――ずっと、なにかに追われているような心地がする。

「良かった、ラストオーダーには間に合いました……よね?」
「ええ、大丈夫ですよ。お疲れさまです、なまえさん」

お仕事、大変だったみたいですね。
目をそばめたくなるほど眩しい笑顔で、安室さんは小首を傾げた。

余程、わたしは疲れているに違いない。
労る言葉に反感を抱くなんて、普段のわたしなら絶対にしない……はずだ。
屈託ない彼のセリフの裏側に、職場の上司から「疲れが顔に出ている」云々厭味ったらしく笑われるような、当てこすりが潜んでいるかもしれないなど、ありもしないことがよぎったのがその証拠。
純粋にねぎらってくれているひとに対して、なんてねじくれた受け取り方をしてしまうのだろうかと申し訳なさが募ってしまう。

仕事帰りに五丁目の喫茶店に立ち寄ったのは、自宅で炊事する気力がなかったから。
喫茶店とはいえフードメニューも美味しいここに、閉店前にたどり着けたのは幸運といえた。
夕方、帰路に位置するポアロへ駆け込むのは、なにも今日が初めてのことではない。
一日の終わりにイケメンを拝みたいというささやかな欲望くらい、密かに抱いても許されると思いたい。
イケメンと一口に言っても、そこらでは到底お目にかかれない浮世離れしたレベルの好青年なんて、自宅と会社の往復に日々を費やすだけの会社員には眩しすぎるけれど。

閉店間際とあってか、お客さんはわたしの他にひとりだけだった。
その壮年の男性も、わたしの注文したパスタが運ばれてくる前にお会計を済ませ、気付けばわたしがスマートフォンを操作する際、液晶画面に爪が当たる音と、安室さんが作業している物音以外、なにも聞こえなくなっていた。
安室さんとふたりきりだ、と浮き立つには前述したようにわたしは疲れていたし、なによりラストオーダーの時間ギリギリに滑り込み、フードメニューを注文する図太さはあっても、それを喜ぶ不遜は持ち合わせていなかった。

「おまたせしました、ナポリタンです。コーヒーは食後に……ですよね?」
「はい、ありがとうございます」

カウンター越しにパスタをサーブされ、頭を下げる。
「ごゆっくり」という社交辞令に、返した苦笑はちゃんと申し訳なさそうに見えただろうか。
だらだらと食事する余裕などあるはずもなく、慌ててフォークを握った。
スマートフォンを見たり雑誌を読んだりと、なにか別のことをしながら漫然と食べ物を口に運ぶのではなく、こうして一心に料理に向き合うのは久しぶりな気がする。
もう少し余裕があったら、「梓さんは今日はお休みなんですね」云々、当たり障りのない会話もできただろうに。

使った器具の片付けや閉店準備をしている安室さんを脇目に、急いで、しかし下品にならない程度にパスタを口に運ぶ。
普段ならちっとも気にしないのに、店内に安室さんとふたりだけだと思うと、途端に食べる音だとか仕草だとかが妙に気になってしまうわたしは、きっと恐ろしく小心者なんだろう。
――と、ふと視線を感じて顔を上げると、作業を終えて手持ち無沙汰になったらしい安室さんが、ひょこっとカウンター越しにわたしを覗き込んでいた。

「……っ、ん、お待たせしてごめんなさい、急ぎますね」
「そんな! すみません、急かすつもりはなかったんです。美味しく召し上がっていただけるのが一番ですからね」

わたしひとりだし、運ばせる手間を省きたくて、カウンター席に陣取ったのは誤りだったかもしれない。
普段よりずっと近い距離にある安室さんの顔から、思わず目をそらした。

今日はアイブロウも失敗しているのに。
化粧なんてこれっぽっちもしていない安室さんの方が、ずっと肌のキメも細かいし、目も大きい。
安室さんに限ったことではないけれど、美人を前にしていると、元の造形こそが正義で、わたしなんかが化粧をしても無駄じゃないのか、と毎回思う。
とはいえ、化粧をしてなんとか人前に出られるレベルになっているのだから、ノーメイクで外出するという選択肢ははなからないけれど。

「どうかしました? なまえさん」

……なんて、安室さんは考えたことないんだろうなあ。
食事風景を見られるのは、どうしてこう恥ずかしいんだろう。
曖昧に「なんでもないですよ」と笑いながら、完璧なパーツが完璧なバランスで収まっている端正な面差しから逃げるようにうつむいた。

いやだなあ、と思った。
こんな化粧も崩れた夕方、疲れのピークの顔をじっと見られるのは落ち着かない。
来店する前に化粧を直せばよかった――いいや、でも、これ以上遅くなってたらラストオーダーに間に合わなくなっていただろう。
もっと上手く眉が描けた日とか、もっと顔のくすみやむくみがマシな日だってあるのに。
なにもこんな日に、安室さんみたいな男性の眼前で逃げられもせずもそもそと食事を続けるのは、最早、罰ゲームみたいなものだ。
――矛盾している。
わざわざ自ら彼の顔を拝みに来ておいて、こんなことを考えるなど、性格が悪いにも程がある。

