尋常でなく分厚い冊子をぺらぺらとめくりながら、なまえは何度目かになる溜め息をついた。
気のない表情で頬杖をついたまま、たまにページの端を折り曲げて印をつける。

学年のはじめという時期、彼女は授業を選択するためのシラバスをめくっていた。
毎年の恒例行事であり、必要な作業だと理解はしていても、鈍器としても使えそうな厚みを誇るシラバスに、意欲的に取り組める学生がもしいるというなら眼前へ連れて来てほしい。
どうしてシラバスも授業の届け出も、未だにインターネットに対応していないのかはなはだ疑問である。
どれもこれも似たりよったりのことしか記載していない、無味乾燥な説明文を目で追っていると、あかつきを覚えずなんとやらという時候も相まって、心地よい睡眠へいざなわれているような気さえしてくる。

ちなみにどうして彼女が自宅や学校ではなく、他人の家――具体的には沙明の部屋で、家主ではなく色気もへったくれもない授業計画なんぞと顔を突き合わせているかというと。
ことの始まりは一時間ほど前、この重たい冊子を手に「沙明、どの授業取ったか教えて」と押しかけたからだった。
休日を満喫していたらしい家主は、なまえを見るなり臆面もなく「不在でーす」とドアを閉めようとした。
しかしそこはなまえ、すかさず現金を押し付けることによって上がり込むことに成功した。
そして繰り返したのだ。
「ね、どの授業取ったの?」と。

「は? まーた鼻息荒く押しかけやがったと思ったら、なまえサンてば、ンなこと聞き出すために来たワケ? ン? 暇なの?」
「だって沙明と一緒の授業受けたいんだもん」

だから教えて! と言い募るなまえだったが、呆れた顔をした沙明から「アホか。男を優先すんな。なにしに行ってんだ、学校。つーかさ、学校でくらい解放してくれませんかね」と突っぱねられた。
というか至極真っ当に諭された。
そういうわけで結局、選んだ科目を聞き出すことは敵わず、なまえはなぜか沙明の自宅で、自分の学科のチェックをするはめに陥ったのだった。
真面目なのか不真面目なのか分かんないなあ、と口をとがらせる。
ただでさえ学部や専攻が異なるのだから、共通して選択できる科目があるなら、積極的にかぶらせてなにが悪いのだろう、というのがなまえの言い分だった。

教授によっては同じ内容を何年も使い回ししているらしく、微妙に現在に即していない授業計画の文面を眺めるのにもほとほと飽きたところで、なまえはぺたぺたと足音を立ててキッチンへ向かった。

・・・


「あ!」
「げっ」

台所へ来るや否や、ぱっと破顔して駆け寄ってきたなまえに、漏らした呻き声にぴったりのしかめっ面を沙明は返してみせた。
面倒がりつつとはいえ、一応大人しく授業選択の作業に取り組んでいたにもかかわらず、どうやら早々に飽きてしまったらしい。
きっちり終わらせたのだろうとは思わなかったのは、彼女自身の日頃の行いのせいだ。

リビングを来客に譲って、彼はレンジフードの下で喫煙していた。
普段はここかベランダの二択だったが、今日は生憎の雨天とあって、換気扇を回して吸っていたのだ。
なまえには率直にいって、もうすこし――具体的には一本吸い終わるくらいは、集中力を保ってほしかった。

なにしろ居心地が悪い。
なまえの前で煙草を吸うのは。
沙明が喫煙していると、一体なにが楽しいのやら、頭の悪い犬よろしくまとわりついてくるのだ。
どうして自分の家で居心地が悪い思いをしなければならないのかと、文句のひとつでも垂れようとしたところで、無言の客が妙ににこにこと笑っているのに気付いた。

「……なんですかね。ンな熱っぽく見つめられちゃ、ヤケドしちゃいそうなんですけど」

紙巻きを指に挟んだままそう問えば、相変わらず上機嫌ななまえが「なんか意外で」とうそぶいた。

「あン? 意外ィ?」
「だって煙草って体に良くないでしょ。沙明って不健康なことしなさそうなイメージがあるんだもん」

こんな見た目なのにね、とからかうように節を付けてのたまうなまえ。
コイツ一言余計なんだよなと思いつつ、応答すら億劫がって、返事の代わりに彼は煙を吐き出すに留めた。

