしながらなまえのネクタイを締めた。
顎を上げて細い喉頸のどくびをさらしたなまえは、大人しく結んでもらいながら「ありがとうございます」と囁いた――面映ゆそうに唇をむにむにとたわめながら。


(※おまけ)
「どうしよう……」
「今度はなんだ」
「ネクタイがほどけなくて」
「まさかゆるめ方までご指導が必要だとはな」
「ゆるめ方というか……だって、旦那さまが結んでくださったんだもの」
「お前なあ、前もそう言ってマニキュア、俺に落とさせたの覚えてるぞ」
「……ほどいて、くださいますか? あのときみたいに」
「は、締めるのもくのもそう変わりゃしねえからな」


鳥はものかは

「起きたか」
「ん……、ええ、だんなさま……」

わずかにかしいだベッドの感触で、すぐ隣に張が腰かけていることがわかった。
日の目と、幸福が眩しい。
見果てぬ夢の名残に微睡まどろむまま、なまえは全身に感じる陽光と頬を撫でる男の指を甘受して、ゆっくりと目を開いた。
張と共に迎える朝をこの世のなによりいとおしんでいるなまえは、頬がだらしなくゆるんでしまうのを堪えられなかった。

しかし寝ぼけまなこでうっとりと恋い焦がれるひとを見上げていたなまえは、ベッド淵に恬然てんぜんおわす彼がすっかり身支度を整えていることに気付いて、ぱっと目を見開いた。
一糸纏わぬなまえとは対照的に「雅兄闊歩ウォーキン・デュード」とまで謳われる偉丈夫は、既に平生の喪服じみた黒服をきっちりと着為きなしていた。

どうやら寝過ごしてしまったらしく、慌てて上体を起こしたなまえに、張は気負うなとばかりにひらひら手を振った。

「構やしねえよ。昨日、寝させなかったしな」
「でも……」

男の口ぶりは平素と変わらず軽妙洒脱、およそ非の打ち所がないほどに紳士的だった。
とはいえ主人が支度を終えるまで眠りこけていたのは言わずもがな、平生、任されている服侍ふくじの機会を逃してしまったのも、なまえにとっては痛恨の極みだった。
眉を下げて「おはようございます、旦那さま」と苦笑した。

寝乱れた髪をおっとりと整えつつも、彼女は目に見えてしょげていた。
ほんの短い時間とはいえ、光彩陸離たる寝室でその健やかな寝顔を眺めていた張維新チャンウァイサンは「眼福だったぜ」と嘯いた。

「眠りこけてる女の姿がそう悪いもんでもないと、知見を広げてくれたのはお前だよ」
「……あら、わたしは男性の寝顔なんて、あなた以外に存じ上げませんけれど」
「そうだな、知ってるよ」

華奢な肩を抱き寄せる。
張は剥き出しの肩峰へ軽く唇を落とした。

ゆるくシーツを手繰り寄せてそれとはなしに胸元を隠しているなまえには、語って聞かせてやろうと詮無いことだろう。
なにしろさんたる朝日、白くまばゆい寝台で、目覚めたばかりの女が髪を整えているさまは、同じねやでの情景にもかかわらず、深更しんこうみだりがわしい喜悦に惑溺わくできする嬌姿きょうしと、異なる情趣に富むのも事実なのだから。

「戻るときには連絡するから、せいぜい気合い入れて出迎えてくれ、なまえ」
「楽しみになさっていて。――いってらっしゃいませ、旦那さま」

お帰りになったらなまえを叱ってくださいね、と囀る小鳥に、飼い主は洒落っ気たっぷりの笑い声でもって返した。


(2022.07.31)
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