安室さんが外見の美醜で他人を判断するようなひとではないと知っているからこそ、ますます自分が惨めになる。
外見が美しいひとは、内面も美しくなるんだろうか。
それじゃあわたしがこんなに醜いのも、道理なのだろうか。

最近、化粧ノリが悪い。
年齢的にも、そろそろお高い基礎化粧品に手を出す頃なのだろうか。
それに、以前と同じ時間、睡眠を取っても、なんとなく倦怠感から完全に解放されるという日が少なくなった。
――ずっと、なにかに追われているような心地がする。

ふと口寂しくなり、煙草が吸いたくなったものの、バッグへ伸びかけた手を慌てて引っ込めた。
店内は禁煙ではないけれど、さすがにこの状況でのんびり一服するのははばかられる。
ここで食べ物をお腹に入れたら、帰宅してアルコールと一緒に煙も流し込んでしまおう。
冷蔵庫にはまだビールが何本か残っていたはずだ。
ああ、缶のゴミの収集は明日だったっけ。
すすいで台所に山積みにしている空き缶たちを片付けなきゃ。

陰々滅々と考え込んでいたのが悪かったのか。
歯切れ悪く返事したわたしが、余程目に余ったのか。
カウンター越しにわたしを眺めていた安室さんが、す、と目を細めた。
それは「笑顔」に分類されるものだった。
しかし普段の「安室さん」とはなにか違うように感じられた。
いつもの朗らかな好青年然としたものとは違う――どこがどういうふうにと、明確に表現できなかったけれど。
いつもそう。
例えば学生時代に課された読書感想文だったり、あるいは友人たちとのランチの最中、食レポに上手く乗れなかったりだとかいう経験から、つくづく自覚しているけれど、わたしは昔から自分が考えているのを言葉にするのは苦手だった。

「ええと、安室さん? なにか……」
「――あなたは、なにに怯えているんですか?」

間髪入れず、とはいかなかった。
とはいえすぐに「なんのことですか、そんな大袈裟な」と当たり障りなく笑うことはできた。
しかしながら、彼は静かに微笑むばかり。
凪いだ青い瞳は、おためごかしやその場しのぎのお愛想を許してくれないのが如実に伝わってくる。
彼の目に晒されているのが、これほど苦痛なのは初めてだった。
居心地の悪い沈黙というものがあるなら、いまのこの状況がまさしくそうだった。

なんとなく居た堪れずうつむくと、右手の人差し指のマニキュアが醜く剥がれているのに気付く。
嚥下にもたついているフリをして、こそこそ両手を膝の上へ置く。
自然な動作に見えますように、とこんなときですらつまらないことを祈っている自分にうんざりする。
――ずっと、なにかに追われているような心地がする。

気詰まりな空気に堪えきれず、「変な安室さん。突然どうしたんですか?」と笑う声は平生通りというにはあまりにも無様だった。
妙に裏返っていて、尚もって居た堪れない。
きっと、向こう三日は引きずるだろう。
お風呂に入っているときだったり、ベッドで目をつむっているときだったり、ふとした瞬間に思い出しては、体がよじれるような心地に襲われるのが目に見えている。
どうせこんな羞恥や後悔に襲われているのはわたしだけで、どうせ安室さんは忘れてしまうんだろうけれど。
そもそもわたしの葛藤なんて、気にもしていないに違いない。

分かっている。
理解している。
ただの被害妄想だって。
けれどどうすればこんなくだらない思考を止められるのか、方法があるのなら教えてほしかった。

「なにか、悩み事でも? あなたのような表情には見覚えがあるんです。職業柄ね……。――いまのなまえさんの目は、まるで、追い詰められた犯人のようだ。そうでないなら、相談に乗りますよ。折角いまは、他にお客さんもいらっしゃらないですし」

持論を振りかざす人間が話す、導入のニュアンスを感じて指先が硬くなる。
この雰囲気は、こちらが抵抗できない相手から開陳される、説教前の感じにも似ている。
わたしが苦手なもののひとつだった。
なんとなく、で生きているわたしのような人間には、それこそ安室さんの言う「追い詰められた」ような心地にさせられる。

「いえ……悩みなんて、特には」

嘘ではなかった。
特別、悩みなんてない。
ただ漠然と、なにかに追われているような心地がしているだけで。
明日も明後日も明々後日も、その先も、ずっと、ずっと、こんな日常は続いていくだろう――本当に、このまま、こんなことを死ぬまで続けなきゃいけないんだろうか?

