(※『ハロウィンの花嫁』ネタバレ)
(※「希釈地獄」同ヒロイン)




「またこんな怪我して……。忙しいのは分かっているけど、また病院にも行ってね。素人手当じゃ限界があるもの」
「ああ、部下にも口を酸っぱくして言われたよ。――ッ、だからなまえ、もっとやさしくしてくれ」
「難しいことを言わないで。これ以上ないってくらい労ってあげているんだから」

痛みに顔をしかめるのも構わず、零の背中に湿布を貼る。
褐色の肌に黒々と刻まれた打撲痕は、見ているだけでこちらへ痛みが移ってしまいそうだった。

頭をはじめ、腕や足に負った出血を伴う裂傷は、警察病院で手当てを受けてきたらしく、きっちりと清潔な包帯が巻かれていた。
肌を覆い隠す白さが真っ先に目を引くけれど、乾いた手を握ろうものなら、そこにも大小様々な擦り傷や軽い火傷が散っている。
怪我と一口に言っても、もしもこの傷を負ったのがわたしだったら、彼自ら問答無用で入院させるだろうレベルの重傷だということを、零は自覚しているのだろうか。
仮に問うたとしても、理路整然と「パフォーマンスに影響しかねない傷痍を把握するのは当たり前だろう」なんて返されてしまうのは想像に難くない。

文句を言う前にそもそも怪我しないようにして、と口をとがらせる。
ぎこちなくTシャツを羽織った零には、「はいはい」と流されてしまったけれど。
頭を通す動作が大変そうだった。
ボタンで留めるタイプのシャツを出しておこう、と心密かに呟く。

怪我の程度に関わらず、いちいちり言を向けてくるわたしに、そろそろ辟易している頃だろうか。
わたしだって鬱陶しがられたい訳ではない。
けれど、ぼろぼろの彼に慣れてしまいたくない。
いつまでも変わらず、些細な切り傷ひとつに顔をしかめていたい。
零の怪我を怒ってくれるひとが減ってしまったのだから、その分もわたしが、と思ってしまうのも仕方ない。
頻繁に「ゼロは?」と心配していた幼馴染みを思い出す。
彼もこんな気持ちだったのだろうか。

「……また怒られるよ」

誰から、とは言わなかった。
それでも零は、なにを言いたかったのか分かってくれたらしい。
ふ、と唇をほころばせ、こと少なに「そうだな」と呟いた。

「降谷零」にしか出来ないことがこの世界にはたくさんあると知っている。
なぜなら彼はあまりにも優れた頭脳と強靭な肉体、飛び抜けた能力を有しているから。
――しかしいまの「降谷零」が、彼ひとりだけでつくられ、育まれたものではないことも、わたしは理解していた。

立ち上がった零は、とても大怪我をしているとは思えない足取りで、台所の戸棚からローゼズのボトルを取り出した。
黒っぽい――電灯を点けていなかったせいで余計にそう見えた――酒瓶に、眉をひそめる。

「傷に障らない? ……痛み止め代わりって言い訳は聞かないからね」
「そう言わないでくれ、なまえ。祝杯だよ。……今夜くらいは、あいつらも許してくれるはずだから」

囁き声は、唇が描いた弧のようにやさしいかたちをしていた。
十一月の満ちる月に照らされた、蜂蜜色の髪がふわりと揺れる。
そろそろお小言も出尽くしたわたしは、返答を肩をすくめるだけに留め、救急箱を片付ける。
零はグラスをふたつ取り出した。
落とされた氷が、からんと小気味良い音を響かせる。

負傷した腕を慮って、ボトルを指差して「開ける?」と問うと、零は無言で首を振った。
なんとなく邪魔をしたくなくて、わたしは座卓の隅で頬杖をついて、その横顔をぼんやりと眺めていた。
注がれた四つの薔薇は、琥珀より更に濃い。
やわらかさすら感じられそうな色味をしていた。

写真を表示したスマートフォンの前に、酒を注いだグラスを置く。
かちりと鳴った音は決して寂しげではなく、静謐な――凪いだ水面のように穏やか。
零の横顔もまた、等しく。
射し込む月光と相まって、まるでなにかの儀式のようだった。

――本当は、いまも怖い。
もしも零が帰ってこなかったら。
そう思うと、いまも手がふるえる。
怪我だらけとはいえ、今日は帰ってきてくれた。
でも明日は分からない。
明後日は?
来週は?
来月は?
一年後は?
先のことなんていくら考えたところで、どうにもならないと理解している。
無駄だと分かりきっているのに、不安がぐるぐると胸奥で渦を巻く。

いつかこのひともわたしを置いていってしまうだろう。
でも、零も、わたしも、誰だって、永遠を生きることはできない。
受け入れようと足掻こうと、命が潰えるときはいつか必ず来る。
それがひとだ。

だからこそ、精一杯生きていたいと思う。
誰かの分まで――なんて、悲観にも自己憐憫にも浸りたくない。
しかし窮地に陥ったとき、自分ひとりの手には負えない事態に直面したとき、脳裏をよぎる彼らに、顔向けできないようなことは決してしたくない。

「零、」
「……ん、」
「おかえり」

驚いたように瞠目した零は、次いで微笑んだ。
ゆっくりと細められた男の目。
明るい瞳は、まるで春の空のように輝いていた。
青いそれはまるで、生きる者死せる者すべてを慈しむような穏やかさで、ずっと見つめ返していると、なぜだかこちらの目の奥がじんわりと熱く痛んでしまいそうなほどやさしかった。

何度だって「おかえり」と迎えるから、降谷零の「ただいま」の声を、ずっと、ずっと聞いていたいと思う。
わたしたちは、いま、生きている。
わたしはこのひとを誇りに思う。

このひとの強さを、わたしは。


(2022.05.02)
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