「わたしも煙草、吸ってみたいな」
「やめとけ。俺も別に好きなわけじゃねーから」
「好きじゃないのに吸うの?」
「癖みたいなもんだよ」

理解したのかしていないのか、なまえは「そっか」と首を傾げた。
内心「好きでもないのにわたしのこと抱いてくれるもんなあ」と呟いていることなど、彼が知る由もない。

「あ、そういえばここに来る前ね、セツとおしゃべりして来たんだ」
「は? セツと?」
「うん。約束してたの」

なまえは目を輝かしてあれこれとしゃべり始めた。
まるで、今日あったことを聞いて聞いてとせがむ子どものようだ。
昼食を共にとるためカフェの入り口で待ち合わせをしていたのに、座席の空きがなく店を変えただの、仕方なく入った別の店が大当たりで美味しかっただの、エトセトラエトセトラ。
よくもまあこれだけ話すことがあるものだと呆れるほど、楽しげなおしゃべりは終わりが見えない。
自分も決して無口な性質たちではなく、それどころかべらべらとまくし立てて相手を煙に巻く口上を得意としている自覚はある。
が、いかんせんなまえ相手ではそれを披露してやる気も起こらない。
沙明は生返事を繰り返しながら、やおら薄い唇から煙を吐き出した。

「セツも、なーんでなまえサンみてーな頭も股もゆるい女とオトモダチ続けてんのかねェ? それよか俺とヨロシクすりゃいいのによ。マジで」
「でもセツ、正直、沙明のことしっかり嫌いみたいだよ」
「お前さぁ、俺のこと好きって言うわりにそういうところ遠慮ねーよな」
「んー、だって、遠慮? したところで、セツは沙明のこと好きにはならないでしょ?」
「アッハ! なんなのお前、ヒトサマの神経マジで逆撫ですんじゃん。そもそもなんで知り合ったんだ? 学部もサークルも違うし接点ねぇだろ」
「昔ね、一緒に育ってた時期があったの。親の仕事の都合でね。ちっちゃい頃はセツしか友達いなかったもんなあ、わたし。たぶんセツも同じなんじゃないかな」

ふうん、とのはなはだいい加減な受け答えに気分を害した様子もなく、なまえは今度はセツとの思い出話を語り始めた。
ちいさい頃のセツはそれもう天使のように愛らしかったとか、考えなしに突っ走りがちな自分をいつもたしなめたり、助けてくれたりしたのだとか――。
胸奥に大事にしまっている記憶を開陳するのに相応の、嬉しそうにゆるんだ笑みで。
適当に付き合ってやっていたが、ふと沙明は、昔話をぺらぺら披露している女の顔面へ向けて、ふーっと煙を吹きかけた。

視界が、なまえの顔が、ぶわりと白くかすむ。
なにか意図があっての行為ではなかった。
強いていうなら、いつ終わるとも知れない昔話に飽きたのが大きい。
自分とはまったく関係ない他人の思い出話ほど、どうでもいいものも他にあるまい。
不意を突かれて、げほげほと咳き込んでいる彼女を尻目に、沙明はまた一口ニコチンを吸い込んだ。

「ッ、う……沙明、はいこれ」
「は?」

どうやら咳の発作を乗り越えたらしい。
文句のひとつでもぶつけられるかと思いきや、いつだって彼の予想の斜め上を行く女は、財布を取り出すや、涙目のまま紙幣を押し付けてきた。

「ありがとう」
「いまので?」
「うん」

なにがお気に召したのやら、手にした千度の火種も意に介さず、後先考えない女が抱き着いてこようとする。
仕方なく沙明は灰皿代わりの空き缶へ、まだ長さを保ったそれをねじ込んだ。
なまえは「もういいの?」と首を傾げているが、誰のせいだとなじってやりたい。
どうせ吸い終えるまで、飽きもせずじっと見つめられていたに違いないのだ。

これ幸いとぐいぐいしがみついてくる細い体は、自分が原因とはいえ煙草臭い。
やわらかい黒髪も、以前はくどさのないヘアミストがほんのり甘く香っていたのに、いまやすっかり煙のにおいに取って代わられていた。

彼がぼんやり「煙草やめるか」と考えているのを知ったら、のんきに「煙草の移り香ってなんかえっちだよね」などと阿呆極まりない与太を吐いている女は、がっかりするだろうか。
それとも彼に影響を与えられるくらい関係を築けたことに、小躍りして大喜びするだろうか。
――別に、なまえのためではないけれど。


(2023.04.06)
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