「悩み……って、どういうものなんでしょう?」

なにか言わなければ、と焦りのあまり口を衝いて出てきたのは、そんな間の抜けたものだった。
口早に「ああ、ほら、わたし、悩みっていう悩みが全然なくって……」とごまかそうとしたけれど、髪より暗い色をした眉が意外そうに持ち上がる方が早かった。
彼の甘い顔立ちのなかで目立つ、意思の強そうな凛々しい眉が、片方だけ。

「ふむ、“悩み”ですか……。そういえばいままでまともに考えたことがありませんでした。……なまえさんは、物事を正確にとらえようとする方なんですね」
「……そういう受け取り方ができる安室さんは、すごいですね」

そんな御大層な人間なんかじゃないのは、わたし自身が一番理解している。
フォークを再び手にするタイミングを逃したわたしは、刻一刻と冷めていくナポリタンを前に、安室さんの思案顔を見上げることしかできない。
いまはもう、これ以上失態を演じないよう、スムーズに会計を済ませることばかり考えていた。

「――ご存知ですか? プレッシャーもストレスの一種なんです。大勢の人前に出なければならなかったり、失敗できない仕事に追われたりしていると、一般的に“頭が真っ白になる”とか“あがる”といった状態に陥るものですが……ストレスを感じた脳から、ホルモンが分泌されて起こる現象なんですよ。ストレスを感じると、感情や衝動を抑制している脳の前頭前野という場所の働きが弱まる。すると、不安を感じたり、普段は抑え込んでいる衝動に振り回されたりするんです」
「……そう、なんですね……。すみません、脳とかホルモンとか、難しいことはよく分からなくて」
「ふふ、浮かない顔が、不思議そうな顔になりましたね」
「そんなに分かりやすいですか? わたし」

ファンデーションで手が汚れるのを避けたくて、頬にふれるかどうかという位置に手を添えて「考えています」というポーズを取る。
同じような姿勢を取っている安室さんは、そもそもお化粧もしていないし、こんなちっぽけな配慮なんて必要ないんだろうな。

「……“悩み”は分泌されるホルモンや酵素に左右される、ということです。なまえさんの意思や性質によるものではありませんよ、と――こうお伝えしたかった訳です」

お肌にも悪影響ですし、あまり悩みすぎるのも良くありませんよ。
安室さんはにっこりと明るい笑顔で言い切った。

――ああ。
どうかしている。
今日のわたしは本当に、――本当に、疲れていたに違いない。

「安室さん。わたしの悩みは、わたしのものです。どんな職業であれ、無遠慮に足を踏み入れられるものではありません」

冷えた声が誰のものか。
数瞬遅れて理解した。
ただでさえ大きな碧眼が、きょとんと丸くまたたくのを見て、ざあっと血の気が引く。
さらりとこぼれてきたセリフは、どうやらわたしが発したものらしかった。
一瞬だけ目の前が暗くなり、上手く回らない頭で「血の気が引くと、本当に耳の後ろ辺りで血流の音がするんだ」とのん気に驚く。
こちらが頭を下げるより先に、安室さんの方が「申し訳ないです」と金髪を揺らして謝罪していた。

「確かになまえさんのおっしゃる通りです。不躾でした……どうも僕は昔から、ひとの機微に疎いところがありまして」

探偵どころか接客業失格ですね、と眉を垂らして、安室さんが頭を掻いている。
心底申し訳なさそうなイケメンに、わたしも慌てて立ち上がって頭を下げた。

「こ、こちらこそすみません。最近忙しくて、気が立ってて……本当にお恥ずかしいです。安室さんに当たるような真似をしてしまいました」

カウンターを挟んでお互い頭を下げている光景はなかなか奇異だったけれど、この場にはあげつらう人間はいなかった。
なんであれ、わたしのことを考えてアドバイスしてくれた安室さんに対して、なんてことを言ってしまったんだろう?
そこここでいちいち無駄な心配をしているくせに、風船が破裂するように突然中身をぶちまけてしまう性根が鬱陶しくて仕方がない。

「それではこれは、僕からのお詫びということで。……実はこれ、一切れだけ売れ残っていたんです」

魔法のように差し出されたのは、白いプレート皿に盛り付けられたチーズケーキだった。
ね? と惚れ惚れするほど完璧なウインクで首を傾げる安室さんは、ナポリタンの皿の横へプレートを滑り込ませた。
ここのチーズケーキは甘さ控えめで口当たりも文句なく、絶品と呼ぶに相応しい美味しさだ。
わたしのお気に入りのメニューでもある。
安室さんはいつもの笑顔で「コーヒーもご用意しますね」と、注ぎ口の細いポットを手に取った。

「あっ、でももう時間が、」
「お急ぎではないんでしょう? マスターも梓さんも不在ですし、僕自身の裁量ですよ」
「そう、安室さんがおっしゃるなら……」

漂う空気をぱっと変える手腕は、さすがとしか言いようがない。
人好きのする快活な笑顔を眺めていて、――ふと、わたしのところからは視認できない、カウンターの影になったところからケーキを取り出した彼の手際の良さに、邪念がよぎった。
もしかしてはじめから準備していたんだろうか、と。
なにがしかの不都合が生じた場合――例えば面倒な泣き言を繰り出されたとき、あるいは先程のわたしのように空気を悪くさせてしまったとき、すぐさま修羅場に応答するため備えていたのではないか、という邪推。
――なんて、そんなこと、あるはずもないのに。

わたしも笑って、「それじゃあ、お言葉に甘えて……お詫びを受け入れます」と頷いた。


(PEOPLE 1『PEOPLE 1 “113号室”』
https://youtu.be/4ewLWtoDhjQより)
(2022.05.12)
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